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チビチリガマ

名所・史跡

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歴史に翻弄された史跡

  • 5.0
  • 旅行時期:2010/09(約15年前)
琉球熱さん

by 琉球熱さん(男性)

恩納・読谷 クチコミ:65件

国道58で読谷に向かい、伊良皆の交差点から県道6号線に入る。4kmほど走ると「波平」の交差点に当たる。これを県道から逸れる形で直進。両側が畑の道を500mほど行った右手に小綺麗な建物(実はトイレ)があり、その前がチビチリガマへの入口である。
駐車スペースは3台程度。
ガマの入口へは道路から階段を降りていく。
茂った樹木がちょうど屋根のようになっている小さな広場、そこにガマの入り口がある。

1945年4月3日、ここに避難していた波平地区の住民約140名中、83名が『集団自決』をした。
避難民に混じって軍属がいた。彼らはサイパンの集団自決を見、中国大陸での自軍の捕虜虐待・虐殺を見てきた。これらの経験から「米軍に捕虜になれば辱めを受け、殺される」「日本人として潔く死ね」と住民たちに説いてまわった。従軍看護婦だった女性は毒薬を配った。
3日目の4月3日、殺してと頼まれ、母親が実の娘の頸動脈を切った。既にパニック状態が限界に達していた壕の中は、これを契機に酸鼻を極めた修羅場と化して行く。
武器も持たず、自殺用の毒薬も人数分があるわけもなく、住民たちは鎌で首を切る、包丁で刺す、首を絞める、石を頭に叩きつけるといった方法で、『集団自決』と言う名の殺し合いを始めたのである。

結局死に切れなかった人たちは奇跡的に米軍に救出された。生きて残った人たちが幸運であるわけもない。家族や近所の人たちが絶命していくのを間近に見、もしくはそれに手を貸したかもしれない。
彼らが一様に固く口を閉ざし、ここで起こったことは戦後40数年間、明らかにされなかった。そして今もその詳細は明らかになっていない…。
さらに悲惨なのは83名のうち約6割が18歳以下の子供達だったという。

皮肉なことに、ここから1kmほどのシムクガマでは、英語を話せる日本人がいたおかげで、1000名というはるかに大勢の避難民が全員生還できたのである。
しかしこのシムクガマの生還者たちも沈黙を守ったままだ。

ここで起こった事実はしっかりと受け止め、後世に伝えていくべきだろう。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
カップル・夫婦
アクセス:
3.0
人混みの少なさ:
5.0
見ごたえ:
5.0

クチコミ投稿日:2013/05/14

いいね!:3

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