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6月11日から2週間6月24日まで札幌に滞在しました。滞在中晴天続きで札幌の若葉の季節を満喫しました。以下まじめに歴史勉強記です。ご興味ある方はお付き合い下さい。<br /><br />私が興味を持ったのは北海道の開拓の歴史でした。テ-マとしては?明治初期のお雇い外国人の足跡?明治初期の囚人労働はどうだったのか。でした。北海道は開拓地として米国、豪州と似通った歴史を持っています。先住民族を駆逐し、開発の初期に囚人労働を使った。そして、移民として集まった人々はそれまでの土着的、血縁的束縛から逃れ新天地で新しい社会を形成していった。<br />表紙の絵は北海道開拓村を訪れた際に見学した駅逓所の窓からのスケッチです。素晴らしい晴天の日、太陽の光が溢れておりました。<br /><br />

北海道開拓勉強記

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2005/06/11 - 2005/06/24

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木場三郎

木場三郎さん

6月11日から2週間6月24日まで札幌に滞在しました。滞在中晴天続きで札幌の若葉の季節を満喫しました。以下まじめに歴史勉強記です。ご興味ある方はお付き合い下さい。

私が興味を持ったのは北海道の開拓の歴史でした。テ-マとしては?明治初期のお雇い外国人の足跡?明治初期の囚人労働はどうだったのか。でした。北海道は開拓地として米国、豪州と似通った歴史を持っています。先住民族を駆逐し、開発の初期に囚人労働を使った。そして、移民として集まった人々はそれまでの土着的、血縁的束縛から逃れ新天地で新しい社会を形成していった。
表紙の絵は北海道開拓村を訪れた際に見学した駅逓所の窓からのスケッチです。素晴らしい晴天の日、太陽の光が溢れておりました。

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  • 北海道大学内にクラ-ク博士の銅像があり、札幌の代表的観光スポットのひとつとなっております。それから羊が丘という公園(農業試験場の一部)にもクラ-ク博士の大きな像があり、ここにも観光客が集まっておりました。クラ-ク博士は北海道のハイカラなイメ-ジ形成に大変寄与している人物と思いますが、彼が札幌農学校勤務したのは1877年から1878年にかけてたった8ヶ月に過ぎません。彼はマサチュ-セッツ農業大学の学長の任にあり、1年以上は本国を留守にできなかった事情があったようです。当時の札幌農学校より育った著名人は内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾等がおり彼らはクラ-ク博士の影響を受けて成長したと言われておりますが実際は、全員農学校二期生で入学したのはクラ-ク博士の米国帰国後でした。<br />だったらクラ-ク博士がなぜにこんなに高名なのだろうかとの疑問が生じました。文献を読んでみると、確かに彼の影響力は絶大だったようです。まず彼が直接指導した札幌農学校一期生は全員クラ-ク博士に心酔し勧められてキリスト教に入信。その余韻で二期生の大半も入信したようです。直接薫陶を受けていないニ期生までも感化を受けるほどクラ-ク博士は偉大だったのです。クラ-ク博士の精神は清教徒精神です。博愛と自由と独立を旨として自己と社会の発展の為に突き進む。封建体制が崩れた日本における北海道という開拓地にてクラ-ク博士の一言一言が学生達を感動させたに違いありません。16世紀末に来日したフランシスコザビエルに匹敵する影響力を持っていたと推測します。<br />従来の地縁血縁から完全に自由な北海道という土地でクラ-ク博士と学生達の出会いが奇跡的な盛りあがりになった。彼は生徒達にこの上なく慕われ、彼の帰国の日生徒たちは分れ難く札幌から20kmも離れた島松という所まで後をついていったそうです。旧北海道庁の2階に大きな別れの図が掲げてありました。その絵はクラ-ク博士が馬上より「少年よ大志を抱け」と別れの言葉を発して馬に鞭打ち走り去ろうとしているところを表しておりました。<br />米国帰国後のクラ-ク博士は一年後にはマサチュ-セッツ農業大学長の職を辞しその後何の業績も無く日本のことを懐かしみながら一生を終えたそうです。札幌郊外にある開拓記念館で日本の学生とクラ-ク博士間の帰国後往復書簡を読みました。お互い恋人の様に会いたい会いたいと求め合っているのです。期間が短かっただけに尚更かけがえの無い凝縮した時間があったのでしょう。いずれにせよ人々が向上心に満ちていた時代の美しい物語です。そして「少年よ大志を抱け」とするその精神は普遍的に価値あると思います。どんな世でも社会のリ-ダ-たらんとする人々(これが大志の意味)が絶対に必要だからです。<br /><br />2枚目の絵は羊が丘公園のクラ-ク博士立像です。札幌市街を遠望する丘に広大な農園が広がっています。中央部遠く札幌ド-ムが見えておりました。<br />

    北海道大学内にクラ-ク博士の銅像があり、札幌の代表的観光スポットのひとつとなっております。それから羊が丘という公園(農業試験場の一部)にもクラ-ク博士の大きな像があり、ここにも観光客が集まっておりました。クラ-ク博士は北海道のハイカラなイメ-ジ形成に大変寄与している人物と思いますが、彼が札幌農学校勤務したのは1877年から1878年にかけてたった8ヶ月に過ぎません。彼はマサチュ-セッツ農業大学の学長の任にあり、1年以上は本国を留守にできなかった事情があったようです。当時の札幌農学校より育った著名人は内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾等がおり彼らはクラ-ク博士の影響を受けて成長したと言われておりますが実際は、全員農学校二期生で入学したのはクラ-ク博士の米国帰国後でした。
    だったらクラ-ク博士がなぜにこんなに高名なのだろうかとの疑問が生じました。文献を読んでみると、確かに彼の影響力は絶大だったようです。まず彼が直接指導した札幌農学校一期生は全員クラ-ク博士に心酔し勧められてキリスト教に入信。その余韻で二期生の大半も入信したようです。直接薫陶を受けていないニ期生までも感化を受けるほどクラ-ク博士は偉大だったのです。クラ-ク博士の精神は清教徒精神です。博愛と自由と独立を旨として自己と社会の発展の為に突き進む。封建体制が崩れた日本における北海道という開拓地にてクラ-ク博士の一言一言が学生達を感動させたに違いありません。16世紀末に来日したフランシスコザビエルに匹敵する影響力を持っていたと推測します。
    従来の地縁血縁から完全に自由な北海道という土地でクラ-ク博士と学生達の出会いが奇跡的な盛りあがりになった。彼は生徒達にこの上なく慕われ、彼の帰国の日生徒たちは分れ難く札幌から20kmも離れた島松という所まで後をついていったそうです。旧北海道庁の2階に大きな別れの図が掲げてありました。その絵はクラ-ク博士が馬上より「少年よ大志を抱け」と別れの言葉を発して馬に鞭打ち走り去ろうとしているところを表しておりました。
    米国帰国後のクラ-ク博士は一年後にはマサチュ-セッツ農業大学長の職を辞しその後何の業績も無く日本のことを懐かしみながら一生を終えたそうです。札幌郊外にある開拓記念館で日本の学生とクラ-ク博士間の帰国後往復書簡を読みました。お互い恋人の様に会いたい会いたいと求め合っているのです。期間が短かっただけに尚更かけがえの無い凝縮した時間があったのでしょう。いずれにせよ人々が向上心に満ちていた時代の美しい物語です。そして「少年よ大志を抱け」とするその精神は普遍的に価値あると思います。どんな世でも社会のリ-ダ-たらんとする人々(これが大志の意味)が絶対に必要だからです。

    2枚目の絵は羊が丘公園のクラ-ク博士立像です。札幌市街を遠望する丘に広大な農園が広がっています。中央部遠く札幌ド-ムが見えておりました。

  • 北海道では初期の開拓で囚人労働が大きな役割を果たしたそうです。今回札幌から電車で1時間強の石狩川に沿った町、月形町を訪ねました。当時樺戸集治監と呼ばれた監獄があったところで、監獄本部の建物が残されており現在は博物館となっています。明治14年(1881年)に設立されその後廃監されるまでの39年間の間にこの監獄では約1000人の囚人労働者が死亡しております。その労働条件が過酷であったことが分ります。鉄の玉を鉄の鎖で足に巻きつけられたままでの労働でした。当時の考え方は囚人労働力は人件費がかからない。仮に死亡してもその分囚人を養う経費が軽減できると言うものでした。集治監はこの月形以外にも空知、釧路に設立され開墾作業に加え道路建設、石炭採鉱等開拓に重要な作業をおこなったそうです。<br />囚人労働が人道的理由で廃止された後、その過酷な労働を担うのはタコと呼ばれた監禁労働者達だったそうで、それには多くの朝鮮人、中国人達が含まれていたそうです。<br />囚人労働のこと、タコ労働のことそれから韓国人中国人強制労働は北海道開発に伴う大変暗い側面です。これらにつき現代の我々も実態につき知らなければならないでしょう。<br /><br />JR月形駅では不良男女高校生がたむろしておりました。君達は月形の町が北海道開拓史上重要な役割を担っていたことを知っているの?月形町周辺の開墾、月形町の上水道建設、2つあるお寺建設はむかし囚人が行ったことを知ってるの? なんて説教じみたことを考えていました。<br /><br />添付は旧樺戸集治監本庁をスケッチしたものです。北海道の風雪に耐えたがっしりした立派な建物でした。人々の出入りが長年に渡った為玄関の石段が磨耗しておりました。<br /><br />北海道開拓の歴史を考えた場合アイヌ問題は重要事項です。今回も勉強のテ-マにしておりましたがまだ未消化でこの滞在記よりは除外しました。でも先住民族であって独自の言語と文化を持っていたのにそれが尊重されることなく明治以後和人に支配され同化されていった人権無視の歴史だったようです。<br />我々は幸いにも人権が尊重される時代に生きる事ができ、囚人ではないので行動の自由も持っています。すべて先人の悲劇を教訓とし今我々の人権と自由があると思います。<br />先立つものは乏しいのですがその自由を享受すべく旅を続けます。<br />次回は人のすなる憧れの欧州旅行に来週から行って参ります。<br /><br />

    北海道では初期の開拓で囚人労働が大きな役割を果たしたそうです。今回札幌から電車で1時間強の石狩川に沿った町、月形町を訪ねました。当時樺戸集治監と呼ばれた監獄があったところで、監獄本部の建物が残されており現在は博物館となっています。明治14年(1881年)に設立されその後廃監されるまでの39年間の間にこの監獄では約1000人の囚人労働者が死亡しております。その労働条件が過酷であったことが分ります。鉄の玉を鉄の鎖で足に巻きつけられたままでの労働でした。当時の考え方は囚人労働力は人件費がかからない。仮に死亡してもその分囚人を養う経費が軽減できると言うものでした。集治監はこの月形以外にも空知、釧路に設立され開墾作業に加え道路建設、石炭採鉱等開拓に重要な作業をおこなったそうです。
    囚人労働が人道的理由で廃止された後、その過酷な労働を担うのはタコと呼ばれた監禁労働者達だったそうで、それには多くの朝鮮人、中国人達が含まれていたそうです。
    囚人労働のこと、タコ労働のことそれから韓国人中国人強制労働は北海道開発に伴う大変暗い側面です。これらにつき現代の我々も実態につき知らなければならないでしょう。

    JR月形駅では不良男女高校生がたむろしておりました。君達は月形の町が北海道開拓史上重要な役割を担っていたことを知っているの?月形町周辺の開墾、月形町の上水道建設、2つあるお寺建設はむかし囚人が行ったことを知ってるの? なんて説教じみたことを考えていました。

    添付は旧樺戸集治監本庁をスケッチしたものです。北海道の風雪に耐えたがっしりした立派な建物でした。人々の出入りが長年に渡った為玄関の石段が磨耗しておりました。

    北海道開拓の歴史を考えた場合アイヌ問題は重要事項です。今回も勉強のテ-マにしておりましたがまだ未消化でこの滞在記よりは除外しました。でも先住民族であって独自の言語と文化を持っていたのにそれが尊重されることなく明治以後和人に支配され同化されていった人権無視の歴史だったようです。
    我々は幸いにも人権が尊重される時代に生きる事ができ、囚人ではないので行動の自由も持っています。すべて先人の悲劇を教訓とし今我々の人権と自由があると思います。
    先立つものは乏しいのですがその自由を享受すべく旅を続けます。
    次回は人のすなる憧れの欧州旅行に来週から行って参ります。

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この旅行記へのコメント (5)

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  • チビケイさん 2005/07/10 22:47:39
    北海道開拓の・・・やっぱり心和む木場さんの絵(*'ー'*)ノ~~ 感謝です!
    木場さんの優しい絵を見たくてコッソリお邪魔してみると
    新しい旅行記が出ていて嬉しく見せて頂いていました(*'ー'*)ノ~~

    いつ拝見しても優しい包み込むような暖かい色と雰囲気の絵が
    心を癒して貰えて感謝です♪(⌒ー⌒)o∠★:゚*'

    クラーク博士のお話や、他国の囚人労働者達のお話を読ませて
    頂きながら切なさを覚える反面、あの広大な土地を今日のように
    開拓できた事・・・
    北海道には行った事がありませんが北海道出身の友人から
    聞く北海道、そして北海道人としての誇り・・・
    興味深いです。

    何時も思うのですが木場さんの絵を拝見しながらの
    お話しはその歴史がとても哀しいものであっても
    絵のお陰で少し緩和されます(#^.^#)
    写真では表現できない木場さんの心情も絵にこもっているのでしょうね♪

    いつも木場さんの絵を楽しませて貰えて嬉しいです。
    またお邪魔させて下さい<(_ _*)>

    本当に素敵な絵は何よりも心を和ませて貰えるんですね(* ^-^)♪
  • つつきさん 2005/07/10 18:11:57
    クラークさんの像
    こんばんは、木場三郎さん。

    お久しぶりにお邪魔してます、つつきです。

    北海道旅行記、拝見しました。
    そういや、昔私も行ったな〜…とふらりと拝見したんですが、本当にその背景までじっくりしっかりつかんで旅をされている姿勢に頭が下がります。

    私なんて本当に気軽に親友と訪れたので、クラークさんの像の横に二人並んであのポーズ(右手を宙に指して「ボーイズ、ビー、アンビシャス!」の姿勢)をとってハイポーズ、で終わってました。
    いやはやお恥ずかしい…若かったなぁ。

    最近の私は旅行に行けてなくて少々しょげ気味だったので、ブログ代わりに自分のところの掲示板に思い出し日記なんてものをつけはじめてみました。
    旅行記に乗せ損ねたコネタとか、ふと思い出して噴出しちゃったある日の出来事とか…(笑)。
    もしよかったら覗きに来てみてください。
    といってもまだ2日目ですが…続くかな?
  • さすらいおじさんさん 2005/07/10 10:19:00
    素晴らしい北海道旅行記だと思います。
    木場三郎さん 素敵なスケッチと詳しいご説明、じっくり拝見しました。
    クラーク博士がたった8ヶ月で日本の若者にこれだけ大きな影響を与えたことに改めて驚きます。新渡戸稲造は2期生だったのですか。台湾では稲作指導者として教科書に載るほどの恩人と聞きました。台湾の親日思想にも影響を与えてくれた新渡戸稲造も間接的にクラーク博士の博愛精神を学んだのでしょうね。
    北海道開拓労働で犠牲になった囚人のお話で、シベリア開拓労働で犠牲になった多くの日本人を連想しました。中国、朝鮮の犠牲者への感謝の気持ちも忘れてはいけないですね。一人一人の感謝の気持ちが反日感情をやわらげてゆくのではないでしょうか。
    アイヌの人達の差別の歴史、文化には強い関心があります。私も北海道の旅行記を作るときはアイヌ問題にふれてみたいと思っています。素晴らしい旅行記だと思います。10票投じたいところですが、1票でご勘弁ください。

    木場三郎

    木場三郎さん からの返信 2005/07/10 16:25:23
    身に余るお言葉
    さすらいおじさんへ

    大旅行家たるさすらいおじさんよりかくもありがたいお言葉を頂き身に余る光栄と存じます。身勝手で面白くない我旅行記をかくも勇気付けて頂き、感涙です。

    14日からスイス、ドイツ、パリへ約3週間の旅に出ます。我々の生きている時代までやはり欧米文化が世界を主導してきた思いますのでそれに直接触れる機会と思い楽しみです。さすらいおじさんのペ-ジからも無断で沢山の情報を頂戴しました。
    常に範として参照しております。

    さすらいおじさん

    さすらいおじさんさん からの返信 2005/07/10 19:07:06
    RE: 身に余るお言葉
    木場三郎さん

    >14日からスイス、ドイツ、パリへ約3週間の旅に出ます。我々の生きている時代までやはり欧米文化が世界を主導してきた思いますのでそれに直接触れる機会と思い楽しみです。さすらいおじさんのペ-ジからも無断で沢山の情報を頂戴しました。
    常に範として参照しております。

    私はただの旅好きですから、お言葉恥ずかしいです。スイス、ドイツ、パリは私も今年の4月に行きましたが少し寒かったです。いずれの文化も素晴らしかったですね。どうぞお楽しみください。
    私は13日からイランに行きます。イランのイスラム文化を見たいと思っています。
    私の情報が多少でもお役に立てれば嬉しく思います。

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