東プロイセンとハンザ都市を巡る旅でマルボルク城(Zamek w Malborku)/ マリーエンブルク城は外せない訪問地で...
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マルボルクのドイツ名はマリーエンブルク (Marienburg)、この街は琥珀貿易に携わり、ハンザ同盟にも加盟していた上に、一時はグダニスクを支配する立場にもあった。
そのマリーエンブルクには、世界一のレンガ造りの城として世界遺産にも登録されているマルボルク城があり、ここはポーランドとドイツの因縁の歴史が始まった象徴とも言える城である。
1410年7月のタンネンベルクの戦いは、ドイツ騎士団とポーランド王国-リトアニア大公国連合軍が激突する中世最大の戦闘であり、その後のマルボルク城の籠城戦も熾烈を極めた。書籍『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』には、その戦の手に汗握る展開が描写されている。
● マルボルク城(Zamek w Malborku)へ
● マルボルク城を築いたドイツ騎士団、ハンザ同盟との関係、ポーランド王国との確執
● タンネンベルクの戦い、『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』 山内進 著 を読む
● マルボルク城内部を巡る
● マルボルク城で見ることができるトイレ塔(Dansker)
マルボルク城ができる背景には、ドイツの東方植民という大きな流れがある。11世紀から北部や東部のドイツ諸侯は農民や商人をより東方に誘致し始めた。これと同時に非キリスト教徒であるスラブ民族に対する伝道や成敗する目的でドイツ騎士団が成立する。言ってみれば十字軍の北方版である。そのような東方植民の情勢下、当時異教徒に手を焼くポーランド王がドイツ十字軍をポーランド内に呼びよせることもあった。その呼び寄せられた騎士団が1274年に建てたのがマルボルク城である。その後、ドイツ騎士団が駐留する中、城の建設は230年続き、威容を誇るその姿は世界一のレンガ造りの城となっている。
そもそもポーランドが王国として成立したのが1025年であり、その際の領土は現在のチェコやスロヴァキアを含む広大な領土であった。しかし、その後近隣での反乱、神聖ローマ帝国との争い、タタール(モンゴル軍)の侵入など混乱が続く。
こうした混乱のポーランドにおいて、13世紀になるとドイツ騎士団との因縁が始まる。ポーランドが散々悩まされたのは近隣地域の異教徒であるプロイセン人やリトアニア人。彼等をキリスト教化する為、1226年にポーランドはドイツ騎士団を招き入れることにした。ただし、この後ドイツ騎士団は次々とポーランド内に都市を築き、強大な力を持つようになっていく。そして、しまいにはプロイセンなど豊かな国土の一部を領有するようにもなる。
1241年のワールシュタットの戦い(レグニツァの戦い)もこの渦中での出来事。この時、ポーランドはドイツ騎士団と組んでモンゴル軍を迎え撃った。ポーランドはモンゴル軍に大敗をきしたが、モンゴルの進軍はこの地でとまることになった。
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投稿日:2020/10/03