金華山山頂に聳える岐阜城天守閣、昭和31(1956)年に再建されたものですが、鎌倉時代の建仁元(1201)年二階堂行政によ...
続きを読むって建立された稲葉山砦に歴史が始まります。廃城になったこともあり、歴史の表舞台から消えた時期もありましたが、戦国時代の15世紀中頃美濃国守護代斎藤利永が修復し居城としました。
戦国時代の乱戦が続く中、城主が変わりながら天文2(1533)年に斎藤道三が守護代として入城します。その後改築を経て天文10(1541)年には美濃国守護土岐頼芸を追放し、美濃国守護となりました。天文16(1547)年には織田信長の父である織田信秀と土岐頼芸に加納口の戦いで攻め立てられるもこれを撃退します。これが要因となって天文18(1549)年に道三の娘である濃姫と信長の政略結婚が成立し、斎藤家と織田家は和睦します。
天文23(1554)年には家督を嫡子斎藤義龍に譲って剃髪し斎藤道三と名乗ります。しかし道三が義龍の二人の弟を寵愛したことから親子仲は険悪となり、弘治2(1556)年に長良川の戦いで両者がぶつかることになり、道三の生け捕りを指図した義龍の命にそぐわず、道三は討ち取られてしまいます。父親の首実験を行わなければならなくなった義龍の落胆は大変大きなものだったとされています。そして永禄4(1561)年には義龍が急死し、嫡子(諸説あり)龍興が14歳で家督を継ぎますが、永禄6(1563)年の織田信長による美濃侵攻の際の新加納の戦いで家臣の竹中半兵衛らの活躍もあり、撃退はするものの、政治には無頓著だったとされる龍興の元を重臣達がどんどん離れていってしまい、永禄10(1567)年の稲葉山城の戦いではついに織田信長に居城を落とされてしまい、龍興は北伊勢の長島へと落ち延びます。その後朝倉義景の元に身を寄せますが、朝倉義景と織田信長が戦った刀禰坂の戦いで戦死したとされています。
稲葉山城の戦いで勝利した織田信長は、早速本拠地を小牧山城から稲葉山城に移し、岐阜城と名を改めます。天正4(1576)年には嫡子信忠に家督と美濃尾張の二カ国を譲ります。その後信忠の手によって岐阜城の改築が進められることになります。
しかし戦国の世の中には〝安泰〟という二文字はありません。天正10(1582)年の本能寺の変で織田信長・信忠が斃れると、留守居役の斎藤 利堯が岐阜城を掌握します。しかし間もなく天王山の戦いにて明智光秀が羽柴秀吉に敗れると、信忠の弟信孝に服しました。
清洲会議で織田信孝の居城となった岐阜城でしたが、年末に羽柴秀吉・丹羽長秀・池田元助らの軍に攻め立てられ、信孝は後見人だった織田秀信を引き渡して講和します。
翌年天正11(1583)年信孝は滝川一益と呼応し挙兵するも、後ろ盾の柴田勝家が賤ケ岳の戦いで敗れ、兄信勝に岐阜城を包囲されると降伏を余儀なくされ、後に切腹を命じられます。そして池田元助が岐阜城主となるも、翌年天正12(1584)年小牧・長久手の戦いにて池田恒興・元助父子が戦死。天正13(1585)年には池田輝政が城主となります。その後天正19(1591)年には豊臣秀勝が転封で城主とるもすぐに没し、翌文禄元(1592)年には織田秀信が城主となります。
織田信長の孫である秀信が城主となったものの、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで石田三成に呼応し西軍につきます。そして前哨戦と言われる岐阜城の戦いに於いて東軍の福島正則・池田輝政率いる35,000もの軍勢の前になすすべもなく敗れます。秀信は自刃を試みますが、池田輝政や家臣の説得により降伏し、出家し高野山へと入ります。
関ヶ原の戦後処理に於いて、岐阜城は廃城が決まり、奥平信昌に10万石を与え加納城を築城させます。これによって約400年の岐阜城の歴史は終わりました。
めまぐるしく城主が変わりつつも過ぎ行く時代を生きてきた岐阜城は、まさに兵士が血を流す様を見てきたに違いありません。輪廻転生と言う表現がありますが、まさにそのものではなかったか?そう思えてなりません。
戦前に倒壊した岐阜城は、戦後再建されて現在に至っています。一見すると平和一色の風景ですが、その時代背景を繰り返すことはないのだろうかと考えなければならないところがあるように思いました。
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投稿日:2016/12/30