1988/10/24 - 1988/10/31
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ももんがあまんさん
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1988年、ヨーロッパの旅の最後の土地(国)は東ドイツです、かなり草臥れているせいもあるけれど、東欧(共産圏)は、いずれの国も、なんとなく監視されているようで、暗くて、生気の無い町が多かったような気がします、ホテルもインフォメーションも、事務的で官僚的、愛想の良い人もいるけれど、そういう場合は、ほぼ間違いなく「イクスチェンジ」(闇両替)の要求がある。
此処、東ドイツでは、その点(闇両替)は無かったのだけれど、たぶん、他の共産国より管理が厳しいからという事は、容易に想像できます、入国には、全ての訪問地と宿泊場所を、東ベルリンのインフォメーションで申告しなければならず、全てのホテル(バカ高い)も予約して、支払いを済ませねばならないという始末、マア、これまでの旅に比べれば、全く自由が無く、経費もかかり過ぎですけれど、最後の地でもあり、これまでの節約のおかげで、予算もだいぶ余裕があつたので、目をつぶる事にしました。
写真は、ワイマールの町にあった、ゲーテとシラーの像で、国民劇場の建物を背にして立っています、向って左がゲーテ、右の若くて美形なのがシラーです。
ワイマールと言う町の名は、「ワイマール憲法」「ワイマール共和国」と言う、第一次大戦後(1919年)のドイツの政治体制として、有名ですけれど、この町での会議で制定された為に、そう呼ばれています、当時この憲法は、ヨーロッパで最も民主的な憲法と呼ばれ、ドイツの歴史の中では、最初の「共和制」であったのですけれど、この時代は、その後、ナチスの台頭を招いたという事でも有名で、いわゆる右よりの人たちからは、「民主主義=衆愚政治」と非難される要因の一つともなった、有名な歴史的出来事であります、マア、初めての「共和制」ですから、一度や二度の失敗は仕方ないです、普通に考えて、王侯貴族の政治も、日本のような官僚政治も、これまで、数え切れぬほどの失政・悪政をやらかしてきたのですから、大衆と呼ばれる人々や、民主政治だけが、一度や二度の失敗を、とやかく言われる筋合も無いんじゃないでしょうか、むしろ、民主制だって「失敗する権利がある!」と、そう思うのですね。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 鉄道
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東ベルリンの風景
あんまりはっきり映っておりません、腕も悪いのですけれど、カメラもポンコツなのです、天気も悪いし、でも一応、ウンター・デン・リンデンと呼ばれる、町一番の繁華街なのです、でも人がいませんね・・・ おかげで「ベルリン天使の歌」に出てくるような、陰気な画面に仕上がっています(自画自賛?)。 -
東ベルリン
ブランデンブルグ門
これも映画に出てきた有名な門です、柱の足元には、「ベルリンの壁」が見えます、今はもう無いんでしょうね。 -
東ベルリン
ベルガモン博物館
トルコのベルガマ(古代ギリシャ・BC2世紀)から持って来た巨大な都市遺跡です、大神殿全体を、そのまま再現しているので、臨場感タップリの博物館です、天井が無ければ、もっとリアルだと思うけれど、これでもかなりのものです、マア、かっぱらってきたものではありますけれど、これだけ見事に展示されていれば、宜しいんじゃないでしょうか、マア、今のトルコ人(イスラム教徒)とは、あまり関係の無い遺跡であるでしょうしね・・・ -
ドレスデン
ブリュールのテラスから
エルベ川沿いの遊歩道で、眺めの良い事で有名なのだけれど、天候のせいか、あまりパッとしない気も・・・ 人通りも殆どないし、東ドイツの人々には、あまり散歩を楽しむような余裕は無いのかも?
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ドレスデン
ブリュールノテラスから眺めた、旧市街の街並です、過ってのドレスデンの雰囲気が多少は感じられる気がします、16世紀以降にザクセン王国の首都として発展した、バロック様式の都です、戦災が無ければ、たぶんプラハと並び賞されていたことでしょう。 -
ドレスデン、君主の行列
歴代のザクセン王の居城だったと言う、レジデンツの建築物の壁に、長さ110メートルにわたって描かれた、マイセン磁器の壁画です。 -
ドレスデン、君主の行列
1123年から1904年までのザクセン君主やら芸術家やらが描かれているそうですけれど、正直、誰が誰やらは、全く解からんです。 -
ドレスデン、君主の行列
戦争でボロボロにされたドレスデンの中で、奇跡的に生き残った、過ってのドレスデンの繁栄のしるしだそうです、タイルと言うのは、色もあせないし、見事なものです。 -
ドレスデン
婦人礼拝堂 (廃墟)
第二次大戦の1945年2月13〜14日にかけての空襲「ドレスデン大爆撃」で破壊された教会の跡です、広島で言えば、「原爆ドーム」のような位置付けですね。
実際の「ドレスデン大爆撃」は、巷間に言われるほど(ヒロシマ原爆以上の爆弾量?)の「大爆撃」ではなかったようですけれど、この町が「無防備都市宣言」をしていて、防空設備が無かった事、木造建築が多かった事などが被害を大きくしたようです。
当初は死者30万人と言われていた(ドイツ側宣伝)けれど、実際は3万人程度とか、ヒロシマや東京大空襲の方が、やはり凄いようです。 -
ドレスデン
婦人礼拝堂&ルターの像
戦争の傷跡の前に「ルター」ですが・・・? うーん、良く解かりません、教会が、ルター派なのでしょうけれど?、平和的な人ではないし・・・? -
ドレスデン
オペラ座前広場
真ん中の騎馬像の、とてもかっこよい広場です、旧市街のど真ん中にあたるところで、さすがに此処には観光客がいました。 -
ドレスデン
オペラ座前広場
古いからでしょうですけれど、かなり煤けた建物が多いです、空襲で焼けたという事では無いと思うのですけれど・・・ 手入れも行き届いていないのですね、東欧(共産圏)の町独特の「古都の色」です。 -
ドレスデン
ツヴィンガー宮殿
バロック特有の彫刻紋様が面白いので撮っておきました、建物自体は、立派な建築ではあるけれど、あまりにも汚れが目立ち、お金の無さが覗える、そんな有様でありました。 -
ドレスデン
ツヴィンガー宮殿
宮殿の屋根やテラスから落っこちた像が、地べたに並べられたままになっていました、お金が無いんですね、宮殿の修復なんかより、優先事項がたくさんあるのでしょう、マアそれも、一つの見識ではありますけれど・・・ あれからそろそろ20年、今はどうなっているのでしょうか? 他の人々のドレスデン旅行記を見る限り、こういう絵は無かったような・・・ 修復されたのでしょうか?
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ワイマール
市庁舎&街並
有名な町ですけれど、観光客も殆どいない、静かな町でした。
「ワイマール共和国」は結局、失敗してしまったけれど、それでもやはり、「民主主義」は素晴らしい制度だと思うのですね、何故かと言えば、この制度によってのみ、普通の国民・大衆が、「失敗」や「歴史」を、「自らの責任」として、省みる事が出来ると思うからなのです、たぶん人は、それ(失敗)が、「自らの責任」であると自覚しない限り、失敗や歴史から学ぶ事はないし、反省もないし、進歩も無いのです。
逆に、明治維新以降、その本質が、「神がかりの独裁国家」でしかなかった、大日本帝国の「臣民」達の、その後の無責任ぶりと比較すれば、同じような、罪を指摘される「敗戦国」でありながら、その両国の戦後の歩みの際立った違いが、何に由来するものか、解かるような気がします・・・ 残念ながら、この国(日本)では、その最高権力者達でさえ、たぶん「自分の責任ではない・・・」と、今も、墓の中で、呟いていることでしょう。
そして、隷属するだけの、国民・大衆の感受性にとっても、それ(戦争や戦災)は、台風や雷に同じ、何処からかでも降って来た、「天災」のようなものらしいのです。 -
ワイマール、国立劇場
1919年、憲法制定の為の議会が開かれたところです、民主制(共和制)ドイツの最初の舞台であります、とても重要なところだと思うのですけれど、地味な建物で、観光客も少ない気がしました。 -
ワイマール、ゲーテの家
この町は、ゲーテやシラーなど、ドイツ文学や芸術の町でもあるそうです、ゲーテの家は、相当に立派なものです、ガキの頃「若きウェルイルの悩み」などというものを読んだ事もあるけれど、ようわからん買ったですねえ・・・ 何が書いてあつたかもも忘れてしまいました。
「ギョエテとは わしの事かと ゲーテ言い」
ですかね? そんな川柳しか覚えておりませんです。 -
ワイマール、シラーの家
こちらが「シラー」の家、ゲーテよりも、ずっとビンボーだったと言うのですけれど、これで「ビンボー」と言われてもねえ・・・ ですね、「ビンボー」の基準が違うのですねえ・・・ -
ワイマール、公園の風景
ワイマールの、ひろ?い公園の中の、瀟洒なおうちです、こういう小さな家、大好きなんです。 今は公園ですけれど、たぶん、過ってはお城の庭園だったのでは? と想像します。
追記です・・実はこの家、ゲーテが愛人と住んだ家なのだとか、jijidarumaさんに教えて頂いたので、jijidarumaさんの文章を、一部、紹介させていただきます。
<ワイマール、公園の風景>につき、勝手ながら、説明(2001年5月、ドイツ感傷旅行の第一回目にゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道などを巡りました)を下記に。
・・・
ゲーテが時の領主カール・アウグスト公に招かれて、ワイマールの地に来たのは1775年であり、26歳の青年期から、82歳で亡くなるまで、文人・政治家として、その生涯の大半をここで過ごしたわけだ。
・・・緑濃いイルム公園内を散策する。(因みにワイマールのワイは清い;マルは水を意味するそうである)
公園の奥まった所に白い壁の小さな、木組みの二階建てである「Goethes Gartenhausゲーテ山荘」がある。 ワイマール公から贈られたもので、ゲーテの恋のお相手との逢瀬を楽しんだ所だとか。中は博物館にしてあり、思っていた以上にほんとに小さな質素な部屋ばかりだったのが印象に残った。(入館料DM10) -
ワイマール、公園の風景
多分、これがそのお城?
確かめなかったので、確かではないけれど、たぶん? -
エアフルト、Anger通り
西ドイツのフランクフルトへ向う途中、何処か一箇所と思って、立ち寄った町です、あわただしくて、ゆっくりとする事も出来なかったけれど、中世以来の、かなり古い町です。 -
エアフルトの街角
商都として繁栄した町らしく、民間の、かなり立派な家も多いです、過っては、大学の町でもあったとの記憶があるのですけれど、確か、有名な人がいたと思うのですけれど・・・? -
エアフルト
大聖堂&聖セヴェリ教会
巨大な教会が二つ、丘の上にあるので、ただでさえでかいのが、かなりの威圧感であります、逆光ですけれど、時間が無いので、仕方ないです。 -
エアフルト、大聖堂前広場
大聖堂の側から見ると、こんな感じ。
ひろくて美しい広場です。 -
フランクフルト(西ドイツ)
マイン川沿いの風景
1988年ヨーロッパの旅、最後の町です、のんびりと、競馬場に通って、最後の3日間を楽しみました。
旅の最後に印象的だったことといえば、東のエアフルトから、西ドイツへ向う電車の中で、まさに、国境を越えたその瞬間に、周りから、なんともいえぬ、どよめきと、歓声が興った事です、国境を越えるのに、人それぞれにどんな思いやドラマがあるのかは、まるで知りませんけれど、あれは確かに、解放された「歓びの」声でありました。
1990年の壁の崩壊後、そろそろ20年、いろいろと、あまり上手くいっていない事ばかりが話題になっている気もするけれど、どうなんでしょうねえ、何時か確かめたい気がします。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- jijidarumaさん 2020/04/02 00:26:26
- ワイマール、公園の風景
- ももんがあまんさん、
今晩は。
1988年の旅を拝見しました。この当時の東独の旅は不便だったと思います。
それでも素晴らしいのは当時の町々の然るべき写真を御撮りになっていて、
とても参考になりました。
東独の国中に東西分離されたBerlinベルリンがあり、そこには1970年代後半
と1983年4月に2度の訪ねました。
1度は出張で飛行機、2度目は家族ずれで、車で東の支配する国境の検問を受けて、
寂しいアウトバーンを緊張して走り、西ベルリンに入りました。
マー得難い体験でしたが。
<ワイマール、公園の風景>
につき、勝手ながら、説明(2001年5月、ドイツ感傷旅行の第一回目に
ゲーテ街道・ドレスデン・マイセン・古城街道などを巡りました)を下記に。
・・・
ゲーテが時の領主カール・アウグスト公に招かれて、ワイマールの地に来たのは
1775年であり、26歳の青年期から、82歳で亡くなるまで、文人・政治家として、
その生涯の大半をここで過ごしたわけだ。
市内観光は旧市街の中心・マルクト広場傍の今夜のホテル・Hotel Elephant横に
ある駐車場に停めて、徒歩で回ることにした。
市庁舎、クラナッハハウス、Stadtschloss城(クラナッハなどの美術館)と
外観のみを見て回り、10mほどの小さなIlm川が公園の中を流れる、
緑濃いイルム公園内を散策する。(因みにワイマールのワイは清い;マルは
水を意味するそうである)公園の奥まった所に白い壁の小さな、木組みの
二階建てである「Goethes Gartenhausゲーテ山荘」がある。
ワイマール公から贈られたもので、ゲーテの恋のお相手との逢瀬を楽しんだ
所だとか。中は博物館にしてあり、思っていた以上にほんとに小さな、
質素な部屋ばかりだったのが印象に残った。(入館料DM10)
・・・
ではまた。
jijidaruma
-
- 桃岩さん 2017/07/27 20:31:57
- エアフルトからの列車について
- はじめまして。同じ1988年夏にベルリン、ポツダム、エアフルト、ゴータ、ドレスデン、プラハを旅しました。教えていただきたいのですが、エアフルトからフランクフルトアムマインへは、どこで国境を越えたのでしょうか?当時、アイゼナハから西に鉄道はつながっていたのでしょうか?地元の旅客もその国境を鉄道で越えていましたか?
- ももんがあまんさん からの返信 2017/07/28 16:49:15
- RE: エアフルトからの列車について
- 初めまして桃岩さん。
質問を頂いたので、当時の「旅日記」を引っ張り出して確かめてみました・・・エアフルトからは、そのまま、成り替え無しで、フランクフルト・アム・マインまで行ったようです、ルート上にはアイゼナッハが有り、国境駅はアイゼナッハの西、約50kmの「Bebra」と言う駅です・・・最近に手に入れたダイアモンド社のヨーロッパ鉄道地図で確かめてみますと、その駅は、今も有ります、多分そこからは、「フルダ」方面のルートを経由して、フランクフルトまで行ったのだと思います。
切符は東側を含めて、西側通貨でしか売ってくれず、しかもアイゼナッハまでの切符を持っていたので、アイゼナッハから先を売ってくれと言っても、エアフルトからしか売ってくれなかったと、旅行記には文句が記録されてました・・・イロイロ、融通の利かない時代でありました・・・桃岩さんも、苦労されたのでは・・?
by ももんがあまん
- 桃岩さん からの返信 2017/07/30 12:37:05
- RE: RE: エアフルトからの列車について
- ももんがあまんさん、返信ありがとうございました!
また調べていただき、感謝です。
そうですか、では外貨を持つ東独の人も、きっとアイゼナハやエアフルトから
ベルリンを経由せず西独に列車で行けたのでしょうね。
私はドレスデンでブダペストまでの切符を東独マルクで買い、
途中下車でプラハ、ブラチスラバを旅しました。48.9マルクでした。
今ツイッターで当時の日記をリライトしてます。
https://twitter.com/namihei1224
一年の旅日記が途中で尽きて、今はメモを頼りに復元しているので、
なかなか筆が進まないのですが、なんとか同日更新を目指してます。
ありがとうございました。
> 初めまして桃岩さん。
>
> 質問を頂いたので、当時の「旅日記」を引っ張り出して確かめてみました・・・エアフルトからは、そのまま、成り替え無しで、フランクフルト・アム・マインまで行ったようです、ルート上にはアイゼナッハが有り、国境駅はアイゼナッハの西、約50kmの「Bebra」と言う駅です・・・最近に手に入れたダイアモンド社のヨーロッパ鉄道地図で確かめてみますと、その駅は、今も有ります、多分そこからは、「フルダ」方面のルートを経由して、フランクフルトまで行ったのだと思います。
>
> 切符は東側を含めて、西側通貨でしか売ってくれず、しかもアイゼナッハまでの切符を持っていたので、アイゼナッハから先を売ってくれと言っても、エアフルトからしか売ってくれなかったと、旅行記には文句が記録されてました・・・イロイロ、融通の利かない時代でありました・・・桃岩さんも、苦労されたのでは・・?
>
> by ももんがあまん
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