2007/09/10 - 2007/09/10
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hirobekさん
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京都市北区
臨済宗相国寺派の別格本山で正しくは北山鹿苑寺と号し金閣寺は俗称で応永4年(1397年)、足利3代将軍・義満が、西園寺公経の山荘を譲り受け壮麗な北山殿を造営しました。応永15年(1408年)、義満の没後、子・義持が遺言により禅宗寺院に改め、義満の法号(鹿苑院殿)に因んで鹿苑寺と号し方丈、仏殿(舎利殿)が新たに建立されました。足利歴代将軍の参詣する所となったが応仁の乱に罹災し金閣のみを残して他は焼失し足利氏の衰退と共に寺運も衰えました。後に豊臣秀吉、徳川家康の帰依を受け西笑承兌(さいしょうじょうたい)、鳳林承章(ほうりんしょうしょ)、文雅慶彦が相次いで住持となり庭園の整備、金閣寺の補修にあたり現在の鹿苑寺は江戸中期頃に完成したと伝えます。 拝観時間は9時-17時 年中無休 1994年にユネスコの世界遺産に登録された。
入場料400円 お札の入場券が、中国人にも人気.
- 交通手段
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船形石(一文字蹲踞:そんきょ)
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金閣は舎利殿として建てられたもので鏡湖池に臨む三層宝形造の楼閣の一層は藤原時代の寝殿造りの法水院、二層は鎌倉時代の武家造りの潮音洞(ちょうおんどう)、三層は花頭窓を設けた中国風の禅宗仏殿造りの究竟頂(くっきょうちょう)で室内に仏舎利を安置します。特に二層、三層は漆の上から純金箔が張られ宝形造の屋根は椹(さわら)の薄板を何枚も重ねたコケラ葺で頂きに中国でめでたいとされる鳳凰が輝きます。住宅と仏寺を折衷した楼閣は違様式の三層を見事に調和させ衣笠山を借景とした池泉回遊式庭園は室町時代の北山文化を象徴する遺構ですが三島由紀夫や水上勉の小説でも知られるように昭和25年(1950年)、21歳の学僧林承賢に放火され焼失し、10体の木像彫刻も焼失。現在の建物は昭和30年(1955年)に再建され昭和62年(1987年)には金箔が全面張り替えられ壮麗できらびやかな姿を蘇らせました。 金箔は1階と屋根には貼られていない。焼失前には二層に金箔は残っていなかった。再建に3年かかった。
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金閣は寝殿造り(一層)、武家造り(二層)、禅宗仏殿(三層)を折衷した三層宝形造の舎利殿(楼閣)で違様式を見事に調和させています。
屋根には一対の鳳凰 20Kgの 20万枚の金箔が使われている。
サルスベリが暑さを象徴している。 -
鏡湖池
足利義満は、38歳で出家した。 -
鷺が一羽
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人を怖がらずに集まってくることに中国人は感心する
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中国の故事「登龍門」にちなんだ登龍瀧の鯉魚石
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お賽銭が1回だけまぐれで入ったことがあったが、その後何回やってもは入らない。
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安民沢(あんみんたく)と白蛇塚(石塔)
日照りが続いても枯れないので雨乞いの場にもなったという池。 -
足利八代将軍義政愛用の富士型の手水鉢
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夕佳亭
江戸時代の茶道家・金森宗和が好んだ数寄屋寄棟造り茅葺の茶席で、夕日に映える金閣が殊(こと)に佳い(よい)と言うことから、「夕佳亭:せっかてい」と名付けられた茶席。三畳で奥に勝手、前に土間のこけら茅葺きで作られている。焼失後1874年に再建された。
平成9年(1997年)、解体修理が行われた。三畳敷きの床柱は茶席としては珍しく南天の木が用いられている。 -
夕佳亭
正面の床柱が有名な「南天の床柱」、その右にある三角の棚が「萩の違棚:はぎのちがいだな」、中央の古木が、「鶯宿梅:おうしゅくばい」です。 -
夕佳亭の竹
夕佳亭 -
義政が愛用したという貴人榻(きじんとう)
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抹茶席
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不動堂
天正年間、浮田秀家の再建によるもので岩窟内に安置する本尊・石造不動明王(鎌倉期)は弘法大師の自作とされ生身にて摂津国(兵庫県)より歩いて来られたと伝えます。古来、有験の霊仏(秘仏)として足利氏の頃には、特に信仰されました。節分と8月16日に開扉法要が営まれます。 -
金閣寺参道
出口
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