2015/06/02 - 2015/06/02
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junemayさん
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2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
サンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会を出て、ローマ通りを南下します。ヴェネツィアに近いパドヴァも湿地帯に属しているのか、町にはたくさんの運河がありました。何も考えずに通った橋でしたが、そこにもパドヴァの歴史が隠されていましたよ。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
こちらがトッリチェッレ橋です。
1338年からパドヴァの領主となったウンベルティーノ1世・ダ・カッラーラは毛織物産業をさらに発展させるために新しい工場の建設を促進し、税金や手数料の免除を行いました。橋のたもとにある建物は、1342年彼がフィレンツェ人に土地を割譲して作らせた、かつての毛織物の縮絨工場でした。縮絨とはウールを石鹸や水で油分を落とし、圧力や摩擦を加えて収縮させる作業のことで、毛織物の仕上げの段階に行われるのだそうです。 -
縮絨工場は水を大量に必要としたために、運河沿いに工場を建てたんですね。白い建物の隣のオレンジ色の背の低い建物も、歴史を感じさせる佇まいです。とても古そう・・・
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トッリチェッレ橋から15分ほど歩いて、パドヴァの聖アントニオに捧げられた聖堂バシリカ・デル・サントに到着しました。これまでに見たことのないような、風変りで存在感のある建物です。凄ーいとしか言えません! ここからは全部は見えていませんがクーポラが何と8つもある!
イタリアに来て以来、沢山の聖人に捧げられた教会や礼拝堂を見て参りましたが、その中でも聖アントニオの人気は断トツだったような気がします。この聖堂への巡礼者は現在でも年間500万人にも上るとか。
ポルトガルのリスボンに生まれ、アッシジの聖フランチェスコに傾倒してイタリアにやってきたアントニオはその後フランシスコ会に入会。説法が上手で、イタリア、フランス各地を精力的に説法して回ったと伝えられています。わずか36歳でパドヴァに戻る直前に亡くなったアントニオ。彼にまつわる奇跡の話もこれまで何度も聞いてきました。そのアントニオを祀る大本山を今目の当たりにしているんですね。 -
聖堂に向かって右側にあったのは、左から聖ジョルジュ礼拝堂 オラトリオ・ディ・サン・ジョルジュとサント信者会 スコーラ・デル・サントです。
聖ジョルジョ礼拝堂は傭兵隊長(コンドッティエーレ)マルキス・ソラーニャ・ライモンディーノ・ルピにより、ルピ家の礼拝堂として1376年に建てられました。 -
右側のサント信徒会は、スコーラ(学校)という名前が示す通り、初めは聖アントニオの同胞会による教育機関だったようです。1427年に建立され、1504年頃から聖アントニオが起こした奇跡のエピソードのフレスコ制作が始まりました。
全部で15枚のフレスコ画の内3枚が若い日のティッツィアーノ作だということで有名になりました。メインホールに飾られている、新生児の奇跡(生まれたばかりの赤ん坊が、母親にかけられた密通の嫌疑を晴らす奇跡)、母親への暴力を悔やみ、自らを罰するために足を切断した男の足を元通りにした奇跡、そして嫉妬深い夫の奇跡(妻が姦通を働いたと殺してしまった夫が、後に彼女の無実が判明し、聖アントニオに許しを求めたところ、聖人は彼女を復活させた。なんという勝手な男!)の3枚は1511年ごろの作品で、ティッツィアーノにとっては初めての大舞台デビューとなりました。
どちらも撮影禁止のため、写真はありません。なぜかパドヴァは撮影禁止ばかり。目に焼き付けようと試みても、あっという間に忘却の彼方なんですよね。悲しい・・・ -
そして、先ほどラッジョーネ宮殿の大広間で見た馬の本物、ドナテッロ作による「ガッタメラータの騎馬像」が聖堂の脇にありましたよ。ちょっと近寄って行ってみましょう。
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ガッタメラータというのは、パドヴァの大変勇敢な傭兵隊長だったエラズモ・ダ・ナルニ(1370年~1443年)のニックネームで「トラ猫」という意味だそうです。
この彫像はナルニが亡くなった後の1453年に、ドナッテッロが制作した傑作で、ルネサンス期最古の騎馬像と言われています。
彫刻を見る目は(も)ないので、こんなことを言う資格はないのですが、ローマ帝国時代の優れた彫像以降、朴訥ではあるが、技術的にはイマイチという作品が続いていたイタリアにおいて、この彫像はまさにルネサンス「再生」に相応しい作品となり、後の英雄たちの騎馬像に大きな影響を与えました。 -
彫像には、この時代の鋳造では一般的だった、ロウで原型を造り、その周りを鋳砂で覆い固め、ロウを溶かして金属を流し込む(ウィキペディアより)ロストワックス法という工法が用いられています。
ローマ時代のものは人が実際よりも大きく作られていたそうですが、ドナテッロの騎馬像は人も馬も原寸大ということでした。彼は、誇張なしの現実の姿を描けば十分傭兵隊長のパワーを伝えられることを知っていたんですね。
台座にはナルニ家の紋章を支える二人の天使とその下に冥界への入口を象徴する偽の門のレリーフが見えました。
そうそう、ラッジョーネ宮殿の馬は、これよりはるかに大きかったんだと思い知らされました。 -
さあ、今度は聖アントニオ聖堂です。改めて、その大きさに圧倒されます。ファサードは一見ロマネスク調ですが、白い縁飾りのあるアーチはゴシック、クーポラはヴェネツィアのサン・マルコ寺院を思い起こすヴィザンティン風。そしてクーポラの前にある鐘楼?は、イスラムのミナレットのようですね。後ろの方にも鐘楼が一部見えています。
聖堂の高さは28m。幅は37m、一番高いクーポラの高さは68mあるそうです。
聖堂は聖アントニオが亡くなった直後の1232年から建築を開始し、1310年に完成しましたが、その後も14世紀から15世紀にかけて、度重なる改修が加えられています。聖アントニオの遺言により、彼の遺体は遺言により、自身が建造した小さなサンタ・マリア・マテール・ドミニ教会に埋葬されましたが、現在その教会は聖堂内部に、黒い聖母の礼拝堂として、そっくり組み入れられています。 -
聖堂内部の順路はこの図でいくと、まずは1.聖アントニオの墓のある黒い聖母の礼拝堂、2.聖遺物の礼拝堂、3.聖体拝領の礼拝堂等を見学してから二つある回廊へと進むようになっています。
内部は撮影禁止ですが、私は知らずに何枚か撮ってしまいましたので、少しだけこそり!ご紹介します。 -
主祭壇向かって右側にあるこちらの礼拝堂は1458年、傭兵隊長ガッタメラータことナルニとその家族の礼拝堂としてゴシック様式で建てられました。左壁に見えるのがエラズモ・ダ・ナルニの墓で、彫刻はグレゴリオ・ダッレグレットが行いました。
1651年以降、ここは聖体拝領の礼拝堂と呼ばれています。聖体とそれを携える天使像、そして背面のリッチな装飾は20世紀の作品で、ロドヴィコ・ポッリアーギが10年かけて制作したものです(1926年から36年)。 -
こちらは調べてみましたが、主要な祭壇画ではないようで、解説が見つかりませんでした。コンテンポラリーアートの雰囲気が漂っていますが、私の好きな作品。キリストを見つめながら祈りを捧げる修道女の姿に魅了されました。書見台の支えがまたしても骸骨!
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後陣入り口付近にあったマルケッティの葬送モニュメント。
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イチオシ
キャンディのような縞々の柱とエキゾティックなヴォールトのコラボレーション? こんな組み合わせ絶対に考え付きません。
この辺で、撮影禁止に気づいたのか、それ以降は1枚も撮っていません。聖アントニオの墓や聖遺物が置かれている礼拝堂は、信者の方々が大勢祈りを捧げていて、撮影できるような雰囲気ではありませんでした。 -
右身廊中ほどにあるアーチをくぐって、付設の修道院の回廊に出ます。途中に聖堂の模型が置いてありました。空から見るとクーポラが全部で8つ。後ろにも尖がったミナレット型鐘楼がありますね。奥に回廊が大小合わせて四つ見えます。
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そのうちの一つマグノリア(モクレン)の回廊です。正式名称は「参事会の回廊」だそうですが、中庭中央にある19世紀に植えられた大きなモクレンの方が有名になっているようです。
この回廊は聖堂と、修道院ならびに「聖アントニオの使い」と呼ばれる聖アントニオの言葉を広める雑誌を発行している出版事業部、聖堂への寄付や献金等を取り仕切るセクションとの間に位置しています。この雑誌、6か国語で書かれていて、全世界向けに60万部も発行されているそうですよ。 -
そしてこちらは、もう一つの大きな回廊で、特別な名前はついていません。「一般回廊」と呼ばれています。1433年にゴシック様式で作られました。回廊には様々な墓石が所狭しと置かれていました。皆聖アントニオの傍で眠りたいと欲した人々で、一番古いものはなんと1287年!
芝生の中庭には、錬鉄製のカヴァーのある古い井戸があり、良いアクセントになっていました。 -
ここはとても静かで、休息するにはもってこいの場所でした。アーチの内側の模様が一つ一つ異なっていて、大変綺麗。
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葬送モニュメントも、フレスコ、墓石、石板、額ぶち等多種多様なものが見られました。
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上の写真では見えなかった下の部分をもう一度接写で。
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バロック音楽の作曲家兼ヴァイオリニスト ジュゼッペ・タルティーニのモニュメントです(1692年-1770年)。作られたのは20世紀になってからのようです。
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人気アイドルさながら、聖アントニオグッズが集められているコーナーです。黒い法衣を着て、左手にキリストの幼子を抱くお馴染みの聖アントニオです。
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奥にある小さな祠には、よく見るとTOKIO、PADOVAという文字が見えますよ。
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聖アントニオが幼子キリストと共に描かれるようになったのは17世紀を過ぎてからと言われています。
聖アントニオは亡くなる前に、パドヴァから20kmほど離れたティソ伯爵の城で過ごすことが多かったそうです。ティソ伯爵は城の中に礼拝堂と修道士のための小部屋(セル)を持っていて、彼はその中の一つを借りて祈りを捧げる時間を過ごしました。 -
ある夜彼のいたセルが突然光に満ちて、キリストが幼子の姿で現れたのです。伯爵はセルが光り輝き、聖アントニオと小さな男の子が話しているのを見たそうです。ヴィジョンが終わった時、聖アントニオは扉の前で跪いている伯爵の姿を見つけました。そして伯爵にこう言ったそうです。
「私が死ぬまでは、今夜のことは誰にも言わないで。」
恐らくこの話が、後の時代に広まり、聖アントニオと言えば幼子キリストというイメージが定着していったものと思われます。 -
これはちょっと振り回しすぎ!?
「天と地の間の仲裁者 聖アントニオ」というタイトルの彫像はロレンツォ・クィンの1995年の作品です。 -
続いて、聖ジョルジュ礼拝堂に向かいます。内部にある素晴らしいフレスコ画の作者アルティキエーロ・ダ・ツェヴィオ(1330年-1390年)については全く存じ上げなかったのですが、ジョットの弟子と言われていて、パドヴァ、ヴェローナに作品が多く残っています。聖アントニオ聖堂内の聖ヤコブ礼拝堂の3つのアーチの間に描かれた「キリストの磔」も彼の作品でした。
礼拝堂内には、聖ジョルジュ伝説、アレキサンドリアの聖カタリナ、聖ルチアのエピソード、そしてキリストの誕生から磔に至る物語が綴られていました。しかしながら、写真がないと、私の乏しい文章能力では、アルティキエーロの魅力を伝えられません。撮影禁止が多すぎたところもパドヴァが未消化な理由だと思っています。 -
で、こちらは撮影可能な「大したところではないところ」の写真です。一体どこだったかしら? まだ、聖ジョルジュ礼拝堂の傍をうろついておりました。
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サント信徒会でティエポロのフレスコを見た記憶も霧の彼方。また行くしかないですね。もう一度聖アントニオ聖堂の美しいファサードを眺めてからサント広場を後にします。世界中でここでしかお目にかかれない聖堂でした。
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サント信徒会の隣にあった博物館聖アントニアーノ。パドヴァカード提示で割引になります。
1995年に再オープンした博物館で、聖アントニオ聖堂に収められていた宝物を中心に、絵画、彫刻、石膏装飾、宝石、タペストリー等が展示されています。 -
聖アントニオ聖堂から南へと下るオルト・ボタニコ通りを暫く行くと、程なく古い石板が欄干の上に乗った橋がありました。
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道は行き止まりになり、右に折れるとドナテッロ通り。
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左に進むと、オルト・ボタニコ。そう、パドヴァで世界遺産に登録されているのは、歴史的建造物が残る町ではなく、パドヴァ大学付属の植物園なのです。
1545年創立。大学の付属施設で研究目的の植物園としては、世界最古の植物園と言われています。 -
入場料は10ユーロ。パドヴァカードで入場可能でしたが、時間的に中途半端だったので、前を通り過ぎただけ。今考えれば、短い時間でも中をうろついておくんだった・・・
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道を右に折れて、ドナテッロ通りを進みます。程なく、トラムの走る大通りに突き当たりました。新旧入り交ざった素敵な建物が立ち並ぶベアト・ルカ・ベッルディ大通りです。
通りを左に進むと直ぐに現れたのが、 -
多分パドヴァで一番有名な広場プラート・デッラ・ヴァッレです。
空から見ると楕円形に見えるこの広場はとにかく広い! 90,000㎡もあります。東京ドームいくつ分と言わないと分からない? 東京ドームは46,755㎡ですから、約2倍の広さですね。勿論イタリアでは最大の面積を誇ります。
中央には緑のメンミア島が浮かんでいて、その周りに二重に彫像が立ち並ぶ運河が走っています。 -
平坦なので写真向きではありません。空からの眺めが一番良いはずです。道路を渡ろうと思ったのですが、なんだかあまりにただっ広くて、手前から眺めるだけで満足してしまいました。ここからだと運河が見えないのが難点ですな。
ここは古くから旧市街の城壁のすぐ南側に広がっていた沼沢地でした。1767年個人の財産だった個々の土地が市所有になったのをきっかけに、ヴェネツィア共和国の政治家で外交官のアンドレア・メンモが中心となり、地域の再開発がスタートしたのです。
プロジェクトは19世紀まで続き、1775年~1883年の間に、ヴィチェンツァ産の石で作られた彫像が78体二重円状に並べられました。その中にはアンドレア・メンモ自身の彫像もあるんですよ。 -
橋のたもとの2体の内左側がメンモです。彼は建築に詳しく、沼沢地を埋め立てる際に必要な排水設備等に関しても自ら陣頭指揮を執ったそうです。
背後に見える瀟洒な建物はロッジア・アムレア。こちらもヴェネト州の建物で、1906年から1989年までは消防署として使われていたのだとか。ちと勿体ない。美しいロッジアで結婚式を挙げるカップルがいるそうですよ。 -
近寄って見てみると、扉横の壁には、イタリア王国の将軍で、第6代総理大臣を務めたアルフォンソ・ラ・マルモーラのパネルと、消防署だった名残のブロンズパネルが飾られていました。
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パドヴァ消防署の署員たち。多くの困難を乗り越え、自分の命を犠牲にして任務を遂行しました。1906年から1989年
かつて消防署だったという唯一の痕跡です。 -
4枚前の写真の左側の建物の、広場を向いた方のファサードです。この建物のことが何故か気になったみたいです。アウグスト・ベルレーゼの設計で1922年に建てられたパラッツォ・サチェルドーティ(司祭)だそう。塔屋、バルコニー、壁画、それぞれ形の異なるアーチと窓が魅力的。新しさと古さが同居していて、しかも調和が取れている建物だと思いました。
あの塔屋から広場を眺めてみたかった・・・ -
広場で気になったもう一つの建物はこちら。サンタ・ジュスティーナ修道院です。元々広場っというか沼地の大部分はこの修道院の所有だったそうですよ。
創建が6世紀まで遡れる由緒ある修道院及び教会で、ベネディクト会に属しています。現在の建物は17世紀に建造されました。303年に殉教したパドヴァの守護聖人聖ジュスティーナに捧げられています。
1797年ナポレオン軍により荒らされ、教会内にあった貴重なコレクションはパリに送られました。回廊は野戦病院と化し、後には兵舎として使用されたそうです。カトリック教会に戻ったのは1917年のこと。教皇ベネディクトゥス15世が、古代から教会が持っていた権利と権限を復活させたのです。 -
聖アントニオ聖堂も大きいのに驚きましたが、こちらの修道院も負けてはいません。キリスト教世界において最大なものの一つに数えられています。ビザンティン風のクーポラ、イスラム風の鐘楼は聖アントニオ聖堂にも似た雰囲気です。
ファサードは未完で、ラフな壁のまま。青銅製の扉とバラ窓が一つ。そして小さなニッチェが左右に一つずつありました。以前は何も置かれていなかったそうですが、現在では2000年の聖年の記念に作られた福音記者達のレリーフが飾られています。
時刻は15時15分過ぎ。中を見たかったのですが、16時予約のスクロヴェーニ礼拝堂が気になって、入場を諦めました。どうも上手くいかない・・・ -
白い彫像達に別れを告げて、朝から乗りたいと思っていたトラムで、スクロヴェーニ礼拝堂に向かうことにしました。
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広ーい広場を歩き回って疲れました。トラムの停留所発見!
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プラート・デッラ・ヴァッレから4つ先のEremitaniまで。トラムに乗ればあっという間ですが、トラムの運行はそう頻繁ではありませんでした。10分以上待ったかな。歩くのとあまり変わらなかったような気がします。
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トラムに乗りたいという願いがようやく叶いました。明るくてまだ新しい車両です。つかまるための柱やバーはすべて赤。オシャレ~!!
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念のために運行ルートを確認。降車駅エレミターニから鉄道駅はわずか2駅でした。これなら乗るほどでもないか・・・
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うっかり外側の写真を撮るのを忘れたら、丁度反対方向のトラムがやってきました。ちょっと遠いなあ・・・相変わらず写真ド下手です。
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こんな花々が咲いている道を
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円形競技場に沿って歩いていくと、右手にスクロヴェーニ礼拝堂が見えてきました。
スクロヴェーニ礼拝堂は高利貸しエンリコ・スクロヴェーニが一族のために建てた教会で、「受胎告知の日(3月25日)の慈愛の聖母」に捧げられています。金貸し業はキリスト教世界では嫌悪されており、彼は自ら、そして先祖(先祖も金貸し)の罪を贖うためにこの教会を建てたと言われています。1305年に献堂されており、ジョットが壁画を描いたのもこの頃とされています。 -
アートが点在する気持ちの良い散歩道です。
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あれまあ! 礼拝堂は本当にアレーナに顔を突っ込んだように建っていました。
2015年6月現在では、スクロヴェーニ礼拝堂は撮影禁止でした。15分小さなヴィデオルームでヴィデオを見させられた後、礼拝堂内に移動して15分! えっ!? もう15分経ったの? と思うほど短い時間でした。
胃のあたりがモヤモヤ。ジョットの絵に会えた感激はあっという間に忘れそうだったので本を購入しましたが、それでもモヤモヤは治まりそうもありません。帰国してから本を眺めては時々思い出していましたが、2015年11月、思い切って徳島の大塚国際美術館に行き、スクロヴェーニを模したホールを思う存分眺めた後、展示されている陶板画の写真を撮って参りました。これで、ようやくモヤモヤが消えました。単純細胞ですねえ。
折角なので、その時の写真で、少しだけジョットのフレスコを紹介しましょう。 -
陶板画は窯で焼くために、大きさに制限があり、大きな絵の場合、二分割三分割となってしまい、パネルとパネルの間に線が出来てしまうのが欠点ですが、陶板画の出来ばえはなかなか素晴らしく、行って見ることができて良かったと思っています。入場券が3300円だったかな? 少々お高いのが気になりますが、私めは1日では全く足りず、次の日の予定をキャンセルして丸々2日間この美術館に滞在しました。その価値は十分あったと思っています。
主祭壇に向かっての礼拝堂のイメージです。実際の礼拝堂には祭壇とエンリコ・スクロヴェーニの墓がある後陣がありましたが、ここにはそれはありません。 -
ジョットのフレスコは床以外のあらゆる場所に描かれていました。
まずは内陣アーチです。上から「受胎告知の天使を遣わす天の父なる神」、二段目「受胎告知」、三段目左「ユダの裏切り」お金を貰っている場面です、右「マリアのエリザベート訪問」と続いています。三段目については、左右の壁のエピソードの一部となります。 -
神から遣わされた大天使ガブリエルと
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マリアです。相変わらずボケていますなあ・・・
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ヴォールトは2つの太陽(トンドの中には神と聖母子)と8つの惑星(旧約聖書の偉大なる予言者7名と洗礼者聖ヨハネの姿がありました)と無数の八芒星(点が8つある☆)が煌いていて、濃い青の宇宙空間が無限に広がっているようです。
「宇宙空間」には、当時から大変高価だったラピスラズリがふんだんに使われているのだそう。 -
入り口側には、最後の審判がありました。向かって左側の中程は、フレスコが消えかかっていますね。
大塚国際美術館の陶板画は大塚トーミ陶業という関連会社において、原画を再現するための色の分解から行い、絵付け、焼成を繰り返して作られたもので、傷んだ状態まで忠実に再現しています。私は大塚グループの回し者ではありませんよ。念のため。 -
最後の審判を司るキリストは中央に。
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そしてこちらは、左側の天国派です。人々の真剣な眼差し、奥にいる、人々を護っているひと際背の高い天使達の凛々しい顔つきが忘れられません。
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注目すべきは、行列を作る人々の先頭、中央に立つ十字架脇に、この礼拝堂を聖母に捧げるエンリコ・スクロヴェーニの姿がある事です。跪いて教会を差し出しているのがエンリコです。エンリコがジョットに一番描かせたかった場面でしょうね。
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右側の地獄です。今回の旅で何番目の地獄だったでしょうか?
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左右の壁には、ヨアキムとアンナ(マリアの両親)、マリアとキリストの物語が綴られていました。お気に入りの作品だけアップすることにしますね。
「ヨアキムの生贄」。妻アンナに受胎告知があったことを知らないヨアキムは、自分に子供が授かるよう、神に生贄を捧げます。生贄の上には、祝福の神の手が描かれていますが、これは生贄が受け入れられたという意味なのだそうです。右側に立っているのは大天使ガブリエル。
この絵は天井近くの一段目にあったので、多少形が歪んで見えていました。 -
続いての「ヨアキムの夢」は、なんといっても左側に描かれた天使の美しさにうっとりです。
妻アンナが子供(マリア)を授かると伝える天使の夢を見る場面です。天使とヨアキムが、そして羊飼いと右上の岩山が対角線上に配置された構図はジョットによって緻密に計算され尽くされたものなのでしょう。 -
少々間が飛びますが、こちらはマリアの物語の中から「マリアの結婚」です。
天使は神殿に大司祭に「国中の独身者に一本、杖を持たせて集めよ。杖の先に花の咲いた者がマリアの夫だ」と伝えていたそうです。ヨセフが握っているユリの花がその枝でしょうか? -
「聖誕」これも本当に美しい1枚です。聖母は横たわっていて、今出産を終えたばかりに見えます。きりっとした横顔には強い決意が表れているような気がします。ヨセフは、こともあろうにうたた寝中です。これはヨセフへの批判が背後にあるのかしら?
牛とロバが覗きこんでいる姿がまた良いですね。 -
「東方三博士の礼拝」。1枚前の絵と同じ木製の屋根が使われていますね。乳香、没薬、黄金を捧げる博士達の姿が描かれています。履いている赤い靴は王族の証なのだそうですよ。
左端に描かれた背の高いラクダがエキゾチックな雰囲気を漂わせています。 -
三博士はヘロデ王に、幼子が見つかったら、自分に知らせるよう頼まれていましたが、神のお告げを聞き、彼に会わずに帰ります。その後に起こった「ヘロデ王の嬰児殺し」です。
キリスト一家はすでにエジプトに逃れていました。 -
「キリストのエルサレム入場」です。使徒を従えてエルサレムの城門に到着したキリスト一行を町の人達が出迎える場面が描かれています。平身低頭で迎える者、野次馬のような輩、驚いている人もいますね。オリーヴの木に登る子供たちの姿が私には珍しく感じられました。
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ジョットのこの「最後の晩餐」は、テーブルに置かれたものが見えません。しかしながら、伝えたいことは明らかです。キリストはこう言うのです。「見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。」
左端に座り、背中を見せている黄色い服の男がユダ。彼はキリストと同じ皿に手を伸ばしています。ヨハネはいつものようにキリストにもたれかかって寝ていますね。 -
私としては綺麗に撮れた1枚。「足を洗う」です。最後の晩餐を取った部屋で行われています。水の入った容器を持ち、立っているのは聖ヨハネ。使徒たちの数を数えると全部で11名。ユダの姿だけありません。
キリストが最初に洗ったのはピエトロの足です。前の1枚とこちらの絵で、使徒たちのハロが黒くなっているのは経年による化学変化で、ジョットが意図したものではないそうですよ。 -
フレスコサイクルで最も有名だと思われる「ユダの接吻」です。ユダの黄色い衣がとても目立っていますね。もはや彼の頭にはハロはありません。
彼の接吻を皮切りに、キリストを捕えようと右側から軍隊がやって来ています。左側では、聖ピエトロがキリストの逮捕に抵抗して、ユダヤ教大司祭の使いであるマルコスの耳をナイフでそぎ落とそうとしていますよ。 -
ユダの裏切りの結果がこちらです。
聖母の左隣に聖ヨハネが付き添っています。キリストの足元にいるのはマグダラのマリアでしょうか? -
もうきりがないので、この辺で。フレスコはご覧のように、ヴォールトに続き4段に渡ってびっしりと描かれていました。
4段目には単色で、美徳と悪徳の寓意像が全部で14枚ありました。こちらも大変素晴らしいのですが、とにかくこのヴォリューム。15分では時間が全く足りないことがわかっていただけたかと思います。ジョットの実物に触れたい方は、毎日通うしか手はなさそうです。 -
至福の時間はあっという間に過ぎ去り、とぼとぼと帰路につきます。お隣のエレミターニ教会をまだ見ていなかったので、寄ります。アウグスティン会の教会で、1276年の創建です。12使徒のフィリポとヤコブに捧げられています。付設の修道院は現在市立博物館になっていて、今朝最初に寄りましたね。
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ファサードはレンガと石造りで、全部で5つのアーチがあり、中央はメイン扉になっています。扉の両脇にあるのは墓でしょうか?
ファサード上部と天井、そして後陣は、第二次大戦中の爆撃により、大きな被害を受け、戦後に再建されています。瓦礫の中から回収されたレンガや石を再利用しているそうですよ。何世紀にも渡り、リッチな装飾が施され、豪華な芸術品が収められてきましたが、その一部も戦争で失われています。
教会は1276年、聖フィリッポ・ジャコモにより工事が始められ、1306年にこの教会の修道僧だったジョヴァンニ・デッリ・エレミターニにより完成を迎えています。 -
内部はびっくりするほど扁平な印象を受けます。がらんとしていて、何もないイメージです。柱がないので、余計そう思われるのでしょうか?
ご覧の通り一廊式で、4つの小さな礼拝堂が左右にあります。第二次大戦後、オリジナルに近い形で屋根が再建されています。
見えにくいでしょうが、その天井がとても変わっていました。修道僧ジョヴァンニ・デッリ・エレミターニによって作られたオリジナルに忠実に再建したそうです。 -
入口入ってすぐの壁にあったのは、カラッラ家一族のヤコポ2世の墓です。ヴェネツィア出身の彫刻家アンドリオーロ・デ・サンティ作で、対面にあった、とてもよく似ているウンベルティーノ・ダ・カラッラの墓と共に、19世紀に廃止されたアウグスティン会の教会からここに移されたものです。墓の下には、その時代よくパドヴァを訪れていた詩人のペトラルカによる碑文が掲げられていました。
こういった吊り下げ式の墓は14世紀には流行していたようです。 -
比較的状態が良いと思われたお隣のモニュメントは著名なものではなかったらしく、彫刻家に関しては解説が見つかりませんでした。ニッチェの聖母子のフレスコは、ステファノ・ダ・フェッラーラの作品。聖母の微笑みがとても美しい!
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形式が前のものと似たモニュメントが並んでいました。こちらに関しても詳しい説明は得られませんでしたが、付け柱の植物の蔓や花瓶などの美しいレリーフが印象に残りました。
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壁に残されていたフレスコの1枚です。聖母子が座る玉座は、コズマーティのような象嵌細工で装飾されていますよ。
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フレスコで文字盤が作られたアンティークな時計がここにもありました。24時間制ではなく、こちらは通常の12時間制。
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これも身廊左側に残されていたフレスコの断片で、キリストの磔場面だと思われます。
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後陣は、第二次大戦の爆撃を受け、向かって左側の壁のみかろうじて被害を免れました。左右の壁に描かれていた、聖フィリッポと聖アゴスティーノの物語が綴られたフレスコは、現在左面を残すのみです。
画家グァリエント・ディ・アルポが1361年から5年にかけて制作したもので、4段に渡って描かれています。キリストの弟子聖フィリッポについては多くを知らないのですが、1段目は軍神マルスに生贄を捧げることを強要されたフィリッポ、2段目は司教達と会うフィリッポとフィリッポの殉教だそうです。 -
3段目は日本語ではヒッポのアウグスティヌスと呼ばれている、聖アゴスティーノの生涯です。彼はキリスト教が公認されたころの教父で、母モニカと共に聖人に認定されています。
左側は聖アゴスティーノのヴィジョン、右側は法服を着る聖アゴスティーノと彼の息子アデオダトゥスの洗礼だそうです。
4段目には、モノクロのフレスコで、惑星と人の年齢を表す寓意像が描かれていました。グァリエントの絵にはジョットの影響を感じますねえ。不完全ですが遠近法が取り入れられた建物の構図、柔軟な人物描写が見事です。左面が残ったのは不幸中の幸いでした。 -
主祭壇にはキリストの磔像が置かれていました。
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そして、爆撃を受けた側、主祭壇に向かって右側の再建された壁です。飾られていたのは、戦災で残ったフレスコの断片でしょうか?
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爆撃を受けた後の悲惨な写真が展示されていました。
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写真奥に見えるつっかえ棒のある白く見える壁が後陣左壁のようです。
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こちらがそのアップの写真。この時点で、フレスコは殆ど消えかかっていたのがわかります。戦後今の状態に復元したんでしょうね。
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最後は、教会の南翼廊に位置している、オヴェターリ礼拝堂にお邪魔します。裕福な公証人だったオヴェターリ家の礼拝堂は、第二次大戦の爆撃で跡形もなく破壊されました。戦争で犠牲になったイタリアの芸術的遺産の中で、最も評価が高かった物の一つと言われています。
1448年~57年にかけて、アンドレア・マンテーニャ、ニッコロ・ピッツォーロ他により礼拝堂内の壁とヴォールトに聖クリストフォーロと聖ジャコモの物語が描かれました。
それから約500年後の1944年3月11日、爆撃機はフレスコを跡形もなく消し去り、残ったのは事前に切り離されていた2つの場面とほんの僅かな断片だけだったそうです。残されていたモノクロ写真を手掛かりに大規模な修復作業が行われ、ようやく完成したのが2006年のこと。
ご覧ください。ごみのようにモノクロの下絵に貼り付けてあるのが、発見されたフレスコの断片です。なんと痛々しいこと!
3段目聖クリストフォロの護送(彼は雲をつく大男だったと言われています。右側の絵に残る足の太さからも想像がつくと思います)と殉教の場面は、1880年、あまりにも損傷が激しかったため、切り離され、別の場所に保管されていました。それが幸運にも後の戦争での破壊を免れる結果となったのです。この部分はマンテーニャの作だそう。 -
左側は聖ジャコモ(キリストの弟子ヤコブ)の物語です。この面は殆どマンテーニャの手によるものです。
上段左から聖ヤコブと聖ヨハネの召命、聖ヤコブの説教、聖ヤコブがエルモゲネスを洗礼する場面、聖ヤコブの所見、聖ヤコブの奇跡、そして殉教へと続きます。 -
祭壇画は、同じくマンテーニャによる「聖母被昇天」。こちらも別の場所に移されていたため、損傷を免れたフレスコです。
撮り方が悪く、下の方に聖母を見送る聖人達がいるのですが、写っていません。オヨヨ・・・何でもそこには8人の使徒が描かれているのですが、12人ではないということで文句が出たそうですよ。
マンテーニャは聖ヤコブの物語の制作を終えると、祭壇画に移り、そして右壁の聖クリストフォロの下段2枚に集中したとのことです。 -
祭壇画を撮る邪魔をした、フレスコの前に置かれた祭壇です。
オヴェターリ礼拝堂については少々痛々しすぎて、見ていられないという気持ちになりました。戦争で現在もどこかの国で貴重な遺産が次々と失われています。愚かな人間どもは懲りることを知りません。 -
パドヴァカードを使って、トラムに乗って再びプラート・デッラ・ヴァッレへ。欲張ってもう少し歩いてみたいと思ったからです。
美しいサンタ・ジュスティーナ聖堂を撮りたかったのですが、変な小屋があって、これじゃあ台無し。 -
プラート・デッラ・ヴァッレ広場からアックエッテ通りをやや暫く行くと、サンタ・マリア・デル・トッレシーノ教会のまあるい後陣の前に出ました。3つの半月形の出っ張りがある円形と長方形が合わさったような形をしています。
ちょこんと突き出した塔屋が王冠のように切れ目が入っていて要塞のようにも見えます。 -
でっぷりと太った3つの出っ張りのある円筒部分です。
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ファサードに回ることなく、3枚写真を撮っただけで満足したみたい。1718年建築家ジローラモ・フリギメリカによって設計され、1726年に完成しました。18世紀のヴェネツィアン・バロック代表例と言われているそうですよ。
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私が歩きたかったのは、バッキリオーネ川沿いの歩行者専用の道。パドヴァの散歩道としてあるサイトに紹介されていたからです。
正面に見えるのは、かつてのパドヴァ大学天文台で、現在は博物館となっているラ・スペコーラ。1777 年に設置されたパドヴァで最も高い塔の一つです。高さが49.59mあるそうです。 -
天文台の前身は古い防御用の物見塔で、9世紀まで遡ることが出来ます。中世の時代には牢を兼ねた拷問部屋として使用されていたこともあるようですが、その後は見捨てられ、穀物倉庫、藁や干し草置き場として使われていました。
1761年ヴェネツィアの上院のパドヴァ大学天文台設立要請に基づき、建築家ドメニコ・セラートが塔の上に観測用の八角形の部屋と展望台を建て増し。1777年に運用開始となりました。公共施設としては世界で初めて、避雷針が設置されたんですって。
現在は土日だけオープンする博物館になっているそうです。あの上からプラート・デッラ・ヴァッレを見てみたかったなあ・・・ -
天文台と川を挟んで対面にあったどなたかのモニュメント。
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そしてモニュメントの脇にあったのが小さな祈祷所 オラトリオ・ディ・サン・ミケーレです。パドヴァカードで入場可能です。
パドヴァでも一、二を争う古い宗教施設で、創建はビザンティン時代の569年~602年。ここのフレスコが凄かった! 1397年ころにヤコポ・ダ・ヴェローナが描いた、聖母の生涯に関するフレスコです。 -
残念ながらここも撮影禁止だったので、サイトから1枚お借りしました。教会から礼拝堂へ続くアーチの上から受胎告知から始まっていて、キリスト聖誕、東方三博士の礼拝、聖母被昇天、聖霊降臨、聖母の永眠、そして聖ミケーレで終わっています。
14世紀、フレスコで花開いたパドヴァを思い起こさせる見事なフレスコにうっとりです。 -
教会のあるところは、1390年、カラッラ家最後の領主フランチェスコ・ノヴェッロとミラノのヴィスコンティ家の間で激しい戦闘があったところとしても知られています。この時の戦闘で教会の一部が焼け、再建に伴って、教会は聖母マリアに捧げる礼拝堂を新設することになり、ヤコポ・ダ・ヴェローナにフレスコの依頼が行ったという次第です。
戦争はその後も続き、1405年、ついにフランチェスコ・ノヴェッラと息子フランチェスコ3世はヴェネツィアに敗退。カラッラ家の血筋は途絶えることになります。 -
パドヴァカードに紹介がなければ、絶対に行くことがなかった教会で、思わぬ宝物を手に入れたような気分になりました。カードの有効期限が48時間あるので、明日もここに戻ってもいいかなあ・・・
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でも明日は明日の風が吹くよね。川沿いの散歩道なのに、高い塀のために川がよく見えないのが残念でした。
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パドヴァ駅に戻って参りました。さあ、ヴィチェンツァのおうちに帰りましょ。
パドヴァの町の魅力を満喫するには、時間が足りず中途半端に終わってしまいました。明日はヴェローナの予定だけれど、明日も1日パドヴァカード使えるし、どうしようかな? そうだ! 帰ってヴァレンティーナに相談しようっと!
この続きはイタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その87 ヴェローナ1で。
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この旅行記へのコメント (2)
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- Rolleiguyさん 2017/02/05 22:52:08
- お邪魔します
- junemay様
イタリアの長いご旅行の記録を全部拝見するまで何日かかるか分かりませんが、このパドヴァはそのままガイドブックになるほどの質と量ですね。
旅行記のどれを拝見しようかと思い、スクロールしているうちにパドヴァという名前を見つけて1と2を見ました。大昔、学生時代にヤーコプ・ブルクハルトというドイツの歴史家が書いた「イタリアルネッサンスの文化」という本を、少し読んだのですが(通読には至りませんでしたが、まだ持っています)、最初にパドヴァの辺りから読み始めたのです。もう内容は記憶にありませんが、名前だけは鮮明に残っています。いつかは行きたいと思い、何度か仕事でイタリアに行ったのですが、結局行かず仕舞いになってしまいました。
その郷愁のパドヴァの本当に美しい写真と詳細な記録文を目にして、半分行った気分になりました。感謝します。またゆっくり他のも拝見致します。
Rolleiguy
- junemayさん からの返信 2017/02/07 13:44:19
- RE: お邪魔します
- Rolleiguy さん こんにちは!
訪問頂きましてありがとうございました。
パドヴァは、2015年のイタリアの旅で一番未消化に終わった町で、内容的にも乏しく、自信のない部分です。旅も後半になり、行けば何とかなるとばかりに良く調べないで行った結果です。スクロヴェーニ礼拝堂に関しては、帰国してから大塚国際美術館に行ったことで、なんとか満足を得ることが出来ましたが、他の部分については、撮影禁止の場所が多かったこともあり、記憶に残っていません。写真は記憶を残す唯一の手段で、悲しいことに脳裏に鮮明に焼き付けるということが出来なくなっています。機会があればまた行ってみたい町の一つです。
昨年はスペイン、ポルトガルを回りましたが、やはり教会内部に関してはイタリアが最も充実しているように思いました。素晴らしい絵画の数々は、美術館にあるのとは異なり、絵とぴったり合った背景の中で輝きを増すように感じました。
またのおいでをお待ちしております。素敵なコメント感謝いたします。
junemay
> junemay様
> イタリアの長いご旅行の記録を全部拝見するまで何日かかるか分かりませんが、このパドヴァはそのままガイドブックになるほどの質と量ですね。
> 旅行記のどれを拝見しようかと思い、スクロールしているうちにパドヴァという名前を見つけて1と2を見ました。大昔、学生時代にヤーコプ・ブルクハルトというドイツの歴史家が書いた「イタリアルネッサンスの文化」という本を、少し読んだのですが(通読には至りませんでしたが、まだ持っています)、最初にパドヴァの辺りから読み始めたのです。もう内容は記憶にありませんが、名前だけは鮮明に残っています。いつかは行きたいと思い、何度か仕事でイタリアに行ったのですが、結局行かず仕舞いになってしまいました。
> その郷愁のパドヴァの本当に美しい写真と詳細な記録文を目にして、半分行った気分になりました。感謝します。またゆっくり他のも拝見致します。
> Rolleiguy
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