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<2007年2月17日(土)><br /> 今日が旧正月の大晦日です。中国では、除夕(Chuxi)と呼ばれています。この夜、ほとんどの世帯で親族が一同に集まり、食事やおしゃべり、マージャンなどをしながら、紅白歌合戦の中国版、春節聯歓晩会を見る習慣があります。日本の紅白は視聴率が低迷して久しいですが、中国の紅白は、なんと視聴率が90%を超えています。(ウィキペディア)<br /><br /><市街地のゴルフ練習場へ><br /> 昨晩は雨と濃霧で、市街地にあるゴルフ練習場を探すことが出来ませんでした。それで、朝一番にそのゴルフ練習場を目指しました。目標は、超高層ビルのグランド ハイアット(上海金茂君悦大酒店)のすぐ近くと言うことでした。<br /> 昨晩は視界が悪く、見付けることが出来なかった練習場でしたが、今日はすぐにゴルフネットが視野に入り、入口もすぐに分かりました。昨晩、その前を通っても分からなかったのが、不思議に思えました。<br /> 超高層ビルのハイアットを始め、超高層ビルが林立する中心街に、ゴルフ練習場があるのは不思議な感じでした。日本語でのネット検索も出来ます。「平日は仕事帰りのサラリーマンで賑っている」との紹介がありました。東方明珠塔もすぐ近くですが、上部は完全に雲の中でした。<br /><br /><飲茶のお店で昼食><br /> 昼食のお店は、日本を出発する前に、Enちゃんからお聞きしていました。花園飯店の前の飲茶料理のお店、ジャディ・ガーデンです。安くて美味しく、サービスも洗練された綺麗なお店です。国際電話でEnちゃんが予約をされていました。<br /> 今日の料理も申し分ありませんでした。混んでいましたから、多少の料理の遅れはありましたが、ぷりぷりの川海老が一杯入ったシュウマイ、ショウロンポウ、餃子を始め、写真を撮るのを忘れて舌鼓を打ちました。飲茶料理には黒酢が良く合います。この日もたっぷりと使いました。<br /> OtさんがEnちゃんを通じて注文された品が、上海焼ソバでした。太目の麺を使い、野菜もたっぷり入っていました。この料理も、以前に食べたことがあります。<br /> これだけ美味しい料理を前にすれば、少しだけはビールを頂きたくなります。昼ですから紹興酒は遠慮しました。昨晩の創作四川料理に続き、今回も大満足のジャディ・ガーデンでの昼食でした。<br /><br /><豫園の草創期><br /> この日の午後の見学は豫園でした。その沿革について、インターネット情報などを参照しながら説明します。最初は創建の当時のことです。<br /> 豫園は、上海人の潘允瑞という四川布政使(四川省長)を務めた役人が、かつて刑部尚書(法務大臣)であった父親、潘恩への孝行のために建設した個人の庭園が始まりです。1559年に建設が開始され、18年後に完成しましたが、その時はすでに父親は亡くなっていました。<br /> 1559年の日本は、室町幕府の13代将軍義輝の時代です。完成した1577年には室町幕府最後の将軍、義昭はその職を退き、群雄割拠から安土桃山時代へと移行した時代でした。<br /> 清代初めに潘家の衰えとともに一時荒廃しましたが、1760年に上海の有力者達が再建に乗り出し、同時に豫園は隣接する城隍廟の廟園となり、西園と改称されました。当時の西園には湖心亭や豫園商城の大部分が含まれ、現在の豫園の2倍の広さがありました。日本では江戸時代の真っ只中で、鎖国政策の時代でした。<br /> その後、各種の商業公会(商業組合)により、園内に全部で21の公所(組合事務所)が設けられました。一時、1842年の阿片戦争以来、小刀会蜂起、太平天国軍の上海攻撃等の戦禍を被りましたが、豫園一帯は、従来からあった城隍廟の門前市と一体化して、商業街として発展していきました。<br /> ところで、阿片戦争は、当時の中国清朝とイギリスとの間で、アヘンの密輸入が原因で1840年から2年間行われた戦争です。南京条約締結をもって終戦となりました。<br /> また、太平天国の乱は、中国清朝代に起きた大規模な反乱です。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起こされ、この乱により2000万人の犠牲者を出したと言われます。<br /> 豫園は、1956年に西園の約半分が庭園として改修・整備され、現在の姿となり、その他の部分が豫園商城となり、現在に至っています。<br /><br /><租界時代の上海><br /> アヘン戦争の続きです。1842年、中国清朝がアヘン戦争に破れ、上海は南京条約により開港を強いられます。その後1846年には、最初の英国による租界ができます。租界とは 国家が土地を租借するという意味で、割譲ではないのですが、外国が警察や行政を行うため実態は割譲と変わりません。<br />南京条約が規定する主な内容は次の通りです。<br />① 香港島を割譲する。<br />② 賠償金として銀2100万両を四年分割で支払う。<br />③ 広州、福州、アモイ、寧波、上海の5港を開港する。<br />④ 公行の廃止。<br /> その後、南京条約の付属協定として「五口通商章程」と「虎門条約」が締結されました。領事裁判権、一方的最恵国待遇等、不平等な権利が英国に付与される、完全な不平等条約でした。<br /> その後フランスなどが加わり、日本も共同で租界を持ち、列強はここを中国侵略の拠点としました。日本が租界に加わったのは、1895年に日清戦争に勝利し、下関条約が締結され、治外法権を獲得したためです。<br /> ところで、上海は国際貿易港として栄えましたが、同時に犯罪の巣窟ともなりました。その理由は、上海には三つに区分された租界エリアがあって、その区域毎に警察権が違っていて、端境には取り締まりが及びにくかったためとされます。加えて、フランスその他はアヘン売買に裏から手を貸していて、中国政府でも取り締まることが出来ませんでした。<br /> 上海では中国各地からやってきた流入者が自助組織(結社)を作り、中国政府を凌ぐ勢いを持っていました。加えて、内乱で難民が租界に溢れました。難民、結社、列強、アヘン、賭博、そういった諸々の要素が重なり合って、「魔都」上海を作り上げました。<br /> 実際に上海租界を支配したのは、イギリスの植民地資本家と言われる人々でした。これらの人々は、アヘン戦争の前後に中国に来た冒険商人でした。多くの人々はイギリス国内で受け入れられずに東洋まで流れて来ました。ケズウィック家、スワイヤー家、サスーン家などで、低地スコットランド人が多いとされます。<br /><br /><現在の豫園><br /> 上海の地図を見ますと、ほとんどの道路は、東西もしくは南北に走っていますが、黄浦江の側に円形になっている道があります。これは、倭寇の襲撃を防ぐため、16世紀半ばに作られた城壁だったところです。<br /> 倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島、中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊を指します。<br /> 元寇の際、元軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民を中心に始まり、長い歴史の中で、現地の勢力を巻き込んで、複雑に変化していったようです。和寇と表記されたり、海乱鬼(かいらぎ)とも呼ばれます。<br /> 話を本題に戻します。城壁は周囲5キロ弱、高さは8メートルあったとされますが、1912年に取り壊され、現在は人民路と中華路になっています。この円形の道の内側は旧上海城と呼ばれ、租界時代の上海においても中国人だけが住む地域だったようです。<br />この地域の中心に豫園があります。豫園の「豫」は「愉」に通じ、すなわち「楽しい園」という意味です。現在、豫園は外灘と並び、上海2大観光スポットとなっています。<br /><br /><大晦日の豫園散策><br /> この日、昼食を終えた後、豫園近くの地下駐車場に車を留めて豫園に向かいました。豫園商城から少しだけ外れた場所でした。この豫園商城を抜けますと、豫園入口の前に緑波池という蓮池があります。この辺りが一番の賑わいを見せる場所です。<br /> 池の中に建っている2階建ての東屋は、ちょうど池の真ん中にあることから湖心亭と呼ばれています。400年前に建てられたものが、1784年に再建されたものです。中は喫茶店です。この日は立ち寄りませんでしたが、2階の席で龍井茶などが用意されています。<br /> 中間の湖心亭と豫園とを結び、ギザギザにかかっている橋は九曲橋と呼ばれています。豫園の象徴的な景色として、絵葉書などにも紹介されている橋です。以前は石造りでしたが1932年に、鉄筋コンクリート製に修復されました。<br /> ギザギザになっている理由はいくつかあるようです。その一つは、「人間はジグザグに歩けるが、悪霊は真っ直ぐ進むのでこれを池に落としてしまうため」とか、二つ目は、「湖岸から見たデザインがいいとか、橋をジグザグに歩けば景色がいろいろに変わるから」といった理由です。<br /> 曲がる回数が九回であるのは、九は一桁の数の中で一番大きいので、規模が大きいことを象徴するとも言われています。<br /> この緑波池前の広場は、正月の飾りも大掛かりです。昨年は酉年でしたから、大きな鶏の飾りがありました。今年は60年に一度の金豚の年、例年より大掛かりな飾りのように見受けました。蓮池にも大きな蓮の飾りの他、三国演技の人形が飾られていました。夜、豫園を散策したことはありませんが、雪洞が点れば、素晴らしい光景になるようです。<br /> 豫園での楽しみの一つが、買い物です。今年もお茶の専門店で、花茶を買いました。これはジャスミン茶をベースにして、赤や黄色、白色の花が開くように細工したものです。朝淹れてから、夕方まで熱いお湯を注いで6、7回はお茶を楽しむことができます。<br /><br /><大晦日の宴会><br /> 大晦日の宴会は、昨年と同じように大きなレストランが予約してありました。お言葉に甘えて、日本からやって来た全員が出席させて頂きました。大きなテーブルが三つ予約されていました。後ろを通るのも不自由するくらい、ぎっしりテーブルがセットしてありましたから、「お皿の取替えサービスは出来ません」との話があったようです。<br /> この日は時間を限って2チャージで宴会がセットされていました。ご親戚が顔合わせされる大晦日の宴会ですから、何度もお会いしたEnちゃんの従兄のPiさんやShiさん、昨年10月の山西省旅行でご一緒させて頂いた孫濱先生のご兄弟や、ご親戚の方など、顔見知りになっていた方が多くお見えになりました。次から次に運ばれるご馳走を戴きながら、ひとしきり乾杯が続きました。<br /><br /><大晦日の2次会><br /> 1次会の後、S.P.先生とYa先生を銀都路のご自宅にお送りした後、2次会のお宅に向かいました。Enちゃんの従兄の方で、ご主人が俳優の方です。私も2004年の11月に名古屋の新栄のお店でお会いして以来、何度かお目にかかった方です。<br /> ご自宅は銀都路と同じように、セキュリティがしっかりした住宅地にありました。4階建てのマンションの最上階でした。広くて、内装も素晴らしい一通り見学させて頂きました。<br /> 俳優として、ご活躍されているようです。棚に飾られた受賞のトロフィーや盾なども拝見させて貰いました。西安からご親戚のご夫婦もお見えになっていましたので、ご一緒に大晦日の2次会を楽しみました。<br /> 2次会が盛り上がったところで、新たなお客さんもお見えになりました。奥さんも俳優の方と、その方のお兄さんです。1次会でもお目にかかりました。酒豪のお二人が揃って、ますます、2次会が盛り上がりました。<br /> すっかりご馳走になった後、銀都路の住宅へ戻りました。大晦日のこの日、まだこれがお仕舞ではありませんでした。自宅の前で爆竹を鳴らし、零時を過ぎてから街中で鳴り始め、上がり始めた花火を見終えたところでお開きとなりました。<br /><br /><br />  豫園で<br /> デジャビュを覚ゆる異国の大晦日父が語しドラの音聞こゆ<br /><br /> 正月の赤き飾は満ち溢れ人また溢る豫園商城<br />

2007冬、中国旅行記12(3/5):2月17日:上海、豫園、旧正月(春節)の宴会

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2007/02/16 - 2007/02/18

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

<2007年2月17日(土)>
 今日が旧正月の大晦日です。中国では、除夕(Chuxi)と呼ばれています。この夜、ほとんどの世帯で親族が一同に集まり、食事やおしゃべり、マージャンなどをしながら、紅白歌合戦の中国版、春節聯歓晩会を見る習慣があります。日本の紅白は視聴率が低迷して久しいですが、中国の紅白は、なんと視聴率が90%を超えています。(ウィキペディア)

<市街地のゴルフ練習場へ>
 昨晩は雨と濃霧で、市街地にあるゴルフ練習場を探すことが出来ませんでした。それで、朝一番にそのゴルフ練習場を目指しました。目標は、超高層ビルのグランド ハイアット(上海金茂君悦大酒店)のすぐ近くと言うことでした。
 昨晩は視界が悪く、見付けることが出来なかった練習場でしたが、今日はすぐにゴルフネットが視野に入り、入口もすぐに分かりました。昨晩、その前を通っても分からなかったのが、不思議に思えました。
 超高層ビルのハイアットを始め、超高層ビルが林立する中心街に、ゴルフ練習場があるのは不思議な感じでした。日本語でのネット検索も出来ます。「平日は仕事帰りのサラリーマンで賑っている」との紹介がありました。東方明珠塔もすぐ近くですが、上部は完全に雲の中でした。

<飲茶のお店で昼食>
 昼食のお店は、日本を出発する前に、Enちゃんからお聞きしていました。花園飯店の前の飲茶料理のお店、ジャディ・ガーデンです。安くて美味しく、サービスも洗練された綺麗なお店です。国際電話でEnちゃんが予約をされていました。
 今日の料理も申し分ありませんでした。混んでいましたから、多少の料理の遅れはありましたが、ぷりぷりの川海老が一杯入ったシュウマイ、ショウロンポウ、餃子を始め、写真を撮るのを忘れて舌鼓を打ちました。飲茶料理には黒酢が良く合います。この日もたっぷりと使いました。
 OtさんがEnちゃんを通じて注文された品が、上海焼ソバでした。太目の麺を使い、野菜もたっぷり入っていました。この料理も、以前に食べたことがあります。
 これだけ美味しい料理を前にすれば、少しだけはビールを頂きたくなります。昼ですから紹興酒は遠慮しました。昨晩の創作四川料理に続き、今回も大満足のジャディ・ガーデンでの昼食でした。

<豫園の草創期>
 この日の午後の見学は豫園でした。その沿革について、インターネット情報などを参照しながら説明します。最初は創建の当時のことです。
 豫園は、上海人の潘允瑞という四川布政使(四川省長)を務めた役人が、かつて刑部尚書(法務大臣)であった父親、潘恩への孝行のために建設した個人の庭園が始まりです。1559年に建設が開始され、18年後に完成しましたが、その時はすでに父親は亡くなっていました。
 1559年の日本は、室町幕府の13代将軍義輝の時代です。完成した1577年には室町幕府最後の将軍、義昭はその職を退き、群雄割拠から安土桃山時代へと移行した時代でした。
 清代初めに潘家の衰えとともに一時荒廃しましたが、1760年に上海の有力者達が再建に乗り出し、同時に豫園は隣接する城隍廟の廟園となり、西園と改称されました。当時の西園には湖心亭や豫園商城の大部分が含まれ、現在の豫園の2倍の広さがありました。日本では江戸時代の真っ只中で、鎖国政策の時代でした。
 その後、各種の商業公会(商業組合)により、園内に全部で21の公所(組合事務所)が設けられました。一時、1842年の阿片戦争以来、小刀会蜂起、太平天国軍の上海攻撃等の戦禍を被りましたが、豫園一帯は、従来からあった城隍廟の門前市と一体化して、商業街として発展していきました。
 ところで、阿片戦争は、当時の中国清朝とイギリスとの間で、アヘンの密輸入が原因で1840年から2年間行われた戦争です。南京条約締結をもって終戦となりました。
 また、太平天国の乱は、中国清朝代に起きた大規模な反乱です。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起こされ、この乱により2000万人の犠牲者を出したと言われます。
 豫園は、1956年に西園の約半分が庭園として改修・整備され、現在の姿となり、その他の部分が豫園商城となり、現在に至っています。

<租界時代の上海>
 アヘン戦争の続きです。1842年、中国清朝がアヘン戦争に破れ、上海は南京条約により開港を強いられます。その後1846年には、最初の英国による租界ができます。租界とは 国家が土地を租借するという意味で、割譲ではないのですが、外国が警察や行政を行うため実態は割譲と変わりません。
南京条約が規定する主な内容は次の通りです。
① 香港島を割譲する。
② 賠償金として銀2100万両を四年分割で支払う。
③ 広州、福州、アモイ、寧波、上海の5港を開港する。
④ 公行の廃止。
 その後、南京条約の付属協定として「五口通商章程」と「虎門条約」が締結されました。領事裁判権、一方的最恵国待遇等、不平等な権利が英国に付与される、完全な不平等条約でした。
 その後フランスなどが加わり、日本も共同で租界を持ち、列強はここを中国侵略の拠点としました。日本が租界に加わったのは、1895年に日清戦争に勝利し、下関条約が締結され、治外法権を獲得したためです。
 ところで、上海は国際貿易港として栄えましたが、同時に犯罪の巣窟ともなりました。その理由は、上海には三つに区分された租界エリアがあって、その区域毎に警察権が違っていて、端境には取り締まりが及びにくかったためとされます。加えて、フランスその他はアヘン売買に裏から手を貸していて、中国政府でも取り締まることが出来ませんでした。
 上海では中国各地からやってきた流入者が自助組織(結社)を作り、中国政府を凌ぐ勢いを持っていました。加えて、内乱で難民が租界に溢れました。難民、結社、列強、アヘン、賭博、そういった諸々の要素が重なり合って、「魔都」上海を作り上げました。
 実際に上海租界を支配したのは、イギリスの植民地資本家と言われる人々でした。これらの人々は、アヘン戦争の前後に中国に来た冒険商人でした。多くの人々はイギリス国内で受け入れられずに東洋まで流れて来ました。ケズウィック家、スワイヤー家、サスーン家などで、低地スコットランド人が多いとされます。

<現在の豫園>
 上海の地図を見ますと、ほとんどの道路は、東西もしくは南北に走っていますが、黄浦江の側に円形になっている道があります。これは、倭寇の襲撃を防ぐため、16世紀半ばに作られた城壁だったところです。
 倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島、中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊を指します。
 元寇の際、元軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民を中心に始まり、長い歴史の中で、現地の勢力を巻き込んで、複雑に変化していったようです。和寇と表記されたり、海乱鬼(かいらぎ)とも呼ばれます。
 話を本題に戻します。城壁は周囲5キロ弱、高さは8メートルあったとされますが、1912年に取り壊され、現在は人民路と中華路になっています。この円形の道の内側は旧上海城と呼ばれ、租界時代の上海においても中国人だけが住む地域だったようです。
この地域の中心に豫園があります。豫園の「豫」は「愉」に通じ、すなわち「楽しい園」という意味です。現在、豫園は外灘と並び、上海2大観光スポットとなっています。

<大晦日の豫園散策>
 この日、昼食を終えた後、豫園近くの地下駐車場に車を留めて豫園に向かいました。豫園商城から少しだけ外れた場所でした。この豫園商城を抜けますと、豫園入口の前に緑波池という蓮池があります。この辺りが一番の賑わいを見せる場所です。
 池の中に建っている2階建ての東屋は、ちょうど池の真ん中にあることから湖心亭と呼ばれています。400年前に建てられたものが、1784年に再建されたものです。中は喫茶店です。この日は立ち寄りませんでしたが、2階の席で龍井茶などが用意されています。
 中間の湖心亭と豫園とを結び、ギザギザにかかっている橋は九曲橋と呼ばれています。豫園の象徴的な景色として、絵葉書などにも紹介されている橋です。以前は石造りでしたが1932年に、鉄筋コンクリート製に修復されました。
 ギザギザになっている理由はいくつかあるようです。その一つは、「人間はジグザグに歩けるが、悪霊は真っ直ぐ進むのでこれを池に落としてしまうため」とか、二つ目は、「湖岸から見たデザインがいいとか、橋をジグザグに歩けば景色がいろいろに変わるから」といった理由です。
 曲がる回数が九回であるのは、九は一桁の数の中で一番大きいので、規模が大きいことを象徴するとも言われています。
 この緑波池前の広場は、正月の飾りも大掛かりです。昨年は酉年でしたから、大きな鶏の飾りがありました。今年は60年に一度の金豚の年、例年より大掛かりな飾りのように見受けました。蓮池にも大きな蓮の飾りの他、三国演技の人形が飾られていました。夜、豫園を散策したことはありませんが、雪洞が点れば、素晴らしい光景になるようです。
 豫園での楽しみの一つが、買い物です。今年もお茶の専門店で、花茶を買いました。これはジャスミン茶をベースにして、赤や黄色、白色の花が開くように細工したものです。朝淹れてから、夕方まで熱いお湯を注いで6、7回はお茶を楽しむことができます。

<大晦日の宴会>
 大晦日の宴会は、昨年と同じように大きなレストランが予約してありました。お言葉に甘えて、日本からやって来た全員が出席させて頂きました。大きなテーブルが三つ予約されていました。後ろを通るのも不自由するくらい、ぎっしりテーブルがセットしてありましたから、「お皿の取替えサービスは出来ません」との話があったようです。
 この日は時間を限って2チャージで宴会がセットされていました。ご親戚が顔合わせされる大晦日の宴会ですから、何度もお会いしたEnちゃんの従兄のPiさんやShiさん、昨年10月の山西省旅行でご一緒させて頂いた孫濱先生のご兄弟や、ご親戚の方など、顔見知りになっていた方が多くお見えになりました。次から次に運ばれるご馳走を戴きながら、ひとしきり乾杯が続きました。

<大晦日の2次会>
 1次会の後、S.P.先生とYa先生を銀都路のご自宅にお送りした後、2次会のお宅に向かいました。Enちゃんの従兄の方で、ご主人が俳優の方です。私も2004年の11月に名古屋の新栄のお店でお会いして以来、何度かお目にかかった方です。
 ご自宅は銀都路と同じように、セキュリティがしっかりした住宅地にありました。4階建てのマンションの最上階でした。広くて、内装も素晴らしい一通り見学させて頂きました。
 俳優として、ご活躍されているようです。棚に飾られた受賞のトロフィーや盾なども拝見させて貰いました。西安からご親戚のご夫婦もお見えになっていましたので、ご一緒に大晦日の2次会を楽しみました。
 2次会が盛り上がったところで、新たなお客さんもお見えになりました。奥さんも俳優の方と、その方のお兄さんです。1次会でもお目にかかりました。酒豪のお二人が揃って、ますます、2次会が盛り上がりました。
 すっかりご馳走になった後、銀都路の住宅へ戻りました。大晦日のこの日、まだこれがお仕舞ではありませんでした。自宅の前で爆竹を鳴らし、零時を過ぎてから街中で鳴り始め、上がり始めた花火を見終えたところでお開きとなりました。


  豫園で
 デジャビュを覚ゆる異国の大晦日父が語しドラの音聞こゆ

 正月の赤き飾は満ち溢れ人また溢る豫園商城

  • 翌朝の外出です。相変わらず曇り空でしたが、雨は降っていませんでした。この日も、Enちゃん運転の自家用車で出掛けることになりました。

    翌朝の外出です。相変わらず曇り空でしたが、雨は降っていませんでした。この日も、Enちゃん運転の自家用車で出掛けることになりました。

  • 玄関前でのお二人の記念撮影です。Ktさんの祖父は、著名な洋画家でした。ご了解を得ていませんので、この小冊子での紹介は遠慮しました。

    玄関前でのお二人の記念撮影です。Ktさんの祖父は、著名な洋画家でした。ご了解を得ていませんので、この小冊子での紹介は遠慮しました。

  • 右手のビルも、上部は雲にすっぽりと覆われてしまいました。2つ目のゴルフ練習場は、こんな超高層ビルが立ち並ぶ市街地の中にありました。

    右手のビルも、上部は雲にすっぽりと覆われてしまいました。2つ目のゴルフ練習場は、こんな超高層ビルが立ち並ぶ市街地の中にありました。

  • ゴルフクラブの受付です。持ち帰りが自由な名刺には「上海陸家嘴ゴルフクラブ有限会社」の文字が、簡略体で記されていました。

    ゴルフクラブの受付です。持ち帰りが自由な名刺には「上海陸家嘴ゴルフクラブ有限会社」の文字が、簡略体で記されていました。

  • 「上海のゴルフ練習場」から、日本語でのインターネット検索ができました。非会員は20元/30球、1元15円で換算しますと、丁度10円/1球です。

    「上海のゴルフ練習場」から、日本語でのインターネット検索ができました。非会員は20元/30球、1元15円で換算しますと、丁度10円/1球です。

  • 飲茶料理のお店、ジャデ・ガーデンへの到着です。昨年の旧正月の時にも、蜜柑が生った大鉢の対の飾りがありました。門松のようなものです。

    飲茶料理のお店、ジャデ・ガーデンへの到着です。昨年の旧正月の時にも、蜜柑が生った大鉢の対の飾りがありました。門松のようなものです。

  • そのお店の前で、門蜜柑(?)の横での記念撮影です。Mtちゃんも記念撮影用のデジカメが右手にありました。昨年も超満員でした。

    そのお店の前で、門蜜柑(?)の横での記念撮影です。Mtちゃんも記念撮影用のデジカメが右手にありました。昨年も超満員でした。

  • エレベーターで上がったお店のロビーです。大きな鉢一杯に白、黄、オレンジの薔薇の造花がゴージャスに飾ってありました。

    エレベーターで上がったお店のロビーです。大きな鉢一杯に白、黄、オレンジの薔薇の造花がゴージャスに飾ってありました。

  • 飲茶料理は食べるのが忙しく、写真での紹介が出来ませんでした。上海焼そばは、最後近くに戴きました。エビシュウマイなどが、殊更美味でした。

    飲茶料理は食べるのが忙しく、写真での紹介が出来ませんでした。上海焼そばは、最後近くに戴きました。エビシュウマイなどが、殊更美味でした。

  • 一寸変わった料理です。外側は麺類のようですが、中に具が詰まっています。麦酒にはぴったりの品が続きました。夜なら、絶対に紹興酒です。

    一寸変わった料理です。外側は麺類のようですが、中に具が詰まっています。麦酒にはぴったりの品が続きました。夜なら、絶対に紹興酒です。

  • 卵を使ったデザートです。元々はフランス生まれのタルトのようです。残念ながら、私は甘いものは戴きませんでした。

    卵を使ったデザートです。元々はフランス生まれのタルトのようです。残念ながら、私は甘いものは戴きませんでした。

  • デザートが出されたところで、5人揃っての記念撮影です。この日も、ぷりぷりの川エビが一杯詰まったシュウマイとショウロンポウは最高でした。

    デザートが出されたところで、5人揃っての記念撮影です。この日も、ぷりぷりの川エビが一杯詰まったシュウマイとショウロンポウは最高でした。

  • 豫園商城の中心部へ入ってきました。暫くは、賑やかな正月の飾りを御覧ください。まずは、道路を横断して吊り下げられた雪洞のトンネルです。

    豫園商城の中心部へ入ってきました。暫くは、賑やかな正月の飾りを御覧ください。まずは、道路を横断して吊り下げられた雪洞のトンネルです。

  • 広場の真ん中に不思議な樹がありました。決して、枯れ木ではありません。葉が金色の造花ならぬ、造木です。昨年は見なかった記憶です。

    広場の真ん中に不思議な樹がありました。決して、枯れ木ではありません。葉が金色の造花ならぬ、造木です。昨年は見なかった記憶です。

  • 額には、「老廟黄金」と揮毫されています。普段は黄金色ではないでしょう。柱や、額が金箔を貼り付けたように飾ってありました。

    額には、「老廟黄金」と揮毫されています。普段は黄金色ではないでしょう。柱や、額が金箔を貼り付けたように飾ってありました。

  • 足元に2匹の着飾った犬がjじゃれついていました。しかし、本物の犬ではありません。中々面白い仕草をする、玩具の犬でした。

    足元に2匹の着飾った犬がjじゃれついていました。しかし、本物の犬ではありません。中々面白い仕草をする、玩具の犬でした。

  • 新年好の赤い文字と、それを取り囲む赤い提灯の列です。単純な構図ですが、周りの建物と比べ、一際目立つ飾りでした。

    新年好の赤い文字と、それを取り囲む赤い提灯の列です。単純な構図ですが、周りの建物と比べ、一際目立つ飾りでした。

  • 中央広場の飾り物を紹介します。昨年は酉年の飾りがありました。中央は干支の豚です。その上に弁髪の子供が乗っています。

    中央広場の飾り物を紹介します。昨年は酉年の飾りがありました。中央は干支の豚です。その上に弁髪の子供が乗っています。

  • 下の台にも豚さんがいました。中国帽を被り、パイプを咥え、赤い背広に黄色いタイ姿です。お腹の鞄は、サラリートンのシンボルでしょうか。

    下の台にも豚さんがいました。中国帽を被り、パイプを咥え、赤い背広に黄色いタイ姿です。お腹の鞄は、サラリートンのシンボルでしょうか。

  • 見覚えがある急須です。昔は濁ったお茶でしたが、水質改善にフィルターでも使われているようです。お茶の老舗の看板代わりです。ステンレスの囲いが、木に替わりました。

    見覚えがある急須です。昔は濁ったお茶でしたが、水質改善にフィルターでも使われているようです。お茶の老舗の看板代わりです。ステンレスの囲いが、木に替わりました。

  • この日のレストランは大賑わいでした。3つのテーグルが予約してありました。後ろを通るのも大変なくらい、ぎっしりとテーブルが並んでいました。

    この日のレストランは大賑わいでした。3つのテーグルが予約してありました。後ろを通るのも大変なくらい、ぎっしりとテーブルが並んでいました。

  • 右端がPiさんです。昨年10月の山西省旅行の折に、上海で1泊した時にもジャズバーでお会いしました。英語も日本語も達人です。

    右端がPiさんです。昨年10月の山西省旅行の折に、上海で1泊した時にもジャズバーでお会いしました。英語も日本語も達人です。

  • 全員が揃ったところで乾杯です。3つのテーブルに40人以上です。大きなテーブルですから、テーブルのガラスで、トントンと音を立てて乾杯です。

    全員が揃ったところで乾杯です。3つのテーブルに40人以上です。大きなテーブルですから、テーブルのガラスで、トントンと音を立てて乾杯です。

  • 大晦日用に使われた金色の器です。長粒米を使ったチャーハンです。味付が良く、あっという間に、残り少なくなりました。私も戴きました。

    大晦日用に使われた金色の器です。長粒米を使ったチャーハンです。味付が良く、あっという間に、残り少なくなりました。私も戴きました。

  • これが山のように積み上げられた料理です。これだけ料理が揃いますと、かえって箸が出し難くなってしまいます。大部分が残ってしまいました。

    これが山のように積み上げられた料理です。これだけ料理が揃いますと、かえって箸が出し難くなってしまいます。大部分が残ってしまいました。

  • お帰りの時間です。風邪を引かないように暖かい服と帽子を被りました。この服の色は、女の子と言うことになります。ほっぺが真っ赤です。

    お帰りの時間です。風邪を引かないように暖かい服と帽子を被りました。この服の色は、女の子と言うことになります。ほっぺが真っ赤です。

  • どちらのお宅でも、都会で暮らされている方は、一人っ子です。国の政策だから仕方が無いことですが、少し可哀相な気もします。

    どちらのお宅でも、都会で暮らされている方は、一人っ子です。国の政策だから仕方が無いことですが、少し可哀相な気もします。

  • 俳優活動で受賞されたトロフィーや盾などの数々です。受賞者、「尹」さんのお名前が記されています。賞状は、1996年の受賞の時のものです。

    俳優活動で受賞されたトロフィーや盾などの数々です。受賞者、「尹」さんのお名前が記されています。賞状は、1996年の受賞の時のものです。

  • さすがに俳優業のご主人は、カメラ目線が本能的に分かるのでしょうか、こちらを向かれました。座った位置から離れての撮影でした。

    さすがに俳優業のご主人は、カメラ目線が本能的に分かるのでしょうか、こちらを向かれました。座った位置から離れての撮影でした。

  • すっかりご馳走になってのお別れです。本当に有難うございました。翌日、Enちゃんのお話ですが、さすがに、グロッキーになられたようです。

    すっかりご馳走になってのお別れです。本当に有難うございました。翌日、Enちゃんのお話ですが、さすがに、グロッキーになられたようです。

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