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石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は京都府八幡市の男山山上にある神社で大分県宇佐市の宇佐神宮(うさじんぐう)、福岡県福岡市の筥崎宮(はこざきぐう)と並ぶ日本三大八幡宮のひとつ。藤原氏が権勢をふるった時代に文徳天皇の第1皇子であったものの母が紀氏出身であったために天皇になれなかった惟喬親王(これたかしんのう844―897年)を 退けて皇位継承した、母が藤原氏出身の清和天皇(せいわてんのう850―881年)が創建者。清和天皇が即位した翌年社殿を建立して以来、京都の北東にある比叡山延暦寺と対峙して京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護の神、王権・水運の神として皇室・朝廷より篤い信仰を受け、天皇・上皇・法皇などの行幸啓はこれまでに250以上とのこと。また、源氏をはじめ、足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏などが氏神として信仰したことから武神・弓矢の神・必勝の神として崇敬された。1868年の神仏分離までは「男山48坊」と呼ばれる数多くの宿坊が参道に軒を連ね、近衛信尹(このえ のぶただ 1565−1614年)、本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ1558−1637年)とともに「寛永の三筆」として知られる松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう 1582−1639年)も八幡大菩薩に仕える社僧の一人だった。<br />石清水八幡宮への参拝は最盛期より少なくなったと言うものの、現在も男山周辺には社寺が多い。<br />今回は善法律寺(ぜんぽうりつじ)、正法寺(しょうぼうじ)、 八角堂(はっかくどう)、松花堂(しょうかどう)、円福寺(えんぷくじ)を訪ねてみた。<br />(写真は放生川の光景)<br />

日本の旅 関西を歩く 京都、男山石清水八幡宮山麓の社寺

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2007/05/21 - 2007/05/21

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石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は京都府八幡市の男山山上にある神社で大分県宇佐市の宇佐神宮(うさじんぐう)、福岡県福岡市の筥崎宮(はこざきぐう)と並ぶ日本三大八幡宮のひとつ。藤原氏が権勢をふるった時代に文徳天皇の第1皇子であったものの母が紀氏出身であったために天皇になれなかった惟喬親王(これたかしんのう844―897年)を 退けて皇位継承した、母が藤原氏出身の清和天皇(せいわてんのう850―881年)が創建者。清和天皇が即位した翌年社殿を建立して以来、京都の北東にある比叡山延暦寺と対峙して京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護の神、王権・水運の神として皇室・朝廷より篤い信仰を受け、天皇・上皇・法皇などの行幸啓はこれまでに250以上とのこと。また、源氏をはじめ、足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏などが氏神として信仰したことから武神・弓矢の神・必勝の神として崇敬された。1868年の神仏分離までは「男山48坊」と呼ばれる数多くの宿坊が参道に軒を連ね、近衛信尹(このえ のぶただ 1565−1614年)、本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ1558−1637年)とともに「寛永の三筆」として知られる松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう 1582−1639年)も八幡大菩薩に仕える社僧の一人だった。
石清水八幡宮への参拝は最盛期より少なくなったと言うものの、現在も男山周辺には社寺が多い。
今回は善法律寺(ぜんぽうりつじ)、正法寺(しょうぼうじ)、 八角堂(はっかくどう)、松花堂(しょうかどう)、円福寺(えんぷくじ)を訪ねてみた。
(写真は放生川の光景)

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  • 「安居橋」(あんごばし)が掛かった放生川一帯は「やわた放生の景」と名付けられ、散策路になっている。<br />

    「安居橋」(あんごばし)が掛かった放生川一帯は「やわた放生の景」と名付けられ、散策路になっている。

  • 男山・石清水八幡宮に参拝する人達がのどを潤した井戸。<br />

    男山・石清水八幡宮に参拝する人達がのどを潤した井戸。

  • 「安居橋」(あんごばし)。<br />

    「安居橋」(あんごばし)。

  • 井戸の隣にある男山・石清水八幡宮の境内社。1868年の神仏分離までは「男山48坊」と呼ばれる数多くの宿坊が参道に軒を連ねていた。<br />

    井戸の隣にある男山・石清水八幡宮の境内社。1868年の神仏分離までは「男山48坊」と呼ばれる数多くの宿坊が参道に軒を連ねていた。

  • 「安居橋」(あんごばし)。<br />

    「安居橋」(あんごばし)。

  • 石清水八幡宮への参道はきれいに舗装されている。<br />

    石清水八幡宮への参道はきれいに舗装されている。

  • 松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう 1582−1639年)の墓所がある、松花堂泰勝寺。<br />

    松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう 1582−1639年)の墓所がある、松花堂泰勝寺。

  • 善法律寺(ぜんぽうりつじ)。以下八幡市紹介の寺伝。奈良唐招提寺の末寺で律宗に属す。鎌倉時代正嘉年中(1257−1259年)に石清水八幡宮社務善法寺宮清が奈良東大寺実相上人に帰依し、私宅を寺に改めたことに始まる。室町時代には、善法寺通清の娘紀良子が足利三代将軍義満を生んだことから将軍家との関係は深い。良子が紅葉の樹を寄進し、今も紅葉が美しいことから紅葉寺とも称される。<br />本堂は、内陣を高御倉と呼び神仏混淆の五間四方の堂で八幡宮の旧社殿を移築したと伝えられる。<br />通常拝観はできないが、本堂本尊は、もと石清水八幡宮にまつられていた僧形八幡坐像で、明治の神仏分離の際に当寺に移され、平安時代末頃の作といわれている。その両脇には愛染明王・不動明王があり等身大の玉眼彩色の鎌倉時代の像。 <br />

    善法律寺(ぜんぽうりつじ)。以下八幡市紹介の寺伝。奈良唐招提寺の末寺で律宗に属す。鎌倉時代正嘉年中(1257−1259年)に石清水八幡宮社務善法寺宮清が奈良東大寺実相上人に帰依し、私宅を寺に改めたことに始まる。室町時代には、善法寺通清の娘紀良子が足利三代将軍義満を生んだことから将軍家との関係は深い。良子が紅葉の樹を寄進し、今も紅葉が美しいことから紅葉寺とも称される。
    本堂は、内陣を高御倉と呼び神仏混淆の五間四方の堂で八幡宮の旧社殿を移築したと伝えられる。
    通常拝観はできないが、本堂本尊は、もと石清水八幡宮にまつられていた僧形八幡坐像で、明治の神仏分離の際に当寺に移され、平安時代末頃の作といわれている。その両脇には愛染明王・不動明王があり等身大の玉眼彩色の鎌倉時代の像。

  • 八幡の京街道。<br />

    八幡の京街道。

  • 善法律寺の境内。秋には紅葉が美しい。<br />

    善法律寺の境内。秋には紅葉が美しい。

  • 八幡の京街道。<br />

    八幡の京街道。

  • 善法律寺の境内。秋には紅葉が美しい。<br />

    善法律寺の境内。秋には紅葉が美しい。

  • 正法寺(しょうぼうじ)。以下八幡市紹介の寺伝。<br />徳迎山正法寺は浄土宗の古刹で、その歴史は12世紀末高田蔵人忠国が源頼朝の幣礼使として八幡に来住したことに始まる。高田氏は後に姓を志水と改め、菩提寺として寺領堂舎をととのえた。天台宗から浄土宗に改め、後奈良天皇の帰依をうけ、天文15年(1546年)勅願寺となる。この頃正法寺敷地内には塔頭も数箇寺でき、寺領が増した時期であった。<br />その後、志水氏の娘お亀が徳川家康の側室となり、尾張藩祖徳川義直を生んだことにより寺領五百石を有する寺勢となった。お亀は落飾して相応院と号し、没後当寺はその菩提寺となって尾張徳川家の庇護を受けた。<br />本堂・唐門・大方丈は重要文化財で、寛永七年(1630年)相応院寄進により建立され、現在の伽藍がこの頃ほぼできあがった。小方丈・書院・鐘楼は府指定文化財で、書院西にある庭園は府指定名勝である。また境内は府文化財環境保全地区に指定されている。絵画書跡では重要文化財で絹本著色如来像(高麗時代)、天平12年(740年)の大方等大集経がある。<br />

    正法寺(しょうぼうじ)。以下八幡市紹介の寺伝。
    徳迎山正法寺は浄土宗の古刹で、その歴史は12世紀末高田蔵人忠国が源頼朝の幣礼使として八幡に来住したことに始まる。高田氏は後に姓を志水と改め、菩提寺として寺領堂舎をととのえた。天台宗から浄土宗に改め、後奈良天皇の帰依をうけ、天文15年(1546年)勅願寺となる。この頃正法寺敷地内には塔頭も数箇寺でき、寺領が増した時期であった。
    その後、志水氏の娘お亀が徳川家康の側室となり、尾張藩祖徳川義直を生んだことにより寺領五百石を有する寺勢となった。お亀は落飾して相応院と号し、没後当寺はその菩提寺となって尾張徳川家の庇護を受けた。
    本堂・唐門・大方丈は重要文化財で、寛永七年(1630年)相応院寄進により建立され、現在の伽藍がこの頃ほぼできあがった。小方丈・書院・鐘楼は府指定文化財で、書院西にある庭園は府指定名勝である。また境内は府文化財環境保全地区に指定されている。絵画書跡では重要文化財で絹本著色如来像(高麗時代)、天平12年(740年)の大方等大集経がある。

  • 善法律寺の境内。秋には紅葉が美しい。<br />

    善法律寺の境内。秋には紅葉が美しい。

  • 八角堂の碑。<br />

    八角堂の碑。

  • 八角堂(はっかくどう)。 <br />以下八幡市紹介の寺伝。御堂は市内最大の前方後円墳である西軍塚古墳の円頂部に建っている。現在は正法寺の境外堂宇のひとつであり、本尊阿弥陀如来(一光千仏丈六阿弥陀と称す)が安置されているため、阿弥陀堂ともいう。 御堂はもと男山西谷にあったが、明治元年の神仏分離令によって八幡宮境内から仏教関係の堂舎・仏像などが撤去された際、正法寺住職が堂宇・尊像とも迎請し、この地に移したものである。堂舎は順徳天皇の御願によって、八幡宮検校善法寺祐清が建保年間(1213年―1219年)に建立したものであるが、後に大破した。次いで慶長12年(1607年)豊臣秀頼の御願によって尾張国小出大和守吉政が再建したとある。このことは堂上の桐紋を付した露盤に彫刻されていると『男山考古録』は記している。またこのとき、京に住む仏師康温が阿弥陀仏を修造して入仏したことが棟木に記されているという。それ以降ほとんど手を加えなかったため破損転倒し、表六間、奥行二間の仮の板屋根で風雨を凌いでいたという悲惨な記録もある。<br />元禄11年(1698年)、社務の善法寺央清は四方に勧進を募り、堂宇を再興した。その時の奉加者の名が堂内の垂木や瓦の裏などに記されている。堂内に安置されている金色の丈六阿弥陀仏(重文)は鎌倉時代初期の作品であり、中品中生の説法印を結び、十三体の化仏を配した大きな光背を後に付している。ために本尊と化仏を対比して、一光千仏といわれている。<br />ちなみに像の手の指の間に膜のようものがあるが、これは八幡神の遷座を慕って仏像が海を泳ぎ渡ってきたときの水掻きであるという里俗の伝説の根拠となっている。流転を経て色あせた八角形の異形は、なぜか周囲の雑木と竹林にみごとに調和している。八角堂は市立松花堂庭園の西側、八幡女郎花にある。<br />

    八角堂(はっかくどう)。
    以下八幡市紹介の寺伝。御堂は市内最大の前方後円墳である西軍塚古墳の円頂部に建っている。現在は正法寺の境外堂宇のひとつであり、本尊阿弥陀如来(一光千仏丈六阿弥陀と称す)が安置されているため、阿弥陀堂ともいう。 御堂はもと男山西谷にあったが、明治元年の神仏分離令によって八幡宮境内から仏教関係の堂舎・仏像などが撤去された際、正法寺住職が堂宇・尊像とも迎請し、この地に移したものである。堂舎は順徳天皇の御願によって、八幡宮検校善法寺祐清が建保年間(1213年―1219年)に建立したものであるが、後に大破した。次いで慶長12年(1607年)豊臣秀頼の御願によって尾張国小出大和守吉政が再建したとある。このことは堂上の桐紋を付した露盤に彫刻されていると『男山考古録』は記している。またこのとき、京に住む仏師康温が阿弥陀仏を修造して入仏したことが棟木に記されているという。それ以降ほとんど手を加えなかったため破損転倒し、表六間、奥行二間の仮の板屋根で風雨を凌いでいたという悲惨な記録もある。
    元禄11年(1698年)、社務の善法寺央清は四方に勧進を募り、堂宇を再興した。その時の奉加者の名が堂内の垂木や瓦の裏などに記されている。堂内に安置されている金色の丈六阿弥陀仏(重文)は鎌倉時代初期の作品であり、中品中生の説法印を結び、十三体の化仏を配した大きな光背を後に付している。ために本尊と化仏を対比して、一光千仏といわれている。
    ちなみに像の手の指の間に膜のようものがあるが、これは八幡神の遷座を慕って仏像が海を泳ぎ渡ってきたときの水掻きであるという里俗の伝説の根拠となっている。流転を経て色あせた八角形の異形は、なぜか周囲の雑木と竹林にみごとに調和している。八角堂は市立松花堂庭園の西側、八幡女郎花にある。

  • 松花堂(しょうかどう)の庭園。以下八幡市紹介の松花堂の寺伝。寛永の三筆のひとり松花堂昭乗が男山山中の坊内に建てた小方丈を松花堂という。<br />昭乗は、摂津堺に生まれ、兄が興福寺一乗院門跡尊勢に仕えたのに従い、奈良に移住した。17才で男山滝本坊実乗につき社僧となり、寛永4年(1627年)師の跡を継ぎ滝本坊の住職となる。昭乗は、はじめ御家流の書を、後に空海や定家の書を学び、滝本流といれる独特の書流を立て、近衛信尹・本阿弥光悦とともに寛永の三筆に数えられた。晩年の寛永14年(1637年)昭乗は、弟子の乗淳に滝本坊を譲り、自身は里坊の泉坊の一隅に松花堂という小方丈を建て、そこに移り住み松花堂昭乗と名乗る。<br />昭乗は、絵画・和歌・茶の湯などにも精通した当代きっての文化人で、近衛信尋・尾張藩祖徳川義直・狩野山雪・小堀遠州・沢庵宗彭などとも親交があり、これらの人々が集う松花堂は寛永時代の文化サロンのひとつであった。 <br />明治の排仏毀釈で男山にある坊舎堂塔はすべて取り払われ売却された。現在は、泉坊書院・玄関とともに八幡女郎花の地に移築され、松花堂庭園として公開。松花堂の建物の構造は、茅葺・宝形造、二畳の茶室には南に土間、西には水屋が配され、仏壇・床が設けられ、住居の性格をも合わせ持った茶室であり、京都府指定文化財。泉坊書院・玄関は京都府登録文化財。庭園の一部は、男山山腹の跡地とともに、国史跡指定。 <br />松花堂庭園内には、美術館、茶室、女郎花塚などもあり、見学できる。<br />

    松花堂(しょうかどう)の庭園。以下八幡市紹介の松花堂の寺伝。寛永の三筆のひとり松花堂昭乗が男山山中の坊内に建てた小方丈を松花堂という。
    昭乗は、摂津堺に生まれ、兄が興福寺一乗院門跡尊勢に仕えたのに従い、奈良に移住した。17才で男山滝本坊実乗につき社僧となり、寛永4年(1627年)師の跡を継ぎ滝本坊の住職となる。昭乗は、はじめ御家流の書を、後に空海や定家の書を学び、滝本流といれる独特の書流を立て、近衛信尹・本阿弥光悦とともに寛永の三筆に数えられた。晩年の寛永14年(1637年)昭乗は、弟子の乗淳に滝本坊を譲り、自身は里坊の泉坊の一隅に松花堂という小方丈を建て、そこに移り住み松花堂昭乗と名乗る。
    昭乗は、絵画・和歌・茶の湯などにも精通した当代きっての文化人で、近衛信尋・尾張藩祖徳川義直・狩野山雪・小堀遠州・沢庵宗彭などとも親交があり、これらの人々が集う松花堂は寛永時代の文化サロンのひとつであった。
    明治の排仏毀釈で男山にある坊舎堂塔はすべて取り払われ売却された。現在は、泉坊書院・玄関とともに八幡女郎花の地に移築され、松花堂庭園として公開。松花堂の建物の構造は、茅葺・宝形造、二畳の茶室には南に土間、西には水屋が配され、仏壇・床が設けられ、住居の性格をも合わせ持った茶室であり、京都府指定文化財。泉坊書院・玄関は京都府登録文化財。庭園の一部は、男山山腹の跡地とともに、国史跡指定。
    松花堂庭園内には、美術館、茶室、女郎花塚などもあり、見学できる。

  • 松花堂(しょうかどう)の庭園。

    松花堂(しょうかどう)の庭園。

  • 松花堂(しょうかどう)の庭園。

    松花堂(しょうかどう)の庭園。

  • 円福寺(えんぷくじ)に近い洞ヶ峠の茶屋。洞ヶ峠(ほらがとうげ)は1582年、本能寺の変の直後に主君織田信長を討った明智光秀の軍と信長の重臣羽柴秀吉の軍が山城国山崎において激突した(山崎の戦い)。この時、明智・羽柴の双方から加勢を依頼された大和の大名筒井順慶は、一度は明智側に従って山崎の南方にある洞ヶ峠まで兵を進めながらも、最終的にはどちらに付くか日和見をしたとの伝説が在る為、日和見する事を洞ヶ峠と表現する事がある。<br />しかし、この伝説は史実に反しており、筒井順慶は最終的には洞ヶ峠に着くことなく大和へと撤兵して中立を保ったと言われている。<br />また洞ヶ峠は国道1号の大阪府と京都府との境界で昭和末期までこの周囲は雑木林で薄暗かった。そのため幽霊がよく現れる「心霊スポット」としてよく知られ、雑誌やテレビにもしばしば取り上げられた。<br />

    円福寺(えんぷくじ)に近い洞ヶ峠の茶屋。洞ヶ峠(ほらがとうげ)は1582年、本能寺の変の直後に主君織田信長を討った明智光秀の軍と信長の重臣羽柴秀吉の軍が山城国山崎において激突した(山崎の戦い)。この時、明智・羽柴の双方から加勢を依頼された大和の大名筒井順慶は、一度は明智側に従って山崎の南方にある洞ヶ峠まで兵を進めながらも、最終的にはどちらに付くか日和見をしたとの伝説が在る為、日和見する事を洞ヶ峠と表現する事がある。
    しかし、この伝説は史実に反しており、筒井順慶は最終的には洞ヶ峠に着くことなく大和へと撤兵して中立を保ったと言われている。
    また洞ヶ峠は国道1号の大阪府と京都府との境界で昭和末期までこの周囲は雑木林で薄暗かった。そのため幽霊がよく現れる「心霊スポット」としてよく知られ、雑誌やテレビにもしばしば取り上げられた。

  • 円福寺(えんぷくじ)。以下八幡市紹介の寺伝。天明年間(1781−1788年) 白隠四天王のひとり斯経禅師により開創された臨済宗妙心寺末の修業道場である。山門座禅堂などを備えた伽藍は江戸時代末頃より整備され、現在も多くの雲水が修業し専門道場としての規模を誇る。<br />当寺の達磨大師坐像は、鎌倉時代の木像で大和国達磨寺から八幡に移り石清水八幡宮社務田中家に秘蔵されていたもので、文化4年(1807年)妙心寺海門和尚が譲り受け当寺に安置した。三大達磨のひとつといわれ、国の重要文化財に指定されている。<br />毎年4月20日と10月20日の万人講には、達磨像が開帳され、赤膳のおときをいただくと開運厄除け中風除けの霊験あらたかと信仰されている。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

    円福寺(えんぷくじ)。以下八幡市紹介の寺伝。天明年間(1781−1788年) 白隠四天王のひとり斯経禅師により開創された臨済宗妙心寺末の修業道場である。山門座禅堂などを備えた伽藍は江戸時代末頃より整備され、現在も多くの雲水が修業し専門道場としての規模を誇る。
    当寺の達磨大師坐像は、鎌倉時代の木像で大和国達磨寺から八幡に移り石清水八幡宮社務田中家に秘蔵されていたもので、文化4年(1807年)妙心寺海門和尚が譲り受け当寺に安置した。三大達磨のひとつといわれ、国の重要文化財に指定されている。
    毎年4月20日と10月20日の万人講には、達磨像が開帳され、赤膳のおときをいただくと開運厄除け中風除けの霊験あらたかと信仰されている。






  • 円福寺(えんぷくじ)の碑。

    円福寺(えんぷくじ)の碑。

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