見性院の墓
名所・史跡
3.21
見性院の墓 クチコミ・アクセス・周辺情報
見性院(けんしょういん)は、武田信玄の次女で、武田家重臣の穴山梅雪の正室でした。梅雪の死後、徳川家康の庇護を受け、当地(大牧村)を領地として与えられていたことから、元和8年(1622)に没すると、ここ清泰寺に葬られました。 見性院は、徳川二代将軍の秀忠が侍女に生ませた男子・幸松丸の養育を頼まれ、七歳まで育てました。幸松丸はその後、かつて武田家臣であった信州高遠藩主の保科正光の養子に迎えられ、保科正之と称し、高遠から山形、会津へと移り23万石の大名に出世し、三代将軍家光や四代将軍家綱を補佐して幕政にも参画しています。 正之は養母が没すると、その冥福を祈るため境内に霊廟を建てましたが、のちに倒壊し門扉のみが現在の地に移されました。その後安政5年(1858)に会津松平家(保科家は三代正容の時代に松平の性と三ツ葉葵の紋の使用が許される)が、報恩のために現在の墓を建てました。 また、本堂に木碑が安置されている有泉勝長は会津藩士で、その37回忌にあたる元禄16年(1703)に、娘婿の勝隆が清泰寺に納めたものです。なお、有泉家は、勝長の弟の五兵衛が大牧村に居住し、子孫累代にわたり見性院の墓所に奉仕したといわれています。
クチコミ・評判
1~2件(全2件中)
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徳川家康の庇護を受けて大牧村に縁ができた
- 3.5
- 旅行時期:2021/08(約4年前)
- 8
JR東浦和駅から徒歩5分の所にある「清泰寺」の墓地の奥にあります。「清泰寺」は、慈覚大師円仁の開山。
境内には、1783... 続きを読む年と1860年に建てられた、351基の『庚申塔』があって、これらも江戸時代に『見沼田んぼ』によって生活も安定して、信心深さを感じ取れるシンボルとも感じられます。
武田信玄の次女見性院が、ご主人の死後、徳川家康の庇護を受けて、旧大牧村を領地として与えられた。それで死後にこの清泰寺に葬られた。門には、徳川家の『三ツ葉葵』の紋が入っています。
「見沼通船堀」はこのすぐ近くです。徳川幕府が『見沼田んぼ』の政策がこの地に及んでいて、成功していたことがよくわかります。
閉じる投稿日:2021/08/29
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ほとんど観光客いない
- 4.0
- 旅行時期:2020/06(約6年前)
- 0
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