2007/09/02 - 2007/09/02
867位(同エリア1397件中)
もろずみさん
先日、銀座の煉瓦街を歩いたのでその続きを歩いてみました。
新富町・明石町と粋な町名が残る築地界隈です。
安政5年(1854年)、日米修好通商条約が結ばれて日本には異人が大勢やってきました。開港した横浜・神戸などには貿易商が住む外国人居留地が造られ、今も異国情緒の漂う町並が残されています。
少し遅れた明治元年(1869年)、築地にも居留地が造られましたが、こちらは宣教師や医師などビジネスとは縁遠い人たちが多く暮らしました。
洋学を志す若者たちが出入りして西洋文化を吸収する土地でした。築地居留地には私塾がたくさんできて、それらが今の大学へと発展していきました。
関東大震災で跡形もなく消え去ったのは銀座と同じです。それでも丹念に探せば歴史を物語る遺物が発見できるはず。
そんな明治の築地居留地に思いを馳せてみることにしました。
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
-
新富町駅から地上に上がると珍しい三叉の三吉橋(みよしばし)があります。
今は橋の下に川はなく首都高速が走っています。
三島由紀夫の「橋づくし」に登場する最初の橋です。
物語は、銀座の芸妓・小弓たち4人が願掛けのため築地川に架かる7つの橋を渡ろうと中秋の晩に出掛けます。ただし、渡り終えるまで一言もしゃべってはいけないのです。
でも出てくる橋は6つ。小弓は三吉橋は「一度に二つ渡れる勘定」と言います。 -
新富町はその昔「新島原」と呼ばれる花街でした。島原はもちろん京の島原を指します。
かつては粋な風情がぷんぷんする町だったのでしょう。
歌舞伎や日本舞踊向けに誂えの足袋を卸している「大野屋總本店」はここにあります。
創業200年の老舗中の老舗。 -
花街に最も似合わない建物は京橋税務署です。
回りも今風のビルが建て込んで昔の面影はありませんが、税務署は興ざめですよね。 -
じゃ、何故税務署の写真を撮ったのかというと・・・
ここには明治8年(1875年)に守田座を改称して新富座がありました。
本邦初の夜間興業が可能な先進的な芝居小屋でしたが、関東大震災で廃座となりました。 -
税務署の裏通り、新内流しが聞こえてきそうな所に料亭・松し満があります。
こちらも創業200年。建物は改装されていますが老舗であることに変わりありません。 -
街角にはお稲荷さんというのが江戸の定番。
新富稲荷神社には7代目三津五郎の名の刻まれた水屋がありました。新富座縁りなのでしょうか?
新富町にはもう一つ新富復興稲荷神社もあります。 -
新大橋通りを渡ると町名は入船に変わります。
こちらの方が町筋に風情がありますね。 -
こういう町筋の裏通りは発見が多くて楽しめます。
板塀に見越しの松なんて他の土地ではほとんど見掛けませんね。
小唄や舞踊の稽古という看板を出している家もありました。 -
町名はまた湊と変わります。
この辺り一帯は鉄砲洲稲荷神社の氏子町内になります。
築地は江戸の初期には京橋川河口の洲でしたが、埋め立てて造られた土地です。
土を築いてできた土地なので「築地」というわけ。 -
歌川広重の名所江戸百景の「鉄炮洲稲荷橋湊神社」です。
現在の位置ではないと思いますが海辺の風景です。
湊の町名はこの錦絵で納得できますね。 -
では鉄砲洲の鉄砲とは何でしょうね?
武家屋敷が建ち並んでいたというので、ここで鉄砲の訓練でもしたのでしょうか。
神社の境内には立派な富士塚があります。 -
昔は海だった所もどんどん埋め立てられて隅田川になっています。佃大橋を渡った対岸は佃島。
どこを見てもビルばかりの光景ですが、隅田川の流れは好きです。 -
橋の西詰に「佃島渡船」の記念碑がありました。
徳川家康が摂津の国佃村の漁民を招いて与えたのが佃島ですが、最初は島じゃなくて洲だったようです。
佃島の住人が埋め立てて島にしたのです。家康もやりますねぇ。
ちなみに本願寺が浅草で丸焼けになった時にも、幕府は替地を与えましたが、そこはなんと海だったそうです。
佃島の信徒があっという間に埋め立てて今の築地本願寺を建てたそうです。佃島の住民恐るべし! -
佃の渡しは正保2年(1645年)に始まり、昭和39年(1964年)に佃大橋が完成するまで300年余の歴史がありました。
この写真は全盛期の昭和28年ですが、すでに手漕ぎではなく曳き船渡船になってますね。 -
佃大橋の南側が今日のテーマの明石町です。
それほど広い町ではありませんが、ここが文明開化の源とも言える外国人居留地のあった町です。
まずは明石小学校から見ていきましょう。
典型的な関東大震災後の復興小学校の風貌ですね。 -
小学校の前には居留地時代を偲ばせるガス灯があります。
やはり文明開化の象徴はガス灯なのか。
この灯柱は本物の居留地に立っていたものです。 -
小学校の隣は中学校だったはずですが・・・
廃校になって立派な高層住宅に変わってます。
区のケアセンターと高齢者住宅として使われています。
少子高齢化の日本を象徴する変化ですね。
ここにもガス灯が残されていてホッとしました。 -
居留地の面影など何もありません。
新しい高層ビルの周囲がこんな瀟洒なポケットパークになっているくらい。
少しは居留地の歴史を配慮したのかと思わせてくれました。 -
唯一、居留地時代からここにあると言われているカトリック築地教会です。
重厚な石造りの聖堂は存在感がありますね。と思ったら実は木造建築で壁はモルタルです。
これも震災で焼失した初代に代わって昭和2年(1927年)に建てられた2代目の聖堂です。 -
明石町で一番広々とした土地に建っているのは聖路加看護大学と聖路加国際病院です。
病院があったためにこの地域は第二次大戦で空襲を免れたと言われています。
おかげで居留地時代の遺跡はなくても昭和初期の建物が残されています。
ちょっとホッとしました。 -
聖路加国際病院の中にあるトイスラー記念館です。
宣教師館として昭和の初めに建てられた山小屋風の建物です。
当初はもっと隅田川寄りにあったものを10年ほど前に移築復元したものです。 -
この場所は居留地時代にはアメリカ公使館のあった場所だそうです。
安政6年(1859年)に麻布・善福寺に置かれた公使館が、明治8年(1875年)に移転して来ました。
その後、明治23年(1890年)に現在のアメリカ大使館のある赤坂に再び移転しました。
この石標はその時の置き土産です。 -
塔のある建物は洋の東西を問わずお気に入りです。
そうでなくとも聖路加の敷地の回りの雰囲気は大変好ましい佇まいです。
昭和初期の建物なので、もちろん居留地の頃にはこの鐘塔はなかったのですが、何となく往時を偲ばせる風情があります。 -
居留地の土地は江戸時代には武家屋敷が建ち並んでいました。
その中には播州赤穂の浅野家の江戸屋敷もありました。
浅野内匠頭長矩もここにあった屋敷に暮らしていたわけです。ここから江戸城までは結構遠いですね。
もちろん浅野家はお家断絶したので江戸屋敷は取り上げられたわけですけど、立派な石碑があります。 -
築地川公園でひと休み。
今は浜離宮の脇にわずかに残っているだけの築地川ですが、川と言っても周囲が埋立地なので細長い池のようなものです。
昔のことですから船が入る水路を残しただけのことです。 -
聖路加を「せいろか」とそのまま呼ぶ人が多いようですが、正しくは「せいるか」です。
この旅行記を読まれた方は、今後は間違えずに「せいるか」と呼ぶようにしましょう。 -
その「聖ルカ通り」に沿って大学発祥の地がたくさんあります。
居留地に住む宣教師たちが私塾を構えたのが始まりです。
まずは立教大学。 -
今は麹町にある女子学院も発祥はここです。
新設の学校は別にして、東京のキリスト教系の学校の大半は居留地生まれということになりそうです。 -
少し離れた所に工学院。
この学校は、殖産興業を押し進めるために明治も後期に設立されたので、キリスト教とは関係ないです。 -
駒込にあるプロテスタント系の女子聖学院も居留地育ちです。
他にも明治学院、青山学院もここで産声を上げました。
築地居留地の残した最大のものは近代教育と言えなくもありませんね。 -
慶應義塾も築地が発祥です。でも時は慶応であって明治ではありません。
居留地ができる前の安政5年(1858年)、福沢諭吉がこの地にあった中津藩奥平家の中屋敷に私塾を開いたのが始まりです。 -
同じ中津藩士の前野良沢が、この地でオランダの解剖書「解体新書」を初めて読みました。
「日本近代文化発祥の地」という石碑も隣りに建ってます。
しかし、近代文化発祥とは大層な・・・。 -
近くのあかつき公園にはシーボルトの胸像がありました。
シーボルトと言えば長崎の鳴瀧塾で西洋医学を教えていた幕末の有名人。日本に影響を与えた外国人の中でもトップクラスの人です。
シーボルト本人は、江戸では日本橋長崎屋で日本人蘭学者と交流したので築地とは関わりはありません。
強いて言えば、彼の娘のお稲さんが築地に産院を開業したからという縁です。
まぁ居留地跡ですから良しとしましょう。 -
明石町河岸にどーんと建っている聖路加タワー。
小腹が減ったのでここで休憩しましょう。
天気が良ければ展望台に登って俯瞰したいところですが、あいにくの曇り空です。 -
タワーの真下にもアメリカ公使館の石標が2つ。
先ほどの3つと合わせてこの地に5つあります。
全部で8つあったのですが、残りの3つは赤坂にアメリカ大使館にあるそうです。 -
明石町河岸から大川に出ます。
先ほど通った佃大橋の向こうに佃島リバーサイドの高層マンションが望めます。
街中だと舌打ちしたくなる光景ですが、隅田川の風景としては結構好きです。
いずれ佃島もじっくりと歩いてみることにしましょう。 -
和菓子の塩瀬総本家のビルです。
ここでひと休みと思ったのですが、日曜は定休日でした。
明石町土産はここしかないので今日はお土産なし。 -
石碑があるので何だろうと思ったら、指紋研究の始祖ヘンリー・フォールズ住居跡だそうです。
フォールズは日本人の指印の習慣に興味を持ち、たまたま見た古代の土器についていた指紋に注目して科学的な指紋研究を始めた人です。
正に世界初の指紋研究論文がここで生まれました。 -
明石町を一回りしたのでおさらい。
「タイムドーム明石」は中央区の郷土天文館です。
その名の通り、プラネタリウムが併設されています。
初めて入りましたがなかなか見やすい展示でした。
築地居留地コーナーがあって今日のテーマにぴたり。
内部は撮影禁止なのでエントランスの昔の日本橋の写真のみです。
面白いジオラマもあったのに・・・。 -
タイムドーム明石の裏手は築地7丁目。
この辺りはまだまだ昭和の香りが結構残っています。
それにしても関東大震災って凄かったのですね。完全に東京は壊滅したわけですから。
防災の日の翌日だったこともあって、タイムドームの映像室で関東大震災のニュース映画を観てきました。 -
お、こんな所に旅館がありました。まだ営業しているみたい。
だんだん消えゆく懐かしい街並なので、今のうちにせっせと撮り貯めておきたいですね。 -
町名は築地7丁目となりましたが、昔は小田原町だったという証拠写真が撮れました。
明石町や新富町、入船、湊など良く旧町名が残りましたね。
銀座も尾張町とか木挽町とか歴史のある町名は戻してもらいたいものです。 -
ぶらぶら歩いているうちに勝鬨橋までやってきました。
大体この辺りまでが築地居留地のエリアだったようです。
今日はこれくらいでお終いにしましょう。
明治開化をテーマに狭い範囲を歩いてみましたが、かなり面白かったです。
さすがに歴史散歩しているような人はいませんでした。
これで明石町は土地の人並みに詳しくなりました。
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この旅行記へのコメント (2)
-
- コクリコさん 2008/01/11 15:49:41
- 築地居留地
- もろずみさん、
こちらでは新年おめでとうございます。
そうそう、もろずみさんも築地の旅行記をUPしていたなぁと思い拝見しに来ました(銀座レンガ街までは見たのでが^^;)。
築地は聖路加病院、がんセンター、築地本願寺、中央卸売り市場くらいしか頭に浮かばなかったものですから、こんなに奥が深いとは知りませんでした。
大学発祥の地もあるのですね。
町名は子供の頃、祖母や母たちから聞かされていたり、多分行ったこともあったと思うので覚えていましたよ。
でも、町並みは全然覚えていませんでした。
まだ古い建物も残っているのですね。あの古い旅館はめいめいさんの旅行記で見た旅館と同じですよね。
泊まってみたいですね。
私は東銀座に行ったついでに思い立って築地まで足をのばしたので、もろずみさんのようにきちんとした旅行記にならなくて、、、
広重の鉄砲洲稲荷神社の絵がすごく効いていますよ!
もろずみさん、ならではですね!
何回も言ってしまいますが今年もよろしくお願いします。
- もろずみさん からの返信 2008/01/11 22:14:46
- RE: 築地居留地
- コクリコさん、明治の築地にようこそ。
奈良などに比べたら歴史の厚みのない江戸東京ですが、明治・大正・昭和の3層くらいはありますね。
コクリコさんは昭和の築地を探しに行かれたようですから、明治はやはり違うでしょ?
と言いつつ、あれれ、読み返してみたら三島由紀夫から始まってました。(^^;
この旅行記は入念に(?)下調べして出掛けましたが、明治の遺物はほとんどなかったので創造力だけで歩きました。
明治の写真がないので文章が長くなってますね。
銀座や築地はそのうち昭和を探しに再訪しようと思ってます。
その時は登場人物が必要なので探偵さんを貸してください。(^^)
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