2006/04/27 - 2006/05/30
130位(同エリア145件中)
早島 潮さん
トルクメニスタンは最近まで観光客が入れなかった国であるから今回の旅行でも楽しみな場所であった。終身大統領になったニヤゾフ大統領の専制政治が行われているが、カスピ海沿岸で産出する石油のお蔭で中央アジア五ケ国のうちでは、カザフスタンについでGNIも1,120ドルとウズベキスタン、キリギス、タジキスタンを遙に凌駕している。現実にトリキスタンの都会地では今や、高層ビルの建設ラッシュで至る所に建設用の大型クレーンが林立している。
特に首都のアシハバードは丁度東京オリンピック前の東京都内の状況と似た活気に満ちていて、建設中のビルが夥しい数である。
一方で情報統制は厳しいようで、写真撮影については充分気を配らないと撮影禁止の場所が多数あるので思わぬトラブルに巻き込まれる虞れがある。
さてウズベキスタンのヒワの観光を終えてヒワのホテルを朝8時30分に出発して陸路、国境を越えクフナ・ウルゲンチを目指す長駆250?のバスドライブである。
綿花畑、小麦畑、草原をひた走り国境へは9時半頃到着した。出国手続きに約一時間を費やし、緩衝地帯をミニバンで移動し、トルクメニスタンの入国審査である。ガイドがくどい程に写真撮影をしないようにと注意する。たいしたトラブルもなく正午前には国境を通過し、トルクメニスタンに入国した。
国境近くのタシャウズでナディラ・レストランというところで昼食を摂った。サラダ、らぐまん、チキンとビーフのグリルであった。赤大根を好んで食べた。ここでも恒例の人参の千切りが山ほどもでていた。葱や大蒜もサラダに添えられている。
タシャウズからクフナ・ウルゲンチまでの道中では車窓に、ガスのパイプライン、畑、驢馬の車、時として現れる砂漠を眺めながら移動する。大きな建物や検問所には必ず掲げられているニヤゾフ大統領の肖像画をいやという程見せつけられた。
現地ガイドの説明によればこの国では、ガス、水道、電気、塩は無償で国民に支給されるという。
遺跡のある場所クフナ・ウルゲンチに到着し、最初に訪問したのはトレベクハニム廟である。
クフナ・ウルゲンチは2005年10月にユネスコの世界遺産に登録された。13世紀のモンゴル軍の侵略、15世紀のチムールの侵入により破壊されたが、ヒワに17世紀に遷都されるまではホラズム王国の首都であった。ヒワに遷都したのは1615年頃、アムダリア川の流れが変わり水がこなくなり沙漠化したからである。
クフナ・ウルゲチでは次いでクトゥルグチムールのミナレット、スルタンテケシュ廟、クルクモッラーの丘、イル・アルスラン廟、キャラバン・サライの入り口跡、ネジメッティン・クブラー廟、スルタ・アリ廟等を見学した。
再びタシャウズに戻り、深夜23時発のトルクメニスタン航空でアシハバードへ飛んだ。なにしろトルクメニスタンには航空機が七機しかなくこの航空機をやりくりしながら運行しているのでタイムテーブル通り飛ぶことは少ないようである。我々の搭乗した航空機も約一時間遅れの離陸となってしまった。
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トルクメニスタンの国旗
トルクメニスタンの国情。外務省のホームページより引用。
以下引用である。
国 名: トルクメニスタン
(Turkmenistan)
2005年9月現在
一般事情
1.面積 49万1,200km2(CIS統計委員会)
2.人口 480万人(01年初:CIS統計委員会)
3.首都 アシガバット
4.民族 トルクメン人(85%)、ロシア人(7%)、ウズベク人(5.0%)、その他(3.0%)(2002年)
5.言語 公用語はトルクメン語(テュルク諸語に属し、トルコ(共和国)語やアゼルバイジャン語に近い)
6.宗教 イスラム教(スンニ派が主流)
7.略史 15世紀頃 トルクメン人の民族形成
1869 ロシア軍、カスピ海東岸に上陸、クラスノヴォーツク(現トルクメニスタン領)の基礎をおく
1881 ギョクデペの戦い(ロシア軍とトルクメン人の激戦)
1885 ロシア帝国によるトルクメニスタン征服完了
1880−88 ザ・カスピ鉄道の開通によりロシア向け綿花栽培が急拡大
1924 中央アジアの民族・共和国境界画定により、トルクメン・ソヴィエト社会主義共和国成立
1990.8.22 共和国主権宣言
1990.10.27 ニヤゾフ大統領就任
1991.10.27 共和国独立宣言
1992.5.16 共和国憲法採択
1995.12 国連総会において「永世中立国」として承認される。
1999.12.28 議会の全会一致によりニヤゾフ大統領が終身大統領に
政治体制・内政
1.政体 共和制
2.元首 ニヤゾフ, サパルムラト・アタエヴィチ大統領
3.議会 一院制(「メジュリス」:任期5年、定数50)
なお、議会の他に「人民評議会」が存在。憲法改正、国際条約の批准等の機能を有している。
4.政府 (1)首相 空席(憲法の規定によりニヤゾフ大統領が兼任)
(2)外相 メレドフ, ラシード・オヴェプゲリディエヴィッチ
5.内政 ニヤゾフ大統領が独立以降一貫して指導力を維持する一方、議会や政府も依然として共産勢力を占めるなど、保守的な体制が根強く残っている。
ニヤゾフ大統領は旧ソ連邦崩壊前の90年10月に初の直接選挙において大統領に選出され、92年6月の大統領選挙において再選。更に94年1月、同大統領は国民投票で2002年まで任期を延長し、99年12月には憲法を改正し、終身の国家元首となった。
外交・国防
1.外交基本方針 「積極的中立」と呼ぶ外交方針を標榜し、軍事ブロックへの加入を拒みつつ地域の政治・安全保障に対して積極的にイニシアティヴをとろうとしている。95年12月に国連総会においては、同国の「永世中立国」としての地位が認められた。
ロシア・CIS諸国との関係では、92年5月の集団安全保障条約の署名を拒否。最近のCIS統合の動きに対しても冷淡な態度をとる一方、ロシアとの関係は重視。政治・経済両面で緊密な関係を維持している。
イスラム諸国との関係では、経済の関係強化を図っており、特にトルコ、イランと経済面での関係促進を図っている。現在、アフガニスタンとの外交関係を保持している。
2.軍事力 総兵力26,000(陸軍21,000、空軍4,300、海軍700)
(ミリタリー・バランス2004-2005)
経済(かっこ内は出典)
1.主要産業 鉱業(天然ガス・石油など)、農業(綿花)、牧畜
2.GNI 54.3億ドル(03年:世銀)
3.一人当たりGNI 1,120ドル(03年:世銀)
4.経済実質(GDP)成長率 23.1%(2003年:政府発表値)
5.物価上昇率 20.1%(99年:政府発表値)
6.失業率 (未公表)
7.総貿易額 (04年:政府発表値)
(1)輸出 38.7億ドル
(2)輸入 33.2億ドル
8.主要貿易品目 (1)輸出 天然ガス、綿花、石油製品(以上で85%を占める)、繊維製品、電力
(2)輸入 食料品、航空機、船舶、機械及び機械部品、卑金属
9.主要貿易相手国 (1)輸出 (1)ロシア(2)イタリア(3)イラン(4)トルコ(5)ウクライナ(00年:政府発表値)
(2)輸入 (1)ロシア(2)トルコ(3)ウクライナ(4)UAE(5)日本(00年:政府発表値)
10.通貨 マナト(Manat:93年11月1日導入)(CIS統計委員会)
11.為替レート 1ドル=5,200マナト(05年6月23日現在)
12.経済概況 旧ソ連時代は、天然ガス、綿花等の資源・原料の供給地と位置づけられていたため、産業が育っておらず、経済面では未だ発展途上の段階にある。現在は世界有数の埋蔵量を誇る天然ガスの輸出によって獲得した外貨を活用して産業を育成するよう努めている。
天然ガスの主要輸出相手国であるウクライナ、グルジア等によるガス代金の支払遅滞などのため、97年頃より経済状況は急速に悪化した。
しかし、99年12月、ロシアと年間200億m3の天然ガスの輸出契約を新規に締結したほか、2000年5月には将来的に年間500〜600億m3程度まで輸出量を増加する協定を結んでおり、今後大幅な収入の増加が期待されている。
農業部門は、隣国ウズベキスタンやタジキスタンと同様に、大規模な灌漑による綿花生産が中心となっている。自給自足を目指しているが、独立後の収穫は低迷を続けている。
経済改革については、統制経済的性格の強い「漸進主義」を採用しており、市場経済化への動きは緩慢である。
経済協力
1.我が国の援助実績 (1)有償資金協力 約45.05億円 (03年度までの累計)
(2)無償資金協力 6億円 (03年度までの累計/文化・草の根無償等を含む)
(3)技術協力実績 3.86億円 (03年度までの累計)
2.主要援助国(02年) 米国、日本、ドイツ
二国間関係
1.政治関係 (1)国家承認日 1991年12月28日
(2)外交関係開設日 1992年4月22日
(3)我が国大使館開館 2005年1月1日
在日トルクメニスタン大使館は未開設
2.経済関係 (1)我が国の対トルクメニスタン貿易
(イ)貿易額(04年:財務省貿易統計)
輸出 55.7億円
輸入 2,100万円
(ロ)主要品目(04年:財務省貿易統計)
輸出 一般機械、鋼管、自動車
輸入 再輸出品、動植物性原材料
(2)我が国からの直接投資
なし。
5.在留邦人数 4人(04年10月現在)
6.在日当該国人数 6人(03年末現在)
7.要人往来 (1)往(1997年以降)
1997年7月 対ロシア・中央アジア対話ミッション(団長:小渕恵三衆議院議員)
2002年7月 シルクロード・エネルギー・ミッション(団長:杉浦正健外務副大臣)
2005年1月 逢沢外務副大臣
(2)来(1992年以降)
1992年10月 バザロフ副首相(旧ソ連支援東京会議に出席)
1994年10月 クリエフ対外経済関係大臣(第1回日本トルクメニスタン経済合同会議出席)
1996年9月 サパロフ副首相(第3回日本トルクメニスタン経済合同会議)
1999年8月 ハリコフ副首相
2000年3月 グルバンムラドフ副首相
2001年6月 ガンディモフ副首相(中央アジア諸国への投資促進会議に出席)
2003年11月 グルバンムラドフ副首相
8.二国間条約・取極 1995年1月11日 日ソ間で結んだ条約の承継を確認 -
トレベクハニム廟
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トレベクハニム廟の天井ドームの模様
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トレベクハニム廟の天井ドームの模様
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トレベクハニム廟の内部の装飾
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デジタルカメラが珍しいらしく撮影したばかりの画像を再生してみせる日本人観光客と現地の女性達
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クフナ・ウルゲンチの遺跡のある広大な平原は墓地にもなっており、写真のような区画が施されて市民の墓地としても利用されている。
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人や家畜に踏まれないように石の墓標を建ててある墓も多い。
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クトゥルグ・チムールのミナレット。
地元の観光客達も来ていて彼らの記念撮影に日本人も入ってくれと頼まれ、一緒にカメラに納まる日本人囲う客と地元の観光客 -
クトゥルグ・チムールのミナレット。
高さ60mあり、中央アジアでは一番高い。
木の葉隠れの芸術的な写真と自負しているもの -
スルタン・テケシュ廟。
円錐形の屋根に特徴がある。ホラズム王国黄金期の王様 -
クルクモッラーの丘。12世紀頃大図書館が設置されていた。
ホラズム・ハン国について東洋史辞典・創元社からその説明を引用すると以下の通りである。以下全て引用である。
1512年〜1920年。中央アジア・ウズベク族の3ハン国の一つ。アムダリア下流域のホラズム地方を領土とした国。当初ウルゲンチに都したが、17世紀(1615年頃)アムダリア河道の変化により、ヒバに首府が移された。1512年イルバルスがシェイバニ朝から自立し、建国した。後に宗家の没落にも直接影響を受けず、比較的安定した小ハン国が営まれた。17世紀カザーフ族や同系のボハラ・ハン国軍の侵略に苦しんだが、有名な歴史家アブルガージ・バハドゥル・ハン(在位1644〜1663)は有能な支配者として外敵をよく防いだ。やがて国内にクラント族が台頭し、イランのナーディル・シャーの一時的支配を受けたのちは、クラントの軍指令官が実権を握った。19世紀にはこの軍閥が自らハンを称した。アム・ダリア下流域では自然条件の変化とともに灌漑装置が放置され多くの耕地が砂漠化した。ムハンマド・ラソヒーム・ハン(在位1806〜1825)の拡大政策はこれと関係があり、周辺のカラカラパク、カザーフ、トルクメン族を服従させ、また、メルブに新しい町を作った。彼の死後内乱が続発する結果となりカラカラパクとの紛争はロシアの介入を招いた。1873年ロシアのカウフマン将軍に征服され、保護国となった。1920年ソ連政権により王政は廃止されたが24年ウズベク共和国に編入された。 -
イル・アルスラン廟。八角錐の屋根。
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遺跡の補修作業
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キャラバン・サライ(隊商宿)の入り口
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道路補修工事中の二つの廟。
左 ネジメッディン・クブラー廟 14世紀
右 スルタン・アリ廟 17世紀
いずれも当時の新興宗教の指導者の廟でネジメッティン・クブラーは開祖。スルタン・アリはその弟子である。 -
ネジメッディン・クブラー廟とスルタン・アリ廟に至る道路の補修工事
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スルタン・アリ廟
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ネジメッディン・クブラー廟
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ネジメッディン・クブラー廟内の装飾
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タシャウズのウズボイ・レストランの夕食のメインディッシュ、ビーフハンバーグ
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