羽賀台天保閲兵之地
名所・史跡
3.21
クチコミ・評判
1~4件(全4件中)
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天保閲兵の地の碑までは行けませんでした。
- 3.0
- 旅行時期:2021/05(約5年前)
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羽賀台は標高300m前後の丘陵地です。県道11号線からその丘陵地に上がると、広々としたところで畑や田圃が拡がっていました。... 続きを読むここは1843年(天保14年)に萩藩が大規模な演習を行ったところだとのことです。現在の農地とするには手を加えているとは思いますが、元々、比較的平坦な土地が拡がっていたのでしょうね。藩主の本陣跡に、大正時代に建てられた「天保閲兵の地」の石碑があります。農道に「→700m」の案内がありました。農道を100mくらい進んだところから開拓地の横の道となりますが、訪れた時は草が伸び放題で、とても歩いて行ける状況ではなかったので諦めました。 閉じる
投稿日:2021/08/11
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広々とした農地が拡がっていました。
- 3.0
- 旅行時期:2021/05(約5年前)
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県道11号線(萩篠生線)上に「天保閲兵の地2.5km」の案内板がありました。台地に上がると、台地の上とは思えないほどの広々... 続きを読むとした農地でした。羽賀台共同生産組合が運営・管理しているところです。江戸時代も平坦な土地だったのでしょうね。ここは、1843年(天保14年)に村田清風の進言によって、藩主毛利敬親が行った長州藩の大操練の舞台となったところです。開拓地から600mくらい東方の高地に「天保閲兵の地」の碑が建てられていますが、そこまでの草刈りは行なわれていなく、通行不可でした。観光場所は草刈りがされているところが多かったですが、ここはマイナーなところということでしょうね。 閉じる
投稿日:2021/06/21
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1843年の大軍事演習の地へ行ってみました。
- 2.5
- 旅行時期:2014/07(約11年前)
- 1
集団的自衛権問題で戦争や平和が議論されていますが、江戸時代の日本は表向きは平和ながら江戸幕府に押さえつけられた各藩はあわよ... 続きを読むくば幕府転覆を狙って秘密裏に軍備を蓄えていました。
平和ボケ日本人と言われる現代とは異なり、各藩はやるかやられるかの戦争を想定してそれ相応の訓練もしていたようです。
毛利藩は萩藩の財政再建にも尽力した村田清風の進言で羽賀台で3万5千の藩兵と1300頭の馬を用いて大軍事演習を開いたとの記述が残っています。
その羽賀台には『天保閲兵の地』の碑があるとのことで見に行くことにしました。
この羽賀台、今は産業廃棄物処分場建設問題で10年近く地元を中心に反対運動が起きている地でも有ります。
実際、天保閲兵の地を案内する看板の付近にも産廃場反対の看板が多く見受けられました。
山口県道11号萩篠生線を山口方面に走り、道沿いの看板を目印に曲がり数百メートル入ると山に入る道を案内されます。
道は普通車が1台通れるくらいのやや細い道。
山道をうねうねと曲がりくねりながら登ると急に視界が開けてきます。
そして小さな交差点に出ますがどちらへ行けばいいか別段案内がありません。
それならと直進したのですが何とその先はあぜ道になり引き返すことに。
そこで再度、交差点を進行方向、右手に曲がってみました。
その先の右手の田んぼに看板が現れました。
この先700mと書かれていました。
その先を進んでみますが、イノシシ避けの柵があり車での進入は断念して徒歩で進みます。
やぶ蚊や蜘蛛の巣、虫や背丈の高い草が多いので長袖、長めのパンツスタイル、帽子、トレッキングシューズまたは、履き慣れたスニーカーは必須です。
やっと到着した彼の地は700mとありましたが地面が凸凹で上り道のせいか道のりが長く感じました。
周りには夏草が茂っていてまるで兵どもが夢の跡みたいです。
石碑がある以外は特に当時を示すものは何もなく。
この辺りの台地が軍事演習に使われたと言ってもああそうかと納得するくらいですが、江戸時代にもっと悪かったであろう交通事情や道のりを考えると本気の訓練だったんだろうなと推測できます。 閉じる投稿日:2015/01/22
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萩市めぐり 羽賀台天保閲兵の地
- 4.0
- 旅行時期:2013/12(約12年前)
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1件目~4件目を表示(全4件中)
基本情報(地図・住所・アクセス)
このスポットに関するQ&A(0件)
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