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「川島芳子」は「山口淑子」とともに旧満州で戦乱の歴史に翻弄された「二人のヨシコ」と呼ばれている。二人の大きな違いは「山口淑子」が中国人になった平民の日本人であったのに対し「川島芳子」は清王朝の王女として生まれ、日本人の養女になった、つまり日本人になった中国人である点。そして「山口淑子」が日本人である証明ができて処刑を免れたのに対し「川島芳子」はその証明ができずにスパイとして銃殺刑に処された点である。<br />「川島芳子」(1907−1948年)は清王朝の粛親王の第4側室を母に第14王女として生まれ、本名は愛新覚羅顕し。ラスト・エンペラーの愛新覚羅溥儀とはいとこ関係である。<br />粛親王は日本の四国の2倍もあると言われる膨大な領地や財産を守るために日本が日露戦争に勝った1905年以降満州独立工作をする大陸浪人たちと交流した。芳子は6歳の時に大陸浪人の一人、川島浪速の養女となり、同時に粛親王と川島浪速は義兄弟の契りを結んだ。粛親王は清王朝復辟(ふくへきー退位した王を王座に戻す)運動における代理人に川島浪速を指名している。即ち、粛親王は自分の地位を復活させ膨大な財産を保護するために関東軍とチャネルを持つ日本人と親戚関係を結ぶために娘を人質にした訳だ。<br />子供が無かった川島浪速は来日した6歳の娘に良雄と名付け男として育てた。成長に伴い女として良子、芳子と名を変え女学校に進学させるが男勝りの性格が受け入れられなかったのか、松本高女を退学になっている。その後川島浪速が独自の指導をしたというのだが、一説には養父と寝室を供にさせられていたと言われ、そのような生活に嫌気がさしたのだろう、17歳の秋には断髪、女を捨てて男として生きる決心をし中国上海の兄を訪ねた。1927年20歳の時に幼なじみのモンゴルの王族カンジュルジャップに乞われて結婚するが3年後離婚する。運命的なことは1930年10月に特務機関員の田中隆吉陸軍中佐と上海で出会ったことだ。田中が素敵に見えたのだろう、芳子は田中にのめり込んで行く。田中は計算ずくだったのか、芳子を愛人にしてスパイに育てた。<br />1932年にラスト・エンペラー溥儀を皇帝として日本が長春を国都に満州国独立を宣言したとき、皇后の婉容は天津の日本租界にかくまわれており、婉容を脱出させる役割が芳子に与えられ見事に成功する。その後も田中の指示で孫文の長男孫科に接触して蒋介石の情報を収集。時には男装、時には清朝の王女、時にはダンスホールやクラブのホステスになりすましスパイ活動をした。<br />川島芳子の活躍はやがて「東洋のマタ・ハリ」(マタ・ハリー1876−1917年、第1次大戦前後にドイツのスパイとなった踊子でフランスで捕らえられ銃殺された。)とも「男装の麗人」とも言われるようになった。1945年8月15日、日本の敗戦に伴い北京で国民政府に逮捕される。李香蘭と同様に軍事法廷にかけられ、日本人であることの証明をしようと画策するが認められず、1948年3月25日、売国奴として銃殺された。<br />瀋陽の故宮博物院は清朝建国の祖、ヌルハチと太宗の王宮であり、東陵、北陵は清朝の祖先の墓である。川島芳子は清朝の王女として、ヌルハチが築いた清王朝復辟のためにスパイとして命をかけたとも言われる。また、「五族協和」(漢、満州、蒙古、朝鮮、日本の5つの民族が協力して理想の国づくりをしようというスローガン)のために命をかけたとも言われる。<br />川島芳子は確かに清朝最後の王女として、清朝復辟の使命感はあったかもしれない。しかし、6歳で日本に養女にだされ17歳で養父から去り、結婚生活も続かず、その結果生きるために好きな男のいいなりになって、男のためにスパイになったが結局関東軍の道具として使われているに過ぎなかったということに、最後に気付いたのだろうと私は想像する。<br />なぜなら、芳子が銃殺された遺骸のポケットには女学生の頃から口ずさんでいた詩を書いた紙切れが出てきているからだ。<br />「家あれど帰り得ず、涙あれども語り得ず、法あれども正しさを得ず、冤(エンー恨み)あれども誰に訴えん」<br />そして、芳子は獄中から秘書小方八郎に遺言を伝えていた。「自分は人間(清朝一族とも日本人とも)と一緒に埋めてほしくない。かわいがっていた猿の福ちゃんや犬のポチは正直だ。福ちゃん、ポチといっしょに埋めてほしい」というものだった。<br />お守りのように肌身離さず身につけていた詩も遺言もなんと寂しいものだろう。清朝の王女という恵まれた世界に生まれながら、歴史の荒波に翻弄され続け、ついには信用できる人間が一人もいなくなってしまった芳子。信用できるのは猿と犬だけとは悲し過ぎる運命だ。<br />瀋陽の故宮博物院、東陵、北陵を歩きながら、ここにもいた戦争の犠牲者、川島芳子の無念さに思いを馳せた。<br />(写真は故宮博物院の中の歴代皇帝が式典を行った大政殿)

中国・旧満州の旅【3】 悲運の女スパイ「川島芳子」を偲ぶ 瀋陽(旧奉天)

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2005/06/01 - 2005/06/07

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さすらいおじさん

さすらいおじさんさん

「川島芳子」は「山口淑子」とともに旧満州で戦乱の歴史に翻弄された「二人のヨシコ」と呼ばれている。二人の大きな違いは「山口淑子」が中国人になった平民の日本人であったのに対し「川島芳子」は清王朝の王女として生まれ、日本人の養女になった、つまり日本人になった中国人である点。そして「山口淑子」が日本人である証明ができて処刑を免れたのに対し「川島芳子」はその証明ができずにスパイとして銃殺刑に処された点である。
「川島芳子」(1907−1948年)は清王朝の粛親王の第4側室を母に第14王女として生まれ、本名は愛新覚羅顕し。ラスト・エンペラーの愛新覚羅溥儀とはいとこ関係である。
粛親王は日本の四国の2倍もあると言われる膨大な領地や財産を守るために日本が日露戦争に勝った1905年以降満州独立工作をする大陸浪人たちと交流した。芳子は6歳の時に大陸浪人の一人、川島浪速の養女となり、同時に粛親王と川島浪速は義兄弟の契りを結んだ。粛親王は清王朝復辟(ふくへきー退位した王を王座に戻す)運動における代理人に川島浪速を指名している。即ち、粛親王は自分の地位を復活させ膨大な財産を保護するために関東軍とチャネルを持つ日本人と親戚関係を結ぶために娘を人質にした訳だ。
子供が無かった川島浪速は来日した6歳の娘に良雄と名付け男として育てた。成長に伴い女として良子、芳子と名を変え女学校に進学させるが男勝りの性格が受け入れられなかったのか、松本高女を退学になっている。その後川島浪速が独自の指導をしたというのだが、一説には養父と寝室を供にさせられていたと言われ、そのような生活に嫌気がさしたのだろう、17歳の秋には断髪、女を捨てて男として生きる決心をし中国上海の兄を訪ねた。1927年20歳の時に幼なじみのモンゴルの王族カンジュルジャップに乞われて結婚するが3年後離婚する。運命的なことは1930年10月に特務機関員の田中隆吉陸軍中佐と上海で出会ったことだ。田中が素敵に見えたのだろう、芳子は田中にのめり込んで行く。田中は計算ずくだったのか、芳子を愛人にしてスパイに育てた。
1932年にラスト・エンペラー溥儀を皇帝として日本が長春を国都に満州国独立を宣言したとき、皇后の婉容は天津の日本租界にかくまわれており、婉容を脱出させる役割が芳子に与えられ見事に成功する。その後も田中の指示で孫文の長男孫科に接触して蒋介石の情報を収集。時には男装、時には清朝の王女、時にはダンスホールやクラブのホステスになりすましスパイ活動をした。
川島芳子の活躍はやがて「東洋のマタ・ハリ」(マタ・ハリー1876−1917年、第1次大戦前後にドイツのスパイとなった踊子でフランスで捕らえられ銃殺された。)とも「男装の麗人」とも言われるようになった。1945年8月15日、日本の敗戦に伴い北京で国民政府に逮捕される。李香蘭と同様に軍事法廷にかけられ、日本人であることの証明をしようと画策するが認められず、1948年3月25日、売国奴として銃殺された。
瀋陽の故宮博物院は清朝建国の祖、ヌルハチと太宗の王宮であり、東陵、北陵は清朝の祖先の墓である。川島芳子は清朝の王女として、ヌルハチが築いた清王朝復辟のためにスパイとして命をかけたとも言われる。また、「五族協和」(漢、満州、蒙古、朝鮮、日本の5つの民族が協力して理想の国づくりをしようというスローガン)のために命をかけたとも言われる。
川島芳子は確かに清朝最後の王女として、清朝復辟の使命感はあったかもしれない。しかし、6歳で日本に養女にだされ17歳で養父から去り、結婚生活も続かず、その結果生きるために好きな男のいいなりになって、男のためにスパイになったが結局関東軍の道具として使われているに過ぎなかったということに、最後に気付いたのだろうと私は想像する。
なぜなら、芳子が銃殺された遺骸のポケットには女学生の頃から口ずさんでいた詩を書いた紙切れが出てきているからだ。
「家あれど帰り得ず、涙あれども語り得ず、法あれども正しさを得ず、冤(エンー恨み)あれども誰に訴えん」
そして、芳子は獄中から秘書小方八郎に遺言を伝えていた。「自分は人間(清朝一族とも日本人とも)と一緒に埋めてほしくない。かわいがっていた猿の福ちゃんや犬のポチは正直だ。福ちゃん、ポチといっしょに埋めてほしい」というものだった。
お守りのように肌身離さず身につけていた詩も遺言もなんと寂しいものだろう。清朝の王女という恵まれた世界に生まれながら、歴史の荒波に翻弄され続け、ついには信用できる人間が一人もいなくなってしまった芳子。信用できるのは猿と犬だけとは悲し過ぎる運命だ。
瀋陽の故宮博物院、東陵、北陵を歩きながら、ここにもいた戦争の犠牲者、川島芳子の無念さに思いを馳せた。
(写真は故宮博物院の中の歴代皇帝が式典を行った大政殿)

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  • 瀋陽の故宮博物院の崇政殿。清朝歴代皇帝が政務を司った場所。

    瀋陽の故宮博物院の崇政殿。清朝歴代皇帝が政務を司った場所。

  • 瀋陽の故宮博物院の崇政殿にはモンゴル文字に良く似た満州文字と漢字が併記されている。満州族はかつてモンゴル文字をそのまま使っていた時期があり、良く似ているそうだ。

    瀋陽の故宮博物院の崇政殿にはモンゴル文字に良く似た満州文字と漢字が併記されている。満州族はかつてモンゴル文字をそのまま使っていた時期があり、良く似ているそうだ。

  • 清朝の八旗軍の旗と戦闘服。

    清朝の八旗軍の旗と戦闘服。

  • 瀋陽の故宮博物院では満州族の民族衣装に身を包んだ女性がガイドをしている。

    瀋陽の故宮博物院では満州族の民族衣装に身を包んだ女性がガイドをしている。

  • 瀋陽の故宮博物院の鳳凰楼。17世紀ホンタイジの時代に建造された。

    瀋陽の故宮博物院の鳳凰楼。17世紀ホンタイジの時代に建造された。

  • 清王朝の陵墓は多くの門や城壁で外部からの侵入を守っている。

    清王朝の陵墓は多くの門や城壁で外部からの侵入を守っている。

  • 清朝建国の祖、ヌルハチの陵墓を守る東陵隆恩門。

    清朝建国の祖、ヌルハチの陵墓を守る東陵隆恩門。

  • 太祖高皇帝の陵。

    太祖高皇帝の陵。

  • 清朝建国の祖、ヌルハチの陵墓を守る東陵方城。

    清朝建国の祖、ヌルハチの陵墓を守る東陵方城。

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この旅行記へのコメント (4)

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  • D&Tさん 2006/01/05 15:22:24
    泣けました・・。
    さすらいおじさん。

    中国・旧満州の旅におじゃましました。
    悲運のスパイ「川島芳子」のお話、
    ありがとうございます。

    「家あれど 帰り得ず、
     涙あれど 語り得ず、
     法あれども 正しさを得ず、
     冤あれども 誰に訴えん」

    ・・・泣けました。哀しい詩ですね。

    戦争というのは、残酷ですね。
    平和であることに改めて感謝したいです。

    今平和な時代に生きている私は、
    日常生活でちょっと何かあると
    「これもこうなる運命だったんだろうな・・」と
    自分を納得させるタイプなのですが、
    戦争という時代を生きなくてはいけなかった方々は
    どのように考え、日々を過ごしていたんでしょうか・・。

    きっと今の時代よりも、もっといろいろなことを
    真剣に考えて生きていたに違いないですね。

  • すずかさん 2005/06/12 14:28:44
    二人のヨシコ
    さすらいおじさん、こんにちは
    二人のヨシコ拝見しました。

    同じ女性として、時代に利用され時代に翻弄された女性の一生悲しく思います。
    皇女として生まれて、時代に利用されて、最後は犬と猿だけを信じて殺されたスパイのヨシコさん。
    本当に悲しいの一言です。

    李コウランは知っていたのですが、スパイのヨシコさんの事は全然知りませんでした。

    それでは。。。

    すずか
  • チビケイさん 2005/06/12 01:26:04
    ’川島芳子‘の哀しい生き方、孤独が哀しいです(ーー;)
    さすらいおじさん2さん、‘悲運の女スパイ・川島芳子’
    拝見させて頂きました。

    中国と日本の便利な道具として生きなくてはならなかった
    女性のあまりに悲しい運命に切なくなります。
    大筋は映画や本で知っていましたが
    さすらいおじさんさんの、ご説明に当時の川島芳子の無念さ
    人間不信が痛いほどに伝わってきます。

    王女として何もなく生きて行ければ、戦争がなければ、
    日本人の養女にならなければなど色々考えてしまいますが
    生まれ持った宿命だったのでしょうか。。

    自分が平和に恵まれた中で育つことが出来た事を
    本当に感謝すべきですね(*^_^*)
    そして、日本と中国の在り方、今後の日中関係も
                色々考えさせられますね。

    今回も<(_ _*)> アリガトォゴザイマシタ

    さすらいおじさん

    さすらいおじさんさん からの返信 2005/06/12 02:29:15
    RE: ’川島芳子‘の哀しい生き方、孤独が哀しいです(ーー;)
    チビケイさん ‘悲運の女スパイ・川島芳子’ お読みいただきありがとうございます。

    >中国と日本の便利な道具として生きなくてはならなかった
    女性のあまりに悲しい運命に切なくなります。
    大筋は映画や本で知っていましたが
    さすらいおじさんさんの、ご説明に当時の川島芳子の無念さ
    人間不信が痛いほどに伝わってきます。

    私も動物は嘘をつかないので好きですが、信じられる人が一人もいない人生は悲しいですね。気持ちが重くなります。

    >王女として何もなく生きて行ければ、戦争がなければ、
    日本人の養女にならなければなど色々考えてしまいますが
    生まれ持った宿命だったのでしょうか。。

    戦争になれば皆、川島芳子のように不幸から逃れられないのですから、戦争の悲惨さを日本人一人ひとりが自覚しなければ---と思います。

    >自分が平和に恵まれた中で育つことが出来た事を
    本当に感謝すべきですね(*^_^*)
    そして、日本と中国の在り方、今後の日中関係も
                色々考えさせられますね。

    平和は有難いです。満州の旅では、特に2人のヨシコの生き様を私が感じたまま伝えたいと思いました。
    日中関係も9.18事変で私の考えを書きました。ほんとに難しい問題です。これも戦争が残した不幸だと思います。ていねいなコメントをありがとうございます。

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