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2007/07/10(火)第3日目:シナイア<br />【宿泊:Hotel Caraiman(シナイア)】<br /> 8:30発の特急列車でシナイア着10:00(時刻どおり)<br />ペレシュ城、ペリショール城、シナイア僧院、ケーブルカーでブチェジ山へ(1,400mポイントまで)、カロル1世通りを散策<br /><br />シナイアの3大ハイライトの1つのシナイア僧院は、入場料をとりませんでした。<br />───別に驚くことではないのかもしれません。現役の僧院なのですから。<br />しかし、私はこの僧院を、あくまで観光スポットと捉えていたせいで、ちょっと驚いてしまいました。<br />現役の修道院や教会でも、観光客から入場料をとることころは多いですしね。<br /><br />しかし、シナイア僧院は、観光客という俗世のことを全く気にせずそこだけ静謐な異世界を作りながら、あるがままにそこに存在するというかんじでした。<br />いや、その存在が目立たないとは言わないですけど。建物の美しさが際立っているので。<br /><br />考えてみたら、僧院を訪れる俗世の人が、たとえ観光客であっても、観光目的だけとは限りません。<br />ここも現役のルーマニア正教会ですし、古い方の教会は17世紀にも遡る歴史あるものなのですから、参詣するのが主目的かもしれないのです。<br />なにしろシナイアは、私が見た限り、どちらかというとルーマニア人の観光客の方が多そうでしたから。<br /><br />むしろ私のような正教徒でない観光客の方が、僧院と世界を共にしていない「お客さん」という異分子に過ぎず、マイノリティなのかもしれません。<br />いわばお釈迦様の手のひらで騒いでいる孫悟空みたいなものでしょうか。<br />───いや、別に物理的な意味で騒いでいたわけではありませんよ。<br />僧院を、信仰の対象としてではなく、1つの芸術作品として、観光ハイライトというエンタテイメントとして眺め、写真撮影に躍起になっている姿が、僧院(お釈迦様)から見れば、あきれながらも容認していた、手のひらの上の孫悟空のようではなかったかと……。<br /><br />「駅から向かうとペレシュ城の手前にあるシナイア僧院は、17世紀にルーマニア南部のワラキアの大貴族ミハイル・カンタクジノが建てたものだ。シナイアにあるがゆえにシナイア僧院というのではなく、シナイア僧院があるから町の名がシナイアになった。」<br />(「東欧の郷愁」菊間潤吾・監修(新潮社)より)

2007年ルーマニア旅行第3日目(8):シナイア僧院───シナイアの名の由来の僧院

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2007/07/10 - 2007/07/10

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まみ

まみさん

2007/07/10(火)第3日目:シナイア
【宿泊:Hotel Caraiman(シナイア)】
 8:30発の特急列車でシナイア着10:00(時刻どおり)
ペレシュ城、ペリショール城、シナイア僧院、ケーブルカーでブチェジ山へ(1,400mポイントまで)、カロル1世通りを散策

シナイアの3大ハイライトの1つのシナイア僧院は、入場料をとりませんでした。
───別に驚くことではないのかもしれません。現役の僧院なのですから。
しかし、私はこの僧院を、あくまで観光スポットと捉えていたせいで、ちょっと驚いてしまいました。
現役の修道院や教会でも、観光客から入場料をとることころは多いですしね。

しかし、シナイア僧院は、観光客という俗世のことを全く気にせずそこだけ静謐な異世界を作りながら、あるがままにそこに存在するというかんじでした。
いや、その存在が目立たないとは言わないですけど。建物の美しさが際立っているので。

考えてみたら、僧院を訪れる俗世の人が、たとえ観光客であっても、観光目的だけとは限りません。
ここも現役のルーマニア正教会ですし、古い方の教会は17世紀にも遡る歴史あるものなのですから、参詣するのが主目的かもしれないのです。
なにしろシナイアは、私が見た限り、どちらかというとルーマニア人の観光客の方が多そうでしたから。

むしろ私のような正教徒でない観光客の方が、僧院と世界を共にしていない「お客さん」という異分子に過ぎず、マイノリティなのかもしれません。
いわばお釈迦様の手のひらで騒いでいる孫悟空みたいなものでしょうか。
───いや、別に物理的な意味で騒いでいたわけではありませんよ。
僧院を、信仰の対象としてではなく、1つの芸術作品として、観光ハイライトというエンタテイメントとして眺め、写真撮影に躍起になっている姿が、僧院(お釈迦様)から見れば、あきれながらも容認していた、手のひらの上の孫悟空のようではなかったかと……。

「駅から向かうとペレシュ城の手前にあるシナイア僧院は、17世紀にルーマニア南部のワラキアの大貴族ミハイル・カンタクジノが建てたものだ。シナイアにあるがゆえにシナイア僧院というのではなく、シナイア僧院があるから町の名がシナイアになった。」
(「東欧の郷愁」菊間潤吾・監修(新潮社)より)

  • カルメン・シルヴァ小道(Aleea Carmen Silva)から見たシナイア僧院<br /><br />ペレシュ城を背にして、屋台がずらりのカルメン・シルヴァ小道(Aleea Carmen Silva)を戻ると、こうしてシナイア僧院の敷地の背後が見えてきます。<br />緑の屋根が美しい@

    カルメン・シルヴァ小道(Aleea Carmen Silva)から見たシナイア僧院

    ペレシュ城を背にして、屋台がずらりのカルメン・シルヴァ小道(Aleea Carmen Silva)を戻ると、こうしてシナイア僧院の敷地の背後が見えてきます。
    緑の屋根が美しい@

  • シナイア僧院<br /><br />門が入ってすぐ、おお、写真で見てあこがれたとおりの僧院です。<br />この縞模様が特に私のお気に入り@<br /><br />「シナイアという名前は、中世のルーマニア人貴族のミハイ・カンタクジーがつけた。彼は1695年にイスラエルへの巡礼の旅に出た。その時に聖書に登場するシナイア山に参詣し、帰国とともにシナイア修道院を建てた。その後、カロル1世(1866-1914)がこの地に夏の離宮を建て、シナイアはたちまち高級リゾートへの道を駆け登ることになった。<br />(中略)<br /> カンタクジーが寄進したシナイア修道院は、市街地の北寄り、ペレシュ城に向かう途中にある。修道院の門を入ってすぐ、正面に見える少々派出な正教は、1846年にカロル1世が建てた新教会で、地元では大教会(ビセリカ・マーレ)と呼ばれている。堂内の赤を基調にしたフレスコ画と、すでに古色を帯びはじめた祭壇がすばらしい。」<br />(「旅名人ブックス ルーマニア 伝説と素朴な民衆文化と出会う」(日経BP社)より)

    シナイア僧院

    門が入ってすぐ、おお、写真で見てあこがれたとおりの僧院です。
    この縞模様が特に私のお気に入り@

    「シナイアという名前は、中世のルーマニア人貴族のミハイ・カンタクジーがつけた。彼は1695年にイスラエルへの巡礼の旅に出た。その時に聖書に登場するシナイア山に参詣し、帰国とともにシナイア修道院を建てた。その後、カロル1世(1866-1914)がこの地に夏の離宮を建て、シナイアはたちまち高級リゾートへの道を駆け登ることになった。
    (中略)
     カンタクジーが寄進したシナイア修道院は、市街地の北寄り、ペレシュ城に向かう途中にある。修道院の門を入ってすぐ、正面に見える少々派出な正教は、1846年にカロル1世が建てた新教会で、地元では大教会(ビセリカ・マーレ)と呼ばれている。堂内の赤を基調にしたフレスコ画と、すでに古色を帯びはじめた祭壇がすばらしい。」
    (「旅名人ブックス ルーマニア 伝説と素朴な民衆文化と出会う」(日経BP社)より)

  • シナイア僧院の鐘楼と博物館のある建物<br /><br />博物館は残念ながら閉まっていて、入れませんでした。<br />すてきなイコンが飾られているのが窓から覗けたのですが。<br />博物館の建物の右端、写真に写っている部分は、売店になっていました。<br />主に聖書が売られているのですが、シナイア僧院のリーフレットもあったので買いました。

    シナイア僧院の鐘楼と博物館のある建物

    博物館は残念ながら閉まっていて、入れませんでした。
    すてきなイコンが飾られているのが窓から覗けたのですが。
    博物館の建物の右端、写真に写っている部分は、売店になっていました。
    主に聖書が売られているのですが、シナイア僧院のリーフレットもあったので買いました。

  • シナイア僧院の大教会(ビセリカ・マーレ)とトロイツァ<br /><br />モルドヴァ地方の教会のように分厚い壁と強靭なバットレスがあるますが、ワラキア地方のブルンコヴァアヌ様式(※)の要素もある折衷様式のようです。<br /><br />シナイア僧院が建てられた17世紀当時は12人の僧侶しかいなかったのですが、そのうち100人にも達するようになり、手狭になったため、1842年から1846年に僧院が拡張され、大教会も建てられました。<br /><br />※建築様式の名前になっているブルンコヴェアヌスとは<br />1688〜1714年公位にあったワラキア王。1711年のロシア・トルコ戦争でトルコ軍の一躍を担って参戦することを拒んだため、1714年にトルコ軍により捕縛され、4人の息子と共に拷問の末、斬首された。<br />(「旅名人ブックス ルーマニア 伝説と素朴な民衆文化と出会う」(日経BP社)より抜粋)

    シナイア僧院の大教会(ビセリカ・マーレ)とトロイツァ

    モルドヴァ地方の教会のように分厚い壁と強靭なバットレスがあるますが、ワラキア地方のブルンコヴァアヌ様式(※)の要素もある折衷様式のようです。

    シナイア僧院が建てられた17世紀当時は12人の僧侶しかいなかったのですが、そのうち100人にも達するようになり、手狭になったため、1842年から1846年に僧院が拡張され、大教会も建てられました。

    ※建築様式の名前になっているブルンコヴェアヌスとは
    1688〜1714年公位にあったワラキア王。1711年のロシア・トルコ戦争でトルコ軍の一躍を担って参戦することを拒んだため、1714年にトルコ軍により捕縛され、4人の息子と共に拷問の末、斬首された。
    (「旅名人ブックス ルーマニア 伝説と素朴な民衆文化と出会う」(日経BP社)より抜粋)

  • シナイア僧院の大教会(ビセリカ・マーレ)の入口

    シナイア僧院の大教会(ビセリカ・マーレ)の入口

  • シナイア僧院の大教会(ビセリカ・マーレ)の内部<br />豪華なシャンデリアとイコノスタシス<br /><br />ちょっとピンボケなのはご容赦くださいませ。<br /><br />イコノスタシスについては、去年(2006年)の旅行記で写真コメントに引用した「イコンのこころ」(高橋保行・著/春秋社)記述をご参照ください@<br /><br />関連の写真<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/11967865/<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/11967883/<br />関連の旅行記「2006年ハンガリーとルーマニア旅行第18日目(4):ブラショフ中央公園とルーマニア正教会」<br />http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10135677/

    シナイア僧院の大教会(ビセリカ・マーレ)の内部
    豪華なシャンデリアとイコノスタシス

    ちょっとピンボケなのはご容赦くださいませ。

    イコノスタシスについては、去年(2006年)の旅行記で写真コメントに引用した「イコンのこころ」(高橋保行・著/春秋社)記述をご参照ください@

    関連の写真
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/11967865/
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/pict/11967883/
    関連の旅行記「2006年ハンガリーとルーマニア旅行第18日目(4):ブラショフ中央公園とルーマニア正教会」
    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10135677/

  • シナイア僧院の大教会(ビセリカ・マーレ)の内部<br />聖書の書見台と正教会だけどルーマニア正教会にはいくつかある信者席<br /><br />この美しい浮彫り、うっとりです@

    シナイア僧院の大教会(ビセリカ・マーレ)の内部
    聖書の書見台と正教会だけどルーマニア正教会にはいくつかある信者席

    この美しい浮彫り、うっとりです@

  • シナイア僧院の周囲の建物をバラと共に<br /><br />写真は撮りませんでしたが、この建物の中には、政治家の霊廟がありました。<br /><br />「タシェ・イオネスク(1859〜1918)はリベラルな政治家のリーダーとして知られ、パリ平和会議(1918〜20)ではルーマニアの代表団を率いた。第一次大戦後、短い期間だが政府の首班を務めたこともあった。彼は1920年に亡くなると、ここシナイア修道院に葬られた。<br /> なぜならプロイエシュティに生まれたイオネスクは、子ども時代にコレラを患い、病後の回復を念じた親が彼をシナイア修道院に送った。むろん彼は、修道院で病から見事に立ち直る。こうした事情から、彼の死後、二番目の妻は彼の思い出に、修道院内に大きな霊廟を建てたのである。イオネスクの演説からの一文が、霊廟の内部の壁に刻まれている。」<br />(「旅名人ブックス ルーマニア 伝説と素朴な民衆文化と出会う」(日経BP社)より)

    シナイア僧院の周囲の建物をバラと共に

    写真は撮りませんでしたが、この建物の中には、政治家の霊廟がありました。

    「タシェ・イオネスク(1859〜1918)はリベラルな政治家のリーダーとして知られ、パリ平和会議(1918〜20)ではルーマニアの代表団を率いた。第一次大戦後、短い期間だが政府の首班を務めたこともあった。彼は1920年に亡くなると、ここシナイア修道院に葬られた。
     なぜならプロイエシュティに生まれたイオネスクは、子ども時代にコレラを患い、病後の回復を念じた親が彼をシナイア修道院に送った。むろん彼は、修道院で病から見事に立ち直る。こうした事情から、彼の死後、二番目の妻は彼の思い出に、修道院内に大きな霊廟を建てたのである。イオネスクの演説からの一文が、霊廟の内部の壁に刻まれている。」
    (「旅名人ブックス ルーマニア 伝説と素朴な民衆文化と出会う」(日経BP社)より)

  • シナイア僧院の古い小教会<br /><br />僧院の中には教会が2つあると知っていたので、奥の中庭に向かったところ、見つけました。<br />おお、入口手前に見事なフレスコ画が@<br /><br />「カンタクジーが寄進した古い修道院部分は、新教会の正面、白い塀に囲まれた中にある。中庭の中央に立つ小振りな教会は修復中であった。足場が組まれたポーチの天井に、300年を経た趣深いフレスコ画が垣間見えた。エンタシス風の石の柱にも、植物をモチーフにしたレリーフが施されている。」<br />(「旅名人ブックス ルーマニア 伝説と素朴な民衆文化と出会う」(日経BP社)より)<br /><br />「(前略)古い教会(Biserica Veche)は17世紀末にカンタクジノの跡を継いだブルンコヴェアヌ公がポーチを増築した以外、当時のまま保存されている。教会の入口に描かれたフレスコ画は必見だ。」<br />(&#39;07〜&#39;08年版「地球の歩き方」より)

    シナイア僧院の古い小教会

    僧院の中には教会が2つあると知っていたので、奥の中庭に向かったところ、見つけました。
    おお、入口手前に見事なフレスコ画が@

    「カンタクジーが寄進した古い修道院部分は、新教会の正面、白い塀に囲まれた中にある。中庭の中央に立つ小振りな教会は修復中であった。足場が組まれたポーチの天井に、300年を経た趣深いフレスコ画が垣間見えた。エンタシス風の石の柱にも、植物をモチーフにしたレリーフが施されている。」
    (「旅名人ブックス ルーマニア 伝説と素朴な民衆文化と出会う」(日経BP社)より)

    「(前略)古い教会(Biserica Veche)は17世紀末にカンタクジノの跡を継いだブルンコヴェアヌ公がポーチを増築した以外、当時のまま保存されている。教会の入口に描かれたフレスコ画は必見だ。」
    ('07〜'08年版「地球の歩き方」より)

  • シナイア僧院の古い小教会のポーチ天井のフレスコ画<br /><br />カラフルです@<br />ルーマニア正教会を訪れる醍醐味。<br />それにしてもこれはまわりに聖人の生涯が描かれているのでしょうが……こうしてみると、人生ゲームみたいですねぇ。<br />横から撮ったので、絵柄が横になってしまっていますが、あしからず。

    シナイア僧院の古い小教会のポーチ天井のフレスコ画

    カラフルです@
    ルーマニア正教会を訪れる醍醐味。
    それにしてもこれはまわりに聖人の生涯が描かれているのでしょうが……こうしてみると、人生ゲームみたいですねぇ。
    横から撮ったので、絵柄が横になってしまっていますが、あしからず。

  • シナイア僧院の古い小教会の入口すぐ上のフレスコ画<br /><br />真ん中は、聖母の死の場面ですね。<br />右の赤い川は地獄の川でしょう。左は天国かな。<br />すると一番上のキリスト像は、「最期の審判」でしょう。

    シナイア僧院の古い小教会の入口すぐ上のフレスコ画

    真ん中は、聖母の死の場面ですね。
    右の赤い川は地獄の川でしょう。左は天国かな。
    すると一番上のキリスト像は、「最期の審判」でしょう。

  • シナイア僧院の古い小教会の入口脇のフレスコ画<br /><br />天国の図を中心に。<br />入口の浮彫りも可愛らしいです。天使!?

    シナイア僧院の古い小教会の入口脇のフレスコ画

    天国の図を中心に。
    入口の浮彫りも可愛らしいです。天使!?

  • シナイア僧院の古い小教会の入口脇のフレスコ画<br /><br />今度は地獄図を中心に。<br />入口のこちら側にも可愛い浮彫りが@<br />なんだかお茶目なポーズをとっているみたいに見えますね。

    シナイア僧院の古い小教会の入口脇のフレスコ画

    今度は地獄図を中心に。
    入口のこちら側にも可愛い浮彫りが@
    なんだかお茶目なポーズをとっているみたいに見えますね。

  • シナイア僧院の古い小教会の内部のフレスコ画<br /><br />実はこの小教会の方は鍵がかかっていて中に入れませんでした。<br />かろうじて脇の小窓から中を覗くことができました。<br />壁をよじのぼるようにして@<br /><br />ああ、中に入れたら───!<br />小さくても一面フレスコ画で、もっとすばらしかったでしょうね。

    シナイア僧院の古い小教会の内部のフレスコ画

    実はこの小教会の方は鍵がかかっていて中に入れませんでした。
    かろうじて脇の小窓から中を覗くことができました。
    壁をよじのぼるようにして@

    ああ、中に入れたら───!
    小さくても一面フレスコ画で、もっとすばらしかったでしょうね。

  • 再び大教会

    再び大教会

  • 去る前にもう1枚、大教会@<br /><br />おお、このアングル、なかなか良いではないですか。

    去る前にもう1枚、大教会@

    おお、このアングル、なかなか良いではないですか。

  • シナイア僧院で買ったリーフレット<br /><br />右の英語のリーフレットは、A4未満サイズのぺら一枚で、3レウ。<br />左のリーフレットはルーマニア語ですが、もう少し写真が多かったので、全然読めないけれど買いました。4レウ。<br />(2007年7月現在、1レウ=約55円で換算)

    シナイア僧院で買ったリーフレット

    右の英語のリーフレットは、A4未満サイズのぺら一枚で、3レウ。
    左のリーフレットはルーマニア語ですが、もう少し写真が多かったので、全然読めないけれど買いました。4レウ。
    (2007年7月現在、1レウ=約55円で換算)

  • シナイア僧院で買ったルーマニア語のリーフレットから<br />大教会の内部<br /><br />上の写真は書見台と座席のあるあたり、フレスコ画のある壁とともに。<br />下の写真はイコノスタシスを、その周りのフレスコ画のある天井とともに。

    シナイア僧院で買ったルーマニア語のリーフレットから
    大教会の内部

    上の写真は書見台と座席のあるあたり、フレスコ画のある壁とともに。
    下の写真はイコノスタシスを、その周りのフレスコ画のある天井とともに。

  • シナイア僧院で買ったルーマニア語のリーフレットから<br />大教会の内部<br /><br />上の写真はイコノスタシスのある写真より手前の部屋。<br />下の写真はイコノスタシスと向かいあう部屋の天井に見える、天より見下ろす荘厳のキリスト像。

    シナイア僧院で買ったルーマニア語のリーフレットから
    大教会の内部

    上の写真はイコノスタシスのある写真より手前の部屋。
    下の写真はイコノスタシスと向かいあう部屋の天井に見える、天より見下ろす荘厳のキリスト像。

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この旅行記へのコメント (5)

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  • nekoさん 2013/07/19 09:40:55
    旅名人ブックス
    古い旅行記に関することで恐縮ですが、「1846にカロル1世が建てた新教会で、」と旅名人ブックスにあるのは間違いですね。私もこのガイドブック・シリーズは利用しているのですが、内容についてはあまり信用していません。カロル1世の即位が1866年なのに、なぜ1846年に7歳の彼が教会を建てられるのか?
    英語ウィキペディアによると1846年にできたことは確かみたいですが、建設をリードしたのはHegumens IoasafとPaisieのようです。
    http://en.wikipedia.org/wiki/Sinaia_Monastery#The_Great_Church

    まみ

    まみさん からの返信 2013/07/21 03:30:06
    RE: 旅名人ブックス
    nekoさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
    いえいえ、昔の旅行記でも。見てくださってありがたいですし、ご指摘とても助かります。
    旅行人ブックスは、とっかかりとしては手頃ですよね。
    私はルーマニア旅行を考えるまで、歴史もみどころもほとんど知らなかったので。
    いまは、Wikipediaなどでも。、知識強化できますね。
    まあそれも、盲信してはだめで、複数のソースで検証するのが一番ですね。

    > 古い旅行記に関することで恐縮ですが、「1846にカロル1世が建てた新教会で、」と旅名人ブックスにあるのは間違いですね。私もこのガイドブック・シリーズは利用しているのですが、内容についてはあまり信用していません。カロル1世の即位が1866年なのに、なぜ1846年に7歳の彼が教会を建てられるのか?
    > 英語ウィキペディアによると1846年にできたことは確かみたいですが、建設をリードしたのはHegumens IoasafとPaisieのようです。
    > http://en.wikipedia.org/wiki/Sinaia_Monastery#The_Great_Church

    neko

    nekoさん からの返信 2013/07/21 09:10:32
    RE: RE: 旅名人ブックス
    > まあそれも、盲信してはだめで、複数のソースで検証するのが一番ですね。

    我々は研究者でも、プロのライターでもないし、まみさんのように(多分)お忙しい方には難しいようにも思います。
    そこで、「常識的判断」があります。あの誤りが判明したきっかけは、「旅名人」にペレシュ城がらみで、カロルに対する批判的なことが書かれていたことです。

    それほど浪費家だったのか?ブカレストは1940年の震災、第二次大戦の爆撃、77年の震災、チャウシェスクの体系化政策などで散々な目に遭いながらも、なお壮麗な建造物などが多数残っています。これらが建設された時期とカロルの治世がほぼ重なる。彼は指導者として有能かつ勤勉だったようです。

    ともかく彼について調べる過程で、1846年に彼はドイツのカトリック系の家庭で7歳だったし、ルーマニアとの接点は皆無だったらしいことなどが判りました。

    「旅名人」のライターもカロルの即位を1866年と書いているのだから、1846年との関係を変だと気付くべきだったと思いますが、お粗末です。マア一般的に日本の旅関係ライターのレベルは低いようで、原稿料が安いのかもしれません。
  • パパスさん 2007/12/26 08:46:14
    シナイア僧院
    やっとシナイア僧院まで旅行記の写真だけアップ出来ました。
    やはり同じ様なアングルで写していましたね。(笑)

    今年は日本で正月を迎えるので、ルーマニア編を全て完成させたいと思います。

    パパス。

    まみ

    まみさん からの返信 2007/12/27 12:17:27
    RE: シナイア僧院
    パパスさん、こんにちは。書き込みありがとうございます。

    私もパパスさんの続きの旅行記、写真だけアップされたときに拝見しにいきました。
    コメントが入ったらコメントしよっかなと思って@

    似たアングルの写真はありますが、やっぱり撮った本人たちには微妙な違いが分かりますね!
    微妙ゆえに、新鮮でしたよ。
    パパスさんは中に入れました?
    でも、あの入口のポーチの天井のフレスコ画は、見栄えがありますよね。

    いま同時並行で、2006年のルーマニア旅行記も文章の見直しをやっているのですが(自分のパソからテキストをCD-Rに落としたいため)、ブカレストで見たこの教会は、このシナイアの古い方の僧院によく似ていることに気付きました。
    こっちの教会は観光客が来ることがないのがちょっと可愛そう!?

    http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10152983/
    新旧教会のうち、後半の旧教会の方です。

まみさんのトラベラーページ

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