一乗谷朝倉氏遺跡(庭園)
名所・史跡
3.85
一乗谷朝倉氏遺跡(庭園) クチコミ・アクセス・周辺情報
福井市 観光 満足度ランキング 1位
クチコミ・評判 8ページ目
141~143件(全144件中)
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東西約500m、南北約3kmの大きな一乗谷朝倉氏遺跡
- 4.0
- 旅行時期:2009/04(約17年前)
- 2
一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、福井市城戸ノ内町にある朝倉氏の居館、山城、城下町などの遺跡で足羽... 続きを読む川(あすわがわ)支流沿いにある東西約500m、南北約3kmの大きな範囲の遺跡全体が国の特別史跡になっている。
一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が天然の堀になっており、外敵から防御する場所としては最適で要塞都市として発展した。
一乗谷には足利将軍家の分家・鞍谷公方(くらたにくぼう)なども住んでいたことから10年も続いた応仁の乱(おうにんのらん1467−1477年)で荒廃した京都から、公家、高僧、文人、学者たちが避難してきた。一乗谷には京文化が開花し北ノ京とも呼ばれ、朝倉孝景(あさくらたかかげ1428−1481年)が領主時代の最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地だった。
だが朝倉義景(あさくら よしかげ1533−1573年)が一乗谷城の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい−1573年)で織田信長(おだ のぶなが1534−1582年)に敗れた後は衰退が始まり柴田勝家(しばた かついえ1522−1583年)が本拠を北ノ庄城に移した後は1471年から朝倉氏が5代103年間越前の国を支配した城下町は廃墟となっていた。
一乗谷は1967年から本格的な発掘調査が行われ、当主の館、武家屋敷、寺院、町屋、職人屋敷、道路まで町並がほぼ完全な姿で発掘されている。これほど大規模に戦国時代の街全体が残る遺跡は珍しく、日本史上重要な遺跡だ。
アクセス――― JR福井駅から京福バス浄教寺行き、「武家屋敷前」下車すぐ。
閉じる投稿日:2012/12/30
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大規模な戦国時代の街全体が残る一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)
- 4.0
- 旅行時期:2009/04(約17年前)
- 1
一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、福井市城戸ノ内町にある朝倉氏の居館、山城、城下町などの遺跡で足羽... 続きを読む川(あすわがわ)支流沿いにある東西約500m、南北約3kmの大きな範囲の遺跡全体が国の特別史跡になっている。
一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が天然の堀になっており、外敵から防御する場所としては最適で要塞都市として発展した。
一乗谷には足利将軍家の分家・鞍谷公方(くらたにくぼう)なども住んでいたことから10年も続いた応仁の乱(おうにんのらん1467−1477年)で荒廃した京都から、公家、高僧、文人、学者たちが避難してきた。一乗谷には京文化が開花し北ノ京とも呼ばれ、朝倉孝景(あさくらたかかげ1428−1481年)が領主時代の最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地だった。
だが朝倉義景(あさくら よしかげ1533−1573年)が一乗谷城の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい−1573年)で織田信長(おだ のぶなが1534−1582年)に敗れた後は衰退が始まり柴田勝家(しばた かついえ1522−1583年)が本拠を北ノ庄城に移した後は1471年から朝倉氏が5代103年間越前の国を支配した城下町は廃墟となっていた。
一乗谷は1967年から本格的な発掘調査が行われ、当主の館、武家屋敷、寺院、町屋、職人屋敷、道路まで町並がほぼ完全な姿で発掘されている。これほど大規模に戦国時代の街全体が残る遺跡は珍しく、日本史上重要な遺跡だ。
アクセス――― JR福井駅から京福バス浄教寺行き、「武家屋敷前」下車すぐ。
閉じる投稿日:2011/11/19
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戦国時代朝倉氏五代の城下町の跡がそっくり埋もれていた史跡です。
- 4.0
- 旅行時期:2007/02(約19年前)
- 2
投稿写真
基本情報(地図・住所)
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