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野本氏館(のもとしやかた、埼玉県東松山市下野本)は東武東上線に並行して走る国道407号と県道345号との交差点を東に入った「野本市民活動センタ-」に隣接する無量寿寺の境内一帯が館跡にあたり、地形的には南に都幾川を臨む松山台地の南端近くとなっています。<br /><br />そもそも野本氏は平安時代後期において堀川大臣と称された藤原北家基経の警護役の片田基親(かただ・もとちか)の子基員(もとかず)が当地に住み野本姓を名乗ったとされ、鎌倉時代では頼朝の信任厚く基員の他基員の子時基、時員、時員の子時秀、孫の行時などの人物が御家人の一員として名を連ねています。<br /><br /><br />無量寿寺山門横に立てられた史跡説明板には次の通り記載されています。<br /><br />「東松山市 指定文化財 野本館跡<br />               (昭和49年7月10日指定)<br /><br />野本元員(のもと・もとかず)を初代とする野本氏一族の館跡です。野本氏は系図から平安時代の公卿藤原基経(ふじわらの・もとつね、836~891・堀川大臣)の家の警護をしていた片田基親の子息基員が武蔵国野本に移り住んで野本左衛門と名のったのが、野本氏の始まりと言われています。基員は、源頼朝の信頼が厚かった武士で、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも登場する人物です。<br /><br />館は現在、無量寿寺の境内地となっており、本堂の北側で土塁と堀がわずかに確認できるだけとなっていますが、実際は二重の堀と土類を廻した構造の館となっています。外側の土塁と堀は当初からのものではなく、後世の増築によるものと考えられています。江戸時代の武蔵国の様子を書いた『新武蔵国風土記稿』の無量寿寺の項には「寺領の外境内一万四千坪、境の廻り四方に堤を築き、堀の跡残れり」とあり、同書の「将軍塚の図」には土塁や堀の様子が描かれています。<br /><br />館が造られた時期については、基員が貞観元年(1232)に亡くなっていること、また無量寿寺に残されている建長6年(1254)銘の銅鐘の拓本より、当時無量寿寺が野本寺といわれていたことなどから、遅くても13世紀の初め頃には館が造られていたと考えられます。<br /><br />                平成17年3月<br />                        東松山教育委員会」<br />

武蔵高坂 10世紀初頭当地に館を構えた鎮守府将軍藤原利仁を崇敬し隣接の古墳丘陵に利仁神社を勧請した鎌倉御家人『野本氏居館跡』訪問

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2017/05/07 - 2017/05/07

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滝山氏照

滝山氏照さん

野本氏館(のもとしやかた、埼玉県東松山市下野本)は東武東上線に並行して走る国道407号と県道345号との交差点を東に入った「野本市民活動センタ-」に隣接する無量寿寺の境内一帯が館跡にあたり、地形的には南に都幾川を臨む松山台地の南端近くとなっています。

そもそも野本氏は平安時代後期において堀川大臣と称された藤原北家基経の警護役の片田基親(かただ・もとちか)の子基員(もとかず)が当地に住み野本姓を名乗ったとされ、鎌倉時代では頼朝の信任厚く基員の他基員の子時基、時員、時員の子時秀、孫の行時などの人物が御家人の一員として名を連ねています。


無量寿寺山門横に立てられた史跡説明板には次の通り記載されています。

「東松山市 指定文化財 野本館跡
               (昭和49年7月10日指定)

野本元員(のもと・もとかず)を初代とする野本氏一族の館跡です。野本氏は系図から平安時代の公卿藤原基経(ふじわらの・もとつね、836~891・堀川大臣)の家の警護をしていた片田基親の子息基員が武蔵国野本に移り住んで野本左衛門と名のったのが、野本氏の始まりと言われています。基員は、源頼朝の信頼が厚かった武士で、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも登場する人物です。

館は現在、無量寿寺の境内地となっており、本堂の北側で土塁と堀がわずかに確認できるだけとなっていますが、実際は二重の堀と土類を廻した構造の館となっています。外側の土塁と堀は当初からのものではなく、後世の増築によるものと考えられています。江戸時代の武蔵国の様子を書いた『新武蔵国風土記稿』の無量寿寺の項には「寺領の外境内一万四千坪、境の廻り四方に堤を築き、堀の跡残れり」とあり、同書の「将軍塚の図」には土塁や堀の様子が描かれています。

館が造られた時期については、基員が貞観元年(1232)に亡くなっていること、また無量寿寺に残されている建長6年(1254)銘の銅鐘の拓本より、当時無量寿寺が野本寺といわれていたことなどから、遅くても13世紀の初め頃には館が造られていたと考えられます。

                平成17年3月
                        東松山教育委員会」

交通手段
私鉄 徒歩
  • 無量寿寺・参道<br /><br />

    無量寿寺・参道

  • 野本館跡・標柱<br /><br />参道入口の傍らには「市指定史跡野本館跡」と記された標柱が立っています。

    野本館跡・標柱

    参道入口の傍らには「市指定史跡野本館跡」と記された標柱が立っています。

  • 無量寿寺・六地蔵<br /><br />同様に参道左側には六地蔵が控えています。

    無量寿寺・六地蔵

    同様に参道左側には六地蔵が控えています。

  • 無量寿寺・山門

    無量寿寺・山門

  • 無量寿寺・山号<br /><br />山門中央上部には「利仁山」と記された扁額が掲載されています。

    無量寿寺・山号

    山門中央上部には「利仁山」と記された扁額が掲載されています。

  • 野本館跡・説明板<br /><br />山門右側傍らには「東松山市指定文化財 野本館跡」と題された説明板が立っています。

    野本館跡・説明板

    山門右側傍らには「東松山市指定文化財 野本館跡」と題された説明板が立っています。

  • 無量寿寺・将軍塚絵図<br /><br />説明板には「新編武蔵国風土記稿」に掲載された無量寿寺と将軍塚の絵図が見られます。

    無量寿寺・将軍塚絵図

    説明板には「新編武蔵国風土記稿」に掲載された無量寿寺と将軍塚の絵図が見られます。

  • 無量寿寺・本堂(全景)

    無量寿寺・本堂(全景)

  • 無量寿寺・本堂<br /><br />本堂正面には「無量寿寺」と揮毫された寺号があります。

    無量寿寺・本堂

    本堂正面には「無量寿寺」と揮毫された寺号があります。

  • 道元導師・立像<br /><br />境内の一角には漕洞宗の祖の立像があります。

    道元導師・立像

    境内の一角には漕洞宗の祖の立像があります。

  • 土塁<br /><br />本堂の裏手に廻りますと土塁の一部が残されています。

    土塁

    本堂の裏手に廻りますと土塁の一部が残されています。

  • 土塁

    土塁

  • 土塁

    イチオシ

    土塁

  • 土塁

    土塁

  • 土塁<br /><br />無量寿寺に隣接する野本小学校側から本堂裏の土塁を捉えます。

    土塁

    無量寿寺に隣接する野本小学校側から本堂裏の土塁を捉えます。

  • 墓地全景

    墓地全景

  • 無量寿寺・境内

    無量寿寺・境内

  • 将軍塚古墳全景<br /><br />無量寿寺山門辺りから将軍塚古墳の姿を捉えます。県でも大規模な前方後円墳ですがまだ学術調査がされていないので明らかになっていないそうです。

    将軍塚古墳全景

    無量寿寺山門辺りから将軍塚古墳の姿を捉えます。県でも大規模な前方後円墳ですがまだ学術調査がされていないので明らかになっていないそうです。

  • 将軍塚古墳(全景)<br /><br />延喜15年(915)鎮守府将軍として藤原利仁(ふじわらの・としひと、生没不詳)がこの地に館を構えたと言われており、利仁を深く敬っていた野本氏が古墳の頂に「利仁神社」を建立したとされます。

    将軍塚古墳(全景)

    延喜15年(915)鎮守府将軍として藤原利仁(ふじわらの・としひと、生没不詳)がこの地に館を構えたと言われており、利仁を深く敬っていた野本氏が古墳の頂に「利仁神社」を建立したとされます。

  • 将軍塚・古墳(近景)

    将軍塚・古墳(近景)

  • 将軍塚古墳・説明板<br /><br />「 野本将軍塚古墳<br /><br />将軍塚古墳は、県内有数の大きさを誇る前方後円墳です。墳丘の大きさは、全長115m、高さ前方部で8m、後円部で15mです。<br /><br />まだ学術調査が実施されていないので、内部主体(埋葬施設)や外部施設(ハニワなど)は明らかではありません。<br /><br />将軍塚を中心に、東北には柏崎・古凍古墳群、南には高坂・諏訪山古墳群、西には塚原・青島古墳群、さらに吉見丘陵西斜面には吉見百穴群が分布しています。このような古墳の分布は、古墳時代すでにこの地方が、高度の社会的発展をとげていたものでしょう。」

    将軍塚古墳・説明板

    「 野本将軍塚古墳

    将軍塚古墳は、県内有数の大きさを誇る前方後円墳です。墳丘の大きさは、全長115m、高さ前方部で8m、後円部で15mです。

    まだ学術調査が実施されていないので、内部主体(埋葬施設)や外部施設(ハニワなど)は明らかではありません。

    将軍塚を中心に、東北には柏崎・古凍古墳群、南には高坂・諏訪山古墳群、西には塚原・青島古墳群、さらに吉見丘陵西斜面には吉見百穴群が分布しています。このような古墳の分布は、古墳時代すでにこの地方が、高度の社会的発展をとげていたものでしょう。」

  • 将軍塚<br /><br />説明板の中に前方後円墳が描かれています。

    将軍塚

    説明板の中に前方後円墳が描かれています。

  • 利仁神社<br /><br />利仁神社は藤原利仁将軍を祀る社ですがその位置は前方後円墳頂上部に設置され、その中央のくびれ部に連絡する登口が見られます。

    利仁神社

    利仁神社は藤原利仁将軍を祀る社ですがその位置は前方後円墳頂上部に設置され、その中央のくびれ部に連絡する登口が見られます。

  • 将軍塚中央部<br /><br />中央部から左折すると利仁神社社殿とを結ぶ階段が見られます。<br /><br />

    将軍塚中央部

    中央部から左折すると利仁神社社殿とを結ぶ階段が見られます。

  • 利仁神社

    利仁神社

  • 利仁神社社殿(全景)

    利仁神社社殿(全景)

  • 利仁神社(近景)

    利仁神社(近景)

  • 利仁神社社殿

    利仁神社社殿

  • 利仁神社内風景

    利仁神社内風景

  • 無量寿寺方向<br /><br />利仁神社社殿の後部から無量寿寺方向を眺めます。

    無量寿寺方向

    利仁神社社殿の後部から無量寿寺方向を眺めます。

  • 利仁神社風景

    利仁神社風景

  • 利仁神社・境内<br /><br />神社社殿から反対方向を一望します。

    利仁神社・境内

    神社社殿から反対方向を一望します。

  • 忠魂碑入口<br /><br />利仁神社の反対方向には忠魂碑が建てられており、なだらかな石段を登って行きます。

    忠魂碑入口

    利仁神社の反対方向には忠魂碑が建てられており、なだらかな石段を登って行きます。

  • 忠魂碑

    忠魂碑

  • 将軍塚古墳(全景)<br /><br />再び無量寿寺参道側に戻りここから古墳の周囲を巡ります。

    将軍塚古墳(全景)

    再び無量寿寺参道側に戻りここから古墳の周囲を巡ります。

  • 将軍塚古墳を取り囲む道路

    将軍塚古墳を取り囲む道路

  • 将軍塚古墳入口<br /><br />県道345号側から見ると将軍塚古墳入口にふさわしく石柱や石碑そして説明板が揃って配されています。ここから入場すると右側に将軍塚古墳がすぐ現れます。

    将軍塚古墳入口

    県道345号側から見ると将軍塚古墳入口にふさわしく石柱や石碑そして説明板が揃って配されています。ここから入場すると右側に将軍塚古墳がすぐ現れます。

  • 将軍塚古墳石碑

    将軍塚古墳石碑

  • 将軍塚説明板

    将軍塚説明板

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