2015/06/02 - 2015/06/02
39位(同エリア658件中)
junemayさん
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- 旅行記226冊
- クチコミ42件
- Q&A回答0件
- 192,586アクセス
- フォロワー41人
2014年6月から7月にかけて、イタリア、フランス、スペインを勝手気ままに歩いた一人たびの心地よさが忘れられず、年が明けるや否や新しいプランを作成。今年は昨年最も強く心を惹かれてしまったイタリアに集中することにしました。6月のトスカーナは連日35度を超す猛暑だったので、今年は1か月前倒し。
まずは行きたいところをピックアップして、たびの拠点となる都市を選定。宿泊施設を押さえてから、詳細を詰めていくというのが私のスタイルなのですが、例によってこれも見たい、あそこも行きたい・・・とかく欲張りな私のこと、1か月じゃあ全く時間が足りないことがすぐに判明しました。とはいえ、時間とお金は限りあるもの。優先順位を決めて、何とかやりくりをして決めたのが下記のプランです。
イタリアには過去3度行ったことがあります。
最初のたびは、大学生の頃、スイスのチューリッヒから日帰りで行ったミラノ。最後の晩餐だけ見に行ったような、慌ただしいたびでした。
2回目は2001年、シシリアとアルベルベッロ、カプリ島、ローマを2週間かけて回りました。
3回目が2014年、ベネチアとトスカーナ州、リグーリア州が中心の2週間。
今回は、過去に行ったことのない場所をメインとした旅程となりました。たびを重ねるうちに、自分が最も興味を惹かれるものは、古い建物、神社仏閣教会等、そして彫刻、絵などの美術品 全て人が作り出したものだということがわかってきました。中でも、ここ2、3年、以前はあまり興味が沸かなかった教会に強く惹かれる自分がいます。基本的には無宗教なのですが、現在より人々の心が純粋で、神を敬う気持ちが強かった頃でなければ、創り上げられなかった文化の結晶とでもいうべき施設には畏敬の念を覚えます。というわけで、今回のたびの中心は教会を巡る街歩きとなってしまいました。
イタリア語は皆目見当がつかず、付け焼刃で2週間ほど本を見て勉強しましたが、やるとやらないでは大違い。後は度胸と愛嬌?で前進あるのみ。御陰様で、とても自己満足度の高いたびになりました。
2015/5/6 水 成田→モスクワ→ローマ
2015/5/7 木 ローマ
2015/5/8 金 ローマ→ティヴォリ→ローマ
2015/5/9 土 ローマ
2015/5/10 日 ローマ
2015/5/11 月 ローマ
2015/5/12 火 ローマ
2015/5/13 水 ローマ→ナポリ
2015/5/14 木 ナポリ→ソレント→アマルフィ→ラヴェッロ→アマルフィ→サレルノ→ナポリ
2015/5/15 金 ナポリ
2015/5/16 土 ナポリ→エルコラーノ→ナポリ→カゼルタ→ナポリ
2015/5/17 日 ナポリ→バーリ
2015/5/18 月 バーリ→マテーラ→バーリ
2015/5/19 火 バーリ→レッチェ→バーリ
2015/5/20 水 バーリ→オストゥーニ→チェリエ・メッサピカ→マルティーナフランカ→バーリ
2015/5/21 木 バーリ→アンコーナ→フォリーニョ
2015/5/22 金 フォリーニョ→スペッロ→アッシジ→フォリーニョ
2015/5/23 土 フォリーニョ→トレヴィ→スポレート→フォリーニョ
2015/5/24 日 フォリーニョ→ペルージャ→フォリーニョ
2015/5/25 月 フォリーニョ→コルトーナ→オルヴィエト
2015/5/26 火 オルヴィエト→チヴィタ ディ バーニョレージョ→オルヴィエト
2015/5/27 水 オルヴィエト→アレッツォ→オルヴィエト
2015/5/28 木 オルヴィエト→フィレンツェ→ボローニャ
2015/5/29 金 ボローニャ→ラヴェンナ→ボローニャ
2015/5/30 土 ボローニャ→モデナ→ボローニャ→フェラーラ→ボローニャ
2015/5/31 日 ボローニャ
2015/6/1 月 ボローニャ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/2 火 ヴィチェンツァ→パドヴァ→ヴィチェンツァ
2015/6/3 水 ヴィチェンツァ→ヴェローナ→ヴィチェンツァ
2015/6/4 木 ヴィチェンツァ
2015/6/5 金 ヴィチェンツァ→ミラノ
2015/6/6 土 ミラノ
2015/6/7 日 ミラノ
2015/6/8 月 ミラノ→モスクワ→
2015/6/9 火 →成田
ヴィチェンツァ滞在2日目は、スクロヴェーニ礼拝堂にあるジョットのフレスコ画を見に、隣町パドヴァに出掛けます。近いからとのんびり出かけたら、時間が全然足りなくて、焦りまくりました。地球の〇き方には駅の隣にあると書かれていたインフォメーションが見つからない。ネットで予約したパドヴァカードの引き換え場所が書いていない。市立博物館やスクロヴェーニ礼拝堂は撮影禁止。これに語学不足、情報不足が加わり、未消化で終わった1日となりました。あーあ!
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ヴィチェンツァのB&Bの朝食風景です。前にも書きましたが、イタリアのB&Bでは、なま物を出す事を禁止されています。従って、朝の食事は、甘いパンやカステラ、シリアル、ヨーグルト、ジュース、そしてコーヒー、紅茶といったメニューで、毎日だと飽きてしまうメニューです。
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こんな甘いお菓子ばかり、朝から食べられません・・・
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コーヒーはネスカフェドルチェグストのマシーンで自分で入れる。紅茶はティーバッグでした。
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朝食をとるゲストは私だけなので、ほぼこの部屋独占状態。2日目からはパン、ハム、チーズ、ヨーグルト、カット野菜を別途購入して、台所の冷蔵庫を我が物顔に使い、朝食を作りましたよ。
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さてさて、レジョナーレでわずか15分。パドヴァにやって参りましたよ。ヴェネツィア行きの列車は混んでいたけれど、誰もパドヴァでは降りず、終着駅のヴェネツィアまで向かう乗客がほとんどでした。
駅隣にインフォメーションがあるって、ないじゃないですか・・・後で聞いたら、この時期一時的に閉まっていたようです。お目当てのスクロヴェーニ礼拝堂の見学は午後を予約しているけれど、こうなったらそこに行ってみるしかないかなあ。 -
古い街並みをさっそうと駆け抜けるパドヴァの最新式トラムです。2007年から運行開始となったまだ新しい乗り物。今のところ10.3kmの区間1路線のみですが、鉄道駅と旧市街を結ぶ、観光客にとっては便利な乗り物です。予約したパドヴァカードには、トラムの他にバス乗り放題がついています。
乗りたいけれど、パドヴァカードないし・・・ -
駅前の大通りをスクロヴェーニ礼拝堂方面に向かって歩いていくと、運河の橋を渡ります。橋の先が旧市街。
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ここで簡単にパドヴァカードとスクロヴェーニ礼拝堂の関係を紹介しますね。2015年のデータですが、スクロヴェーニ礼拝堂のチケットは隣にある市立博物館と共通で13ユーロ。礼拝堂は必ず予約が必要なので、その手数料1ユーロを加えると14ユーロかかります。
パドヴァカードは48時間用16ユーロ、72時間用21ユーロで、スクロヴェーニの他、11か所の観光施設に入場可能。更にトラム、バス乗り放題なので、これを利用しない手はありません。カードをネットで申し込むと、その場でスクロヴェーニ礼拝堂の予約画面に進むことが出来ます。礼拝堂に入場できるのは1回にわずか25名のみ。15分間隔で予約を受け付けています。
日本出発前にははっきりとした日程がわからなかったので、昨日ヴィチェンツァに着いてから予約し、ヴァレンティーナに頼んで、予約画面をプリントアウトして貰ったという次第です。 -
左側に続く緑はアレーナ庭園です。中には、ローマ時代の円形闘技場(アレーナ)が保存されています。地続きにあるので、このフェンスが見えるとスクロヴェーニ礼拝堂への入り口はもうじきです。
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パドヴァのガリバルディ発見! そのうち、イタリア各都市のガリバルディ一覧表が出来そう。えっ? そんなもの観たくないですって?
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道路の反対側に、古い教会の塔が「おいでよ」と手招いていたのですが、先を急ぐのでごめんなさい。実は背後の建物との間には運河が流れていて、ここにはポルタ・コンタリーネという水門があり、風光明媚な場所だったことを後で知りました。教会は、運河沿いに建てられていて、1723年の創建。そう古いわけではありませんが、運河に大変似合う風景の一部となっていました。やはり、気になったら招かれていくべきでしたねえ・・・
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こちらがスクロヴェーニ礼拝堂に隣接する、エレミターニ教会です。スクロヴェーニ礼拝堂に行くには、この教会の横を抜けていきます。
創建は13世紀で、キリストの弟子12使徒の聖フィリポと聖ヤコブに捧げられたアウグスティン修道会の教会でした。中にはアンドレア・マンテーニャが描いた貴重なフレスコがありましたが、第二次大戦の爆撃で破壊されています。
現在、この教会は中世絵画と考古学博物館の入る市立博物館になっており、ここでようやくパドヴァカードとスクロヴェーニの時刻が書かれた入場券を受け取ることが出来ました。 -
最近4トラベルで拝見した旅行記で、スクロヴェーニ礼拝堂が撮影可能になったというのを読んで驚きましたが、2015年6月当時は、スクロヴェーニもこちらの博物館も撮影禁止だった記憶。従って、いつもの延々と続く展示物の紹介はありません。
博物館は、アウグスティン修道院の建物を使用していて、中には2つの大きな回廊がありました。中央が芝生に覆われた中庭に面したこちらの回廊には・・・ -
パドヴァ及びその近郊で発掘された柱頭やスラブ、プレートなどが展示されていました。
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もう一つの回廊は無機質でモダンな回廊に様変わりしていて、中央の古い井戸とマッチしていない印象を受けました。写真がないと、忘れるのも早く、展示物については殆どが忘却の彼方。
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こちらは、スクロヴェーニとは道路の反対側にあったパラッツォ・ツッカーマンで、現在は市立博物館となっており、美術館とボッタチン博物館が入っています。美術館にはガラスとかインレイ、銀、象牙、繊維など、ボッタチン博物館では、豪商ニコーラ・ボッタチンから寄贈された彼のコレクション(絵画、家具、彫刻、陶器、古武器等)が展示されています。パドヴァカードで入場可能です。
ここも撮影禁止だったので、写真なし。 -
ツッカーマン宮殿の対面に見えるのはアレーナ庭園に残るローマ時代の円形競技場(アレーナ)の一部です。パドヴァのアレーナは楕円形をしていました。スクロヴェーニ礼拝堂はアレーナに首を突っ込むようにして建っているので、別名アレーナ礼拝堂とも呼ばれているそうです。まあ、これは後のお楽しみ。
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恒例となりつつある? こちらの1枚は、パラッツォ・ツッカーマンの並びにあったパドヴァの郵便局です。イタリアの郵便局ってどこもかしこも本当に素敵な建物ばかりですねえ。よそ行きの格好して行かなくっちゃ!
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ツッカーマン宮殿からジュゼッペ・ガリバルディ大通りを進むと、遠くに見えてきたのは「ノーリの聖母」の柱塔です。
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古くからのパドヴァの中心地の一つで、以前は貨物を積んだ馬車がここを中継点にしていたことから、ノーリ(貨物)広場と呼ばれていました。
1867年3月にガリバルディがこの地を訪れて以来、彼の名を冠したガリバルディ広場という名前に変わっています。
「ノーリの聖母」の歴史は1756年に貨物馬車の御者達と近くの聖マッテオ教会の信者らが広場の中央に聖母の彫像を寄贈したことに始まります。彫像は広場の名前が変えられた後の1886年、ガリバルディの彫像に差し替えられましたが、人々の聖母復帰の願いは根強く、市当局は1954年になって、現在の柱塔を建設しています。
時は流れて、今では、ノーリの聖母はパドヴァのタクシー運転手達(現代の御者?)の守護聖人だそうですよ。
まさに、聖母はガリバルディより強しですね! -
ガリバルディ広場からは歩行者専用の道を進みます。
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続いての広場は、カヴール広場。広場恒例の銅像の主人公カミッロ・カヴールは19世紀のイタリアの政治家です。そういえば、この方も通りとか広場の名前になっていて、よくお見受けしますね。
奥に見えるのは芸術などの展示会場ガッレリア・カヴールです。 -
この広場の一角には、イタリアで最も有名な歴史的カフェ カフェ・ペドロッキがありました。実は私はこのカフェについては全く知識がなく、パドヴァカードについてきた分厚いガイドブックで初めて知った次第。
コーヒー商人アントニオ・ペドロッキが創業したのは1831年。建物はネオクラシックとヴェネツィアン・ゴシックの折衷様式でヴェネツィアの建築家ジュセッペ・ヤッペッリによって建てられました。 -
1階にはいくつかの部屋があり、タペストリーの色、あるいは部屋の形から名前が付けられています。イタリア国旗の3つの色 緑、白、赤の部屋もありましたよ。2階には行かなかったのですが、エジプト、ローマ、ギリシャ、エトルリア風に装飾された部屋やロッシーニ風に飾られたボールルームもあったようです。
また、イタリア統一運動リソルジメントに関わる博物館にもなっていました。ヴェネツィアの終焉(1797年)からイタリア共和国の憲法制定(1848年)までの歴史がわかるようになっています。 -
ドリンクの他に、軽食も取れるようになっていました。メニューを参考にしてね。
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創業者アントニオ・ペドロッキの名が記された碑文の下を通って店内へ。
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思っていたより、カジュアルなインテリアでした。美味しいカプチーノを戴きましたよ。3.5ユーロ。思っていたより高くはありません。
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カフェとは思えない、豪華な外観です。このような正方形に近いロッジアが左右に二つ突き出していました。
どのライオンも子供の乗り物になっていたのが面白い・・・私も子供だったら絶対やるね! -
カフェ・ペドロッキの正面に向かって斜め右にあった、こちらの建物も古き良きヴェネツィアを髣髴させます。日本式3階のバルコニーの下には、ヴェネツィアの聖マルコのライオンがペアで向かい合っていました。
この建物の横の混雑したゴリツィア通りを進んでいくと・・・ -
ヴィチェンツァのバシリカ・パッラディアーナによく似た屋根を持った、パドヴァのパラッツォ・ラッジョーネが姿を現しました。それにしても凄い人混みです。
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これは面白い建物ですね。まず母体となる建物が長方形ではなく、歪な形をしているのに、気が付きました。後でグーグルマップで確認したら、空から見るとなんと台形のような形!
レンガ造りの母体となる建物は、1218年(1166年という説もある)から町の市庁舎兼裁判所として建築を開始し、1306年~9年にかけてアウグスティン会の修道士フラ・ジョヴァンニ・デッリ・エレミターニにより拡張されました。
ジョヴァンニはこの時、それまで3つあった屋根を1つにまとめ、2階部分の外側に突き出したポルティコを加えるという大改造をやってのけたのです。 -
そして最終段階・・・かどうかは分かりませんが、その下に見える黄色いポルティコは庶民達が多分長い間かかって広げていった商店街です。今ではその前にテントまで出現していますね。四重構造になりつつありますよ。
ここはずっと昔から町の中心で、商業活動の中心でもありました。市庁舎のお膝元で、人々は商いを行ってきたんですね。しかしながら、ここで一番勢力を振るっていたのは「金貸し」業者だそうですよ! -
イチオシ
ここまで下がると、ようやく船底型の巨大天井がはっきりと見えました。ヴィチェンツアのバシリカとは異なり、窓がついていて、屋根材は鉛板だそうです。
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今いるのはフルッティ広場。果物のフルーツですね。建物の反対側にはもう一つ広場があり、それがエルベ広場という名前で、ヴィチェンツァのバシリカの裏側にあった広場と同名なのは偶然かしら?
どちらの広場も、イタリアで最大級の市が立つ広場だそうですよ。今日は生憎がらんとしていますね。中央に立つ柱塔は中世の時代からここにあるもので、ペロニオの柱塔と呼ばれています。 -
ぐるっと半周して、今度はエルベ広場にやってきました。左側には、本体にすっぽり上から装飾ポルティコをかぶせたような、美しい建物がありましたよ。
パラッツォ・デッレ・デビーテは、1874年にカミッロ・ボイテの設計で建てられたネオクラシック様式の宮殿です。元々ここはラッジョーネ宮殿と繋がった、13世紀に造られた町の牢獄がありました。ヴィチェンツァと同じですね。現在の宮殿が建てられる際に、渡り廊下は取り外されたそうです。 -
ラッジョーネ宮自体はどちらの広場もあまり変わり映えしませんね。四段構造も同じ(笑)…と思ったら、日時計発見! よく見てから言えよ! 左側には時計もありました。
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ラッジョーネ宮の東側にあったこちらの白い宮殿は、ポデスタ宮。13世紀より市長公邸として使用されてきました。幾度となく火災に会い、1539年には、ベルガモ出身の建築家アンドレア・モローニにより再建されています。そのため、彼の名を取ってモローニ宮殿と呼ばれることもあります。
ここにはポデスタ宮の他、アンツィアーニ宮、アンツィアーニ塔、コンシリオ宮などが隣接していて、全体でパドヴァの市庁舎となっています。ちらっと顔を覗かせているのが、アンツィアーニ塔です。 -
ほらっ ヴェネツィアンマークもついていますよ。
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ラッジョーネ宮に向かいます。階段を上って、まずは見事なヴォールトが続く2階のロッジアへ。
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2階のロッジアです。結構広いスペースがあるのに驚きました。前述の修道士フラ・ジョヴァンニ・デッリ・エレミターニが、それまであった外階段をロッジアの中に収めて、大改造を行ったんでしたね。修道士というよりは建築家が本業だったとしか思えません。
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フラ・ジョヴァンニの更なる偉業は、2階の大広間イル・サローネに入っていくとわかります。広ーい! 縦81m、横27m、高さ27mの空間に、柱が1本もありません! 全ては2種類のアーチが採用された天井が支えているんです。
それまでの広間は3つに分かれていて、屋根は通常のトラス構造、ホールの真ん中には天井を支える柱が何本も立っていました。それをフラ・ジョヴァンニは、屋根の高さを6m高くし、ヴォールトのリブ(骨組)を116本使って劇的に変えたのです。船底型の吊天井を持つ建物では世界最大を誇るそうです。 -
イル・サローネに置かれているものの一つ大きな振り子です。常に少しずつ回転して、地球の自転を示してくれるのだとか。「フーコーの振り子」という名前だそうですが、無知な私は知りませんでした。
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このフレスコがびっしり描かれた空間で、20m以上ありそうな長い振り子が音も立てずに絶えず動いているさまはシュールでした。何故ここに置いてあるのかの説明はなし。
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広間の反対側にあったのは木製の「馬」。ドナテッロ作による「ガッタメラータの騎馬像」はパドヴァのサント広場にある、現存する最も古い初期ルネサンス期の騎馬像として有名な彫像ですが、こちらは1446年に作られたアゴスティーノ・リナルディによるコピーで、1837年にそれまで所有していたカポディストラ家から市に寄贈された物だそうです。本物は後で見に行きましょう。
ともかく大きいですよ。傍に立っている人(大人です)の高さと比べてみてください。 -
窓からの光以外照明がないので、やや不鮮明ですが、お分かりになりますか?
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大広間イル・サローネで圧倒されたのは、巨大な壁を埋め尽くすフレスコ画でした。オリジナルのフレスコはジョットによるものだったと言われていますが、それらは1420年の火事で全焼。今あるのは1425年から40年にかけて、ニコロ・ミレットとステファノ・ダ・フェッラーラにより描かれたものです。
フレスコは、柱の上の部分と下の部分に大きく二つに分かれていて、上部にはパドヴァ大学の教授だったピエトロ・ダバーノ(スペインのコルドバ生まれのアラブ系哲学者イブン・ルシュド 通称アヴェロエスの追従者だそう)の研究をベースにした占星術に関わる絵が描かれています。なんとその数333枚! -
占星術のフレスコは12のセクターに分割でき、それぞれが12の月に対応しています。更に1つの月は9枚ずつの3グループに分かれるのだそう。ほぼ1か月の日数に匹敵しますね。
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1つの月を見ると、守護となる使徒、その月の十二宮のシンボル、十二宮それぞれに向いている職業、工芸品、活動、対応する惑星、星座などが描かれていて、占星術が影響を及ぼすその星座生まれの人々の特徴や性格等が表現されています。
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とはいえ、どこから何月が始まっているのかさえ良く分からなかったので、落ち着かなさを覚えながら壁を見上げるばかりです。フェッラーラのスキファノイア宮殿で味わった、焦燥感にも似た気持ちがあったかも・・・
壁の下部には、動物達(市の裁判所のエンブレム)、美徳の寓意像、芸術、聖人、パドヴァの守護聖人などが描かれていました。 -
馬の木像があった背後の壁は、かつて礼拝堂があった場所のようです。確か聖プロスドチーモ礼拝堂という名前でした。
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凄いのはこの天井! ずらりと並べられた板の数を見ただけでも気が遠くなりそう。1756年にはハリケーンにより屋根に大きな被害が出ました。ヴェネツィアの時計職人で、サンマルコ広場の時計塔の制作で知られるバルトロメオ・フェッラチーナが躯体の再建工事に携わり、1797年までかかって元通りの姿に復旧させたそうです。
但し、ヴォールト天井に描かれていた7000以上の★は再現されませんでした。1797年。折しも、ヴェネツィアがナポレオンを前にして力尽きた年ですね。 -
全部の壁を撮りましたが、この辺でお終いにしましょう。月と十二宮名と対応する惑星名については、解説を見つけたのですが、それを読んでもいまいちピンときません。
参考までに挙げておきます。
3月(ホーンを吹いている男の姿)牡羊座 惑星は火星(戦士が玉座に座っている)
4月(花を持った若い女性)牡牛座 惑星は金星(聖母子)
5月(杖を持つ若い騎士)双子座 惑星は水星(球を抱えた髭面の測量士)
6月(農民が穀物を収穫)蟹座 惑星は月(戦車に乗った女性)
7月(農民が穀物を脱穀)獅子座 惑星は太陽(戦車に乗った男性)
8月(農民が葡萄を収穫)乙女座 惑星は水星(球を持って座っている天文学者)
9月(農民が果実を収穫)天秤座 惑星は金星(ヴィーナスが半裸で鏡に向かっている)
10月(髭面の男がワインを2杯持っている)蠍座 惑星は火星(火星は席から離れ、次の月(11月)に向けて馬に乗った戦士となる)
11月(農民は牧草地に豚を放つ)射手座 惑星は木星(笏とオーブを持って座っている老人)
12月(農民は豚を殺す)山羊座 惑星は土星(王冠を被り旗を持った男性が自分の手に噛みつく)
1月(暖炉の前の家族)水瓶座 惑星は土星(裸で鍬を持った男が鏡を覗き込んでいる)
2月(農民は葡萄の蔓の剪定をする)魚座 惑星は木星(笏と地球を持って玉座に座るジュピター)
ふー 疲れたぁ。これを見ながら回れば、少しはわかる?? アレッツォやフェッラーラで見た12か月の季節の暦とも共通点がありそうです。
なお余談ですが、解説書の原文は英語で、私はPeasantもFarmerも「農民」と訳しましたが、Peasantは土地を持たない小作農、Farmerは土地を持つ自作農なので、上記は正確ではありません。 -
一番印象に残ったのがこちらのフレスコ。一部剥がれた箇所からその前に描かれたフレスコがのぞいています。
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そして、ヴィットリオ・エマニュエーレ2世のモニュメントがありました。この広間の中で一番新しそうです。
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面白かったけれど、占星術難解ですね。いつの間にかロッジアには人っ子一人いなくなって、独占状態です。
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ボローニャでもポルティコの美しさにぞっこんでしたが、柱が並んでいる風景を見ると心が躍ります。
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2階なので、そう遠くまでは見通せませんが、こんな景色がのぞめました。小さな噴水がありますね。
先ほどまであんなに混雑していた広場ががらーんとしていますね。皆食事に行ってしまったのかな? -
エルベ広場の続きです。
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階段は両広場に面して4本ありますが、公開されているのはこちらの階段のみ。ヴォルタ・デッラ・コルダ(ロープの顔)という名前が付けられています。
1階で商いを行っていた商人達が買い手を胡麻化した時には、彼らの手首をロープで縛り、3mの高さまで引き上げてからロープを離すという見せしめの刑がここで行われていた名残だそうです。気が付きませんでしたが、壁には様々なものを測る単位が刻まれた跡があったようです。 -
これはイル・サローネの入り口付近にあった素敵なレリーフなのですが、解説が見当たらず。どなたでしょう?
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ちょっぴり親近感を覚え始めたラッジョーネ宮殿に別れを告げて、更に人気のなくなった町を彷徨います。
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ダニエーレ・マニン通りを行くと、正面に瀟洒な建物が見えてきました。ヴィチェンツァでも見かけたモンテ・デ・ピエタ 公的質屋の宮殿です。
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モンテ・デ・ピエタ宮殿の手前には、みすぼらしくなったものの、外壁と内壁にフレスコがかすかに残る建物がありました。
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こうした古い家屋に心惹かれます。中方立のある連窓も歴史を感じますね。もうボロボロだけれど、まだ現役です。
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こちらがパドヴァのモンテ・デ・ピエタ宮殿。イタリアの公的施設はどこもご立派!
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モンテ・デ・ピエタ宮殿に向かって右手に、「時計塔」トーレ・デッロロジコが見えました。14世紀前半に建てられ、その後高さを増して、ゴシック様式で装飾され、1531年には基盤部分に凱旋門が付け加えられました。残念ながら工事中でしたが、ふらふらと近づいていきます。
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これだもの。ちょうど前述の時計と凱旋門の部分がそっくり工事用シートに覆われています。
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現れたのは、パドヴァのシニョーリ広場。同名の広場がどこの町にもあって、ややっこしいですね。角度が悪いけれど、コロンナの上にはヴェネツィアの羽の生えたライオンが乗っかっていました。
ライオンに見えますか? 人々はコロンナ・マルチャーナと呼んでいます。何故女の子の名前がついているんでしょう? -
結構奥行きのある広場は14世紀にウンベルト・ダ・カラッラにより、聖クレメンテ教会に続く古い街区を解体することにより生まれました。それにより、時計塔のある宮殿が目立つように計画的に作られたんですね。
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この角度で写すと、広場の主役の時計塔が確かに目立っていますよ。今はシートの方が目立っていますが・・・、
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道を挟んで、時計塔のある宮殿の右隣りにある白い大理石で作られた優雅な建物はパドヴァの町議会で、1496年に建築を開始した「コンシーリオ(議会)のロッジア」です。最初はアンニバーレ・マッギにより、そして最後はジョヴァンニ・マリア・ファルコネットにより建てられ、1553年に完成しました。
オーストリア軍が町に駐留していた19世紀には、彼らの司令部として使われたことから、「グラン・ガルディア(大ガード)のロッジア」とも呼ばれています。 -
町議会の内部はこんな感じ。自由に見学できました。2階にはフレスコで飾られた部屋があったようですが、そこは省略。
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ロッジアとコロンナのある風景です。
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「時計塔」と向きあって建つこちらの教会は、サン・クレメンテ教会。歴史は古く、5世紀ころには存在していたという伝説があります。
ファサードのペディメントの上には3体の彫像が立っていました。てっぺんには聖クレメンテ、そして聖ジュスティーナ、そして聖ダニエーレ。後の2名はパドヴァ出身の聖人です。中央のバラ窓は7、8世紀にまで遡る歴史的なものです。
背後にラッジョーネ宮殿の巨大な屋根が見えていますね。 -
ファサード左右のニッチェには、左に聖アーロという聞きなれない聖人、右に洗礼者聖ヨハネの彫像が収められていました。
時刻は12時半すぎ。ちょうどお昼休みに入ったところで、閉まっていました。 -
シニョーリ広場を出て、北方向に戻ってしばらく進むと、パドヴァのドゥオモのあるドゥオモ広場に到着します。ここは、前述のモンテ・ディ・ピエタ(公営質屋)宮殿の正面ファサードにあるポルティコです。
この宮殿はかつてパドヴァの領主カッラーラ家の宮殿だったそうですよ。 -
14世紀に造られたポルティコにはジョヴァンニ・マリア・ファルコネット(1468年-1534年)によって描かれたフレスコが今も残っていました。
ファルコネットは建築家兼画家で、最初のルネサンス建築をパドヴァに建てたことで知られていて、パドヴァやベローナに多くの作品を残しています。 -
聖母に救いを求める聖職者と、品物を担保にお金を調達に来た町の人々が描かれているのかな?
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ユダヤ人の高利貸しに対抗するため、貧しい庶民相手に、儲けを考慮しない公的質屋がモンテ・ディ・ピエタの精神で、その多くは聖職者が取り仕切っていたと聞きました。それでも、いろんな町にあるモンテ・デ・ピエタの建物を見る限りでは、この質屋大変儲かっていたという気がしますよ。
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モンテ・デ・ピエタ宮殿から見たパドヴァのドゥオモとその横の特徴的な建物洗礼堂です。
がらーんとしている広場を見ると、ここもお昼休み中であるのは間違いないですね。あーあ! -
パドヴァのドゥオモは聖母の被昇天に捧げられた大聖堂で、現在の建物は3代目。最初の建物はミラノ勅令(313年)後に建てられましたが、1117年の地震で崩壊しました。
二度目の建物は建築家マチッロによる設計で、1180年に献堂されています。
現在の建物は1754年にロマネスク様式で建てられ、隣の洗礼堂と共に、中世の趣きを感じさせる外観になっています。設計者をミケランジェロとしている文書が多いのですが、実際にはアンドレア・デッラ・ヴァッレとアゴスティーノ・リゲットが工事を請け負ったようです。何せ、時間がかかっている。建築開始の1551年から200年以上を費やしているのですから。
中に入れなかったので詳細は分かりませんが、背後に丸屋根を持つ大きなクーポラ、手前にも八角形のドームが見えています。 -
計画によれば、ファサードには、ローマ時代のバシリカのように、風通しの良いアトリウムとそこから直接階上へと行けるロッジアが設置されるはずでしたが、未完成のまま今日に至ったようです。
第一次大戦中にはファサード上部が爆撃で大破。その修復作業中に、今あるバラ窓が作られたのだそうです。彫像が置かれていないニッチェも心なしか寂しげです。 -
無情にも「大聖堂は4時にオープン」と書かれた札が貼ってありましたよ。4時には私はスクロヴェーニ礼拝堂にいる予定。どうも時間との相性が悪かったみたい。
11世紀建造の建造物洗礼堂にはパドヴァカードで入場可能でした。ここも残念ながら撮影禁止なので、写真が1枚もありません。洗礼堂内は、フィレンツェ出身の画家ジュスト・デ・、メナブオイが1375年から78年にかけて描いたフレスコが一面を覆っていました。パドヴァの歴史的な人物が描かれている場面では、やはり解説がないとわからない部分が多かったです。
大聖堂にも入場したかったなあ。 -
ドゥオモから見たモンテ・デ・ピエタ宮殿とそれに続く立派な凱旋門のような門です。興味を覚えて調べてみたら、これはアルコ・ヴァッラレッソという名前の門でした。ヴェネツィアの執政官の一人だったアルヴィーゼ・ヴァッラレッソを記念して作られたものだそうです。
彼がパドヴァに就任した1631年、北イタリアは2年以上ペストの流行に痛めつけられていました。バッラレッソの、病気の蔓延に対して検疫の徹底、医師や病院の改善を行い、疾患数を劇的に鈍化させたという功績が認められ、それが後年立派な凱旋門になったということがわかりました。
一つ一つ謎を追っていくと、きりがないけれど楽しいですよ。 -
こちらが、ズームして撮った凱旋門です。
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広場の反対側には、現在教区博物館となっている司教館がありました。
よく見たら、正面の建物の2階の窓はだまし絵ですねえ。 -
教区博物館の入り口です。ここは入らずじまい・・・せっかく「ヴェイルを脱ぐドナテッロ」展をやっていたのにね。今なら迷わず入るだろうな・・・
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未練を残しつつ、ドゥオモ広場を後にします。
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確かこのカフェでクイックランチを取った後、再び町を彷徨います。屋根に乗った煙突が可愛いーい!!! ヴェネツィアでもよく見かけたような建物です。
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この丸石畳の道、信じられないほど歩きにくい! たばこの吸い殻も沢山落ちていて、掃除もしにくそう。車のタイヤにも絶対良いはずはないと思うのですが、・・・慌てて歩道に避難。
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古いアンティーク家具屋さんの店先です。
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中には別世界が広がっていました。下手な博物館よりずっと楽しそうです。
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いつの間にか、また玉砂利じゃあなかった、玉石畳の道を歩いています。両側のポルティコに目を見張りながら・・・
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見て見て! 6本全部長さも太さも材質も異なる柱が並んでいますよ。このところウンブリアで頻発している地震が起こらなければ良いけれど、この柱に命を預けたくはないなあ・・・
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柱を見れば立ち止まり、錬鉄製のバルコニーを見れば見上げ、遅々として進まぬのが私の町歩きですが、なんとか次の目的地に着きましたよ。
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この古びたポルティコの中にあって、ファサードが見当たらなかった というよりは見えなかった教会サンタ・マリア・デイ・セルヴィです。フィレンツェ以来、色々な町でマリアの下僕会の教会訪れましたね。
教会の前にあった説明書きによると、ポルティコは1511年にバルトロメオ・カンポロンゴによって造られた物で、10本の八角形の柱と柱頭は教会の古い聖アントニオに捧げる礼拝堂で使われていたものの再利用だそうです。 -
教会は、パドヴァ領主カッラーラ家のフランチェスコ1世の妻フィーナによって、フランチェスコ1世の従兄弟ニッコロ・ダ・カッラーラの罪を罰するために、取り壊されたニッコロの屋敷跡に建てられました。ニッコロは勇敢な武将でしたが、従兄弟とはそりが合わず、町から永久追放されてしまいます。カッラーラ家について調べだすとまたきりがないので、この辺でやめますが、結局、1405年にパドヴァはヴェネツィアの支配下に入ります。9代続いたカッラーラ家もヴェネツィアの前に滅びたのでした。教会はフィーナの意思を継いだ彼女の妹アンナにより、1393年に完成しています。
一廊式の教会で、非常にシンプルな造り。屋根は木製のトラス構造でした。 -
私ったらまた、内部の全体像を撮るのか忘れて、礼拝堂に走っていますよ。だって、見たこともないようなひどく変わったアルターピースなんですもの。
こちらは哀しみの祭壇 アルターレ・デッラッドロラータです。ヴェネト州独自のバロック様式で南部の州のバロックの影響を受けていると書かれていましたが、いえいえ、レッチェやバーリではこういった祭壇は見なかったなあ・・・
カッラーラ大理石を用いた巨大なアカンサスの葉がうねりながら上へと伸びています。それは上部でまた一つになり、錬鉄製のキャノピーを包み込んでいます。大理石の他に、金色に塗られた木製のパーツ、ブロンズ製のレリーフ、錬鉄製のフレームなど、様々な部品が使われているこの巨大な祭壇は、1703年~10年の間に、ヴェネツィアの彫刻家ジョヴァンニ・ボナッツァによって作られました。
中央の聖母子像は新しいもので19世紀に収められた物だそう。左右のニッチェには、聖フィリッポ・ベニッツィと福者ジュリアーナ・ファルコニエーリの彫像が置かれていました。この両名覚えていらっしゃいますか? 共にマリアの下僕会出身の聖人ですね。
http://4travel.jp/travelogue/11153763 -
この祭壇が初めからあったわけではないことは、隣の壁に描かれている14世紀のフレスコを見ればわかりますね。
少々ごてごてのきらいはあるものの、圧倒されて、右隣りにあるヤコポ・ダ・モンタニャーナ作の「キリストの十字架降下」(↓印)を見忘れてしまいました。 -
中央の聖母子像とその前で聖母を見上げている筋骨隆々の天使をズームで。天使はジョヴァンニ・ボナッツァの作です。
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早くも主祭壇です。5段の階段を上った上にはネオロマネスク朝の美しい柵があり、その背後にバロック様式の天蓋が収められていました。主祭壇の天蓋の更に後ろ側にオルガンという配置は珍しいですね。通常はそこには聖歌隊席が設けられている場合が多いのですが・・・
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17世紀に作られたバロック様式の天蓋をズームで。オルガンのパイプがまるで天使が羽を広げているように見えます。
後陣の祭壇画は、マリアの下僕会の7人の創立者達の前に聖母が表れたエピソードが描かれていました。1637年。フィレンツェのサンタ・マリア・アヌンツィアータ教会で同様のフレスコを見ましたね。 -
バロック時代になると、天使の数がぐーんと多くなる気がします。主祭壇の天蓋脇にあった2体の天使像については説明もなく、著名なアーチストによるものでもありませんでしたが、心を擽る何かがありました。
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折角なので2体ともご紹介。
無名の天使像は写しても、主祭壇左側にあった、「有名な」ドナテッロ作の「奇跡の十字架」礼拝堂は、磔像があまり得意でないためか、すっ飛ばしてしまった、見る目のない私です。 -
壁に残っていたフレスコ画の中で興味深かった1枚はこちら。十二宮のシンボルの周りに24時間刻みの時計が描かれています。ど真ん中に時計の針穴が開いているけれど、今は長針も短針もありません。以前は時計として使われていたのかしら?
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主祭壇右側の礼拝堂です。祭壇画は作者不詳。小さな教会ですが、コンパクトにまとまっているように思いました。
長くなりましたので、この続きは、イタリア あっちも! こっちも! と欲張りなたび その86 パドヴァ2で。
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