ココは浦賀のコミュニティーセンターで、地元の方のための施設です。
この日もお年寄りが集まって、何かのセミナーがスタートす...
続きを読むるところでした。
この建物の2階にある浦賀奉行所や浦賀のヒーロー中島三郎助の資料やペリー艦隊の資料展示を拝見するのが目的でした。
入口の受付で、浦賀の歴史の展示を見に来た旅行者だと伝えると、地元のヒーローである中島三郎助の資料と、「歴史のまち・浦賀」と言うブロッシャーを頂き、展示してある2階に案内してくださいました。
この2つのブロッシャーは、手作り感満載で読み応えがあり、私達夫婦は浦賀について勉強することができました。
思ったより資料や展示が充実しており、先ほど頂いたブロッシャーを読みながらじっくり拝
見しました。
浦賀を彩った英雄たち。
早々たる方々が並んでます。
まずは勝海舟。
これはよく判ります。
咸臨丸は、1860年(安政7年)浦賀港を出港して37日間の航海の後、サンフランシスコに渡っています。
但し、出航前に勝海舟がココ浦賀の東叶神社の山中で航海の安全を祈願し、断食したことは知りませんでした。
後ほど、この東叶神社に寄って見ることにしました。
次は吉田松陰、
何で吉田松陰?
ペリー来航時、東浦賀にあった旅籠徳田屋で、佐久間象山に会っているとのこと。
そっか~~~
ペリー来航時に吉田松陰が師である佐久間象山に会っていたのは覚えていましたが、それは浦賀だったんですね。
榎本武揚?
何で榎本武揚?
榎本武揚と言えば、戊辰戦争で旧幕府軍を率いて新政府軍と戦い、明治政府では新政府に加わり様々な大臣を歴任した、元は幕臣の武士で政治家になって海軍中将になった方です。
NHKの大河ドラマ「八重の桜」で山口馬木也が演じていました。
浦賀船渠の設立に尽力したんですね。
知らなかった~
浦賀船渠は、後の浦賀ドッグの前身です。
澁澤栄一も?
浦賀造船所(浦賀船渠)の再建を行っていたんですね。
これも知らなかった~
そもそも浦賀には、9000年前から人が住んでいたことが、貝塚や遺跡で判っています。
鎌倉時代、この地を治めていた三浦一族にとってこの地は重要な湊になっています。
戦国時代には、後北条氏が浦賀城を築いています。
これで、浦賀には船大工や鍛冶屋が集まるようになりました。
江戸時代、三浦半島は天領でした。
家康は、浦賀の湊を貿易港にしようと思い、英国人ウィリアムス・アダムス(三浦按針)に領地を与え、按針は浦賀に居を構えスペイン船などを誘致して、貿易を行いました。
期間は10年ほどでしたが、6隻のスペイン船が来航し、当時浦賀に教会が造られた事実が残っています。
江戸初期、紀州から鰯を求めて多くの漁船が関東にやってきました。
食用ではありません。
この当時に近畿地方で盛んになった綿花の栽培に肥料として最適だった鰯を干した干鰯(ほしか)を求めていたからです。
その後東浦賀には干鰯問屋が生まれ、多くの浦賀の干鰯問屋が存在した浦賀は、全国の干鰯の商いを独占するまでに至りました。
江戸の街がドンドン発展し、江戸に入ってくる物資が増え、下田の奉行所だけでは統制できなくなり、幕府は1720年(享保5年)浦賀に奉行所を設置しました。
徳川吉宗の時代ですね。
江戸へ出入りする船を全て検査する「船改め」の任務は、105軒の廻船問屋が請け負っていました。
江戸時代後期には多くの異国船が訪れるようになり、海防と応接の任務を担っていた浦賀奉行所でした。
鎖国状態であった日本に対し、開国を要求してくる諸外国に対し、幕府は、会津藩に相模、と白河藩に房総の異国船防御を命じます。
可愛そうですね~~~
何で福島から来てこんなことやんなきゃいけないの~?
で、ココ三浦半島は会津領地にあった時期があります。
会津はココ相州に500人を派遣。
海に3か所(観音崎、平根山、城ヶ島)の台場、2か所(鴨居、三崎)に藩校を造ったとのことです。
会津藩が江戸湾警備をやらされたことは知っていましたが、台場や藩校のことは知りませんでした。
中途位半端にしか知らなかった自分の歴史認識と色々繋がって面白い!
会津藩士の墓地が三浦半島にあるぐらいなんですね。。。。。
さあペリーがやってきました!
1853年(嘉永6年)久里浜海岸で国書を受け取り、翌年には横浜で日米和親条約が結ばれています。
この開国までの経緯は、私達が住む家のすぐ近くにある横浜開港御記念館で詳しい資料を見ることができます。
浦賀のスーパースター 与力中島三郎助。
父も浦賀奉行所の与力だった中島三郎助。
浦賀への黒船来航時、応接掛けとして折衝の任にあたり敏腕ぶりを発揮。
ここで黒船に乗船し館内を調べて回った経験があります。
翌年、幕府が初めて西洋式の軍艦「鳳凰丸」を建造する際、その建造主任になっています。
西洋式の軍艦の必要性を何度も幕府に進言した結果のようです。
更にその翌年、勝海舟や榎本武揚と共に長崎海軍伝習所に派遣され、造船術を学びます。
その後は浦賀で咸臨丸の修理などを行い、造船・操船の第一人者として活躍しました。
大政奉還で、150年の歴史がある浦賀奉行所も廃止。
与力や同心、みんな離職。
中島三郎助は、主君徳川の為、榎本武揚と共に幕府軍として戦い、中島三郎助は箱根の五稜郭で戦死しています。生き残っていれば、榎本武揚お共に明治政府の要人になっていた可能性もあったかもしれません。
しかし、自らの命を投げ出して徳川のために戦うことを選んでいます。
強い意思のもと、中島三郎助は旧幕府軍に加わったんですね。
たまたま一与力であった中島三郎助は、幕末から明治維新と言う激動の時代で、開国の舞台の日本中から注目を浴びた浦賀で大変な経験をします。
そして地元浦賀をこよなく愛した中島三郎助。
今でも浦賀の人々に愛されているんですね。
江戸時代に湊町として栄えた浦賀。
全国から多くの廻船が寄港し、商家と土蔵が立ち並び、賑やかで豊かな街が形成されていきました。
東浦賀に多くの街ができ、街ごとに自治組織が出来て、祭礼が執り行われました。
この後、東浦賀の街を歩いていて思ったのですが、至る所に街ごとの町内会館がありました。
遊郭もあり、相撲や芝居の興業も行われたようです。
高い教養を持つ文化人も輩出しています。
下田で江戸に入る船のチェックに限界が来た時、船の荷物や乗組員の検査を船番所を浦賀に移すことになりました。
しかし大部分の土地が役所のものになることになり、干鰯問屋をはじめ東浦賀の人々は猛反対。
幕府に書面提出、叶神社に反対祈願、大山(伊勢原)に反対願。
等の動きを起こしました。
幕府はこれで東浦賀の設置を諦め、西浦賀に奉行所と船番所を設置しました。
叶神社にも後ほど訪れました。
浦賀は細長い湾を挟んで東浦賀と西浦賀に分かれています。
元々は東浦賀が干鰯問屋を中心に発達していました。
東浦賀にはお金持ちも多かったようです。
東浦賀を支えていた干鰯商売が繁栄すると、千葉(上総国)勝浦村の一郎左衛門が運上金(営業税)200両と幕府が負担していた燈明堂(菜種油で灯された灯台)にかかる費用を全額負担する条件で西浦賀で商売したいと願い出ます。
東浦賀の干鰯問屋を中心に村は猛反対!
西側のみで営業することに許可は出ましたが、これで浦賀は東浦賀と西浦賀に分断されました。
明治3年(1870年)東浦賀と西浦賀が合併し浦賀村になりました。
東西の浦賀に分かれ、178年目だったそうです。
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投稿日:2021/02/03