地元の経済発展の功労者だった清水 次郎長の生家
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- 旅行時期:2014/03(約12年前)
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by さすらいおじさんさん(男性)
清水 クチコミ:4件
清水 次郎長(しみずの じろちょう、1820−1893年)は、幕末・明治の侠客で本名山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)。浪曲、映画で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博し大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。1820年に駿河国有渡郡清水町美濃輪町(後の静岡県静岡市清水区)の船持ち船頭・高木三右衛門(雲不見三右衛門)の次男に生まれ母方の叔父にあたる米穀商の甲田屋の主山本次郎八は実子がなく次郎八の養子となった。清水港は富士川舟運を通じて信濃・甲斐方面の年貢米を江戸へ輸送する廻米を行っており、清水湊の廻船業者は口銭徴収を主とする特権的業者が主であったが、次郎長の生まれた箕輪町は清水湊(清水港)における新開地で父の三右衛門とは異なり自ら商品を輸送する海運業者であり叔父の次郎八は米穀仲買の株を持つ商人であることから三右衛門は次郎八を通じて米穀を輸送していたと考えられている。次郎長は妻帯して家業に従事するが一方では博奕を行い喧嘩も繰り返しており1843年、次郎長は喧嘩の果てに人を斬ると妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲ると江尻大熊ら弟分とともに出奔し無宿人となる。諸国を旅して修行を積み交際を広げ成長した次郎長は清水湊に一家を構えた。富士川舟運の権益を巡り甲州博徒と対立し抗争を繰り広げたが1868年、東征大総督府から駿府町差配役に任命された伏谷如水より街道警固役を任命され博打を止めた次郎長は清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目し蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立。清水 次郎長は侠客ではあるが地元の経済発展の功労者だったようだ。
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3.5
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.5
クチコミ投稿日:2014/05/07
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