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5月後半に母と女房を連れて島原・天草旅行をしてきました。島原と本渡それから牛深でそれぞれ温泉に一泊しました。テ-マは天草四郎の島原の乱と切支丹の歴史探訪です。<br />初日は大牟田より船で島原に渡りまず島原城を見学しました。小雨の中でしたが島原城を仰ぎ見た時この城は巨大な眉山を背景にしていることに気が付きました。この山は1792年に真っ二つに割れて半分が島原の町を襲い海に流れ込んだそうです。現在ではその残った半分が深い緑に覆われて屏風の様に切立って町の背景となっているのです。ホテルの窓から見える島原港近くに多くの島々がぽかりぽかりと浮かんでいました。これらは眉山崩落時の残骸であることを知りました。表紙は島原のホテルから島原港を臨んでスケッチしたものです。熊本からのフェリ-が静かに入港しておりました。眉山崩壊時にできた小島が美しい。<br />島々や千々にくだけて夏の海(芭蕉)<br />偶然ですが島原のホテルでNHKテレビを見ていたら作家のリ-ビ英雄が出演しており、9.11のワ-ルドトレ-ドセンタ-崩壊を表す適切な日本語はこの芭蕉の「千々にくだけて」だと言ってました。<br />芭蕉は松島を吟じておりますが、この句は寧ろ島原にぴったりでしょう。<br />島原城は関が原の戦い後の初代殿様である松倉重政が建立した城です。島原には既に原城、日の江城等の立派な城が存在していたにもかかわらず新たに島原に城を設けることは農民からの年貢徴収を過大とし、それが後の切支丹農民蜂起の背景になったそうです。<br /><br /><br />翌日は島原鉄道に乗って今回の旅行のハイライトである原城へ行きました。1637年の末から1638年の初めまで約3ヶ月間37,000人の切支丹が篭城した場所です。原城駅を下りると眼前に原城跡の小高い丘が見えます。周囲並びに城内に畑が広がりその間を本丸まで登りました。大半の石垣は島原城築城に利用されたそうで、城の名残を残す石垣部分は少なくなっておりました。訪れる人も殆どおらず、晴天下我々3人はしばしベンチに座り島原湾の広がりを眺めておりました。37,000人もの蜂起に幕府は相当慌てたそうです。傭兵はおりませんから37,000人一人残らず殺されたそうです。切支丹弾圧と厳しい年貢の取立てに困窮し、死を前提とした絶望的な戦いであったそうです。<br /><br />

島原天草の旅・天草で仰天

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2005/05/18 - 2005/05/21

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木場三郎

木場三郎さん

5月後半に母と女房を連れて島原・天草旅行をしてきました。島原と本渡それから牛深でそれぞれ温泉に一泊しました。テ-マは天草四郎の島原の乱と切支丹の歴史探訪です。
初日は大牟田より船で島原に渡りまず島原城を見学しました。小雨の中でしたが島原城を仰ぎ見た時この城は巨大な眉山を背景にしていることに気が付きました。この山は1792年に真っ二つに割れて半分が島原の町を襲い海に流れ込んだそうです。現在ではその残った半分が深い緑に覆われて屏風の様に切立って町の背景となっているのです。ホテルの窓から見える島原港近くに多くの島々がぽかりぽかりと浮かんでいました。これらは眉山崩落時の残骸であることを知りました。表紙は島原のホテルから島原港を臨んでスケッチしたものです。熊本からのフェリ-が静かに入港しておりました。眉山崩壊時にできた小島が美しい。
島々や千々にくだけて夏の海(芭蕉)
偶然ですが島原のホテルでNHKテレビを見ていたら作家のリ-ビ英雄が出演しており、9.11のワ-ルドトレ-ドセンタ-崩壊を表す適切な日本語はこの芭蕉の「千々にくだけて」だと言ってました。
芭蕉は松島を吟じておりますが、この句は寧ろ島原にぴったりでしょう。
島原城は関が原の戦い後の初代殿様である松倉重政が建立した城です。島原には既に原城、日の江城等の立派な城が存在していたにもかかわらず新たに島原に城を設けることは農民からの年貢徴収を過大とし、それが後の切支丹農民蜂起の背景になったそうです。


翌日は島原鉄道に乗って今回の旅行のハイライトである原城へ行きました。1637年の末から1638年の初めまで約3ヶ月間37,000人の切支丹が篭城した場所です。原城駅を下りると眼前に原城跡の小高い丘が見えます。周囲並びに城内に畑が広がりその間を本丸まで登りました。大半の石垣は島原城築城に利用されたそうで、城の名残を残す石垣部分は少なくなっておりました。訪れる人も殆どおらず、晴天下我々3人はしばしベンチに座り島原湾の広がりを眺めておりました。37,000人もの蜂起に幕府は相当慌てたそうです。傭兵はおりませんから37,000人一人残らず殺されたそうです。切支丹弾圧と厳しい年貢の取立てに困窮し、死を前提とした絶望的な戦いであったそうです。

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  • 原城の後は天草へのフェリ-が出る口之津へ移動しました。小高い山に囲まれた小さな湾の周囲に町が細長く広がっていました。この町も興味深い町です。天然の良港として切支丹大名の有馬義貞がポルトガル船を招聘し一時は南蛮貿易の盛んな時期があったそうです。その後鎖国で衰退しましたが、明治の殖産工業政策下、,三井物産の三池地区の石炭積み出し港として再び栄えました。三井物産は輸出用に大型石炭船を数船保有しましたががそれが三井商船船舶の母体となった。加えて口之津には国立船員学校も設立されその後世界を駆け巡る日本人船員を多数輩出する町となったそうです。現代では過去の全てを失い静かな町に戻っていました。添付スケッチは口之津の旧税関で現歴史民族資料館です。我母の姿も描き加えておきました。司馬遼太郎が街道をゆくで口之津を訪ねた際に廃屋となっていたこの旧税関建物を博物館にして活用したらとの感想を述べておりますが、その通りになっていました。町の栄枯盛衰が実感される大変面白い資料館です。<br /><br />

    原城の後は天草へのフェリ-が出る口之津へ移動しました。小高い山に囲まれた小さな湾の周囲に町が細長く広がっていました。この町も興味深い町です。天然の良港として切支丹大名の有馬義貞がポルトガル船を招聘し一時は南蛮貿易の盛んな時期があったそうです。その後鎖国で衰退しましたが、明治の殖産工業政策下、,三井物産の三池地区の石炭積み出し港として再び栄えました。三井物産は輸出用に大型石炭船を数船保有しましたががそれが三井商船船舶の母体となった。加えて口之津には国立船員学校も設立されその後世界を駆け巡る日本人船員を多数輩出する町となったそうです。現代では過去の全てを失い静かな町に戻っていました。添付スケッチは口之津の旧税関で現歴史民族資料館です。我母の姿も描き加えておきました。司馬遼太郎が街道をゆくで口之津を訪ねた際に廃屋となっていたこの旧税関建物を博物館にして活用したらとの感想を述べておりますが、その通りになっていました。町の栄枯盛衰が実感される大変面白い資料館です。

  • 口之津よりフェリ-で天草の鬼の池へ渡りました。しばし鬼の池の町中を探検して仰天しました。戦前の町並みが奇跡の如くそのまま残っているのです。漁村特有の狭い曲がった路地を伝って歩いてみたのですが、家々は昔の古い作りを保ち人々がそのまま住んでおられました。整然とした化石の町です。その落ち着き、静けさに魅了されました。日本の村の例に漏れず立派なお寺と神社が町中にでんと構えており今でもその共同体の中心施設として役割を担っていると思われました。この町に流れている風は日本人の誰もが知っているあの懐かしい風です。<br />有名な島原の子守唄の歌詞で“早よ寝ろ泣かんでオロロンバイ鬼の池ん久助どんの連れんこらるばい”と鬼の池(オンノイケ)の人攫いが攫いに来るとの部分があります。昔、この鬼の池は人攫いがいる場所だったのでしょうか?海を隔てた島原の人々にとって何かおそろしい場所だったのでしょう。島原天草には困窮の歴史があった様です。だからからゆきさんなんかが出てきた。天草側からゆきさんは鬼の池から女衒に導かれ船に乗って口之津に停泊している石炭船に潜入して南方へ向かったそうです。<br />添付のスケッチは鬼の池で見かけた神社です。明るい太陽が燦燦と降り注ぎ聖地の雰囲気を強くかもし出しておりました。沖縄同様ここにもまだ魔物が住んでいます。素晴らしい。<br /><br />その日は本渡のホテルに泊まり翌朝本渡の天草切支丹館を見学しました。ここでは所長様のお時間を頂き長々と島原の乱につき説明を受けることができました。<br />天草には何十人ものイエズス会宣教師が滞在しセミナリオ(中学校)、コレジオ(大学)にてラテン語、ポルトガル語、数学、天文学、西洋音楽、西洋絵画が教えられ日本最初の西洋文化受容がここで行われていました。<br />天正の少年使節が持ちかえった印刷機、オルガン、西洋弦楽器を青年達が使っていたというのです。16世紀後半の時期にあってわくわくするような状況です。<br />その短い期間、天草は日本の先端地域で、欧州文化の種が大量に蒔かれたのです。その後芽は根こそぎ殲滅されましたが、そのような弾圧がなければ日本文化の歴史の中に大変おもしろい状況が産まれたのではないでしょうか。<br /><br />帰りは牛深の港から船に乗り水俣へ移動しました。船は美しい天草の島々を巡って進みます。我母がウオ-クマンのイヤホンを差し出し一緒に聞けと言います。しばし外界から遮断され景色と音楽を楽しみました。<br />我母は大正生まれですが島原の乱について学校でも家庭でも教わることはなかったそうで,今回の探訪旅行は大変印象深かったようです。<br /><br /><br /><br /><br /><br />

    口之津よりフェリ-で天草の鬼の池へ渡りました。しばし鬼の池の町中を探検して仰天しました。戦前の町並みが奇跡の如くそのまま残っているのです。漁村特有の狭い曲がった路地を伝って歩いてみたのですが、家々は昔の古い作りを保ち人々がそのまま住んでおられました。整然とした化石の町です。その落ち着き、静けさに魅了されました。日本の村の例に漏れず立派なお寺と神社が町中にでんと構えており今でもその共同体の中心施設として役割を担っていると思われました。この町に流れている風は日本人の誰もが知っているあの懐かしい風です。
    有名な島原の子守唄の歌詞で“早よ寝ろ泣かんでオロロンバイ鬼の池ん久助どんの連れんこらるばい”と鬼の池(オンノイケ)の人攫いが攫いに来るとの部分があります。昔、この鬼の池は人攫いがいる場所だったのでしょうか?海を隔てた島原の人々にとって何かおそろしい場所だったのでしょう。島原天草には困窮の歴史があった様です。だからからゆきさんなんかが出てきた。天草側からゆきさんは鬼の池から女衒に導かれ船に乗って口之津に停泊している石炭船に潜入して南方へ向かったそうです。
    添付のスケッチは鬼の池で見かけた神社です。明るい太陽が燦燦と降り注ぎ聖地の雰囲気を強くかもし出しておりました。沖縄同様ここにもまだ魔物が住んでいます。素晴らしい。

    その日は本渡のホテルに泊まり翌朝本渡の天草切支丹館を見学しました。ここでは所長様のお時間を頂き長々と島原の乱につき説明を受けることができました。
    天草には何十人ものイエズス会宣教師が滞在しセミナリオ(中学校)、コレジオ(大学)にてラテン語、ポルトガル語、数学、天文学、西洋音楽、西洋絵画が教えられ日本最初の西洋文化受容がここで行われていました。
    天正の少年使節が持ちかえった印刷機、オルガン、西洋弦楽器を青年達が使っていたというのです。16世紀後半の時期にあってわくわくするような状況です。
    その短い期間、天草は日本の先端地域で、欧州文化の種が大量に蒔かれたのです。その後芽は根こそぎ殲滅されましたが、そのような弾圧がなければ日本文化の歴史の中に大変おもしろい状況が産まれたのではないでしょうか。

    帰りは牛深の港から船に乗り水俣へ移動しました。船は美しい天草の島々を巡って進みます。我母がウオ-クマンのイヤホンを差し出し一緒に聞けと言います。しばし外界から遮断され景色と音楽を楽しみました。
    我母は大正生まれですが島原の乱について学校でも家庭でも教わることはなかったそうで,今回の探訪旅行は大変印象深かったようです。





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  • チビケイさん 2005/06/08 14:46:12
    ‘島原天草の旅・天草で仰天’絵に感動しつつ切支丹弾圧のお話し拝見させて頂きました('-'*)アリガト♪
    木場さん(* ^-^)ノお邪魔してます♪

    切支丹弾圧の悲しい歴史を拝見しながら少し哀しい気分になりますが(^^ゞ
    それでも、木場さんの柔らかい絵を見せてもらえて
    とっても心が和みました(*'ー'*)ノ~~

    本当に優しい色合いと暖かさを感じさせて貰える絵には
    いつもの事ながら感動です(#^.^#)

    木場さん、ずっとこの素晴らしい絵を描き続けて下さいね。
    ここへお邪魔して木場さんの絵を見せていただけると
    何だかホッとします(^^♪

    <(_ _*)> アリガトォゴザイマス♪

    木場三郎

    木場三郎さん からの返信 2005/06/08 20:11:13
    私の面白く
    チビケイさんへ

    私の面白くない旅行記に投票頂きありがとうございます。数少ない理解者として今後もご支援お願いしますね。ところでうわさによるとチビケイさんはまたもやバリ島へ出発だそうですね。旅行記必ず読みますよ。

木場三郎さんのトラベラーページ

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