2007/05/06 - 2007/05/15
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明石DSさん
来鳳山から騰越(騰衝)市内を写す
■騰越守備隊の戦い
以下は、小説「断作戦」古山高麗雄(著)・「壮烈、拉孟守備隊」楳本捨三(著)・他Web上より参照す
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来鳳山の麓には松林が広がっていた。三合目あたりから上が草地であった。その草地で、友軍と遠征軍とが、白兵戦を演じた。
騰越城壁は、高さ5メートル、厚さは約2メートル、城壁の外側は石、内側は積土によって堅固に構築。
城壁の西に南北に盈江(エーコウ:川)が流れている。
小説「断作戦」は騰越落城の日まで戦ってい生還した、将校ではない二人の下級元兵士の取材によって作られている。
その二人は、無論仮名であろうが。
■久留米の落合一政
昭和19年9月14日が騰越玉砕の日である。
前夜爆死した蔵重守備隊長に代わって指揮をとっていた太田大尉の命令で、生存者は城外に脱出して芒市の師団司令部に向かうことになった。脱出部隊の人数は、5,60名であった。その、5,60名の脱出部隊は銃火の中で四散した。
一政はそれから一月近く、周辺の林や藪の中をさまよった。初めは5人いた仲間が、その間にみんな死んで、さいごは一政だけになってしまった。一政は山中を放浪中に便衣隊員に銃尻で頭を殴られて意識を失い、意識を取り戻したときには捕らえられていたのである。
■柳川の白石芳太郎
玉砕の日、城外の飲馬水で戦っていた。落城後、芳太郎の小隊は騰越城外南東3キロの大同街の敵陣に突入した。
そこに雲南遠征軍第36師団の司令部があるという情報があったからである。しかし、芳太郎が大同街に突入したときには、司令部はすでに南門方面に移動していた。
その後芳太郎は、一政と同じように林や藪の中をさまよったが、最後に、十数名に減ってしまい、しかも全員負傷者の兵力で、少芯街にあった敵第53軍の司令部に奇襲攻撃を敢行したのである。その戦闘で芳太郎は、胸部を負傷して意識を失い捕らえられたのである。
↓騰越で最後まで戦った、落合一政、白石芳太郎の捕虜となってからの道程
保山〜楚雄〜昆明(終戦を迎える)
〜重慶〜漢口〜南京〜上海〜鹿児島(昭和21年5月下旬)
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右:吉原正喜捕手(1919年1月2日 - 1944年10月10日?・享年26歳)
左:沢村栄二投手(1917年2月1日 - 1944年12月2日・享年28歳)
■吉原正喜軍曹
吉原正喜軍曹(巨人軍捕手)がこの小説「断作戦」の中に出てくる。
8月の初め頃のことのようだ。
『旧制熊本工業学校野球部時代に、同じく野球部の投手だった川上哲治とのバッテリーが有名になり、川上と共に1938年に東京巨人軍に入団。バッテリー揃っての入団であったが、巨人球団の本命は吉原であったと言われる。1944年10月10日、出征先のビルマで戦死した。』・・・とあるが、白石芳太郎の回想に吉原軍曹が出て来る
芳太郎(談)
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東南角陣地に入ったときから、あの白壁の家は、必ず敵の拠点になるだろうから、焼いておかなければ、と気になり、そう分隊長に進言した。だが、すでに敵は、そう言ったときには入って来ていたのであった。その内、敵は瓦を剥ぎ始めた。機関銃を据えるためだと判断して、そこに照準をあてて待っていると、案の定であった。
焼炎器をつけた銃口がそこからのぞいた。とっさに芳太郎は引鉄を引いた。敵は焼炎器を引っ込め、数分後、別の場所から、今度は敵のほうから撃って来た。夕暮れが近づいたころ、左後方の速射砲陣地から吉原軍曹以下一個分隊が応援に来て、白壁の家に夜襲攻撃をかけたのであった。
吉原軍曹は、プロ野球の巨人軍捕手であった。いや、あの頃は、プロ野球と言わずに職業野球と言っていたのだ。その名捕手と言われていた人だから、手榴弾を投げると、芳太郎の倍も遠くまで飛んだ。そして狙ったところに正確に投げた。あの夜襲で、真木上等兵が戦死。三人が負傷した。
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↑その真偽のほどは不明だが、著者は龍の元兵士(一政と芳太郎)からの取材を元にこの小説を書いている。内容の時系列は、他の戦記に書かれたものより詳しく、その騰越の最前線で戦っていた下級兵士の証言からの内容であり、真実味を感じる。
吉原軍曹は・・・。Web参照によると、その他↓いろんな説がある。
(A)昭和19年10月10日戦死(享年25歳)ビルマ・インパール作戦で散華
(B)昭和十九年十月十日、インパール作戦の最中にビルマのウント地区で病死したとも、自決したとも伝えられている。
(C)昭和十九年七月、インパール作戦において、所属部隊の薬二十倍の敵に包囲されて「―――コレヨリ軍族ヲ焼却シテ全員突入ス」の決別電報の後、玉砕した。とも、又、一説には敗走して部隊は山中を彷徨し、餓死したとも伝えられる程、激戦のただ中にあって消息はおろか遺骨すら見つかっていないのである。
(D)吉原正喜は入営した久留米48連隊で手榴弾投げにおいてダントツの成績をおさめていたという。その吉原の最後は壮絶であった。ビルマのジャングルの中で機銃掃射を受け、右足親指は吹き飛び、全く歩けないまま死を待った・……。
「戦跡に祈る」でも、やはり吉原正喜軍曹が騰越で、手榴弾投擲の伝説を残している。投擲力の凄さと、コントロールは正確無比だったそうだ。
ただ、吉原軍曹の最後を知る人が生きていないのだそうだ。でも白石芳太郎が、8月頃に一緒に戦っているので、やはり騰越で戦い戦死したのは間違いないと私は思う。
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騰越守備隊の戦いを書いた小説
「断作戦」来鳳山を仰ぐ
■騰越守備隊の兵力
56師団 歩兵148連隊(龍兵団)
守備隊隊長 藏重康美大佐 総勢:2,025名(内、戦傷患者250名)服部
昭和19年6月27日〜9月14日の79日間
敵の43,000名もの怒涛の攻撃を食い止め奮戦した。
・・・・・・・・・・・・以下↓は騰越での戦闘経過
6月27日(敵、第一次総攻撃)
宮原大隊、騰越を出発し龍陵に向かう。同時に遠征軍の本格的攻撃がある。来鳳山陣地への猛砲撃が皮切りだった。白石芳太郎はこの時、騰越に戻ってきた。以来2ヶ月余りにわたって騰越は地獄の戦場となる。
7月23日(敵、第二次総攻撃)
白塔陣地と桜陣地、東営台陣地、礼儀台、萬金邑陣地など各場外陣地に多量の砲弾を撃ち込むと共に、大軍を差し向けたが守備隊は陣地を守った。
7月27日 ついに来鳳山陣地が敵の手に落ちる。
山頂に青天白日旗が翻った。それを見ると涙が出た(芳太郎)。敵攻撃開始から一ヶ月のことである。
8月1日(敵、第三次総攻撃)
来鳳山を占領した敵が、騰越城に総攻撃をかけて来た。
8月13日
敵、戦爆連合24機の空襲で、守備隊本部が直撃され、藏重大佐以下8名の将校と24名の下士官が一瞬にして戦死した。太田正人大尉(27歳)が代わって守備隊の指揮をとることになる。連隊旗手北原中尉が戦死し宮原少尉が任命された。
8月14日(敵、第四次総攻撃:騰越城への直接攻撃では第2次総攻撃始まる)
例によって、まず、騰越城を砲煙で包み込んでしまうほどの砲爆撃があり、続いて敵の歩兵の大軍が、煙幕を張り、梯子を城壁にかけて乗り越えて来た。白兵戦が展開され、その日は正午ごろ、とにかく敵を撃退したのである。
8月19日(敵、第五次総攻撃:騰越直接では第三次が始まる)
8月20日
太田守備隊長が師団に電報を寄せた。
『藏重部隊長の戦死後、わずか旬日(じゅんじつ=10日余り)を出でずして、かくの如き重大なる戦況に立ち至るは、ほとへに小官の無能、指揮未熟の結果、まことに慙愧に堪えざるところ、しかし、将兵は隻眼隻手隻足みな戦闘に参加し得るものは志願して仇敵撃滅を誓いありて、将兵また二ヶ月余の戦闘に今なお部隊長の遺訓を体し、奮戦中につき御安心を乞う。
現下の状況下、また何も申しあぐることなし、詳細に報告し得ざるを遺憾とするも、兵団主力方面の戦況如何?小官らに拘ることなく戦闘を続行せられたし。ただ欲しきは手榴弾。渇望すること切なり、出来うれば手榴弾の強行補給のみを願いす。』
8月21日 守備隊残存兵力:640名(内100名は担送患者)
8月25日
友軍機12機飛来し、手榴弾500発、若干の衛生機材を投下す。
『久方ぶりに日の丸友軍機頭上に乱舞するを見る、全員涙をもって感激感謝、この心情察せられたし、手榴弾500発まさに受領す、決死隊編制にあたり、将兵は勇躍してその任につけり、友軍機飛来の際、敵高射砲隊は友軍機攻撃せしも全機無事帰還せられしや。』
8月31日 遠征軍の大攻撃あり。
東南角正面から大挙強襲して来て、守備隊はついに東南角陣地も奪われた。
9月4日 守備隊残存兵力:350名
南城壁全部、西城壁の半分以上、東城壁の一部、そして城内の半分が遠征軍に占領されていた。
9月7日 拉孟玉砕の報が届く。
「拉孟は玉砕したとよ」と班長がいったが。誰も何も言わなかった。
「龍陵は激戦中だと。しかし、もう間に合わんじゃろう」
ここ騰越への救援部隊が来ることを待っていたのだが・・・。
落合一政は、拉孟玉砕のこの夜負傷した。
東方約百メートルの敵トーチカの夜襲攻撃を中隊長に命ぜられて、小隊長以下6人で、三ヶ所のトーチカに手榴弾を投げ込みに行った。6人が三組に分かれ、一つのトーチカに二人ずつ肉薄した。一政は、松浦上等兵と組んで、水田に入って中央のトーチカの背後にまわった。雨が降っていて、漆黒の闇夜であった。首尾よく接近して、松浦が手榴弾を投げ込むと、とたんに敵が飛び出して来たので、銃剣で刺殺した。その時左翼のトーチカの機関銃が火を噴き、その弾を受けたからである。かなりの傷であったが、あの時も死なずに引き揚げて来た。
慰安婦が身を死の危険にさらして握ってくれた握り飯一個とカンパン一袋をもらう。
9月11日 守備隊残存兵力:70名ほどとなる。
太田大尉は、もはやこれまでと判断し、連隊旗を奉焼する。守備隊本部前80メートルで激戦が展開されていた。
9月12日
太田大尉は最後の別れを司令部に打電。残存者に城外の脱出を命じ、暗号書を焼却し焼き無線機を壊した。
「1週間以内の持久は困難なるをもって、明13日(連隊長の命日)最後の突撃を敢行し、武人の最後を飾らんとす。」
9月13日
太田大尉は少数の手兵を卒いて適中に突入して戦死す。
同夜、一政たち飲馬水陣地の守兵は、城内からの脱出を援護した。13日も雨であった。「騰越守備隊の最後の状況を報告せよ」との命で脱出兵士は5,60名は司令部のある芒市に向かったが、たどり着けた者はついにいなかった。捕虜となって日本に帰国した者は2,30名のようだ。
慰安婦たちは、行く方向も定められず、林の中で、怯え、困惑していた。中で年配の女が、城内にはもう日本軍は一人もいない、と語り、そして小隊長に、自分たちも一緒に連れて行ってほしい、途中迷惑はかけない、死ぬ時は一緒に死ぬ、と言った。
そばにいた別の女が、お金は私たちがたくさん持っています、と言って、背中の袋から今や紙屑でしかない軍票をつかみ出して見せた。若い小隊長は困惑していたが、その時、近くに数発の迫撃砲弾が落下して炸裂したので、その話はそれっきりになってしまった。
一政たちも慰安婦たちも、それぞれ水田に飛び込んで身を潜めた。そして、いつのまにか、小隊長について、騰越城にも彼女たちにも背を向けて、山に向かって水田の中を這うようにして進んでいたのであった。
若い小隊長が困惑した気持ちが良く分かる。一緒にと言われても助ける手立ても見込みもなく、どうしようもない気持ちだったのだろう。結局結果は慰安婦の多くが、その後、遠征軍に保護され保山の捕虜収容所で一政たちとの再会を喜んでいる。
9月14日
騰越での戦闘は全て終了する。
遠征軍第20集団司令官、霍揆彰が「本九月十四日、騰越における日本軍の抵抗は全て終了せり」と雲南遠征軍司令官:衛立煌大将に報告した。
・・・・・・・・・騰越は落城し戦闘は終了した。 -
戦争当時この寺があったのか?無かったのか?
ただの寺のように見えたが
よう分からん
■来鳳寺に行く
来鳳山にある寺だから、何かあるのか・・・と、期待して行ったが寺があっただけで、私が興味のあるのもは何もなかった。地元のおばちゃん大勢が雨の中集まってそれぞれ輪になって何か作っていた。
私の方を怪訝な顔でチラッと見たようだが、直ぐに私など無視してわいわいがやがや作業を続けていた。 -
おばちゃんたちが黙々と何か作業をしていた
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こんな感じの寺でした
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金ぴかはどこでもそうです
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■騰越(騰衝)市内を歩き回る
さあ、これで今日の段従虹との行動は終わりにして、昨日の夜に行った「文星楼」に送ってもらう。午後3時15分だった。
段従虹は「まだ早いのに・・・もういいの?」と言い、私が携帯を返そうとすると「持っていて、又必要な時に呼んでくれればいいから」と言ったが、昨日の長距離運転、それも悪路を嫌な顔もせず走ってくれ、車まで壊れてしまったのだから、もうそれで包車は十分満足だった。
例え私が呼ぶ気持ちが無くても、持っていたら彼女もゆっくり休めないだろうと携帯を返しておいた。もとより自分で歩き回るつもりだったのだから。
雨の中、市中を傘をさして歩き回った。
まず飲馬水河を探しに、昔の略図と同じところに今も流れていた。整備されて直線的になった飲馬水河沿いに南に歩いた。南の方は昔の川筋と少し変わってしまっているようだったが、右に曲がってその先に続いているのは同じである。飲馬水河を確認できただけでも大体の城内との位置関係が分かった。 -
文星楼は南と北に楼閣門がある
南門(市の中心側)の楼閣をくぐって北門の楼閣方向を写す
歩行者天国になっており両側に翡翠の店が並ぶ
翡翠の店や土産物店が並ぶが、人通りはさっぱり
店じまいで入居者募集の張り紙もあった -
北門の楼閣から市街、来鳳山方向を写す
この時は、まだ雨で来鳳山の中腹までしか見えない -
北門楼閣上から高良山、飛鳳山・北東方向を写す
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飲馬水河側から北門楼閣を写す
市内を足が棒になるまで歩き回った後
この上で、ず〜と騰越の風景を眺めていた
どれくらい居たのか、良く分からないが -
飲馬水河があった。
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芳太郎、一政も騰越最後の日(9月13〜14日)
城外の飲馬水陣地にいて、残存兵士の脱出の援護をしたようだ。 -
飲馬水河は改修されたのか?
昔の地図と流れ行く先は少し違うように思う
東南の方向にやや右にカーブしながら続いていた -
飲馬水河、沈家港という名前が刻まれた石碑を見つける
沈家港というのは昔の地図には「丁家港」と書かれている
場所は同じだ。 -
路地を歩くと雰囲気はいい壁と道だが新しい
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その一角に井戸のようなものがあり覗くと水路のようだった
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この水路の流れる方向や位置が昔の地図の飲馬水河の方向だ
これが昔の地図にある飲馬水河かもしれない -
昔、この辺りが飲馬水河と城内、城外の東北角に当たる付近だ
この辺で最後まで激闘が戦わされた -
「戦跡に祈る」牧野弘道(著)にも、この場所のことが書かれている
『東北角の先の飲馬水陣地の一帯は、なぜか荒地のままで、
当時の激戦の跡を彷彿とさせる風景を残していた。
近くを飲馬水河が流れるこの一帯は古くから隊商たちが
連れ歩く馬の休憩所であり水飲み場だった』
この激戦の跡地に何を作ろうというのか? -
北門付近から見た東北角方向の景色
雨の中、この荒地を歩く、ズボンも靴もビチョビチョ
こんな荒地を歩く奴は一体誰やねん
もちろん私一人だけです。時折犬にほえられて恐かったです -
こんな所を西に向かって歩きながら盈江に向かう
-
盈江は昔の地図と同じように流れていた
河川敷は綺麗な公園になっている
南方向を写す
この河の東側に1キロ四方の騰越城内があった
■盈江(えいこう:川の名前)
本降りの雨の中、今度は西に向かって歩き盈江を確認しに行った。この城壁の西側を南北に流れる川で、昔もその川向こうまで集落があった。今は、城壁から南側から来鳳山の山麓まで、そして東側一帯が大きく開発され市街地が拡大している。
昔の写真では騰越城外は盈江を挟んで西側以外は、畑や水田が周囲に広がる景色だった。そして今の観光地図には、盈江と騰越河という名前が両方書かれている
盈江も現在は河川敷が美しく整備され遊歩道のようになっていた。この頃には、大分歩きつかれて足も棒になっていた。本当は英国領事館跡を探したかったが、地図で見るよりやはり実際の街は大きく広く、今現在の地図にも領事館を示されていないのであきらめた。 -
盈江、若しくは騰越河
北方向を写す -
盈江を東西に横切る火山路にに架かる橋
玉泉橋 -
騰越でローラースケート場発見!
■英国領事館跡と孔子廟
帰国後「戦跡に祈る」を見れば、やはり英国領事館と唯一騰越城内で焼失をのがれたとされる孔子廟があり、両方とも弾痕のあとが無数に残されており当時の激闘を偲ぶに十分の遺跡のようだとあった。
牧野氏が訪れた2005年の時には、英国領事館跡は騰越県政府が戦跡として永久保存するようで「文物修復の場所に付き立ち入り禁止」の看板が立っていたそうである。
ならば、それから二年後の2007年の今年には、すでに戦跡として保存されていたのかも知れない。でも今の地図にも載っていないということは、まだなのか?次回行く機会があるとは思えないが・・・。
もし騰越の地を再び訪れることあらば、その二つには必ず行くぞ。
実は英国領事館跡には行きたかった
何故か?「断作戦」にも何度も出てきたし
此処が分かれば騰越城の位置がよりはっきりするから
探そうと歩いたが、足が棒で断念したことが悔やまれる
紙に「英国領事館」と書いて聞けば良かった
あ〜今思っても、残念無念也
孔子廟のことは全く知らなかった
あの激戦の城内で良くぞ残った -
本降りの雨だから人通りも少ない模様
■城内を?ひたすら歩く
城内であろうと思われる、今の市内を歩き回った。雨も強くなったり弱くなったり・・・。そんな中を相変わらず「誰か故郷を想わざる」を始終口ずさみながら歩く。私が歌う、日本語の歌に誰も振り向きもしない。そりゃあ街中は騒々しいし。
途中、段従虹に教えてもらっていた翡翠(ひすい)の専門店街に行き、小さい小さい土産を探す。極小でも本物であればよしとする。何店かをひやかしながら歩き、とある店の中に入る。専門店の端の方にあった小さな店だが、店の奥に工作機がありこの店オリジナルのようだった。やはりたった一人いた小姐が、自分で作っているとのこと。
どこでもそうだが、こんな石の類はどことも値段札がない。なので、何店か冷やかしながら相場を見極めることからはじめないと失敗する。
大体、同じ大きさや見た目の値段が・・・何ヶ所か見るだけでそれなりに分かるようになる。まあそんあに高い物を買うのではないから、例え騙されても大したことは無い・・・まあ腹は立つだろうけど。その辺の見極めをするのも面白い。小姐は正直そうだった。
まず何点かの商品の値段を聞く。やはり翡翠だから高い。騰越は古くから翡翠の宝飾加工で有名で、交易ルートの拠点でもあったらしい。だからこの地に英国領事館があった。英国はインド、ビルマを植民地にし、この雲南まで入り込んでいたのだ。
ここで小姐と激しいバトル?の後、互いに納得の笑顔?で商談は成立した。極小の本物の土産を手に入れお持ち帰りが楽である。
更に歩く、歩く、路地裏を選びながら、もしや、この辺りで死闘があったのでは?と、思いながら。
途中、まだ新車のようなパトカーが、路地を走り幼稚園の前に停まるので何かと思えば、自分の娘をパトカーで迎えに来ていたのだった。
警察官がパトカーを降りて幼稚園内に小走りに入って行き、戻ってくる時は園児であろう小さな女の子連れてきた。そして、その子を助手席に乗せてパトカーは発進である。
警察官の父親のお迎えである。仕事中に、それもパトカーで、話には良く聞いていたが目の前でそんな光景を見て、ふ〜ん、こんなことが当たり前になってるんや・・・と思う。
共産主義国家の成れの果てとしか言いようがない -
「誰か故郷を想わざる」を口ずさみ闊歩してました
-
この辺りは騰越城内だったと思います
天に私の歌声は届くのか?
届かない方が良いのでしょうか? -
鳳山北路沿いにある翡翠専門店街
段従虹が教えてくれた
他にも何ヶ所か有るけれど -
この店で極少本物翡翠を土産で数個買いました
この小姐オリジナルの製品です
ここで後ろの工作機械で加工しているそうです -
この辺りも城内だったと思うのですが
-
ちょっと雰囲気が違う場所がありました -
下校時に学校前に群がる迎えの保護者たち
中国では何処でもそうのようですが・・・。
子供の登下校には親が送迎するようです -
子供の誘拐や犯罪に巻き込まれることが多いから ???
-
騰越市内の路地裏通り
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学校の授業が終わり子供たちがうろうろしています。
来鳳山がちらっと見えています -
科学計算器とは一体何ぞや?
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新車の日本車(日産ブルーバード)
ナンバーがない車が多いです・・・が
それでOKのようです
理由は、教えてくれたけど聞き取れませんでした -
自分の子供を迎えに来たパトカー
目の前で見ていました
パトカーはこの国ではマイカーです -
文星楼(南門)と広場
-
地元の子供
-
北東方向
高良山・・高い山、地元の人は高山と言っていた
中腹に寺院があるのが見えた、聞いたら高山寺だと教えてくれた
飛鳳山・・右手前の低い山だと思うけど
日本軍が付けた名称なので、地元との人は分からなかった
■文星楼:北門に居座る
そして歩き疲れての行き先は只一つ。文星楼の楼門に登り市街を一望し、周囲を一望することだ。夕方からずっとここを拠点にし、持って来た「断作戦」の本を開き、そこに書かれている周囲の状況と現実の騰越の風景を飽きることなく見比べ、当時に思いを馳せていた。
すると夕方近くから雨も上がり、私の為なのか?青空も出てきた。来鳳山から市街だけではなく高黎貢山系までが一望でき、写真も取り捲った。雨のために市街から来鳳山を写した写真がなく、明日の朝、保山に戻る前に是が非でもここまで来なければと思っていたのに、その必要も無く天候が回復し360度がくっきり見えはじめた。
来鳳山は無論、頂上にそびえる白塔(文筆塔)、西には騰越富士が裾野までくっきり見えた。遥か北から北西には万年雪のない高黎貢山系が望めた。そして直ぐ北には高良山(地元の人は高山と言っていた)、そしてその手前の北東方向に飛鳳山。
城壁の上を歩いては座り、又歩いては座り、飽きなかった。その内に日も暮れかかり、来鳳山の頂上にある文筆塔がライトアップされた。そしてこの文星楼の楼門を結ぶ街灯も点灯された。私の騰越での一日は終わった。2〜3時間はこの場にいたのだろうか?
暗くなるというのは午後8時を過ぎているということだろう。
文星楼の南の楼門を降りた。 -
南方向
来鳳山の頂上の白塔までくっきり見えた
当時は、三合目以上が草地で
騰越城内の陣地から、来鳳山の日本軍陣地で敵味方が
白兵戦で重なり合って倒れるところが見えたそうだ
城内から見上げている日本軍兵士たちは
銃弾が届かないのが悔しかったと言っている -
北西方向
日本軍兵士たちが騰越富士と呼んだ山が
くっきりと山裾まで写っている
帰国後、騰越富士の名称を知る
この山を見て故国を懐かしく思い出したんだろう -
北方向
高峰連なる
高黎貢山系がくっきり見えた
温暖化の影響だろう、万年雪は今はない
63年前の当時は、万年雪があったようだ -
東南方向を写す
-
東方向の景色
-
せっかくの歩行者天国
両側に翡翠の店が並ぶ観光歩道なのに
客はほとんど居ない
歩く者もまばら
店の店員たちも暇を持て余していた -
夜も更けやっと暗くなりかけた
イルミネーションが点灯す
ここで戦った両軍兵士もまだ存命の方も居る
今と昔、何時の時代に生きるのか
運命と言うものだろう -
来鳳山山頂の文筆塔に灯りがついた
そして
私の旅は終わった -
■騰越の夜も更けて
この後、网ロ巴に行き日本の掲示板に旅の様子を書き込んだ。それが日本時間9時37分となっているから騰越時間は8時37分だったことが分かる。
そして9時前に又そこらを歩いて一軒の飯屋に入った。又メニューが分からないので焼き飯あるか?と聞いたら、「ある」というので、焼き飯とスープを頼んだらホンマ正解でどちらも美味かった。焼き飯の量も二人前あったけど全部食った。
・・・そして、今日も長い一日は終わり、町外れの宿に戻る。夜9時半頃だった。
昨日そして今日で燃え尽きた
そして十二分に満足感を味わった
明日からの旅はどうあろうと・・・。
ホンマ来て良かった旅になった -
騰越でこんな美味い焼き飯食えるとは意外だった
スープも適量で美味かった
万歳!
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