勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)に近いJR長岡京駅(ながおかきょうえき)
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- 旅行時期:2009/11(約16年前)
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by さすらいおじさんさん(男性)
長岡京・向日 クチコミ:11件
長岡京駅(ながおかきょうえき)は、京都府長岡京市神足(こうたり)の西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の駅でかつての神足駅(こうたりえき)。勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)公園まで徒歩約10分。阪急京都線長岡天神駅の方が長岡京市の中心部にあり、阪急長岡天神駅には西口から徒歩約15分。
勝竜寺城(しょうりゅうじじょう)は、南北朝時代から江戸時代初期の城で1339年、南朝方に対抗するため北朝方の細川頼春(ほそかわ よりはる1304−1352年)が築いた城と言われているが、1457年に山城国守護・畠山義就(はたけやま よしなり1437−1491年)が築城したとの説もあり真実は不明だ。
勝竜寺城は細川忠興(ほそかわ ただおき1563−1646年)・細川ガラシャ(1563−1646年)ゆかりの城として有名だ。1578年、細川 幽斎こと藤孝(ほそかわ ゆうさい・ふじたか1534−1610年)の息子・細川忠興と明智光秀(あけち みつひで1528−1582年)の娘・お玉(細川ガラシャ)が勝竜寺城で新婚時代を過ごしたとされている。
明智光秀は勝竜寺城を拠点として山崎の戦い(やまざきのたたかい1582年)に臨んだが羽柴秀吉(はしば ひでよし1536−1598年)に敗れ、勝竜寺城から本拠地であった坂本城に逃れる途中で討たれている。細川ガラシャはそのとき大坂玉造の細川屋敷におり、西軍の石田三成(いしだ みつなり1560−1600年)は人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶。自害を禁じられているキリシタンであったため、家臣に槍で部屋の外から胸を貫かせて死んだとされている。
屋敷にはガラシャ自害後火を点けられたが、神父グネッキ・ソルディ・オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。現在は大阪市の崇禅寺(そうぜんじ)にガラシャの墓がある。
明智光秀が放棄した勝竜寺城には秀吉が入城したが特に重視されることもなく、淀城の修築に石材が使用されるなどして荒廃した。
1992年に本丸と沼田丸趾が勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓などが建造されている。「沼田丸」は家臣の住居が建てられた曲輪(くるわ)があったが細川幽斎こと藤孝の妻の実家・沼田氏の屋敷があったと伝えられている。
勝竜寺城の主郭部分は東西120m、南北80mの長方形で幅12mの水堀、土塁が残っており、勝竜寺城公園外堀周辺の光景は美しい。
- 施設の満足度
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3.5
- 施設の快適度:
- 3.5
- バリアフリー:
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クチコミ投稿日:2012/01/20
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