2006/06/05 - 2006/06/20
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与方 藤士朗さん
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2006年6月、2週間かけて北海道のJR全線を走破したときの旅行記です。
なおこの旅行記は、拙著「とむらいの汽車旅2万キロ(吉備人出版刊。2006年9月)」に掲載されたものとほぼ同一内容のものです。
6月5日(月)〜6日(火)
残務整理と家庭教師先での授業後、私はいったん自宅に戻り、改めて出かける準備をした。時間つぶしに夕食をかねて法界院駅付近の居酒屋「カムカム」で一杯飲んだ後、法界院から津山線の普通列車で岡山に出た。
しばらく14番線のホームでマリンライナーの出入を見て時間をつぶし、サンライズエクスプレスの到着を待った。宇野線・本四備讃線(いわゆる瀬戸大橋線)の列車は人身事故のため多少遅れが出ていた。サンライズ瀬戸号は、5分ほど遅れて14番ホームに入ってきた。程なく到着したサンライズ出雲号と併結作業を行い、3分ほど遅れて岡山を出発した。しかし、夜行列車というものは目的地に早く着けばいいというものではない(もちろん遅すぎても駄目だが)。随所で時間調整を行い、それほどスピードを出さずに目的地に向かえばよい。要は目的地に一番よい時間帯に到着すればよいのだ。
だから、この程度の遅れは夜行列車にとっては何というほどのものでもないのだ。
個室寝台を一つ一つ検札して回るため、車両によっては車掌が来るまでにかなり時間がかかる。前回は車掌のいるところまで押しかけていって検札を済ませ、早めにシャワーを浴びに行ったものだが、今回はそういうことはしないでひたすら車掌の来るのを待つ。和気を通過する頃になってようやく車掌が私のいる個室まで検札に来た。吉例としてシャワー券も購入し、シャワールームで早速汗を流した。
「カムカム」の隣のローソンで買ったビールのロング缶を2本飲み干し、姫路を過ぎた頃には狭い個室寝台の中でぐっすりと寝込んでいた。
朝は、列車が静岡を出た頃に目を覚ました。雨こそ降っていなかったが、霧がかかっていたため富士山を拝むことは出来なかった。戦前の特急「富士」や戦後のビジネス特急「こだま」の写真で有名な由比−興津間は、現在では国道1号線が海沿いに高架線を通しており、少なくとも車窓からは昔のような風光明媚な景色はもはや望めない。
ちなみにこの区間を走る戦前の特急「富士」の映像が、アメリカ軍の作った「Know Your Enemy Japan(汝の敵・日本を知れ)」という対日プロパガンダ映画に残っている。この映画を見るにつけ、日本という国が如何に短期間に、特に第二次世界大戦後、さまざまな自らの貴重な財産を失ってきたかを痛感する。
もっともそれは、戦勝国も含めた他国でも多かれ少なかれ同じではあろうが・・・。
しばらく寝なおし、気がついたら横浜に到着する少し手前であった。朝の車内放送が、横浜到着を知らせていた。東京到着に向け、私は身支度を整えた。
東京には、7時8分、定刻に到着した。
東京到着後、久々に八重洲口にある東京クーアというサウナに入って、その間にワイシャツをクリーニングしておいた。そのあとはいくつかの用事を済ませ、昼は大塚のカプセルホテルでしばらく休んだあと、夕方少し早めに上野駅に到着した。
上野駅に着いてもしばらく時間があったので、構内の喫茶でコーヒーを飲んで時間をつぶしたのち、寝台特急専用の待合所で北斗星3号の到着を待った。それにしても、30代前後の若い者は少ない・・・(苦笑)。年配で夫婦連れなどの旅行客がほとんどである。
18時50分頃、ブルートレインがブームだった頃と同じように、尾久の客車区から北斗星3号が推進運転(機関車が客車などを押して進むこと)でホームに入線した。私は個室寝台のソロに入り込んだ。
列車は定刻に上野を出発した。
しばらく個室内で検札を待ちつつ、何をするでもなく時を過ごした。この個室は、サンライズのような線路方向のツーリスト型ベースではなく、枕木の方向に寝台が設定されていて、以前の開放型寝台のつくりをもとに個室化したものである。ベッドの背もたれから肘掛が出てきて、昼間はこれでベッドをソファにしろということだ。
検札に来た車掌から、個室のカードキーを渡される。部屋番号の書かれたボタンを押し、その下のカード通しにカードを通すと鍵がかかり、もう一度カードを通すと鍵が開くシステムである。これがあればとりあえずセキュリティーを守ることが出来る。ただ、私の部屋の鍵はどういうわけか、かかりが悪かった。車掌に改めて頼んで、もう一枚カードキーをもらったのだが、それでももうひとつだった。
車掌の検札を受けて間もなく、昨年父に会うために来た駅である久喜を列車は通過した。ちょうどその頃、食堂車からディナーの準備が整ったという案内放送が入ったので、私は食堂車に向った。ディナーを予約していたのは私を入れてわずか6人で、その中でも私は最年少のようであった。私より年配の男性が1人と、60代と思しき夫婦が2組。そして私。そのうち夫婦一組は和食であったから、フランス料理のディナーを頼んだのは4人ということか。私は2人テーブルの席に案内された。特に混んでもいないので、一昔前の新幹線の食堂車のような相席はなかった。
北斗星のフランス料理はフルコースではあるのだが、一見すると皿数が少ない。よくよく見ていくと、前菜+オードブル、スープ+魚料理、肉料理、パン、デザート並びにコーヒーまたは紅茶という進み方である。少し軽めにしてあって、年配者でも無理なく食べきれる量に設定されている。いい若い者?である私は、最初は白ワイン、次に赤ワインとハーフボトルを順に注文して、料理とともに(なければパンをつまみに)飲んだ。
しかしフランス料理のフルコースをワインとともに食べきると、どういうわけか結構汗をかくものだ。ディナー終了後、食堂車で販売しているシャワー券とシャワーセット(タオルやシャンプー、ボディーソープ、歯ブラシがセットになっている)を買い、シャワーを浴びた。サンライズ同様、6分間湯または水(温度調整は可能)が出て、途中しばらく止めることも出来る。サンライズの場合は特に予約が要らないのだが、北斗星の場合は時間帯が30分毎に区切られ、予め予約しておかないといけない。幸いこの日はさほど利用者がいなかったので、すぐに浴びることが出来た。
シャワーを浴びたあとは、パブタイム中の食堂車に改めて寄り、カクテルを2杯ほど飲んだ。列車が郡山を出発した頃を見計らい、私は個室寝台に帰った。
この個室寝台にはどうやらコンセントがない。CDプレイヤーを聞こうと思ったものの、電池切れを起こしていたので、これでは仕方ない。することももはやないので、そのまま寝ることにした。
途中、盛岡駅に到着した頃に目を覚ましたが、改めて起きると、どうやら列車は本州をすでに離れているようであった。
6月7日(水)
目覚めて程なく、案内放送が入った。列車は定刻で運転をしており、間もなく函館に着くという。これから10日間、この地で過ごすことになるのだ。
JR北海道の全線を乗らずしてこの地を離れまいと改めて決心する。
函館到着後、列車は機関車と進行方向を変えて札幌を目指す。
食堂車から朝食の案内が入った。私は普段朝食をとらないのだが(たいてい寝ている)、こういうときだけは別である。早速食堂車に行き、洋定食(1600円)を頼んだ。私が洋食好きというのもあるが、もうひとつ朝から和食を食べないようにしているのは、下手すると朝からビールを飲みだしかねないからである(朝から飲むと非常に美味い)。だから出来るだけそういうことにならないよう、こういうときは洋食にするのだ。
食堂車から早朝の大沼や駒ヶ岳を眺めながらの朝食はまた格別であった。
もっとも、食べ慣れない時間帯に食べたものだから、胃がかなりもたれてきた。そこで私は、個室寝台に帰って改めて浴衣に着替えた。
食べてすぐ横になると牛になるというが、これは奈良時代、律令政府に雑徭(要するに強制労働)で駆り出された農民たちに役人が何とかして働かせようと思って言い出した言葉だそうである。もっとも農民たちは、ただ働きではしゃくなので、「腹が減っては戦が出来ぬ」などと言って食糧を要求していたのだが。
私はしかし、別に牛になることもなく、かといって戦をするでもなく、しばらく横になって寝込んでいた。
最もこの後、北海道にいる間には何度も牛を見ることになったが・・・
列車が苫小牧に来る頃、突如女性の声で案内放送が入った。なんでも、この6月は北海道を挙げての「はなたび」キャンペーン中で、それに協賛している北海道内のある牛乳製造業者が乗客にパックの牛乳をプレゼントするという話だ。早速いただいて飲んでみたが、岡山あたりで飲む牛乳に比べてコクのある濃い味であった。
苫小牧を出て約1時間、10時台の時間をいつものようにのんびり過ごし(私の仕事は、この時間は存外のんびり出来るのだ)、11時13分、北斗星3号は定刻通りに札幌に到着した。
札幌到着後、今度は釧路に向けて283系の振子気動車特急「スーパーおおぞら5号」に乗込んだ。食べつけない朝食をとったので、昼食としては特に食べないことにする。そのかわり、シュウマイと北海道限定の札幌クラシックビールのロング缶を2本買込み、車内で飲むことにした。
列車は11時51分、定刻に札幌を出発した。私はどうも、列車が動き出すまでビールなどの飲み物を開けずに待つ癖がある。動き出したことを機に、最初の1本を開けた。札幌クラシックを北海道にいる間に何本(何杯)も飲んだが、コクがあるはずなのにあっさりとした、北海道の気候にぴったりのビールである。酒を飲まない(飲めない)人にはともかく、いつも飲んでいる私には、水のような感覚で飲めるビールである。もっとも岡山などで札幌クラシックを飲んだら、また違った感想を抱くであろう。
列車は先ほど来た道をしばらく戻った後、南千歳(旧千歳空港)から石勝線に入る。路線名に関係なく、草原地帯を列車はひた走る。追分から新夕張までの旧夕張線を通り抜け、1980年代に開通したバイパスルートとしての石勝線をひた走り、新得で元々の幹線である根室本線と合流する。さらにしばらく進むと、帯広である。北海道の都市は、この帯広もそうだが、どこもだだっ広い中にドンと構えたような街が多い。帯広を出たあとは、しばらく草原と太平洋と断崖絶壁の景色の中をひた走る。
池田(地北線)、白糠(白糠線)と、国鉄の赤字ローカル線の起点であった駅に停まり、釧路には15時38分に定刻で到着した。
釧路の市内散策などする暇もなく、ここから釧網本線の普通列車に乗り換えた。気動車1両のワンマン列車である。東釧路から根室本線と別れ、ラムサール条約に登録された湿原の中を列車はひたすら進んでいく。山陽本線の旭川鉄橋を通っても何も思うところはないのだが、湿原の水溜りのようなところを線路が走っていると、どういうわけか不安になるものだ。この気動車の乗客は地元の高校生のほか、観光客がほとんどである。釧路の湿原を行く間は、途中の観光客の乗降の外、中心駅以外での地元の客の乗降はほとんどない。車内放送で「野生の鹿が出たら急停車することもあるので注意するように」とのことであったが、途中であどけなさの残る野生の鹿の子を1匹右手の車窓に見たほかは、野生動物に御対面することはなかった。
湿原を越えると、列車の進行方向右手にオホーツク海が見える。先程特急列車から見た太平洋の波打際とは打って変わり、波の穏やかな青い海であった。網走に近づくほど、海と線路が並行する。また、網走付近の駅は駅舎の元業務室側が喫茶店になっているところが多い。しかも、どの駅も基本的によく似たつくりである。
列車は18時49分、定刻に網走に到着した。
網走では、駅から歩いて数分の北海ホテルに宿泊した。楽天の旅の窓口で夕食も頼んでいたので、くじらの定食を食した。くじら肉は久しぶりである。札幌クラシックの生ビールをピッチャーで頼み、くじらの串カツや刺身などをつまみに飲んで、一風呂浴びて部屋にこもった。
明日は早く起きて列車に乗るので、インターネットで札幌市内の宿を決めたあと、早めに寝ることにした。
6月8日(木)
北海ホテルを朝の6時に出発した。それにしても実にアットホームなホテルであった。雨が降っているので、歩いて数分の距離ではあるが、タクシーで網走駅まで移動する。
網走6時23分発の上り「オホーツク2号」は、80系気動車の置換として製造された183系気動車からなる特急である。80系特急時代には食堂車も営業していた伝統ある特急にもかかわらず、昨日の釧網本線の普通列車のように「鹿が線路を横切ったら急停車するから」云々という放送がなされる。単線の石北本線を、列車は旭川に向けてひた走る。列車は途中、遠軽で進行方向を変えた。この時間帯になると自転車で通学の高校生を見かけるようになる。それどころか、特急で通学していると見える高校生も幾人かいた。列車がこれしかないのだから、まあ仕方のないことではあろう。新線工事や新道工事の進む昔ながらの幹線とは名ばかりの線路を突き進む。「北斗」や「おおぞら」、さらには急行から格上げされた「宗谷」が軒並み新型の振子気動車になっている(なりつつある)にもかかわらず、この「オホーツク」はどういうわけか国鉄型の183系気動車のままで、時代に取り残された感さえある。現に時刻表を見ても、女満別空港は稚内や釧路などに比べて本州方面からの直行便が多いという印象を持つ。
私は車内販売でコーヒーを飲んだほか、朝からはいつものように何も食べなかった。
旭川からは複線の函館本線に入る。水田を突き進み、国鉄時代の特急「いしかり」号の停車駅だった深川、滝川、岩見沢の各主要駅に停車し、札幌には昼前の11時46分に到着した。
このあとは札幌駅の表口から歩いて5分ほどの京王プラザホテルのマッサージチェアーつきの部屋にチェックインしたのち、タクシーでススキノに出て、芳蘭という老舗のラーメン店で味噌ラーメンを食べた。しばらく散策したあとホテルに戻った私は、シャワーを浴び、ルームサービスで生ビールを二杯飲んでマッサージチェアーにかかると、非常に気持ちよくなってそのあと1時間少々気持ちよく仮眠した。ただ、飲める者が少量(私には)飲んだだけだからいいようなものの、泥酔した状態やかなり飲んだ後にマッサージチェアーにかかるのは、飲酒後の入浴同様、血行がよくなりすぎて事故を起こしかねないから注意が必要である。そういえば岡山市牟作の岡山桃太郎温泉に出入している健康器具販売業者が、酒を飲んでマッサージ機に乗らないように張紙している。これは確かに賢明な措置であると思ったので、予約した楽天の旅の窓口を通してホテルに意見を書いた。
夕方からは、札幌で大学講師をされている田中敦さんに初めてお会いし、別のホテルのレストランで食事をともにした。この方とは玉野の真鍋照雄さんとともに以前ミニコミ誌「高校中退通信」の編集で一緒に仕事をしたことがあるのだが、何分岡山と札幌なので私はお会いしたことがなかった。
私は本編で述べたような人生を送ったので、真鍋さんを通して、大検や高校中退などの仕事にかかわることが多かった。大学生の頃は大検を取って大学に行ったということで何度かテレビの取材も来たことがある。高校中退通信のときも、幾度か取材が来たので私もテレビに出た。
私が高校受験に失敗して定時制高校に行かされたとき、私が大検をとって大学に行くという進路選択を示したら、某園の職員や周囲の者たちは、ろくな情報を得る努力をするでもなく、ただただ「難しい」だの「出来ない」だの、とある若い女性の保育士(当時の呼称で「保母」)に至っては、己の能力も省みず、私に向って「現実を考えろ」とまで言ってきたものだ。このような対応をする「大人」たちを見て、私はこんな人間にはなりたくないという思いを強くしたものだ。このような手合いに限って、マスコミなどで大検が注目されだすと、「いや当時は知らなかったから」「あの頃はああいったけど実は君に期待していたのだ」などと見え透いたお世辞の出来損ないのようなことをぬけぬけとのたまう。
学生時代に知り合った岡山大学出身のK弁護士が、「世間なんてものは力のあるものになびくものだ」とご自身の受験時代を振り返ってそうおっしゃっていたが、弱い立場で攻撃を受けたときほど傷は深いものだ。
私はこの件について、かかる言動をした当時の関係者に対する不信感を今でもぬぐえたわけではない。もっとも今の私なら、多少は人間も出来ているから、ここで私が難じたような連中にかまっても仕方ないと思うし、それこそ「歯牙にもかけない」で済ますのだが。
今や、大検は高校卒業程度認定試験と名前を変えてかなりメジャーな進路選択になった。私が受難者だったとまでは言わないが、私のテレビ出演や高校中退通信の文書などで救われた人がいるならば、私も少しはお役に立てたのかもしれない。
閑話休題。札幌市内の冷気に触れながら、私ははるか昔のわきあがる感情を冷ましつつ、宿泊先の京王プラザホテルに戻った。そのあとは、シャワーを浴びて缶ビールを飲み、もう一度マッサージチェアーにかかってぐっすりと寝た。
6月9日(金)〜10日(土)
9日はチェックアウト時刻の11時前までホテルで休んだ。目覚ましにルームサービスの紅茶を飲んだ。私は紅茶を飲むときは、基本的にストレートだが、ポットで来るときはミルクを注文しておき、2杯目から少しずつミルクを入れる。ホテルのルームサービスの紅茶はかなりの量があり、しばらく時間をつぶせる。
チェックアウト時に荷物の一部をまとめてフロントに預け、できるだけ身軽にして札幌を出ることにする。どうせ11日の昼過ぎに札幌のこのホテルに戻ってくるのだ。
札幌駅付近で時間つぶしに駅前のビルにある「ラーメン共和国」に行き、札幌のラーメン店「白樺山荘」の味噌ラーメンを食べた。インスタントでも出ていて、それはそれで美味かったのだが、実際の店頭のラーメンもまた美味かった。売店で確認すると、出店しているラーメン店でも一二を争う人気だとか。売店で土産品を物色していると、よく見かける制服の女子高生が何人かいた。岡山の就実高校の生徒たちだった。まさか札幌まで来て岡山の人間になどまず会わないだろうと思っていたが、早速会ってしまった。
札幌12時20分発の183系気動車特急「サロベツ」で、ひたすら稚内を目指す。この列車には車内販売がないので、早めにラーメンで腹ごしらえをしておいて正解であった。あとは缶コーヒーと、水分補給のためのミネラルウォーターのペットボトルを買込んで稚内までの5時間半をうらぶれ特急で過ごすことになった。
列車は旭川までは函館本線を走る。停車駅が同区間を走る電車特急に比べ若干少ないのは、列車の役割の違いもなくはないのだが、気動車の性能不足、とりわけ加減速の悪さを停車駅減らしでカバーしているという側面のほうが大きい。
旭川からはいよいよ宗谷本線に入り、北へ向ってひたすら走る。この路線も先日の石北本線同様、鹿の出現で急ブレーキをかけることもあるから注意せよとのことだ。もっともこの日は鹿も含めて野生動物と御対面することはなかった。出会った動物といえば、乳牛のホルスタインだけだった。
夕方の17時44分、列車は定刻に稚内に到着した。ここが日本最北端の駅である。6月というのに、ここでは息が白い。岡山の2月ぐらいだ。
稚内ではしばし市内を散策した。寿司屋は存外あるのだが、ロシアが近いにもかかわらずロシア料理の店は近辺にはないようだ。ただ、商店街のテントにはロシア語での案内も見える。このあと駅付近の全日空ホテルに行き、階上の鉄板焼の店でワインを飲みつつ腹ごしらえをし、その後はバーでカクテルを飲んだ。稚内の市街地とはるか向こう(といっても40キロほど)のロシア方面の海と港を眺めて、夜行列車の出発を待った。
稚内22時5分発の臨時夜行特急「はなたび利尻」の普通車は、2割程度の乗客しかいなかった。先程の「サロベツ」号の3両に、スハネフ14型寝台車を1両間に挟んだ4両編成である。寝台車に金がないという理由で乗れないわけではないのだが、昔ながらのカーテンひとつの仕切りで6,300円も取られるのはしゃくなので、普通車の指定席に乗り込み、そこで前の座席を向かい合わせ、自分のベストになる体位を模索して(夜行列車の座席者で寝るには、そのときのその状況にあった体位を見つけ、維持することが何より重要なのだ)、仮眠を取った。酒が効いてか、比較的よく寝られた。
翌朝の5時13分、列車は定刻に岩見沢に到着した。これから12時間以上、乗りつぶしに専念することになる。日程中一番きつい日の始まりである。
まずは岩見沢6時5分の室蘭本線の普通列車で追分に向う。道央の草原を、耐寒構造の二重窓になったキハ40型の3両編成のワンマン列車でゆく。追分から夕張まで旧夕張線を直行する普通列車に乗り換え、盲腸線の終点である夕張へと向う。時に乗ってくる地元の通学途上の高校生以外は、年配の観光客だけである。もちろん30代のいい年の男は、私だけだ。岡山や神戸、それに東京などの都市では平日の昼間から何食わぬ顔でサウナに行っている私も、さすがにこういう場面においては少々肩身の狭いものがある。
夕張では観光客と思しき年配のご夫婦からデジカメで写真を取ってくれといわれたので撮影した。このあと私は夕張線時代の元複線の跡を見つつ新夕張まで出て、そこから石勝線の特急「スーパーとかち」で新得に抜けた。新得の名物駅そばを食べたが、基本的には信州そばとあまり変わらない色のつゆではあるものの、どちらかといえば甘みのあるつゆであった。
新得からは快速「狩勝」で富良野に出る。この愛称名はかつて急行に使われていたためか、キハ40型の単行列車にもかかわらず、長大編成の客車列車についていたものと同じサボがついていた。こういうものを盗む不届きな輩が私たちの趣味の世界にはいるもので、何とかそういうことのないようにしていただきたいものではある。
この列車では、先程夕張駅で写真を頼まれた年配のご夫婦に再びお会いした。よくよく話を聞いていると、岡山のしかも金光町にお住まいだとか。このご主人の趣味がまた、私のやっている「乗りつぶし」で、あちこちを回られているそうだ。そういうことをする人間の行動というのは、結構ダブるものだ。このご夫妻は、今回は富良野からレンタカーで道央を回るのだそうだ。
それにしても2日連続で、よくもまあ岡山の人にばかり会うものである。
富良野からは件のご夫妻と別れ、富良野線の2両編成のワンマンカーで旭川に出る。ラベンダー畑の花はまだ咲いていないようだが、所々の家の庭先にそれらしき花が咲いていた。まあ、兼好法師ではないが、「花は盛り、月はくまなき」ばかりを見るのが能ではなかろう。土曜日のためか、旭川空港に到着した親子連れや、地元の若者たちも乗っていて、列車は活気にあふれていた。
旭川到着後はすぐに特急「スーパーホワイトアロー」で深川に移動し、そこから留萌本線の気動車に乗り換えた。1両のワンマン運転であった。深川周辺でこそそれなりの乗客があったが、しばらくすると客はほとんどいなくなった。しばらく水田と草原の中を走った後、進行方向右手に海が見えた。今度は日本海である。波は高い。終点の増毛でしばらく時間があったので、駅前の寿司屋で握りを注文した。この店にはサッポロビールがなかったので、久々にアサヒのスーパードライを飲んだ。北海道で飲むと、どうも今ひとつだ。岡山や神戸で飲むときのようなスカッとした感触がない。淡々と、ただひたすら冷たいものを飲んでいるような感じだ。
ビールはその土地の気候に合ったものが美味いというのは、どうやら本当だ。
来たときと同じ気動車でもと来た道を引き返し、深川から後続の「スーパーホワイトアロー」で札幌を通って終点の新千歳空港まで乗り通した。この列車は札幌から進行方向を変え、快速「エアポート」となって新千歳空港まで行く。前日からの疲れか、何も考えずにひたすらリクライニングシートに身を委ねて移動するのみである。
新千歳空港のホームは地下にある。19時1分に到着後、そのまま反対側に停まっていた小樽行の快速「エアポート」に乗換え、隣の南千歳まで移動し、さらにここでも隣のホームに停まっていたキハ40型1両のワンマン列車に乗換え、石勝線の追分まで移動した。
追分では時間があったので、駅近くのサウナつき銭湯に行き(どうやら町営のようだ)、夕食に500円のカレーを食べておいた。それほど時間もなかったので、残念だが風呂には入れなかった。腹ごしらえだけして、追分駅に戻った。
追分からは室蘭本線に乗って苫小牧まで出る。この区間は確か、SLブームの頃の蒸気機関車の有名な撮影地だったところである。夕張炭鉱からの貨物列車が多かったため、ここはもともと複線であった。夕張付近は単線にしているが、このあたりはまだ複線を維持している。しかし夜も更けてきた。外は何も見えない。セーラームーンミュージカルの悪役のせりふではないが、民家がほとんどない分、まさに漆黒の闇である。
苫小牧からは近く乗る日高本線の気動車を見つつ、札幌から来た781系国鉄型電車特急「すずらん」に乗り、終着の室蘭まで乗り通した。乗客はほとんどいなかった。結婚式帰りの大学の先生方が2名、私の近くの座席で会話なさっていた。久しぶりに聞き応えのある内容の会話を聞いた。
室蘭市の代表駅にもかかわらず、室蘭駅はホーム2つだけの行き止まりの小駅である。実質的な中心駅は、その先の東室蘭駅である。こちらは特急列車のほとんどが停車する大駅である(このようなパターンは、全国に存外ある)。そこからこの室蘭まで、盲腸線が出ているわけである。
駅前からタクシーに乗り、ホテルオーシャンという古びた風情のあるホテルに移動し、海を眺めつつ夜を過ごした。このホテルには冷房がない代わりに、6月にもかかわらずストーブが置かれていた。ストーブをかけるまでの必要はなかったが、それにしても寒い。冷房がいらないのもわかる気がした。エンタの神様を途中から見たあと、本来なら時間外ではあるが大浴場につからせていただき、激戦の汗?を流して、缶ビールをあおってすぐに寝た。
6月11日(日)
ホテルを朝の6時に出発し、今度は歩いて室蘭駅に出た。途中のコンビニで、ホットのコーヒーを買った。駅の自動販売機は北海道でもこの時期は冷たいものしかないのであるが、コンビニはホットのドリンクも用意している。6時49分発の781系電車特急「すずらん2号」に乗込み、札幌まで乗り通した。苫小牧まではそれほどでもなかったが、札幌近郊だけはかなりの乗車率となる。
札幌からは9時15分発の臨時特急「フラノラベンダーエクスプレス」に乗換え、昨日来た富良野へと向う。乗車率は3割ほどか。ラベンダー様の御威光はまだまだのようである。この列車はリゾート特急用に改造された車両で、屋根が少し高いため非常に景色を眺めやすい。しかも車内にはモニターがついていて、富良野の観光地をかれこれ紹介しているほか、ラジオや音楽のチャンネルもある。私は取り立てて何をするでもなく、ひたすら外を眺めていた。
滝川からは根室本線に入る。川と崖の風光明媚な景色が展開する。しかしここは石勝線が開通するまでは、釧路方面の特急も通っていたルートである。よくよく考えてみれば、富良野を通る特急列車はこの臨時列車を除き、1本もないのだ。おおぞら号もとかち号もすべて特急は千歳線と石勝線を通る。函館から釧路や網走まで直行していた特急列車も昔はあったのだが、いまや完全にダイヤが札幌中心となってしまったため、すでにない。
列車は盆地に分け入り、富良野に定刻の11時1分に到着した。
富良野は観光シーズンを迎え、徐々に活気が出始めている頃だ。しかも今日は晴れていて、非常に暖かい。本州とさほど変わらないかのようだ。しかも湿気がないから、実に過ごしやすい。
駅前をしばらく散策し、近くのAコープで綿棒と野菜ジュースを買った。富良野の駅前にはコンビニがない(おそらく市街地にはあるのだろうが)。この手のものが買えるのはAコープしかない。コンビニが進出する前の地方の小駅の駅前を思い出させる。もっとも富良野は全国レベルの観光地なので、地方の小駅の駅前独特のうらぶれ感はほとんどないのだが。父が自殺した日以来、左耳の調子は一進一退を繰り返している。しかしまあ、これで応急措置が出来る。しかも今日は日曜日で、耳鼻科はどこも休診である。やむなくこの綿棒で膿を取ったら、聞こえもよくなった。
富良野駅に戻り、出札口を見ると、全国的にこの十数年来見かけなくなった硬券の入場券が2種類売られていたので、久しぶりに買った。昔はこれを集めるために、あちこちの駅で長時間停車を見計らってはホームを走って買いに出ていたものだ。中3生の時にいたっては、東総社で45秒停車の間に、ホームに降りてすぐの改札まで行き、そこでとにかく買ってから列車に戻ったことさえある。たまたまそのとき同じ列車に乗っていた中学の同級生が、「お前よく戻って来られたな」と感心していたものだ。
駅の係員に聞くと、札幌付近は自動改札を入れたため、軒並み硬券を廃止したのだという。一部の観光地の駅に残っているだけであるとのことだ。JR東日本がPOSシステムを導入するに当たって、他社に先立ち硬券の入場券を全廃したときは鉄道趣味人の間にかなり反発の声もあったのだが、最近は趣味人も大人しくなったのか、あきらめの境地に達したのか、あまりそのようなことを大きな声で言わなくなったようだ。
このあとは11時40分発の快速「狩勝」で昨日の続きを乗る形になった。この列車で私は滝川まで出た。
到着後はすぐに、滝川駅の前で客待ちをしていたタクシーに乗り、札沼線の終点である新十津川駅まで移動した。その間わずか5分ほどで、1330円であった。12時35分に滝川に着いて、57分発の石狩当別行に十分間に合った。タクシーの運転手氏によると、私のような移動をする人が本州方面から結構あるらしい。
丸2日間、約50時間続いた乗りつぶしも、これで終わりである。函館本線の別線のようなものの割には、この終着まで乗る人はほとんどいなくて、ここに来るのは1日3本だけである。大体タクシーで1500円とかからない場所にある滝川から札幌まで、特急に乗れば1時間程度で出られるところを、何が悲しくて2時間半以上もかけて普通列車で札幌まで出なければならないのだろう。しかしその「くだらない」ことを一所懸命にやることが、またやって許されることが、趣味人の特権ではある。ビジネス上は、よほど正当な理由や特殊な状況がない限り、そんなことが許されるわけがない。
列車は新十津川で私を含めて10人ほどを乗せ、出発した。函館本線側とさして景色の変わらない平野部を淡々と進む。途中には山に分け入ることもあるが、ほとんどの区間が平野部である。途中から乗る人も、下りる人もほとんどいない。そんな国鉄末期の赤字ローカル線のような空気は、石狩当別の前の北海道医療大学前で一変した。日曜日ではあるものの、大学生が大量に乗ってきた。次の石狩当別からは、4両編成の列車のほとんどの席が埋まった。駅間もだんだん短くなってきた。乗降客の動きも活発化してきた。このあたりは岡山の吉備線のラッシュ時を思わせる。札幌の手前の桑園で函館本線に合流し、私の宿泊する京王プラザホテルの横をかすめ通り、札幌には15時13分の定刻に到着した。
札幌到着後はすぐさま宿泊先の京王プラザホテルに転がり込み、今度は普通のシングルルームに入り込んだ。窓からは、函館本線の列車がよく見える。実にいい眺めだ。特にトワイライトエクスプレスや北斗星のような長大編成が札幌駅に回送で入っていく姿は、実に圧巻であった。
6月12日(月)〜14日(水)
そろそろ列車に乗るのも疲れてきたが、ここまで着たらやり遂げなければなるまい。
翌朝は9時ごろにホテルを出て、9時19分発の特急「北斗」で苫小牧までまず移動した。10時を回ったころに着いたので、駅ビルの中の100円ショップで乾電池とペットボトルのお茶を買っておいた。また、どこで食事にありつけるかもわからないので、鮭寿司という押し寿司の駅弁を買っておいた。
10時29分、キハ40型1両のワンマン列車は苫小牧を出発した。しばらくは広大極まりない平地を行くものの、程なく太平洋を右手に見る。途中、長期滞在客用と思しきホテルがあった。そういえば父は3年ほど前に苫小牧で仕事をしていたそうだから、ひょっとするとここに泊っていたのかなとも思った。
あとは、左手に山と牧草地、右手に太平洋を見ながら、列車はひたすら行き止まりの様似へと進む。途中で中間テスト中と思しき高校生らしき一団が乗ってきたが、彼(彼女)らは静内で降りていった。この静内も、蒸気機関車時代には全国的に有名だったところである。ここで私の乗った列車もしばらく停車する。若い運転手が、駅構内のそばを昼食代わりにすすっていた。私はその横から、いかめしを買って車内で食べた。ついでに、ホットの缶コーヒーも買い込んでおき、いかめしを食べた後飲んだ。これでさほど眠くならないだろう。しかし、体はだるい。
日高本線では、牛のほかに馬も多く見かけた。そういえば競走馬はこのあたりで飼育されていたはずだ。お馬の親子の歌を地で行く光景も眺めつつ、列車に乗り続けた。自ら望んでのこととはいえ、これだけ列車ばかり乗り回すのは結構な苦行だ。
3時間以上経ち、やっとのことで終着の様似に着いた。
様似駅を出て、近くの海辺に行ってしばらく何も考えず、太平洋の荒波を見続けた。
世界は広い。世の中も広い。人生もいたるところに青山ありだ。
私は近くにあった小石を、海に向かって投げた。
これまでの人生の嫌なものをすべて、この石に託して大海に投げ捨てるつもりで。
時間を見て駅に戻り、窓口を見るとここにも硬券の入場券が売られていたので早速買った。ここの年配の女性の駅員さんは、私が先日富良野でも買ったことを言って現物を見せると、まだよそにもあったのかとばかり驚いておられた。もっとも、私のこれまでのコレクションをお見せしたらもっと驚くではあろうが・・・。
様似からもと来た道をひたすら戻り、苫小牧からは来たとき同様「北斗」に乗って札幌に戻ってきた。
この日は食事ののち、ホテルの地下にあるカラオケスナックでいつものように懐メロを歌った。3000円で2時間飲み放題、歌い放題である。札幌の駅前のシティーホテル内にそんな店があるとは思わなかった。この日はたまたま、札幌市内でプロの歌手をされている長坂純一さんにお会いした。プロの人の前で歌うのはさすがの私も緊張したが、いつものように東京ラプソディーや夢淡き東京などを歌ったらえらくお褒めをいただいた。
翌日は、ススキノにある天然温泉つきサウナ「スパサフロ」に行ってみた。サウナと温泉施設が充実していて、広々としていた。休憩室は全席禁煙であった。食事もかなり充実している。露天風呂の天然温泉はぬるめで、長い時間はいっていることも出来そうだ。
ただ、人件費とタオルなどの経費をケチっている印象が否めなかった。少なくとも私が入浴した時間帯は、浴室などを誰か従業員が見回っているような様子はなかった。トイレの電気の切れているところさえあった。それも大の側で、ドアを閉めると暗くてしょうがない有様であった。行った時間帯が朝の11時前後だったからかもしれないが、それにしても神戸のサウナ&スパや岡山のハリウッドのような活気が今ひとつ感じられなかった。
サウナを出て狸小路の商店街を散策し、歩いてホテルに戻ったら13時を回っていた。結局この日は列車には一切乗らずに過ごした。昼からは、ホテルの下の函館本線の列車を眺めつつ時間をつぶした。もちろん、カメラなどは持っていないから撮影もしない。あえてこういう日を作るのは、私のような趣味を持つ者には最高のぜいたくである。
この日も夜は地下のカラオケスナックに行き、カラオケで歌った。この日は北海道大学医学部のとある先生が故郷の新潟で老母の介護をするために北海道を去るに当たっての送別会だったそうで、その一団の人たちに招かれて一緒に飲んだ。昨日は水産会社の幹部の方たちに招かれていたし、どういうわけか一人で飲んでいても不思議とこうなる。
6月14日(水)
朝11時に京王プラザホテルのチェックアウトをすませ、札幌駅に出た。本日の目標は、ともかく根室まで行って、朝に札幌まで戻ってくることである。
北斗星3号で北海道入りしてちょうど1週間。この日も、来たときに真っ先に乗り換えた特急「スーパーおおぞら5号」に乗って釧路を目指す。先週は食堂車で朝食をとっていたので昼には食べなかったが、今回はまずホームの立食いそばを食べておき、そのあと牛肉の駅弁と札幌クラシックのロング缶を買込んで列車に乗込んだ。例によって列車出発と同時にビールを開け、弁当を食した。そのあとはしばらく座席で寝込む。
列車が帯広を過ぎるあたりで、車内販売のコーヒーを飲む。ちょうどコーヒーフェアーで一杯280円である。これでしっかりと目を覚ました。きれいに晴れていたのが、急に霧で覆われ始めた。この後根室まで、この日はお天道様を見ることが出来ずに終わった。
釧路到着後は、気動車1両のワンマンカーで根室を目指す。16時14分の発車までには、ほとんどの座席が埋まった。地元の人、帰宅の高校生とビジネス客、それに年配の悠々自適の観光客のほか、なぞの人物である私。さまざまな客を乗せ、列車は釧路を定刻に出発した。
程なく行くと、進行方向右手に太平洋が見える。いつ見ても波が荒く、高い。
通学客や地元の人は少しずつ途中で降りていき、残ったのは数人の観光客のみ。列車は湿原の中、海辺、鹿、牛、馬と続く牧場など、さまざまな景色を見せてくれる。終点の根室に近づいた辺りで、列車は急に停車した。エンジンにトラブルがあったとか。しかし異常はなかったようで、程なく列車は出発した。終点の根室が近づくと、急に人家が増えた。日本最東端の駅・東根室の標識を拝み、終点の根室には定刻から数分遅れて到着した。
根室到着後は、駅前のビジネスホテルにテナントで入っている寿司屋で寿司を食べた。その間、コンセントを借りて携帯電話の充電をしておいた。このあたりではどうも、上にぎりともなれば、普通にあわびが入っている。最初の一杯はビールだったのだが、風の引きかけか寒気を感じるので、根室の地酒を熱燗で2合頼んだ。これで少しは温まった。
寿司を食べたあとは近くのジャズ喫茶「サテンドール」に行ってコーヒーを飲んで、時間をつぶした。
このあと私は、根室駅前22時発の夜行バス「オーロラ号」に乗込み、札幌へと向った。ともかく足に毛布をかけて、寝冷えをしないように心がけた。乗車率はおおよそ6割ほどであった。
6月15日(木)〜16日(金)
札幌駅前には定刻より10分ほどおくれて6時40分頃に到着した。そのあと私は7時ちょうど発の283系振子気動車特急「スーパー北斗2号」に乗込み、一路函館を目指した。さすがに函館−札幌間の路線は乗客数が多く、苫小牧まで自由席はほぼ満席であった。そのあとも継続して乗車率はよかった。またこの列車には、札幌市内の中学校の修学旅行生が函館まで乗車したので、指定券の余りはないとのことだった。
朝なので、車内販売で例によってコーヒーを飲んだほか、長万部を過ぎた頃に抹茶アイスも買って食した。
函館到着後は、別のホームまで行って駅そばを食べておき、485系の特急「白鳥」に乗込んだ。北海道内の特急列車はこの3月より全車禁煙になっているのだが、この列車の車両はJR東日本の所属なので、喫煙可能車両もある。また、車内販売もJR東日本の関連会社である。津軽海峡を左手に見ながら、私は木古内まで移動した。
木古内に到着後、函館を先に出ていた江差行きの普通列車に乗換え、山間をぬって江差まで乗り通した。その列車に乗っているとき、前日の夜行バスに乗っている間に岡山の八木先生からメールが来ていたのに気づいたので確認すると、私が中原氏の選挙の手伝いに行ったときにお会いした行政書士の脇田氏が駐車指導員の手に噛み付いて逮捕されたという。しかも新聞では、どういうわけか「自称」行政書士とされているとか。江差到着後、八木先生に電話をして詳しい状況を聞いた。その後、事務を手伝っている竹原氏にパソコン教材を事務所で受取っていただくように連絡をしておいた。
折返しの列車に乗って木古内まで出て、それから特急「スーパー白鳥」で函館に戻った。今度は新車の白鳥号であった。函館到着後は、隣のホームに停車していた183系特急「北斗15号」で長万部まで移動した。その間に、車内販売で売られていた大沼名物の団子を350円で買っておいた。
長万部到着後、駅前の蕎麦屋でもりそばを食べた。北斗号の一部には、この店のもりそばを長万部駅で積み込んでいる。蕎麦を食べると腹が一杯になった。駅前のタクシー乗り場からタクシーで温泉街の旅館「もりかわ」に移動し、チェックインした。ここの温泉は岡山桃太郎温泉同様、かけ流しである。ただしここの湯はかなり熱く、湯あたりしかねない。ついでに言えば湯船が狭いので、3人入るのが限度である。しかしよく温まったので、ビンビールをもらって部屋に戻り、大沼団子をつまみに一杯飲んで、早めに寝た。
翌朝は6時前に旅館を辞し、駅前の歩道橋を渡って駅員のまだいない長万部駅に入り、6時12分発の函館本線のうちいわゆる「山線」と言われるルートを通って小樽に向う。この路線は昔、C62型の重連による急行「ニセコ」の撮影地として有名だったところである。このほかにも気動車特急「北海」が走っていたのだが、現在ではこの区間を走る優等列車はなく、日に数本の普通列車があるのみである。この路線は「山線」というだけのことはあり、ひたすら山の中を走るほか、時に川を渡るぐらいである。最も室蘭本線側のいわゆる「海線」よりも、この「山線」のほうが開業は早い。というのは、鉄道敷設に際して軍部が艦砲射撃で線路や列車に被害が及ぶことを恐れたため、どちらかというと海沿いよりも山間のほうに新線を敷設するという状況があちこちで起こったためである。もっとも東海道本線のように、工期や建設費などの問題から海沿いに建設したパターンもあるが、結果的には山線よりはむしろ海線側のほうが発達しているケースが多い。
列車は倶知安で乗客がほとんど入れ替わり、さらにしばらく進んで余市で幾分客を拾う。この余市は、ニッカウヰスキーの工場があるほか、全国に先駆けて不登校児の受入れをしたことで有名な北星学園の余市高等学校もある。あのヤンキー先生で有名な義家さんの母校である。私はこの学校の存在を、玉野の真鍋さん宅で大学時代に知らされた。ずいぶんすごい取組みをする学校だなあという印象を受けたものである。
小樽到着後は、市内の観光をする間もなく行止り式のホームに入ってきた快速「エアポート」に乗って札幌を目指す。列車は程なく乗車率100%になった。日本海の海岸沿いに小樽の街を見ると、何だか神戸を小ぢんまりとさせたような感じだ。しばらく海と併走した後、列車は札幌市へと入っていく。手稲には車両基地があり、これから乗る「トワイライトエクスプレス」や「北斗星」などの寝台特急のほか、183系気動車など、札幌発の特急列車がしばしの休息を取っていた。
札幌到着後は、預けていた荷物を取りに京王プラザホテルに行き、地下のサウナに入った後、1階のレストラン「樹林」で昼食を取った。帰り際に宿泊支配人より挨拶を受けた。
荷物の関係もあり、タクシーで駅前のエスタビルの10階にあるラーメン共和国に行き、土産品を物色し、各方面への土産を買込んで、宅急便で送った。
トワイライトエクスプレスの出発までにまだ1時間近くあるが、早めにホームへ出た。
あとは、函館本線の別線区間をこのトワイライトエクスプレスに乗って通れば、その時点でJR北海道の全線完乗である。
6月16日(金)〜17日(土)
トワイライトエクスプレスは、14時5分に札幌を定刻に発車した。南千歳を過ぎた頃、ようやく車掌が来て検札を受けた。今度のカードキーも前回の北斗星と同様のシステムだが、さすがに前回のような接触不良はなく、最後まできちんと作動した。個室寝台の鍵は、サンライズエクスプレスやなは号のような暗証番号式のものと、北斗星やトワイライトエクスプレスのようなカードキー方式のものとがある。前者は基本的にビジネス列車なので、カードを配るようなことをせず、番号をその場で入力する形式にしていることで、無駄な経費と手間をかけないようにしている。これに対して後者はどちらかというと観光列車なので、記念品にしてもらうという趣旨もこめて持帰り可能のカードキー方式にしているのだろう。
検札が終わったので、早速食堂車にいって紅茶を一杯飲む。その前のロビーカーでも出前が出来たようだが、せっかくなので食堂車に足を踏み入れた。食堂車のクルーは大阪のJR西日本関連会社の人たちである。久しぶりに関西の言葉を聞いてほっとした。
この食堂車・スシ24型はもともとサシ489型で、碓氷峠を登る特急「白山」などの食堂車として活躍していたものである(1982年に食堂車が復活したときやその後廃止になったときに、ちょうちんなどで車内を派手に飾り付けした写真を見たことがある。白山号に使われないときは、485系に混じって雷鳥号などでも使用されていた)が、在来線の食堂車が軒並み廃止され、余っていたところをこのトワイライトエクスプレス用に改造された車両である。電車が客車になるという車両的な問題以上に、食堂車としての役割はもっとドラスティックに変わったことになる。以前の電車特急時代にはファミリーレストラン的な性格であったのだが、この列車に連結されてこの方、ホテルのレストラン的なものにがらりと変わってしまった。もっとも、ファミリーレストラン的な食堂車としての歴史は、高度成長期から国鉄末期、さらには新幹線の食堂車に至るまでのわずか40年ほどのものであり、それ以前の食堂車というのは北斗星やトワイライトエクスプレスのような予約が云々と正面切って謳いこそしないものの、利用客も限られた、文字通りのエリート専用車であった。当時の食堂車は、昼食や夕食の時間帯になると、1等、2等、そして3等の順で車内に係員が出向き、時間帯の予約を取っていた。食事についても時間厳守で、皿に食べ物が残っていても時間が来れば有無を言わせず下げられたという。
閑話休題。北斗星号や北斗号で何度か行き来した路線を今度は、南に向けてひたすら進む。この列車は、北海道で洞爺に停車後は、新潟県の新津までの間、営業停車はしない。機関車の付替作業などで、いくつかの場所で停車するのみである。
私の乗る個室寝台はシングルツインといって、一人でも利用できるが二人でも利用できるというものだ。そのかわり、上段のベッドからは景色が見えない。完全な「補助ベッド」である。上段にわざわざ上ってもそれでは仕方ないので、私はテーブルをたたみ、向い合わせのソファから背もたれをそれぞれ引出し、下段寝台を作った。これでいつでも横になれる。かつてのブルートレインは19時になると寝台をセットする係が来て、次々と寝台をセットし、朝の7時になるとその寝台を解体して座席にするためにまた係が来た。どんなに列車が遅れても、朝6時まで利用すれば寝台料金は払戻の対象にならないのは、もちろん「列車で横になって寝る」利益は得られたからというのもあろうが、一方ではこの作業を意識していたものと思われる。しかし現在ではそのような長時間をかけて運転される列車はほとんどないし、個室寝台も増えたから、寝台のセットなどは客自ら行うシステムである。まあ、自己責任の時代になったということであろう。
私は全線完乗をひかえ、食堂車の隣のロビーカーに移動した。列車はいかめしで有名な森を通過し、いよいよ函館本線の残りの別線に入る。これは北斗号などとすれ違うことを避けるための措置である。先方はビジネス列車なので時間が命であるが、当方は観光列車なので、時間は基本的にそれほど気にしなくてよい。だから先を急ぐ列車に道を譲り、当方はゆっくりと進めばよい。大沼で合流するいくつか前の某駅には、東北・上越新幹線に使用された200系電車が先頭車を含めて数量静態保存されていた。うち1両はグリーン車であった。こんなところになぜこんなものがあるのかとびっくりしている間もなく、列車は大沼駅を通過した。ちょうど通りかかった車内販売の係員から買っておいた缶ビールを開け、私はロビーカーの中で一人、ひそかに祝杯をあげた。今回のビールは札幌クラシックではなく、アサヒのスーパードライであった。
列車は函館の手前の五稜郭で機関車を付け替え、進行方向を変えた。ここからは、DD51型ディーゼル機関車(塗装はなぜか、北斗星号専用機と同じである)に代わり、青函トンネル専用機のED79型が青森までこの列車を牽引することになる。
列車が青函トンネルに入るしばらく前、後半のディナータイムが始まるとの案内が入ったので、私はスーツに着替え(別に正装を求められているわけではないのだが、あえてそうした。戦前の食堂車は基本的に客に対しては上着・ネクタイ着用を求めていた。今回スーツを着ていたのは北斗星のとき同様、私だけであった)、ディナーの予約券を持って食堂車に向った。
こちらのフランス料理は前菜二品、スープ、魚料理、肉料理、パン、デザート、それにコーヒーもしくは紅茶がつく。まったくもってフルコースである。ワインのリストを見ると、男性客の嗜好に合うように、辛口の白と赤のハーフボトルをそれぞれ飲めばフルボトルと同額になるような設定がなされていたので、私はそのパターンに乗った。前回の北斗星はかなりカジュアルな感じであったが、トワイライトエクスプレスの方はかっちりと型を崩さない雰囲気である。魚料理が出ているとき、女性の係員がディナーの乗客に記念のポラロイド写真をすすめてきた。ちょうど写真がほしいところだったので、喜んで写していただいた。巻末の写真はこのときのものである。
ディナーのあとは、シャワーを浴びてパブタイムの食堂車に戻って湯上りのビールとオールドパーの水割りを飲んだ。列車はすでに青函トンネルを出て、青森の操車場に停車していた。ここで敦賀機関区のEF81型電気機関車に付替えられ、進行方向も変わる(元に戻る)。こうして私は、めでたく本州に「凱旋」した。
しばらく青森市内の家々の灯りを見ながら、食堂車で一杯飲むとさすがに眠くなってきたので、個室寝台に戻った。ガウンに着替え、コンセントにCDプレーヤーを接続し、岩井小百合の元A面の曲が入ったCDを聞きながら、横になったが最後。4曲目の「恋・あなた次第」という曲(彼女が15歳になってすぐ、TBSのザ・ベストテンに出て歌った曲である)が流れる前に眠りについてしまった。
朝は4時30分頃目を冷ました。列車は新潟県に入っていた。どうやら新津に着いたようである。これでついでに羽越本線もすべて乗ったことになる。昨日の深酒がたたったのか、胃が重い。少し水を飲んで、またしばらく横になっていた。ふたたび音楽を聴きつつ、寝るともなく起きるともなく横になって何をするでもなく時を過ごした。
列車は6時過ぎ、親不知の海岸を通過した。しかしここも国道が海岸沿いに高架を通しており、列車から日本海を眺めることは不可能とまでは言わないが極めて難しい。
この列車のダイヤはこの地点で下りは夕焼け、上りは日の出を見られるように設定されていて、ロビーカーもその方向に向けてソファを設置している。現在ではロングシートといえば通勤電車のベンチという印象であるが、明治期の一等車や二等車は一見今のロングシートのような座席であった。それはもっぱら車体の幅が今ほど取れなかったことによる。これは私の解釈だが、もうひとつには列車そのものを上流階級の社交場の延長ととらえていたからそのような配置になったといえるのではないか。トワイライトエクスプレスのロビーカーは、そのソファの設定を少し変えたと考えるとわかりやすい。もっと言えば、戦後の特急「つばめ」「はと」まで使用されていた一等展望車は、まさにそのソファを通路側に向けて並べていたわけである。
ロビーカーでは映画を流したり、車内放送では車窓の解説をしたり、この列車に乗って退屈などという概念が浮かばないような仕掛けが随所に凝らされている。北斗星以上にビジネスユースを抜いた列車だからこそ出来る芸当ではある。北斗星ではロビーカーに浴衣で着ていた人もいたが、この列車では車内放送でしっかりと釘をさしていることもあってか
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- JR特急 JRローカル
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