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東武東上線高坂駅より徒歩約20分の青蓮寺(しょうれんじ、埼玉県東松山市正代)の周辺一帯は武蔵七党のなかで児玉党に属した入西遠弘(にっさい・とおひろ)が現在の埼玉県東松山市小代から坂戸市北部に及ぶ小代郷に居を構えて「小代氏」と称し、以降鎌倉時代を通じて小代氏の支配地として発展します。<br /><br />遠弘の長男行成は浅羽を、三男有平は越生を領しそれぞれの在地名を以て浅羽氏及び越生氏と称したのに対し、小代郷を継承した二男行平(ゆきひら)は源頼朝の御家人として義経に従い木曽義仲軍を追討、範頼に従って一ノ谷にて平氏と戦い、文治5年(1189)の頼朝親征とする奥州藤原氏討伐に加わり、更に建仁3年(1203)の比企氏の乱で北条時政方として活躍します。<br /><br />これ等の戦功により、小代氏は越後国青木郷(新潟県上越市)、中河保(新潟県妙高市)、安芸国壬生荘(広島県北広島市)の地頭職に任じられ、宝治元年(1247)執権北条時頼(ほうじょう・ときより)が幕府創業以来の大御家人で幕政に重きをなしていた三浦氏を滅ぼした「宝治合戦」では小代俊平の孫重康は時頼方として戦功を挙げ、その功により父重俊(しげとし)は九州肥後国玉名郡野原荘(熊本県荒尾市)の地頭職に補され、その荘地は七百町の広大さで、肥後国では山鹿荘に次ぐ壮大なものでした。<br /><br />当時の御家人は「いざ鎌倉」の言葉通り常時将軍に出仕する立場から鎌倉を離れることができず、従い野原荘地頭職に補されたとはいえ小代重俊も他の御家人同様に鎌倉に在して現地には代官を派遣して所領経営をさせていたのが実情でした。<br /><br />ところが文永8年(1271)、得宗で新執権に就任した北条時宗(ほうじょう・ときむね、1251~1284)を先頭とする幕府は蒙古襲来に備えて「関東御教書」を発し北条氏一門を鎮西(九州)に下向させると共に同地に所領を有するすべての御家人に下向することを命じます。<br /><br />小代氏についても例外ではなく肥後国野原荘の領地へ下向することが命じられ、文永12年(1275)までに重康以下の兄弟が野原荘に赴きますが既に老齢であった重俊は野原荘には行かず本領である小代荘にとどまり補任地へは下向することはありませんでした。<br /><br />重俊が小代郷で没した弘安4年(1281)以降はその所領を越生氏に売却するなどして本貫地の武蔵における小代氏の勢力は次第に衰退してゆきます。青蓮寺境内に配された小代重俊供養の板碑は重俊が没した弘安4年を過ぎて武蔵にとどまった小代氏一族や重俊を慕う人びとによって建立されたものと思われます。<br /><br />弘安・文永の二度に亘る元寇襲来の危機を脱した鎌倉幕府ですが戦後の論功行賞においては敗者の領地を求めることができず欠所の他やむなく北条氏直轄領を報償として与えますが活躍した小代氏を含む西遷した御家人たちを満足させることができず、幕府に対する信頼を失墜させることになり、これを機に有力御家人の離反と後醍醐天皇の倒幕運動が高まり元弘3年(1333)鎌倉幕府は滅亡します。<br /><br />鎌倉幕府没落後の小代一族は野原荘の所領経営に傾注する一方で建武の中興以降は北朝方として足利尊氏に従い自領拡大に尽くしますが、南北朝の合一後は九州の有力大名らの覇権争いに巻込まれていきます。<br /><br />戦国時代前半は豊後国大友氏と肥後国菊池氏の対立に加え周防長門国大内氏の介入による築後国支配に向けての三つ巴の争いが展開され、小代重忠(しょうだい・しげただ)はそれまでの大内氏方から離れ、肥後から菊池氏を追放し新たに肥後守護となった大友氏に転じ、新たに玉名郡に所領を得て肥後の国人領主の足掛かりを作ります。<br /><br />更に肥後守護復帰をもくろむ菊池義武の挙兵に対し、義鑑を継承した大友義鎮(宗麟)に味方した小代実忠(しょうだい・さねただ)は義武を支援する三池氏・大野氏の居城を攻略し軍功をあげ、戦後大友氏より豊後・築後・肥後に所領が与えられ、小代氏は肥後北部から筑後南部までを領して肥後の国人領主に成長します。<br /><br />戦国時代末期では薩摩を統一した島津氏との抗争で日向耳川(みみかわ)の戦で大敗を喫した大友氏の間隙をぬって新生の肥前国龍造寺(りゅうぞうじ)氏が筑後に進出、小代親忠(しょうだい・ちかただ)が抵抗しますが隆信の猛攻撃に耐え切れず軍門に降る事になり、以降龍造寺氏の先鋒として島津氏に通じる肥後国大野氏らを攻め軍功により玉名郡に所領が与えられます。<br /><br />天正12年(1584)臣下の有馬氏が密かに島津氏に通じたため、龍造寺隆信は3万の大軍を率いて出陣、6千人の劣勢ながら島津・有馬連合軍は緻密な作戦によって勝利し隆信は敗死、従軍していた小代親泰(しょうだい・ちかやす)も島津軍に降伏し、続く豊後大友氏との雌雄を決する戦いに島津軍の先鋒として築後方面の戦いに臨みます。<br /><br />天正15年(1587)、島津氏征伐として豊臣秀吉が大軍を率いて九州に入り、実弟の秀長を大将とする日向路ル-トで進撃させ、自らは肥後路ル-トで進撃、途中小代親康も他の国人衆らと同様に秀吉に忠誠を誓い旧領の安堵の朱印状を与えられ、一方勝ち目を失った島津氏も当主義久が剃髪して秀吉の眼前で降伏、薩摩・大隅を安堵されます。<br /><br />さて小代氏の所領を有する肥後国については佐々成政(さっさ・なりまさ、1536~1536?)が入国支配することとなりますが、小代氏の所領は他の国衆と同様に秀吉安堵の領地より少なく、秀吉朱印状を与えられていた国人衆のが納得できるものではなく国人衆が爆発し一揆が起こってしまいます。<br /><br />成政だけで一揆が沈静化できず、秀吉命により周辺大名の支援を得る中で鎮圧、成政は責任を問われ切腹、その後肥後北半国は加藤清正(かとう・きよまさ、1562~1611)南半国は小西行長(こにし・ゆきなが、1558~1600)に与えられ、小代親泰は清正に仕え、阿蘇郡・合志郡などに4千135石が宛がわれ、鎌倉時代以来の野原荘支配は終る事になります。<br /><br />寛永9年(1632)加藤清正嫡男忠広(ただひろ、1601~1653)の改易後肥後国には豊前小倉から細川忠利(ほそかわ・ただとし、1588~1641)が54万石で入部、細川氏の「分限帳」には小代氏の名が見られ、細川氏の家臣として脈々と続いていることが記されています。<br /><br /><br /><br />境内には小代重俊供養塔と記された看板が立てられ建物に覆われた板石塔婆が配され、眼前には「埼玉県指定史跡・弘安4年銘板石塔婆」」と題された説明板(一部抜粋)があり次のように記されています。<br /><br /><br />「この銘文には小代氏四代目重俊(右金吾禅門とは右衛門尉の唐名で重俊のこと)の仁徳を募って、また祖先の供養のため、縁ある小代氏一族関係者が力を合せてこの板碑を建立したことが記されています。この板石塔婆が建てられた弘安4年(1281)は、蒙古襲来(弘安の役)の年で、一族の武運長久と団結を願う意味もこめられていると考えられています。<br /><br />小代氏は、武蔵七党(横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹党)の児玉党の入西資行の次男遠弘が、小代郷に住して小代を名乗ったことに始まります。<br /><br />子息重康の「宝治合戦」での活躍により、重俊は宝治元年(1247)鎌倉幕府から肥後国野原荘(現熊本県荒尾市)の地頭職に任ぜられています。当時はその地に赴かず、地頭代に所有領の管理を任せていましたが、文永8年(1271)幕府から蒙古来襲に備えるため、また、領内の争いを治めるため重俊の子息等は野原荘へ行くことを命ぜられ、小代氏一族は野原荘へ移り住んでいきます。その後、三百数十年にわたりその地で勢力を誇ったそうです。<br /><br />小代氏の菩提寺となっている荒尾市の浄業寺には、一族の供養塔群が残されています。<br /><br />     平成16年3月<br /><br />                 埼玉県教育委員会<br />                 東松山市教育委員会」

武蔵高坂 武蔵七党の児玉党出身で幕府命で元寇襲来に備える為鎮西に所領を有する御家人は下向を命ぜられ以降肥後国衆として栄えた『小代氏居館』訪問

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2017/05/07 - 2017/05/07

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滝山氏照

滝山氏照さん

東武東上線高坂駅より徒歩約20分の青蓮寺(しょうれんじ、埼玉県東松山市正代)の周辺一帯は武蔵七党のなかで児玉党に属した入西遠弘(にっさい・とおひろ)が現在の埼玉県東松山市小代から坂戸市北部に及ぶ小代郷に居を構えて「小代氏」と称し、以降鎌倉時代を通じて小代氏の支配地として発展します。

遠弘の長男行成は浅羽を、三男有平は越生を領しそれぞれの在地名を以て浅羽氏及び越生氏と称したのに対し、小代郷を継承した二男行平(ゆきひら)は源頼朝の御家人として義経に従い木曽義仲軍を追討、範頼に従って一ノ谷にて平氏と戦い、文治5年(1189)の頼朝親征とする奥州藤原氏討伐に加わり、更に建仁3年(1203)の比企氏の乱で北条時政方として活躍します。

これ等の戦功により、小代氏は越後国青木郷(新潟県上越市)、中河保(新潟県妙高市)、安芸国壬生荘(広島県北広島市)の地頭職に任じられ、宝治元年(1247)執権北条時頼(ほうじょう・ときより)が幕府創業以来の大御家人で幕政に重きをなしていた三浦氏を滅ぼした「宝治合戦」では小代俊平の孫重康は時頼方として戦功を挙げ、その功により父重俊(しげとし)は九州肥後国玉名郡野原荘(熊本県荒尾市)の地頭職に補され、その荘地は七百町の広大さで、肥後国では山鹿荘に次ぐ壮大なものでした。

当時の御家人は「いざ鎌倉」の言葉通り常時将軍に出仕する立場から鎌倉を離れることができず、従い野原荘地頭職に補されたとはいえ小代重俊も他の御家人同様に鎌倉に在して現地には代官を派遣して所領経営をさせていたのが実情でした。

ところが文永8年(1271)、得宗で新執権に就任した北条時宗(ほうじょう・ときむね、1251~1284)を先頭とする幕府は蒙古襲来に備えて「関東御教書」を発し北条氏一門を鎮西(九州)に下向させると共に同地に所領を有するすべての御家人に下向することを命じます。

小代氏についても例外ではなく肥後国野原荘の領地へ下向することが命じられ、文永12年(1275)までに重康以下の兄弟が野原荘に赴きますが既に老齢であった重俊は野原荘には行かず本領である小代荘にとどまり補任地へは下向することはありませんでした。

重俊が小代郷で没した弘安4年(1281)以降はその所領を越生氏に売却するなどして本貫地の武蔵における小代氏の勢力は次第に衰退してゆきます。青蓮寺境内に配された小代重俊供養の板碑は重俊が没した弘安4年を過ぎて武蔵にとどまった小代氏一族や重俊を慕う人びとによって建立されたものと思われます。

弘安・文永の二度に亘る元寇襲来の危機を脱した鎌倉幕府ですが戦後の論功行賞においては敗者の領地を求めることができず欠所の他やむなく北条氏直轄領を報償として与えますが活躍した小代氏を含む西遷した御家人たちを満足させることができず、幕府に対する信頼を失墜させることになり、これを機に有力御家人の離反と後醍醐天皇の倒幕運動が高まり元弘3年(1333)鎌倉幕府は滅亡します。

鎌倉幕府没落後の小代一族は野原荘の所領経営に傾注する一方で建武の中興以降は北朝方として足利尊氏に従い自領拡大に尽くしますが、南北朝の合一後は九州の有力大名らの覇権争いに巻込まれていきます。

戦国時代前半は豊後国大友氏と肥後国菊池氏の対立に加え周防長門国大内氏の介入による築後国支配に向けての三つ巴の争いが展開され、小代重忠(しょうだい・しげただ)はそれまでの大内氏方から離れ、肥後から菊池氏を追放し新たに肥後守護となった大友氏に転じ、新たに玉名郡に所領を得て肥後の国人領主の足掛かりを作ります。

更に肥後守護復帰をもくろむ菊池義武の挙兵に対し、義鑑を継承した大友義鎮(宗麟)に味方した小代実忠(しょうだい・さねただ)は義武を支援する三池氏・大野氏の居城を攻略し軍功をあげ、戦後大友氏より豊後・築後・肥後に所領が与えられ、小代氏は肥後北部から筑後南部までを領して肥後の国人領主に成長します。

戦国時代末期では薩摩を統一した島津氏との抗争で日向耳川(みみかわ)の戦で大敗を喫した大友氏の間隙をぬって新生の肥前国龍造寺(りゅうぞうじ)氏が筑後に進出、小代親忠(しょうだい・ちかただ)が抵抗しますが隆信の猛攻撃に耐え切れず軍門に降る事になり、以降龍造寺氏の先鋒として島津氏に通じる肥後国大野氏らを攻め軍功により玉名郡に所領が与えられます。

天正12年(1584)臣下の有馬氏が密かに島津氏に通じたため、龍造寺隆信は3万の大軍を率いて出陣、6千人の劣勢ながら島津・有馬連合軍は緻密な作戦によって勝利し隆信は敗死、従軍していた小代親泰(しょうだい・ちかやす)も島津軍に降伏し、続く豊後大友氏との雌雄を決する戦いに島津軍の先鋒として築後方面の戦いに臨みます。

天正15年(1587)、島津氏征伐として豊臣秀吉が大軍を率いて九州に入り、実弟の秀長を大将とする日向路ル-トで進撃させ、自らは肥後路ル-トで進撃、途中小代親康も他の国人衆らと同様に秀吉に忠誠を誓い旧領の安堵の朱印状を与えられ、一方勝ち目を失った島津氏も当主義久が剃髪して秀吉の眼前で降伏、薩摩・大隅を安堵されます。

さて小代氏の所領を有する肥後国については佐々成政(さっさ・なりまさ、1536~1536?)が入国支配することとなりますが、小代氏の所領は他の国衆と同様に秀吉安堵の領地より少なく、秀吉朱印状を与えられていた国人衆のが納得できるものではなく国人衆が爆発し一揆が起こってしまいます。

成政だけで一揆が沈静化できず、秀吉命により周辺大名の支援を得る中で鎮圧、成政は責任を問われ切腹、その後肥後北半国は加藤清正(かとう・きよまさ、1562~1611)南半国は小西行長(こにし・ゆきなが、1558~1600)に与えられ、小代親泰は清正に仕え、阿蘇郡・合志郡などに4千135石が宛がわれ、鎌倉時代以来の野原荘支配は終る事になります。

寛永9年(1632)加藤清正嫡男忠広(ただひろ、1601~1653)の改易後肥後国には豊前小倉から細川忠利(ほそかわ・ただとし、1588~1641)が54万石で入部、細川氏の「分限帳」には小代氏の名が見られ、細川氏の家臣として脈々と続いていることが記されています。



境内には小代重俊供養塔と記された看板が立てられ建物に覆われた板石塔婆が配され、眼前には「埼玉県指定史跡・弘安4年銘板石塔婆」」と題された説明板(一部抜粋)があり次のように記されています。


「この銘文には小代氏四代目重俊(右金吾禅門とは右衛門尉の唐名で重俊のこと)の仁徳を募って、また祖先の供養のため、縁ある小代氏一族関係者が力を合せてこの板碑を建立したことが記されています。この板石塔婆が建てられた弘安4年(1281)は、蒙古襲来(弘安の役)の年で、一族の武運長久と団結を願う意味もこめられていると考えられています。

小代氏は、武蔵七党(横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹党)の児玉党の入西資行の次男遠弘が、小代郷に住して小代を名乗ったことに始まります。

子息重康の「宝治合戦」での活躍により、重俊は宝治元年(1247)鎌倉幕府から肥後国野原荘(現熊本県荒尾市)の地頭職に任ぜられています。当時はその地に赴かず、地頭代に所有領の管理を任せていましたが、文永8年(1271)幕府から蒙古来襲に備えるため、また、領内の争いを治めるため重俊の子息等は野原荘へ行くことを命ぜられ、小代氏一族は野原荘へ移り住んでいきます。その後、三百数十年にわたりその地で勢力を誇ったそうです。

小代氏の菩提寺となっている荒尾市の浄業寺には、一族の供養塔群が残されています。

     平成16年3月

                 埼玉県教育委員会
                 東松山市教育委員会」

交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩

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  • 小代氏館跡<br /><br />現在では常楽山・青蓮寺と称する天台宗の寺院となっています。

    小代氏館跡

    現在では常楽山・青蓮寺と称する天台宗の寺院となっています。

  • 青蓮寺参道

    青蓮寺参道

  • 六地蔵<br /><br />参道の途中には六地蔵が配されている建屋があります。

    六地蔵

    参道の途中には六地蔵が配されている建屋があります。

  • 青蓮寺境内<br /><br />参道は左右の参道とT字状になっており、右折して本堂に向かいます。

    青蓮寺境内

    参道は左右の参道とT字状になっており、右折して本堂に向かいます。

  • 青蓮寺・本堂

    青蓮寺・本堂

  • 青蓮寺・山門<br /><br />

    青蓮寺・山門

  • 青蓮寺本堂・扁額<br /><br />山門には「常楽山」と書かれた山号が見られます。

    青蓮寺本堂・扁額

    山門には「常楽山」と書かれた山号が見られます。

  • 青蓮寺・本堂<br /><br />山門を潜り抜けると正面に本堂が認められます。

    青蓮寺・本堂

    山門を潜り抜けると正面に本堂が認められます。

  • 本堂・扁額<br /><br />本堂の上部には寺号である「青蓮寺」が掲載されています。

    本堂・扁額

    本堂の上部には寺号である「青蓮寺」が掲載されています。

  • 青蓮寺本堂

    青蓮寺本堂

  • 天台宗主旨案内板

    天台宗主旨案内板

  • 小代氏供養塔・建屋<br /><br />本堂の左脇には小代氏供養塔の建屋が配されています。

    小代氏供養塔・建屋

    本堂の左脇には小代氏供養塔の建屋が配されています。

  • 小代重俊供養塔(正面)

    イチオシ

    小代重俊供養塔(正面)

  • 小代重俊供養塔・看板

    小代重俊供養塔・看板

  • 弘安4年銘板石塔婆・柱標<br /><br />嫡男重康ら兄弟一族が幕府の命により九州へ移住したのに対し、重俊は本貫地である武蔵国小代郷にとどまるなか弘安4年に死去、残された小代一族が重俊を供養するために建てられた銘石塔婆が紹介されています。

    弘安4年銘板石塔婆・柱標

    嫡男重康ら兄弟一族が幕府の命により九州へ移住したのに対し、重俊は本貫地である武蔵国小代郷にとどまるなか弘安4年に死去、残された小代一族が重俊を供養するために建てられた銘石塔婆が紹介されています。

  • 銘板石塔婆(上部)

    銘板石塔婆(上部)

  • 銘板石塔婆(下部)<br /><br />下部には漢字が刻されていますが崩れて判読不能です。

    銘板石塔婆(下部)

    下部には漢字が刻されていますが崩れて判読不能です。

  • 弘安4年銘板石塔婆・説明板

    弘安4年銘板石塔婆・説明板

  • 青蓮寺・境内<br /><br />山門方向を捉えます。

    青蓮寺・境内

    山門方向を捉えます。

  • 青蓮寺・山門<br /><br />山門から参道を捉えます。左右は墓地が広がっています。その向こうは河川の土手が視野に入ります。

    青蓮寺・山門

    山門から参道を捉えます。左右は墓地が広がっています。その向こうは河川の土手が視野に入ります。

  • 青蓮寺・山門<br /><br />館跡は高坂台地の端に位置しており、南側には河川と低地が広がっています。そのため青蓮寺山門を始めとする青蓮寺は一段高い位置にあることがわかります。<br /><br />

    青蓮寺・山門

    館跡は高坂台地の端に位置しており、南側には河川と低地が広がっています。そのため青蓮寺山門を始めとする青蓮寺は一段高い位置にあることがわかります。

  • 御霊神社案内板<br /><br />青蓮寺に隣接する御霊神社があります。

    御霊神社案内板

    青蓮寺に隣接する御霊神社があります。

  • 御霊神社鳥居<br /><br />

    御霊神社鳥居

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