1970/07 - 1971/07
30503位(同エリア35749件中)
ソフィさん
われわれ技術留学生の世話をしている政府機関「アステフ」は、セーヌ河に面したニューヨーク通りにあった。
この界隈はパリ市内でも緑が多く、とくにセーヌ河畔の水面に覆い被さるばかりに茂るプラタナスの大木群は、川を往き来する船からもついシャッターを切りたくなる見事さである。
このような緑に囲まれた「アステフ」は、バラックに近い粗末な建物だったが、それだけにどことなく親しみやすい雰囲気があった。
ドアを開ければ簡素な長椅子の並ぶサロンで、オープンカウンターの受付には、人馴れしたパリジェンヌが二人並んで座っている。
うまく気が合ったコンビで、一人は優しそうにニコニコと、もう一人は下町の女将風にガラガラと笑って、何時訪ねても遠来の客の心を和ませてくれた。
私の担当官は、マドマワゼル・シャリエさんだった。30才半ばとおぼしき彼女は二階に一室を構え、脇に年上の男性秘書をしたがえて、貫禄十分だ。
「これからの生活は彼女の手に握られている」
そう考えると、おのずと緊張した。
ここに来てわかったことだが、私の招聘状の遅れは留学先の未確定が原因だった。到着時、私の行程は5ケ月しか組まれていなかった。
一番期待していたフランス国鉄は、日本国鉄とのいざこざがあって、2週間しか行程が組まれていない。
新幹線の高速運転を可能にした技術の一つに、交流電化がある。日本におけるその技術の使用について、トラブルがあったのだ。
「せっかくの機会だから、一年間はここに居たい」
と私は申し出た。なぜ一年間か。それは、四季を体験してこそ、その風土が理解できると考えていたからである。
「気持ちはよく分かります。しかしそれができるかできないかは、あなたの努力次第です」
彼女の反応は冷たい。
しかし要は、「受入先を自分で探せばよい」ということなのだ。そう考えれば「期間の延長は相成らぬ」と言われるより、よほど好意的である。
その後彼女とは、留学生のあり方や東洋人観などにつき、かなり突っ込んだディベートの機会が何度もあって、次第にウマが合いだし、週一回リュクサンブールのカフェで出会って、日本語のレクチャーをするまで仲良くなる。
その間期間延長については、彼女も前向きに受け入れ先を探してくれるようになり、紆余曲折はあったが、結局一年間と言う目標は実現した。
最後には「もう一年延長しては」と誘われたが、こんどは私の方が辞退することになる。
フランス政府からの給費は、月当り750フラン(150ドル相当)。
当時日本での私の給料が100ドルだったから、ずいぶん多いように感じられるが、物価が高いのでたいした額ではない。パリでは大学卒の初任給程度だろう。
私は生活費を少しでも節約して貯金をし、ヨーロッパ各地を見て回る費用に当てたいと思っていたので、ますます楽ではない。
結局一日の宿代を含む生活費を2ドルにおさえようとして、ほぼ達成できたのだが、せっかくパリに住みながら、オペラやコンサートには滅多に行くことができなかった。
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