2007/08/19 - 2007/08/19
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もろずみさん
残暑お見舞い申し上げます。
この夏の普通じゃない猛暑も峠は越えたかなと思って街歩きしてみました。峠は越えてませんでした・・・(^^;
行き先は明治10年代の銀座。
銀座は明治5年の「銀座の大火」で丸焼けになり、東京市の耐火構造の都市計画に基づいて整備されたのが煉瓦街です。
ロンドンやパリの街並を手本に統一のとれた街造りを目指し、数年かかって文明開化の象徴のような美しい街になりました。
その後、関東大震災や戦災で跡形もなく破壊されても、その都度復興してきたというしぶとい歴史があります。
煉瓦街の遺構は江戸博にしか残ってないはすですが、昔も今も銀座は銀座と言えます。もちろん江戸博にも行ってきました。
実際の銀座通りを歩いたわけですが、こちらも試しにジオラマ風に加工してみました。虚実入り乱れた銀座散歩でした。
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8丁目をはずれてここは新橋だろうと思いますが、「銀座の柳」の歌碑があります。
作詞・西条八十、作曲・中山晋平なので「東京行進曲」だろうと思ったら違ってました。
♪植えてうれしい 銀座の柳
♪江戸の名残りの うすみどり
「東京行進曲」の方は、
♪昔こいし 銀座の柳
♪仇な年増を 誰が知ろ -
さて8丁目は芝口御門のあった場所。
宝永7年(1710年)朝鮮通信使を迎えるために建てられた門ですが、今は石碑だけが残っています。
こんな江戸の名残りがスタートになります。 -
モダンが代名詞の銀座の通りの中でも、若干風情が異なるのが「金春(こんぱる)通り」。
能楽の金春家の屋敷があったので通りの名前になりました。 -
通りの入り口に立派な煉瓦積みの記念碑があります。
今日のテーマの「煉瓦遺構の碑」です。
銀座煉瓦街は、お雇いイギリス人技師のトーマス・ジェイムス・ウォートルースが政府の欧米化政策を受けて、明治5年から国家予算の4パーセントの費用をかけて作ったとあります。 -
通りには江戸時代から営業している銭湯があります。
「金春湯」というその銭湯は、その昔新橋の芸者さんが通っていたそうで、こんな写真がありました。
なるほど艶っぽい通りのはずです。 -
7丁目に入ります。
ビルとビルの隙間に追いやられた感じの豊岩稲荷神社。
銀座にも七福神があって、この稲荷社は恵比寿神です。
他の神様は三越や松坂屋の屋上にあったりして、肩身が狭い七福神です。
正月にでも回ってみますか。 -
6丁目の交詢社通りにある交詢ビル。
「交詢社」というのは福沢諭吉が設立した日本で最初の会員制倶楽部。このビルはクラブハウスだったそうです。
建物の一階部分だけは古めかしいですが、上の階はガラス張りで味も素っ気もありません。 -
同じく6丁目の並木通りにある啄木の歌碑。
編集長の佐藤北江に拾われた啄木は、最晩年の3年余りこの地にあった東京朝日新聞社に勤めました。
その時に読んだ歌です。
「京橋の滝山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」
啄木の歌碑は都内にいくつもありますが、この歌が一番印象薄いです。 -
1丁目から8丁目を貫く並木通り。
裏通りですが最も銀座らしい通りかも知れませんね。
今日のところは敢えて店は撮りませんが、ブランドブティックなどが勢揃い。
街路樹はシナの木で統一してます。 -
明治11年(1878年)に開校した泰明小学校は5丁目にあります。
ツタのからまる校舎やフランス門など東京都選定の歴史的建造物に指定されています。
この校舎は昭和4年(1929年)に震災復興事業で建てられたもので、その前は煉瓦造りであったと言います。 -
数多くの著名人や銀座の旦那衆が卒業した小学校です。
中でも飛び切りビッグな卒業生、島崎藤村と北村透谷は石碑に名前を刻まれています。 -
晴海通りに面してある数寄屋橋公園に「君の名は」の碑があります。
菊田一夫の書で「数寄屋橋此処にありき」と刻まれています。
この公園は盛りだくさん。熱風に揺れる柳とその奥に岡本太郎の「若い時計台」のモニュメントも見えます。 -
4丁目から1丁目にかけての裏通りは有楽町の駅が近いので普通の繁華街。
店は面白いですが、歴史を感じるものは少ないです。
三世柳か四世柳が植えられている銀座柳通り。 -
1丁目はほぼ京橋です。
ここには本当に橋が架かっていて、日本橋から東海道を歩き始めて最初の橋でした。
この石柱は明治初期の石橋になった時のもの。今は川そのものもなくなって、ただの記念碑。 -
川のあった頃の様子は歌川広重の「京橋竹がし」で伺えます。
江戸名所百景の内の一枚です。
もちろん大川ではあるまいし、こんな橋脚が長かったわけはないです。 -
京橋は江戸歌舞伎発祥の地です。
正月に猿若町を散策した時に、この立派な石碑を撮りに来ようと思ってました。
中村座の始祖・初代勘三郎が、元和8年(1622年)この地に猿若座(中村座)の櫓をあげました。 -
「京橋大根河岸青物市場跡」の石碑もすぐ隣りにあります。
京橋川を使ってこの地に野菜が荷揚げされたことから市が立ったのが始まりです。 -
さて、12時になると中央通りは交通規制が敷かれて歩行者天国。
銀座1丁目から8丁目まで道の真ん中を歩ける時間帯です。
でもこの暑さだと日陰の方が良さそうだな。 -
そして、ここで明治10年代の銀座通りにタイムスリップ。
通りの真ん中に鉄道馬車の線路が敷設されていました。
鉄道馬車は明治15年なので、この光景はそれ以降。 -
1丁目に「煉瓦銀座の碑」とガス灯が復元されています。
これは当時のガス灯そのものだそうです。 -
足元を見ると、明治時代に実際に使われていたレンガが敷き詰められています。
こんなに平らにレンガ舗装されていたのですね。 -
では当時のガス灯に火を入れている様子を再現してみます。
自動点火ではなかったので、夕方になると点燈夫が一つずつ火を灯していました。 -
歌川広重の「東京名所之内銀座通煉瓦造鉄道馬車往復図」。
同じ広重でも3世ですが、この錦絵は銀座通りの路上ギャラリーにも、江戸博にもあった有名な絵です。 -
同じ構図を探してみましたが、これが一番似たかな?
この辺から実写とジオラマが交錯してきます。 -
通りは広いですが高いビルに挟まれて少しも美しくない現代の銀座。
この暑いのに日曜の昼下がりは人も出てますね。 -
かつてはこんなに美しい街並だったのになぁ。
今は街灯だけの歩道部分も、昔は街路樹で飾られていました。 -
3丁目にある「銀座発祥の地」の石碑です。
ティファニーの真ん前にポツンと建ってます。
慶長17年(1612年)に幕府が銀貨幣鋳造の銀座役所を置いたことから「銀座」と呼ばれるようになりました。
あと数年で400年記念イベントとかありそうですね。 -
長閑な雰囲気がする明治の銀座の街角風景。
目を凝らすと歩道に敷き詰められたレンガがわかります。 -
歩行者天国なので今日の銀座も割と長閑です。
暑いのでパラソルの下でくつろぐ人も少ないですけど。 -
ぶらぶらと銀座通りを闊歩することを「銀ブラ」と言いました。
何しろ煉瓦街はここと丸の内にしかなかったから、物珍しかったのです。 -
4丁目の交差点。今はどこに行っても街並は同じ。
銀座通りで記念撮影しているのは外国人の方が多いです。
やはり物珍しいのでしょう。昔も今もお上りさんはいます。
そういう人たちは浅草でも同じ行動をとりますね。
日本を代表する街並ということですか? -
しかし、歩行者天国って悪くないですね。
車が忙しく行き交う銀座通りも、歩行者天国になると多少は昔を偲ぶことができます。
だんだんジオラマが真で、実写が虚に思えてきました。 -
銀座のシンボルである和光ビルの時計台。
ビルだけ撮ると服部時計店と呼びたくなります。
昭和7年竣工ですから震災後の復興期に建てられました。
その前にも初代時計台があったと言います。 -
そして明治の頃、和光ビルの場所にあったのが「朝野新聞社」の建物です。
何となく面影があるような気がしないでもない。 -
あまりに暑いので裏通りへ避難。ちょっと休憩。
そこで見つけたのが昭和5年(1930年)築の「ヨネイビル」です。
震災後の復興ビルで残っているものは数少ないですが、そのうちの一つ。
東京都選定の歴史的建造物に指定されています。
今日は明治の煉瓦街がテーマなので、こういう昭和初期の建造物探しはまた別の機会に。 -
晴海通りを折れて昭和通りを渡ると歌舞伎座です。
実は数日前に歌舞伎を観に来てますが、その時カメラを持ってませんでした。
この歌舞伎座も近々に建て直すことになってます。撮影は今のうちにやっておきましょう。 -
銀座界隈でジオラマ風に加工しなくても歴史を感じられる建物は歌舞伎座だけだなぁ。
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歌舞伎座の先は築地なので検証のために江戸博に移動。
築地はまたいろいろと見る所があるので涼しくなったら歩いてみましょう。
江戸博の東京ゾーンには朝野新聞社が復元されています。 -
その前に煉瓦通りとガス灯。
1丁目より保存状態が良さそうです。さすが博物館。
これは全部本物の明治の銀座のもの。 -
これが銀座煉瓦街の唯一現存する遺構です。
昭和63年(1988年)に8丁目のビル工事現場で偶然に発見された煉瓦塀です。
結構な高さもありますが、地味な展示なのでほとんどの人が通り過ぎるだけです。 -
結局のところ、煉瓦街は大正12年(1923年)の関東大震災で崩壊しました。
レンガは火事には強いけど地震には弱かった。明治5年(1872年)から半世紀で幻の街並となったわけです。
震災後の復旧事業の陣頭指揮を執ったのが、東京市長だった後藤新平です。
今の東京の青写真を造ったのはこの人。
ちょうど「生誕150周年記念・後藤新平」展をやってました。 -
後藤新平は、震災翌日に内務大臣に任命され帝都復興院総裁を兼務しました。
莫大な予算が必要な復興計画は、もしそれが実現していたら今のゴミゴミとした都心の風景はなかったであろうと思われる壮大なものでした。
その片鱗は昭和通りにあります。これがそのジオラマ。
道路の幅や電線の地下敷設などは後藤新平のアイデアでした。 -
復興計画が見える形で展示されています。
館内は涼しいのでじっくり見てきました。
ただし、この企画展のために江戸時代のジオラマは片づけられていますのでご注意。 -
銀座の街並から江戸博へと煉瓦街を追いかけてみました。
かくも江戸博は面白いと再認識しました。
しかし、明治の銀座と現代の銀座。どちらが真でどちらが虚なのでしょう?
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この旅行記へのコメント (2)
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- けーしちょーさん 2007/09/03 12:18:30
- 新旧。いづれも銀座かな♪
- もろずみさん。こんにちわ。
いつもご訪問ありがとうございます。
もろずみさんの銀座、拝見させていただきました。
私もこの周辺の旅行記を1冊、作りましたが
なんだかブランドショップばかりを撮影し
自分勝手な思い出を羅列するというものになってしまいましたが。
同じ場所を旅行記にしても
人によってこんなに視点が違うんだわ〜と楽しく拝見。
特にジオラマ風な現代の写真と
本当のジオラマである昔の銀座との対比は秀逸です。
素晴らしいアイデア!!
とても楽しかった!!
構成も見事。もちろん一票デス♪
けーしちょー拝
- もろずみさん からの返信 2007/09/04 21:08:20
- RE: 新旧。いづれも銀座かな♪
- けーしちょーさん、コメント&1票ありがとうございます。
けーしちょーさんの銀座は上位ランキングなので出掛ける前に拝見し、平成のカンカン娘だとこうなるのか、と唸りました。
で、私が撮りに行ったら明治の味付けになってしまいました。
ジオラマ風は写真家・本城直季さんを真似てみたお遊びです。
明治の頃に比べると今の銀座の街並は安っぽいので、そのチープさを出してみました。
そんなわけで、この旅行記にけーしちょーさんからコメント頂けたのは素直にうれしいです。
遅ればせながら私も1票入れにいきます。
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