小田原旅行記(ブログ) 一覧に戻る
東海道53次、No9,大磯宿(8)から小田原宿(9)、箱根湯本(10)へ<br />【新規情報】<br />●箱根板橋の旧街道沿いに、古くからの「平野醤油蔵」があります。その蔵で開催されたグループ絵画展に参加した事あり。息抜きを兼ねて、自作品の展示フォトを追加した(2021年7月追加 29枚目から3枚)<br /><br />1)2016年5月 東海道53次旧街道ウォーキング編<br />今日は大磯宿を出発し、小田原宿へ。今日のゴールは小田原を過ぎて、箱根湯本まで歩を進める。<br />2)2020年9月 箱根湯本周辺を散策<br />箱根登山電車線の風祭駅をスタートして箱根湯本周辺を歩く。2019年の19号台風で箱根登山線の鉄橋が崩落。やっと2020年7月に開通しました。この暴れ川となった早川沿い歩きと北条家の菩提寺「早雲寺」見学が散策の目的です。<br /><br />【小田原宿】<br />天保14年(1843)ころは、小田原宿の宿内家数は約1500軒、うち本陣4、脇本陣4、旅籠95軒(大17、中31、小四17)で宿内人口は約5400人。<br />小田原は城下町として栄えましたが、何といっても東海道最大の難所である箱根越えを控え大いに賑わいました。

東海道53次、No9,大磯宿(8)から小田原宿(9)、箱根湯本(10)へ、そして先日、箱根湯本を散策しました

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2020/09/16 - 2020/09/16

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82

ムッシュ

ムッシュさん

東海道53次、No9,大磯宿(8)から小田原宿(9)、箱根湯本(10)へ
【新規情報】
●箱根板橋の旧街道沿いに、古くからの「平野醤油蔵」があります。その蔵で開催されたグループ絵画展に参加した事あり。息抜きを兼ねて、自作品の展示フォトを追加した(2021年7月追加 29枚目から3枚)

1)2016年5月 東海道53次旧街道ウォーキング編
今日は大磯宿を出発し、小田原宿へ。今日のゴールは小田原を過ぎて、箱根湯本まで歩を進める。
2)2020年9月 箱根湯本周辺を散策
箱根登山電車線の風祭駅をスタートして箱根湯本周辺を歩く。2019年の19号台風で箱根登山線の鉄橋が崩落。やっと2020年7月に開通しました。この暴れ川となった早川沿い歩きと北条家の菩提寺「早雲寺」見学が散策の目的です。

【小田原宿】
天保14年(1843)ころは、小田原宿の宿内家数は約1500軒、うち本陣4、脇本陣4、旅籠95軒(大17、中31、小四17)で宿内人口は約5400人。
小田原は城下町として栄えましたが、何といっても東海道最大の難所である箱根越えを控え大いに賑わいました。

旅行の満足度
5.0

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  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています<br />「東海道五拾三次之内 【大磯】 虎ケ雨 広重画」<br />大磯(今回の出発地)。右端の丸みが高麗山。左の磯は小余綾(こゆるぎ)の磯。万葉集などの歌枕でも詠まれた松林のある海岸線。<br /><br />【小淘綾ノ浜】<br /> 『ゆるぎ』とは波の動揺をあらわし、かつては余呂伎、余綾(共によろぎ)と書かれ、今の大磯町と二宮町は相模国余綾郡(よろぎごうり)と呼ばれていました。<br /> 万葉集には、『相模道の余呂伎の浜の真砂なす児らはかなしく思はるゝかも』とよまれています。<br /> 平安時代の古今和歌集には『こよろぎ』とよまれていましたが、その後の歌集には『こゆるぎ』とよまれました。<br /> 歌枕の小余綾ノ磯は、今の大磯から国府津あたりまでの海岸一帯をさすといわれています。<br />     環境庁・神奈川県

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
    「東海道五拾三次之内 【大磯】 虎ケ雨 広重画」
    大磯(今回の出発地)。右端の丸みが高麗山。左の磯は小余綾(こゆるぎ)の磯。万葉集などの歌枕でも詠まれた松林のある海岸線。

    【小淘綾ノ浜】
     『ゆるぎ』とは波の動揺をあらわし、かつては余呂伎、余綾(共によろぎ)と書かれ、今の大磯町と二宮町は相模国余綾郡(よろぎごうり)と呼ばれていました。
     万葉集には、『相模道の余呂伎の浜の真砂なす児らはかなしく思はるゝかも』とよまれています。
     平安時代の古今和歌集には『こよろぎ』とよまれていましたが、その後の歌集には『こゆるぎ』とよまれました。
     歌枕の小余綾ノ磯は、今の大磯から国府津あたりまでの海岸一帯をさすといわれています。
         環境庁・神奈川県

  • 「大磯 滄浪閣】<br />1890年(明治23年)頃、伊藤が小田原の滄浪閣へ行く途中、大磯に立ち寄り、その白砂松林の大磯が気に入り、梅子夫人の病気療養のためにも、この地に別荘を建築することに決めた。1954年から大磯プリンスホテルの別館として営業していたが、2007年頃に経営不振により閉業。<br />その後は使用されていないが、歴史的価値のある建築であり、管理されている。<br />『伊藤公滄浪閣之舊(旧)蹟』

    「大磯 滄浪閣】
    1890年(明治23年)頃、伊藤が小田原の滄浪閣へ行く途中、大磯に立ち寄り、その白砂松林の大磯が気に入り、梅子夫人の病気療養のためにも、この地に別荘を建築することに決めた。1954年から大磯プリンスホテルの別館として営業していたが、2007年頃に経営不振により閉業。
    その後は使用されていないが、歴史的価値のある建築であり、管理されている。
    『伊藤公滄浪閣之舊(旧)蹟』

  • これより、大磯を出発します。

    これより、大磯を出発します。

  • 【大磯城山(じょうやま)公園】入口<br />明治の世になると三井財閥本家の別荘地でした。<br />血洗川の側、JR大磯駅と二宮駅のほぼ中間に、県立大磯城山(じょうやま)公園がある。<br />文明9年(1477年)、山城であったここ小磯城(大磯では無い)に、長尾景春(かげはる)の彼官であった越後五郎四郎が立て篭もり、太田道灌の軍勢と戦い、落城したとの記録。<br />かつて山城出あったここは、明治になって三井財閥本家の別荘となり、城山荘や、国宝茶室の如庵が移築された。<br /><br />『県立大磯城山公園』案内図。<br />県立大磯城山公園は、湘南地域の西、大磯町の海辺に位置する公園で、旧三井財閥本家の別荘地跡を利用した「旧三井別邸地区」と、宰相・吉田茂が暮らした邸宅を活用した「旧吉田茂邸地区」の二つの地区がある。<br />ここ旧三井別邸地区には、三井財閥別荘跡地の宅地開発計画が契機となり1980年代に公園とすることが決まり、三井家の茶室として置かれていた国宝「如庵」にちなんで建てられた茶室「城山庵」、大磯町郷土資料館や横穴式古墳群などがある。<br />かつて小磯城と呼ばれる山城が築かれていた場所で、園内には掘割の跡や鎌倉古道などが残されている。また、ゆるやかな丘陵につくられた展望台に登れば、相模湾をはじめ遠く富士、箱根、伊豆半島の山々などの雄大な自然が一望できると。

    【大磯城山(じょうやま)公園】入口
    明治の世になると三井財閥本家の別荘地でした。
    血洗川の側、JR大磯駅と二宮駅のほぼ中間に、県立大磯城山(じょうやま)公園がある。
    文明9年(1477年)、山城であったここ小磯城(大磯では無い)に、長尾景春(かげはる)の彼官であった越後五郎四郎が立て篭もり、太田道灌の軍勢と戦い、落城したとの記録。
    かつて山城出あったここは、明治になって三井財閥本家の別荘となり、城山荘や、国宝茶室の如庵が移築された。

    『県立大磯城山公園』案内図。
    県立大磯城山公園は、湘南地域の西、大磯町の海辺に位置する公園で、旧三井財閥本家の別荘地跡を利用した「旧三井別邸地区」と、宰相・吉田茂が暮らした邸宅を活用した「旧吉田茂邸地区」の二つの地区がある。
    ここ旧三井別邸地区には、三井財閥別荘跡地の宅地開発計画が契機となり1980年代に公園とすることが決まり、三井家の茶室として置かれていた国宝「如庵」にちなんで建てられた茶室「城山庵」、大磯町郷土資料館や横穴式古墳群などがある。
    かつて小磯城と呼ばれる山城が築かれていた場所で、園内には掘割の跡や鎌倉古道などが残されている。また、ゆるやかな丘陵につくられた展望台に登れば、相模湾をはじめ遠く富士、箱根、伊豆半島の山々などの雄大な自然が一望できると。

  • 【国府本郷の一里塚】<br />江戸から十七里(68km)の一里塚。実際の塚位置は200m程江戸寄りでした。<br /><br />【国府本郷の一里塚】<br /> 慶長9年(1604)、徳川家康は秀忠に一里塚の築造を命じました。一里塚は日本橋を基点として、各街道に一里(約3.9キロメートル)ごとに設けられた塚です。<br /> 土の塚を築いて里程の目印とし、塚の上には大木が植えられ、その木陰は旅人の休憩所となりました。<br /> 大磯宿付近には日本橋から16里目の一里塚が大磯宿内に、17番目の一里塚が国府本郷村地内にありました。国府本郷の一里塚は実際にはここより約200mほど江戸寄りに位置していました。塚の規模は不明ですが、東海道をはさんで左右一対の塚の上には、それぞれ榎が植えられていたようです。<br /> この国府本郷村の一里塚は、東海道の記憶を伝えるために、平成14年の東海道シンポジウム大磯宿大会を記念して築造したものです。

    【国府本郷の一里塚】
    江戸から十七里(68km)の一里塚。実際の塚位置は200m程江戸寄りでした。

    【国府本郷の一里塚】
     慶長9年(1604)、徳川家康は秀忠に一里塚の築造を命じました。一里塚は日本橋を基点として、各街道に一里(約3.9キロメートル)ごとに設けられた塚です。
     土の塚を築いて里程の目印とし、塚の上には大木が植えられ、その木陰は旅人の休憩所となりました。
     大磯宿付近には日本橋から16里目の一里塚が大磯宿内に、17番目の一里塚が国府本郷村地内にありました。国府本郷の一里塚は実際にはここより約200mほど江戸寄りに位置していました。塚の規模は不明ですが、東海道をはさんで左右一対の塚の上には、それぞれ榎が植えられていたようです。
     この国府本郷村の一里塚は、東海道の記憶を伝えるために、平成14年の東海道シンポジウム大磯宿大会を記念して築造したものです。

  • 【相模国総社六所神社の参道】<br />総社は、その国の中心である国府近くに設けられ、国司着任の儀式など国衙祭祀が執り行なわれました。相模國府祭も当時の国衙祭祀・国司巡拝の様相を現代に色濃く残す祭典の一つであるといえます。<br /><br />相模国の場合、柳田大神に、「一之宮寒川神社」、「二之宮川勾神社」、「三之宮比々多神社」、「四之宮前鳥神社」、「一国一社平塚八幡宮」の五社の御分霊を合わせ祀りました。これをもって「相模国総社」が成立いたしました。『吾妻鏡』建久3年(1192)8月9日条に「惣社柳田」とあり、総社として認知されていたことがわかります。

    【相模国総社六所神社の参道】
    総社は、その国の中心である国府近くに設けられ、国司着任の儀式など国衙祭祀が執り行なわれました。相模國府祭も当時の国衙祭祀・国司巡拝の様相を現代に色濃く残す祭典の一つであるといえます。

    相模国の場合、柳田大神に、「一之宮寒川神社」、「二之宮川勾神社」、「三之宮比々多神社」、「四之宮前鳥神社」、「一国一社平塚八幡宮」の五社の御分霊を合わせ祀りました。これをもって「相模国総社」が成立いたしました。『吾妻鏡』建久3年(1192)8月9日条に「惣社柳田」とあり、総社として認知されていたことがわかります。

  • 【六所神社の御由緒】<br /> 崇神天皇の御代、櫛稲田姫命様を御祭神として創建されました。<br /> 中世以降、相模国の総社として、都から派遣の国司や、源頼朝公を始めとする武家の崇敬を受けました。<br />毎年五月五日の相模国府祭は神奈川県文化財に指定されております。<br /><br />相模国の場合は、数か所の変遷を経て、六所神社の鎮座地である柳田郷に国府が置かれました。<br />『吾妻鏡』治承4年(1180)10月16日条に「相模国府六所宮に到り給ふ」とあり、地名も柳田郷から国府と呼ばれるようになり、現在もこの地域は大磯町国府本郷、国府新宿といった地名となっております。<br /><br />社殿を支える石垣は、戦国時代小田原の北条氏によって築かれたもので、関東大震災や天災にも崩れることなく、四百年以上も社殿の礎になっている。この石垣は鷹取山の石を使い野面積という工法と伝えられている。<br /><br />『本堂』。<br />718年に現鎮座地に遷座。 櫛稲田姫命が祖神。その時より一之宮寒川神社 ( 寒川 ) 、二之宮川勾神社 ( 二宮 ) 、三之宮比々多神社 ( 伊勢原 ) 、四之宮前鳥神社 ( 平塚 ) 、平塚八幡宮 ( 平塚 ) の分霊を合わせ祀り、相模国総社六所神社と称されるようになった。毎年、5月5日には「相模国府祭」が行われる。<br />湯津爪櫛御守り(ゆつつまぐしおまもり)は、男性から女性に贈ると「かけがえのない女性の証」。縁結びスポットとしても有名。

    【六所神社の御由緒】
     崇神天皇の御代、櫛稲田姫命様を御祭神として創建されました。
     中世以降、相模国の総社として、都から派遣の国司や、源頼朝公を始めとする武家の崇敬を受けました。
    毎年五月五日の相模国府祭は神奈川県文化財に指定されております。

    相模国の場合は、数か所の変遷を経て、六所神社の鎮座地である柳田郷に国府が置かれました。
    『吾妻鏡』治承4年(1180)10月16日条に「相模国府六所宮に到り給ふ」とあり、地名も柳田郷から国府と呼ばれるようになり、現在もこの地域は大磯町国府本郷、国府新宿といった地名となっております。

    社殿を支える石垣は、戦国時代小田原の北条氏によって築かれたもので、関東大震災や天災にも崩れることなく、四百年以上も社殿の礎になっている。この石垣は鷹取山の石を使い野面積という工法と伝えられている。

    『本堂』。
    718年に現鎮座地に遷座。 櫛稲田姫命が祖神。その時より一之宮寒川神社 ( 寒川 ) 、二之宮川勾神社 ( 二宮 ) 、三之宮比々多神社 ( 伊勢原 ) 、四之宮前鳥神社 ( 平塚 ) 、平塚八幡宮 ( 平塚 ) の分霊を合わせ祀り、相模国総社六所神社と称されるようになった。毎年、5月5日には「相模国府祭」が行われる。
    湯津爪櫛御守り(ゆつつまぐしおまもり)は、男性から女性に贈ると「かけがえのない女性の証」。縁結びスポットとしても有名。

  • 【塩海橋(しおみ)】(二宮下町)<br />六所神社を出て、葛(くず)川に架かる塩梅(しおみ)橋を渡ると、二宮の町並みに入る。二宮町は、文字通り相模二宮の川匂神社があったことに由来している。江戸中期には、平塚小田原間の立場、梅沢の茶屋として発展したところ<br /><br />二宮は海に面した村で、古くから製塩が盛んだった様で、町内に塩海(しおみ)という地名があり、『新編武蔵風土記稿』に「古この海浜にて塩を精製す、依ってこの名あり」と記されている。<br /> また、鎌倉時代に二宮太郎朝忠が御家人として相模国渋見郷(霜見・塩海とも呼ばれた)の地頭を務めていたことも記録に残っているそうである。

    【塩海橋(しおみ)】(二宮下町)
    六所神社を出て、葛(くず)川に架かる塩梅(しおみ)橋を渡ると、二宮の町並みに入る。二宮町は、文字通り相模二宮の川匂神社があったことに由来している。江戸中期には、平塚小田原間の立場、梅沢の茶屋として発展したところ

    二宮は海に面した村で、古くから製塩が盛んだった様で、町内に塩海(しおみ)という地名があり、『新編武蔵風土記稿』に「古この海浜にて塩を精製す、依ってこの名あり」と記されている。
     また、鎌倉時代に二宮太郎朝忠が御家人として相模国渋見郷(霜見・塩海とも呼ばれた)の地頭を務めていたことも記録に残っているそうである。

  • 吾妻神社の参道入口の鳥居。(中郡二宮町付近)<br />これを進むと、吾妻山上の神社に至る。

    吾妻神社の参道入口の鳥居。(中郡二宮町付近)
    これを進むと、吾妻山上の神社に至る。

  • 集められたいろいろな石仏(各種道路工事のために移動したもの)<br />*道祖神の古い石碑(左)<br />*天社神<br />

    集められたいろいろな石仏(各種道路工事のために移動したもの)
    *道祖神の古い石碑(左)
    *天社神

  • 日本橋から七十五kmの標識。<br /><br />目指すは、京都三条大橋です。

    日本橋から七十五kmの標識。

    目指すは、京都三条大橋です。

  • 【大山道標】<br />川匂神社付近の大山道(伊勢原市)への入口ガイド案内。<br />坂道の登り口右側に、天保五年(1834)建立の大山道標があります。<br />道標には「従是大山道」と刻まれ、不動明王を乗せています。(上の炎の彫刻)<br />背後には秋葉山常夜燈と道祖神があります。<br /><br />羽根尾、井ノ口、秦野と山の中をぬって蓑毛へと向かう大山詣の西からの参道口らしい。<br /><br />【吾妻神社】<br />急な上りを行くと境内に達する。大和武尊東征の際、三浦半島から海上上総に向かうと、海神の怒りに触れ、暴風雨に巻き込まれた。その時、妻弟橘姫は海に身を投げた。海を鎮め、大和武尊を救った。やがて、海岸に打ち上げられたその櫛を埋めたところがこの神社。現代は、縁結びの神。

    【大山道標】
    川匂神社付近の大山道(伊勢原市)への入口ガイド案内。
    坂道の登り口右側に、天保五年(1834)建立の大山道標があります。
    道標には「従是大山道」と刻まれ、不動明王を乗せています。(上の炎の彫刻)
    背後には秋葉山常夜燈と道祖神があります。

    羽根尾、井ノ口、秦野と山の中をぬって蓑毛へと向かう大山詣の西からの参道口らしい。

    【吾妻神社】
    急な上りを行くと境内に達する。大和武尊東征の際、三浦半島から海上上総に向かうと、海神の怒りに触れ、暴風雨に巻き込まれた。その時、妻弟橘姫は海に身を投げた。海を鎮め、大和武尊を救った。やがて、海岸に打ち上げられたその櫛を埋めたところがこの神社。現代は、縁結びの神。

  • 大山道標(上のフォト)の台座の上の不動明王です

    大山道標(上のフォト)の台座の上の不動明王です

  • 江戸より十八里(72km)、【二宮の一里塚】<br />間の宿梅沢の立場は、江戸から18番目の押切坂一里塚の近くにあった<br /><br />ここ二宮の一里塚は、江戸日本橋から十八番目の一里塚で、大磯宿と小田原宿の中間に位置しています。塚は街道を挟んで両側に築かれ、北側の塚は高さ一丈二尺(約三・六メートル)、上には欅(けやき)が植えられ、南側の塚は、高さ一丈(約三・三メートル)、上には榎(えのき)が植えられていました。周辺には、旅人目当ての茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変に賑わっていました。<br />     平成十七年十二月 二宮町教育委員会<br /><br />

    江戸より十八里(72km)、【二宮の一里塚】
    間の宿梅沢の立場は、江戸から18番目の押切坂一里塚の近くにあった

    ここ二宮の一里塚は、江戸日本橋から十八番目の一里塚で、大磯宿と小田原宿の中間に位置しています。塚は街道を挟んで両側に築かれ、北側の塚は高さ一丈二尺(約三・六メートル)、上には欅(けやき)が植えられ、南側の塚は、高さ一丈(約三・三メートル)、上には榎(えのき)が植えられていました。周辺には、旅人目当ての茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変に賑わっていました。
         平成十七年十二月 二宮町教育委員会

  • 史蹟東海道一里塚の跡碑があります、二宮の一里塚跡です。<br />江戸日本橋より数えて18里目です、右(北)塚には欅、左(南)塚には榎が植えられていました。<br /><br />【東海道一里塚の跡】<br /> 慶長九年(1604)江戸幕府徳川家康は、息子秀忠に命じ、東海道、東山道、北陸道の三街道に、江戸日本橋を起点として一里(約四キロメートル)ごとに塚を築かせ、交通の円滑化を図りました。<br /> 一里塚は、大名の参勤交代や旅人の道程の目安、馬や籠などの運賃の目安であると同時に、塚の上にある大木は、夏は木陰をつくり、冬は寒風を防いで、格好の休憩所にもなりました。<br /> ここ二宮の一里塚は、江戸日本橋から十八番目の一里塚で、大磯宿と小田原宿の中間に位置しています。塚は街道を挟んで両側に築かれ、北側の塚は高さ一丈二尺(約三・六メートル)、上には欅(けやき)が植えられ、南側の塚は、高さ一丈(約三・三メートル)、上には榎(えのき)が植えられていました。周辺には、旅人目当ての茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変に賑わっていました。<br />     平成十七年十二月 二宮町教育委員会<br />

    史蹟東海道一里塚の跡碑があります、二宮の一里塚跡です。
    江戸日本橋より数えて18里目です、右(北)塚には欅、左(南)塚には榎が植えられていました。

    【東海道一里塚の跡】
     慶長九年(1604)江戸幕府徳川家康は、息子秀忠に命じ、東海道、東山道、北陸道の三街道に、江戸日本橋を起点として一里(約四キロメートル)ごとに塚を築かせ、交通の円滑化を図りました。
     一里塚は、大名の参勤交代や旅人の道程の目安、馬や籠などの運賃の目安であると同時に、塚の上にある大木は、夏は木陰をつくり、冬は寒風を防いで、格好の休憩所にもなりました。
     ここ二宮の一里塚は、江戸日本橋から十八番目の一里塚で、大磯宿と小田原宿の中間に位置しています。塚は街道を挟んで両側に築かれ、北側の塚は高さ一丈二尺(約三・六メートル)、上には欅(けやき)が植えられ、南側の塚は、高さ一丈(約三・三メートル)、上には榎(えのき)が植えられていました。周辺には、旅人目当ての茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変に賑わっていました。
         平成十七年十二月 二宮町教育委員会

  • 【松屋本陣跡】<br />押切坂の頂に松本本陣の跡がある。ここは大磯宿と小田原宿の中間に位置し間の宿で梅沢の立場と呼ばれた。<br />往時相模湾が一望の景勝地でした、茶屋本陣松屋、蔦屋、釜成屋等が軒を連ね、南湖に次いで賑わった。<br /><br />

    【松屋本陣跡】
    押切坂の頂に松本本陣の跡がある。ここは大磯宿と小田原宿の中間に位置し間の宿で梅沢の立場と呼ばれた。
    往時相模湾が一望の景勝地でした、茶屋本陣松屋、蔦屋、釜成屋等が軒を連ね、南湖に次いで賑わった。

  • 【松屋本陣の跡】<br /> 江戸幕府の交通政策によって東海道が整備されたことや、参勤交代制などにより、江戸~上方間を往復する人々は増え、旅人の宿泊所、休憩所も街道の随所に設けられました。<br /> このあたりは、大磯宿と小田原宿の中間に位置し、大磯宿~小田原宿の距離が十六キロメートルと長い上、押切坂、酒匂川を手前に控えていることから、間の宿(あいのしゅく)として休憩所が設けられ、大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていました。<br /> その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり、参勤交代の諸大名・宮家・幕府役人など、特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていました。「松屋」であった和田家には、本陣を利用した人々の記録である「御休帳」が保存されていて、二宮町指定重要文化財になっています。<br />     平成十七年十二月 二宮町教育委員会

    【松屋本陣の跡】
     江戸幕府の交通政策によって東海道が整備されたことや、参勤交代制などにより、江戸~上方間を往復する人々は増え、旅人の宿泊所、休憩所も街道の随所に設けられました。
     このあたりは、大磯宿と小田原宿の中間に位置し、大磯宿~小田原宿の距離が十六キロメートルと長い上、押切坂、酒匂川を手前に控えていることから、間の宿(あいのしゅく)として休憩所が設けられ、大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて、大変賑わっていました。
     その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり、参勤交代の諸大名・宮家・幕府役人など、特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていました。「松屋」であった和田家には、本陣を利用した人々の記録である「御休帳」が保存されていて、二宮町指定重要文化財になっています。
         平成十七年十二月 二宮町教育委員会

  • 押切坂旧道西口<br />押切坂の頂(旧道)から下ると、現代の国道1号線への合流

    押切坂旧道西口
    押切坂の頂(旧道)から下ると、現代の国道1号線への合流

  • 【車坂】と呼ばれている。<br />史跡車坂の標柱。車坂は景勝地でした、解説にはこの車坂を詠んだ和歌三首が記されている。<br />「鳴神の 声もしきりに 車坂 とどろかしふる ゆふ立の空」 太田道灌<br />「浜辺なる 前川瀬を 逝く水の 早くも今日の 暮れにけるかも」 源実朝<br />「浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月」北林禅尼(阿仏尼)<br /><br /><br />『鳴神の 声もしきりに車坂 とどろかしふる ゆふ立の空』 太田道灌<br />   戦国兵乱の世の和歌集に「平安紀行」があります。「平安紀行」の作者は、<br />太田道灌とする説と異説とする説がありますが、その前文に「車坂という里にて<br />ゆう立しきりに降りそいえば」とあり、この時に詠んだものです。<br /><br />『浜辺なる 前川瀬を逝く水の 早くも今日の 暮れにけるかも』  源実朝<br />  「吾妻鏡」建保元年の条に記録があり、源実朝が鎌倉を出て箱根、伊豆の二権現に参拝する際、前川まで来た時、正月でも洪水があったとみえ河を渡ることができず、日暮れまで待つ間に詠んだものです。<br /><br />『浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月』 北林禅尼(阿仏尼)<br />  「十六夜日記」は、阿仏尼が夫の逝後、先妻の子為氏と我が子為相との相続争いの訴訟のため、京を発ち鎌倉に下る紀行文です。その前文に酒匂に泊り、あす鎌倉へ入るとあり、この時に詠んだものです。

    【車坂】と呼ばれている。
    史跡車坂の標柱。車坂は景勝地でした、解説にはこの車坂を詠んだ和歌三首が記されている。
    「鳴神の 声もしきりに 車坂 とどろかしふる ゆふ立の空」 太田道灌
    「浜辺なる 前川瀬を 逝く水の 早くも今日の 暮れにけるかも」 源実朝
    「浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月」北林禅尼(阿仏尼)


    『鳴神の 声もしきりに車坂 とどろかしふる ゆふ立の空』 太田道灌
       戦国兵乱の世の和歌集に「平安紀行」があります。「平安紀行」の作者は、
    太田道灌とする説と異説とする説がありますが、その前文に「車坂という里にて
    ゆう立しきりに降りそいえば」とあり、この時に詠んだものです。

    『浜辺なる 前川瀬を逝く水の 早くも今日の 暮れにけるかも』  源実朝
      「吾妻鏡」建保元年の条に記録があり、源実朝が鎌倉を出て箱根、伊豆の二権現に参拝する際、前川まで来た時、正月でも洪水があったとみえ河を渡ることができず、日暮れまで待つ間に詠んだものです。

    『浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月』 北林禅尼(阿仏尼)
      「十六夜日記」は、阿仏尼が夫の逝後、先妻の子為氏と我が子為相との相続争いの訴訟のため、京を発ち鎌倉に下る紀行文です。その前文に酒匂に泊り、あす鎌倉へ入るとあり、この時に詠んだものです。

  • 【真楽寺】<br /> 親鸞上人ゆかりのこの寺は、勧山と号する真宗大谷派の寺院であるが、往古は聖徳太子の所縁によって創建された天台宗の寺院であった。のちに親鸞上人が関東の教化を終え、帰路の際に当地に立ち寄られた時、当時の住僧性順がその教法に導かれ、真宗の教えに帰依して一字を建てたのが、この寺の始まりとされている。<br /> 寺号もその時親鸞に「真楽寺」と命名して貰ったといわれている。<br /> 寺内の帰命堂には、帰命石と呼ばれる2メートルほどの石があるが、これは親鸞が石に指頭で名号を書かれたといわれるので“帰命石”と呼ばれている。<br /> 山門の国道をはさんで南側、袖が浦の海岸に勧堂がある。これは親鸞聖人草庵の旧跡で、ここで聖人が7年間民衆を教化されたと言伝えられている。勧堂の名も聖人のこの事績に基づいてつけられたものである。<br /> なお寺内の菩提樹は、小田原市の天然記念物に指定されている。

    【真楽寺】
     親鸞上人ゆかりのこの寺は、勧山と号する真宗大谷派の寺院であるが、往古は聖徳太子の所縁によって創建された天台宗の寺院であった。のちに親鸞上人が関東の教化を終え、帰路の際に当地に立ち寄られた時、当時の住僧性順がその教法に導かれ、真宗の教えに帰依して一字を建てたのが、この寺の始まりとされている。
     寺号もその時親鸞に「真楽寺」と命名して貰ったといわれている。
     寺内の帰命堂には、帰命石と呼ばれる2メートルほどの石があるが、これは親鸞が石に指頭で名号を書かれたといわれるので“帰命石”と呼ばれている。
     山門の国道をはさんで南側、袖が浦の海岸に勧堂がある。これは親鸞聖人草庵の旧跡で、ここで聖人が7年間民衆を教化されたと言伝えられている。勧堂の名も聖人のこの事績に基づいてつけられたものである。
     なお寺内の菩提樹は、小田原市の天然記念物に指定されている。

  • 【真楽寺】

    【真楽寺】

  • 【小田原 国府津 菅原神社】<br />【菅原神社】<br />一、祭神菅原道真公を祀る<br /> 別名 天神社又は天満宮とも称する。道真公は承和十二年六月二十五日(西紀八四五5年)誕生幼少の頃からその利発さを時の仁明天皇に深く愛され更に長じて宇多天皇の信任厚く右大臣となり藤原氏の横暴を抑えたが藤原時平の讒により九州大宰府に左遷され乱れた世を嘆き恨みを飲んで延喜三年二月二十九日(西紀九〇三年)五十九歳で薨去後に太政大臣正一位を賜られた。道真公の句に九州に旅立つにあたり愛する庭の梅に別れを惜しんで、<br />   東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ<br /> 又九州太宰府に於いて、かって帝から拝領した御衣を捧げ、<br />       去年今夜侍清涼 秋思詩篇獨断腸<br />       恩賜御衣今有斯 棒持毎日拝餘香<br />と詠じられた。和歌ならびに漢詩は能く人に知られるところである。世に菅公と親しまれその作による名詩名句は数多く残っている。文祖の神として天下万民の崇敬を集め特に近時は進学の神として国府津地方はもとより入学受験者が合格祈願のために多数参拝して賑わう現況であり、当神社は神奈川県三天神に数えられるに至った。<br />ニ、神社縁起<br /> 学問の神菅原道真公を祭神と仰ぐ『当菅原神社は正暦五年(西紀九九四年)六月晦日の黄昏時納涼せんと海岸に里人が集うと・・・奇なる木船が汀に漂い来りて束帯せる一貴人が錦の袖にて招き給う。里人は之を招じて麦飯に麦粉をかけて饗す・・・其の夜里人の夢枕に貴人現れて告げて曰く、<br />「京の菅神を崇敬せば幸多からん」と・・・。<br /> 目覚むれば貴人の姿はなく菅公の肖像一躯(現存の神像)残れりよって之を御神体として神社を創建せり。』<br /> 神社は現在地であり昔時は諏訪の森と称し、諏訪社(西紀七五〇年頃)があって之と合祀した。それで年々六月晦日を祭典の日と定め麦飯麦粉をかけて必ず之を神前に奉供した。又神輿は、相模湾岸に渡御し小総の里(後の古字津宿現在の国府津)海岸で神事を行った。爾来思想文化の中心としてもとはやされ天神信仰の源泉となり庶民の教養を高めた。祭典日明治初年の改暦と共に七月晦日に改められ更に各天満宮の申合で二十五日を祭日と決定した。因みに道真公は誕生日、右大臣就行日、大宰府赴任日、九州に於いて九州に於いて薨去の日の何れも二十五日なので祭神の神霊供養のため月は異っても二十五日を祭典と決定。之に従い当神社では明治三十一年から毎年四月二十五日を祭典と定め現在に至った。尚、当神社の神輿は総重量二、三〇〇キロ(約六百貫)ありその優美さと華麗なることは関東随一と称されて居る。<br /> 古来当神社別当は安楽院であったが明治維新の神仏分離の法令により専属の神官が奉仕することになった。明治三十五年の火災により社殿を全焼し明治四十二年再建復興され、又同年八月官命に依り、諏訪社及国府津全域に散在奉仕した各社を一同に合祀した。<br />  諏訪社 浅間社 明神社 稲荷社 日枝社(各祭神は略)<br />     昭和五十二年九月<br /><br />	【菅原神社】<br /> 国府津の天神さんで知られる菅原神社は、正五5年(994)に創建されたと伝えられています。祭神は、菅原道真公(845~903)、天照大神他七神が合祀されています。<br /> 境内の「曽我の隠れ石」と呼ばれる大きな石には、 「曽我兄弟が父の仇である工藤祐経を討つためにこの石に隠れていたが、警護が厳しく涙を呑んでそのまま見送った」という伝承が残っています。<br /> 水神の傍にそびえる御神木のムクノキは、江戸時代の記録にも見える老木で、小田原市天然記念物に指定されています。<br /> その他境内には、道実公が詠んだ「東風吹かば、匂いおこせよ梅の花、あるじなしとて春なわすれそ」を記した石碑をはじめ、様々な石造物があります。また、 「撫で牛」は道真の神使とされており、病気治癒に効くとされています。さらに、 「 とおりゃんせ 」発祥の地の石碑も建立されています。<br /> 一月に初天神、 四月に例大祭、十二月に納め天神が行われるとともに、学業成就や試験合格を願う人々など多くの参拝客で賑わいます。

    【小田原 国府津 菅原神社】
    【菅原神社】
    一、祭神菅原道真公を祀る
     別名 天神社又は天満宮とも称する。道真公は承和十二年六月二十五日(西紀八四五5年)誕生幼少の頃からその利発さを時の仁明天皇に深く愛され更に長じて宇多天皇の信任厚く右大臣となり藤原氏の横暴を抑えたが藤原時平の讒により九州大宰府に左遷され乱れた世を嘆き恨みを飲んで延喜三年二月二十九日(西紀九〇三年)五十九歳で薨去後に太政大臣正一位を賜られた。道真公の句に九州に旅立つにあたり愛する庭の梅に別れを惜しんで、
       東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ
     又九州太宰府に於いて、かって帝から拝領した御衣を捧げ、
           去年今夜侍清涼 秋思詩篇獨断腸
           恩賜御衣今有斯 棒持毎日拝餘香
    と詠じられた。和歌ならびに漢詩は能く人に知られるところである。世に菅公と親しまれその作による名詩名句は数多く残っている。文祖の神として天下万民の崇敬を集め特に近時は進学の神として国府津地方はもとより入学受験者が合格祈願のために多数参拝して賑わう現況であり、当神社は神奈川県三天神に数えられるに至った。
    ニ、神社縁起
     学問の神菅原道真公を祭神と仰ぐ『当菅原神社は正暦五年(西紀九九四年)六月晦日の黄昏時納涼せんと海岸に里人が集うと・・・奇なる木船が汀に漂い来りて束帯せる一貴人が錦の袖にて招き給う。里人は之を招じて麦飯に麦粉をかけて饗す・・・其の夜里人の夢枕に貴人現れて告げて曰く、
    「京の菅神を崇敬せば幸多からん」と・・・。
     目覚むれば貴人の姿はなく菅公の肖像一躯(現存の神像)残れりよって之を御神体として神社を創建せり。』
     神社は現在地であり昔時は諏訪の森と称し、諏訪社(西紀七五〇年頃)があって之と合祀した。それで年々六月晦日を祭典の日と定め麦飯麦粉をかけて必ず之を神前に奉供した。又神輿は、相模湾岸に渡御し小総の里(後の古字津宿現在の国府津)海岸で神事を行った。爾来思想文化の中心としてもとはやされ天神信仰の源泉となり庶民の教養を高めた。祭典日明治初年の改暦と共に七月晦日に改められ更に各天満宮の申合で二十五日を祭日と決定した。因みに道真公は誕生日、右大臣就行日、大宰府赴任日、九州に於いて九州に於いて薨去の日の何れも二十五日なので祭神の神霊供養のため月は異っても二十五日を祭典と決定。之に従い当神社では明治三十一年から毎年四月二十五日を祭典と定め現在に至った。尚、当神社の神輿は総重量二、三〇〇キロ(約六百貫)ありその優美さと華麗なることは関東随一と称されて居る。
     古来当神社別当は安楽院であったが明治維新の神仏分離の法令により専属の神官が奉仕することになった。明治三十五年の火災により社殿を全焼し明治四十二年再建復興され、又同年八月官命に依り、諏訪社及国府津全域に散在奉仕した各社を一同に合祀した。
      諏訪社 浅間社 明神社 稲荷社 日枝社(各祭神は略)
         昭和五十二年九月

    【菅原神社】
     国府津の天神さんで知られる菅原神社は、正五5年(994)に創建されたと伝えられています。祭神は、菅原道真公(845~903)、天照大神他七神が合祀されています。
     境内の「曽我の隠れ石」と呼ばれる大きな石には、 「曽我兄弟が父の仇である工藤祐経を討つためにこの石に隠れていたが、警護が厳しく涙を呑んでそのまま見送った」という伝承が残っています。
     水神の傍にそびえる御神木のムクノキは、江戸時代の記録にも見える老木で、小田原市天然記念物に指定されています。
     その他境内には、道実公が詠んだ「東風吹かば、匂いおこせよ梅の花、あるじなしとて春なわすれそ」を記した石碑をはじめ、様々な石造物があります。また、 「撫で牛」は道真の神使とされており、病気治癒に効くとされています。さらに、 「 とおりゃんせ 」発祥の地の石碑も建立されています。
     一月に初天神、 四月に例大祭、十二月に納め天神が行われるとともに、学業成就や試験合格を願う人々など多くの参拝客で賑わいます。

  • 小田原 酒匂の渡し<br />【酒匂川の渡し】<br />酒匂川の渡しは、東海道五十三次道中の難所の一つで、古くは船渡しが行われていたが、延宝二年(1669)船渡しが禁止されて徒歩(かちわたり)制が施行され、冬の時期を冬川と言い仮橋を架けて往来したが、夏の時期は夏川と称し橋を架けないので必ず手引・肩車・輦台(れんだい)など有料で川越人足の力を借りて渡らなければならなかった。この制度は、明治四年(1871)に廃止された。

    小田原 酒匂の渡し
    【酒匂川の渡し】
    酒匂川の渡しは、東海道五十三次道中の難所の一つで、古くは船渡しが行われていたが、延宝二年(1669)船渡しが禁止されて徒歩(かちわたり)制が施行され、冬の時期を冬川と言い仮橋を架けて往来したが、夏の時期は夏川と称し橋を架けないので必ず手引・肩車・輦台(れんだい)など有料で川越人足の力を借りて渡らなければならなかった。この制度は、明治四年(1871)に廃止された。

  • 【川を渡る酒匂川大橋】(小田原市)<br />橋を渡れば小田原市内です。<br />橋の右に見える水面の木杭は旧木橋の柱杭の跡です。旧木橋は現在の橋より少し右方を通っていた。<br /><br />酒匂川の河口付近だ。その昔、江戸時代、この川には橋が無く、川越人足に頼らざるを得ない所であった<br />水深が胸の辺りになると川留となった所である<br />当時の様子が浮世絵などで多数残されている。

    【川を渡る酒匂川大橋】(小田原市)
    橋を渡れば小田原市内です。
    橋の右に見える水面の木杭は旧木橋の柱杭の跡です。旧木橋は現在の橋より少し右方を通っていた。

    酒匂川の河口付近だ。その昔、江戸時代、この川には橋が無く、川越人足に頼らざるを得ない所であった
    水深が胸の辺りになると川留となった所である
    当時の様子が浮世絵などで多数残されている。

  • この辺りが小田原側の通り道(昔の街道)。川の中に昔の橋脚の杭が見えてます。

    この辺りが小田原側の通り道(昔の街道)。川の中に昔の橋脚の杭が見えてます。

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています<br />酒匂川の川渡の様子を示す浮世絵(小田原)<br />「東海道五拾三次之内 小田原 【酒匂川】」<br />古くは船渡しでしたが、延宝三年(1674)徒歩渡(かちわたり)となった。<br />夏は川越人足による渡しが行われ、冬は仮橋が架けられた。<br />歌川広重はこの酒匂川の渡し風景を小田原として取り上げている。<br />箱根山を背景に、人足16人が担ぐ大高欄蓮台、人足4人が担ぐ平蓮台、人足1人が肩に担ぐ、それぞれの渡し風景を描き込んでいる。<br />**右端の山の麓にある白い部分が小田原城。<br /><br />【酒匂川の渡し】<br /> 酒匂川の渡しは、東海道五十三次道中の難所の一つで、古くは船渡しが行われていたが、延宝二年(1669)船渡しが禁止されて徒歩(かちわたり)制が施行され、冬の時期を冬川と言い仮橋を架けて往来したが、夏の時期は夏川と称し橋を架けないので必ず手引・肩車・輦台(れんだい)など有料で川越人足の力を借りて渡らなければならなかった。この制度は、明治四年(1871)に廃止された。<br /><br />小田原宿は、東海道最大の難所箱根峠越えを前後して、多くの旅人が宿泊した。四軒の本陣を擁することからも明らかなように、参覲交代の大名にとっても同様で、江戸行きの大名の八割方は、ここに宿泊した。<br /><br />【広重の絵】<br />江戸口見付の先、山王川のさらに東を流れる大河・酒匂川の渡しを描く。大きく描かれた箱根山の麓に小田原の城下町が見える。

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
    酒匂川の川渡の様子を示す浮世絵(小田原)
    「東海道五拾三次之内 小田原 【酒匂川】」
    古くは船渡しでしたが、延宝三年(1674)徒歩渡(かちわたり)となった。
    夏は川越人足による渡しが行われ、冬は仮橋が架けられた。
    歌川広重はこの酒匂川の渡し風景を小田原として取り上げている。
    箱根山を背景に、人足16人が担ぐ大高欄蓮台、人足4人が担ぐ平蓮台、人足1人が肩に担ぐ、それぞれの渡し風景を描き込んでいる。
    **右端の山の麓にある白い部分が小田原城。

    【酒匂川の渡し】
     酒匂川の渡しは、東海道五十三次道中の難所の一つで、古くは船渡しが行われていたが、延宝二年(1669)船渡しが禁止されて徒歩(かちわたり)制が施行され、冬の時期を冬川と言い仮橋を架けて往来したが、夏の時期は夏川と称し橋を架けないので必ず手引・肩車・輦台(れんだい)など有料で川越人足の力を借りて渡らなければならなかった。この制度は、明治四年(1871)に廃止された。

    小田原宿は、東海道最大の難所箱根峠越えを前後して、多くの旅人が宿泊した。四軒の本陣を擁することからも明らかなように、参覲交代の大名にとっても同様で、江戸行きの大名の八割方は、ここに宿泊した。

    【広重の絵】
    江戸口見付の先、山王川のさらに東を流れる大河・酒匂川の渡しを描く。大きく描かれた箱根山の麓に小田原の城下町が見える。

  • 橋の上から酒匂川の上流北方面を見る。橋の無い当時の川渡りは水量の少ない時、中洲と浅瀬を選び徒歩でした。

    橋の上から酒匂川の上流北方面を見る。橋の無い当時の川渡りは水量の少ない時、中洲と浅瀬を選び徒歩でした。

  • 【小田原 山王神社】<br />【星月夜の社 山王神社】<br />祭神 大山祇命 少彦名命 大山咋命<br />由緒 <br /> 明応四年(1495)ニ月、北條早雲は小田原城主大森藤頼を破り、小田原城を手中に治め、相模の国を平定した。<br /> その頃の山王神社は北條家の郭内で山王曲輪と称え、海辺なる袖の池ノ南袖ヶ藪にありしが、暴浪のため、その地崩潰せしかば、慶長十八年(1613)九月十八日現地に移せりと。<br />  旧社地に星月夜ノ井戸ありしより、一に星月夜ノ社とも称ふ。其の井戸も移して現地にあり。天正十八年小田原陣のとき、徳川家康は日々参詣ありし由、又旧領主大久保氏の祈願所にして、元禄中再建の用材は領主永世寄進の証状ありしと。<br />  寛永元年(1624)四月四日江戸初期の朱子学者林羅山は山王神社境内にて星月夜の詩を詠む。その詩にもある如く、当時の山王神社は星月夜ノ社といわれ、小田原の名所なりしと、井戸も再現いたし、地底より湧き出る水面に浮かぶ大空の星影映る往昔の姿こそ誰が神秘といわんや。この歴史ある社と共に、星月夜ノ緯度を史跡として長く後世に伝えん。<br />一、明治六月七月三十日 旧足柄県に於て村社に定められる。<br />一、大正四年十一月十二日 新撰幣帛料供進神社に指定せらる。<br />一、五月五日 例祭

    【小田原 山王神社】
    【星月夜の社 山王神社】
    祭神 大山祇命 少彦名命 大山咋命
    由緒 
     明応四年(1495)ニ月、北條早雲は小田原城主大森藤頼を破り、小田原城を手中に治め、相模の国を平定した。
     その頃の山王神社は北條家の郭内で山王曲輪と称え、海辺なる袖の池ノ南袖ヶ藪にありしが、暴浪のため、その地崩潰せしかば、慶長十八年(1613)九月十八日現地に移せりと。
      旧社地に星月夜ノ井戸ありしより、一に星月夜ノ社とも称ふ。其の井戸も移して現地にあり。天正十八年小田原陣のとき、徳川家康は日々参詣ありし由、又旧領主大久保氏の祈願所にして、元禄中再建の用材は領主永世寄進の証状ありしと。
      寛永元年(1624)四月四日江戸初期の朱子学者林羅山は山王神社境内にて星月夜の詩を詠む。その詩にもある如く、当時の山王神社は星月夜ノ社といわれ、小田原の名所なりしと、井戸も再現いたし、地底より湧き出る水面に浮かぶ大空の星影映る往昔の姿こそ誰が神秘といわんや。この歴史ある社と共に、星月夜ノ緯度を史跡として長く後世に伝えん。
    一、明治六月七月三十日 旧足柄県に於て村社に定められる。
    一、大正四年十一月十二日 新撰幣帛料供進神社に指定せらる。
    一、五月五日 例祭

  • 『東海道小八幡の一里塚』

    『東海道小八幡の一里塚』

  • 【小田原宿の江戸口見付】 兼【一里塚跡】  これより小田原宿です<br />天保14年(1843)ころは、小田原宿の宿内家数は約1500軒、うち本陣4、脇本陣4、旅籠95軒(大17、中31、小四17)で宿内人口は約5400人。<br />小田原は城下町として栄えましたが、何といっても東海道最大の難所である箱根越えを控え大いに賑わいました。<br /><br />【江戸口見附跡】<br /> 小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。<br /> この付近は、その総構の最も南部に当たり、小田原合戦のときには徳川家康が山王川の対岸に陣取っていました。<br /> 江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する重要な門としての役割を担っていました。<br /> 江戸方面から来た場合、上図のように門の土塁を一旦右に曲がりさらに左に折れてから城下に入る形になっています。また、入るとすぐ右手(北側)には番所があり、通行人の監視などに当っていました。<br /> なお、ここは江戸日本橋から20里(80Km)に位置し、それを示す一里塚が海寄りに設けられていました。<br />

    【小田原宿の江戸口見付】 兼【一里塚跡】 これより小田原宿です
    天保14年(1843)ころは、小田原宿の宿内家数は約1500軒、うち本陣4、脇本陣4、旅籠95軒(大17、中31、小四17)で宿内人口は約5400人。
    小田原は城下町として栄えましたが、何といっても東海道最大の難所である箱根越えを控え大いに賑わいました。

    【江戸口見附跡】
     小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。
     この付近は、その総構の最も南部に当たり、小田原合戦のときには徳川家康が山王川の対岸に陣取っていました。
     江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する重要な門としての役割を担っていました。
     江戸方面から来た場合、上図のように門の土塁を一旦右に曲がりさらに左に折れてから城下に入る形になっています。また、入るとすぐ右手(北側)には番所があり、通行人の監視などに当っていました。
     なお、ここは江戸日本橋から20里(80Km)に位置し、それを示す一里塚が海寄りに設けられていました。

  • 江戸口見付けの一里塚<br />山王神社の先、宗福寺の左隣の新宿公民館前に江戸口見付跡。<br />浜町が小田原城の総構えの最東端で、城下町の東(江戸側)の出入り口であった。<br />また、ここが江戸より丁度20里にあたり、やや海よりの場所に一里塚が設けられていた。<br /><br />【江戸口見附並びに一里塚】<br /> 見附とは、城の枡形門に設けられた見張番所であって、武器を用意し昼夜番士が詰めて警戒にあたる場所であるが、本城より外濠城門を示す場合が多い。<br /> 小田原城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦の際には、町ぐるみ堀や土塁で囲まれていたが、江戸初期にこの構造を壊して東海道を通す際に、枡形が作られた。小田原城から江戸に向かう出口であったため、江戸口見附と名づけられた。<br /> また、ここは江戸から20番目の一里塚があった場所でもある。<br /> 慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに塚を造らせた。塚は男塚、女塚と、街道の左右で対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とするとともに、夏季における木陰の休憩場所とした。<br /> 天保年中の相模国風土記稿には、「江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、塚上榎樹ありしが、中古槁れ、今は松の小樹を植ゆ、古は双堠なりしに、今隻堠となれり。けだし海道の革まりし頃、一堠は海中に入りならん。これより東は小八幡村、西は風祭村の里堠に続けり」とされている。

    江戸口見付けの一里塚
    山王神社の先、宗福寺の左隣の新宿公民館前に江戸口見付跡。
    浜町が小田原城の総構えの最東端で、城下町の東(江戸側)の出入り口であった。
    また、ここが江戸より丁度20里にあたり、やや海よりの場所に一里塚が設けられていた。

    【江戸口見附並びに一里塚】
     見附とは、城の枡形門に設けられた見張番所であって、武器を用意し昼夜番士が詰めて警戒にあたる場所であるが、本城より外濠城門を示す場合が多い。
     小田原城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦の際には、町ぐるみ堀や土塁で囲まれていたが、江戸初期にこの構造を壊して東海道を通す際に、枡形が作られた。小田原城から江戸に向かう出口であったため、江戸口見附と名づけられた。
     また、ここは江戸から20番目の一里塚があった場所でもある。
     慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに塚を造らせた。塚は男塚、女塚と、街道の左右で対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とするとともに、夏季における木陰の休憩場所とした。
     天保年中の相模国風土記稿には、「江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、塚上榎樹ありしが、中古槁れ、今は松の小樹を植ゆ、古は双堠なりしに、今隻堠となれり。けだし海道の革まりし頃、一堠は海中に入りならん。これより東は小八幡村、西は風祭村の里堠に続けり」とされている。

  • 【江戸口見附跡】<br /> 小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。<br /> この付近は、その総構の最も南部に当たり、小田原合戦のときには徳川家康が山王川の対岸に陣取っていた。 江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する重要な門としての役割を担っていました。<br /> 江戸方面から来た場合、上図のように門の土塁を一旦右に曲がりさらに左に折れてから城下に入る形になっています。また、入るとすぐ右手(北側)には番所があり、通行人の監視などに当っていました。<br /> なお、ここは江戸日本橋から20里(80Km)に位置し、それを示す一里塚が海寄りに設けられている。

    【江戸口見附跡】
     小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。
     この付近は、その総構の最も南部に当たり、小田原合戦のときには徳川家康が山王川の対岸に陣取っていた。 江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する重要な門としての役割を担っていました。
     江戸方面から来た場合、上図のように門の土塁を一旦右に曲がりさらに左に折れてから城下に入る形になっています。また、入るとすぐ右手(北側)には番所があり、通行人の監視などに当っていました。
     なお、ここは江戸日本橋から20里(80Km)に位置し、それを示す一里塚が海寄りに設けられている。

  • 小田原浜町の【北稲荷神社】<br />北条氏政が城内の老狐を祀ったものだといわれる。

    小田原浜町の【北稲荷神社】
    北条氏政が城内の老狐を祀ったものだといわれる。

  • 稲荷神社内の【蛙石】<br />北條稲荷神社があります、境内には蛙石(かわずいし)があります。<br />元は小田原城内にありました、その石が寄進されたもの。凶事が起こる前には鳴き出す石と言われ、小田原落城の際や、大地震はたいそう鳴いたとか。<br />

    稲荷神社内の【蛙石】
    北條稲荷神社があります、境内には蛙石(かわずいし)があります。
    元は小田原城内にありました、その石が寄進されたもの。凶事が起こる前には鳴き出す石と言われ、小田原落城の際や、大地震はたいそう鳴いたとか。

  • これが蛙石。なんとなくその姿がみれる。<br />【蛙石(かわずいし)】<br /> 今から四百年以前北条稲荷がこの地に建立されて以来蛙石は稲荷末社の一つとして蛙石明神と崇められ永い由緒をもった小田原の名蹟である。その蛙石という名称は形状が蛙に似たところよりいつしか唱えられるに至ったものであろう。もと小田原城内の庭上にあったものを北条稲荷勧請の際ともに城中よりここに移されたと伝えられているが明治35年の大津波にも大正12年の大地震にも少しの異動もなかったので試みに掘り出そうとしたところ一丈の深さに及んでも下部に達しなかったので然らば地下岩盤の露出の先端ではないかという。<br /> 都路往来の文中に「蛙鳴くなる小田原の里」とあるのはこの蛙石が小田原に異変がある時には必ず鳴声を発するためだと伝えられ特に北条時代小田原落城の際は夜な夜な盛んに鳴いたというのは名高い伝説である。

    これが蛙石。なんとなくその姿がみれる。
    【蛙石(かわずいし)】
     今から四百年以前北条稲荷がこの地に建立されて以来蛙石は稲荷末社の一つとして蛙石明神と崇められ永い由緒をもった小田原の名蹟である。その蛙石という名称は形状が蛙に似たところよりいつしか唱えられるに至ったものであろう。もと小田原城内の庭上にあったものを北条稲荷勧請の際ともに城中よりここに移されたと伝えられているが明治35年の大津波にも大正12年の大地震にも少しの異動もなかったので試みに掘り出そうとしたところ一丈の深さに及んでも下部に達しなかったので然らば地下岩盤の露出の先端ではないかという。
     都路往来の文中に「蛙鳴くなる小田原の里」とあるのはこの蛙石が小田原に異変がある時には必ず鳴声を発するためだと伝えられ特に北条時代小田原落城の際は夜な夜な盛んに鳴いたというのは名高い伝説である。

  • 小田原の危機の際には、必ず鳴くといわれており、小田原城落城、江戸時代の2回の震災、明治の小田原大海嘯、大正の関東大震災、昭和の小田原空襲の前夜にも盛んに鳴いたとされる。都路往来にでてくる「蛙鳴くなる小田原の里」はこの蛙石を指している。<br />【蛙石(かわずいし)】<br /> 今から四百年以前北条稲荷がこの地に建立されて以来蛙石は稲荷末社の一つとして蛙石明神と崇められ永い由緒をもった小田原の名蹟である。その蛙石という名称は形状が蛙に似たところよりいつしか唱えられるに至ったものであろう。もと小田原城内の庭上にあったものを北条稲荷勧請の際ともに城中よりここに移されたと伝えられているが明治35年の大津波にも大正12年の大地震にも少しの異動もなかったので試みに掘り出そうとしたところ一丈の深さに及んでも下部に達しなかったので然らば地下岩盤の露出の先端ではないかという。<br /> 都路往来の文中に「蛙鳴くなる小田原の里」とあるのはこの蛙石が小田原に異変がある時には必ず鳴声を発するためだと伝えられ特に北条時代小田原落城の際は夜な夜な盛んに鳴いたというのは名高い伝説である。

    小田原の危機の際には、必ず鳴くといわれており、小田原城落城、江戸時代の2回の震災、明治の小田原大海嘯、大正の関東大震災、昭和の小田原空襲の前夜にも盛んに鳴いたとされる。都路往来にでてくる「蛙鳴くなる小田原の里」はこの蛙石を指している。
    【蛙石(かわずいし)】
     今から四百年以前北条稲荷がこの地に建立されて以来蛙石は稲荷末社の一つとして蛙石明神と崇められ永い由緒をもった小田原の名蹟である。その蛙石という名称は形状が蛙に似たところよりいつしか唱えられるに至ったものであろう。もと小田原城内の庭上にあったものを北条稲荷勧請の際ともに城中よりここに移されたと伝えられているが明治35年の大津波にも大正12年の大地震にも少しの異動もなかったので試みに掘り出そうとしたところ一丈の深さに及んでも下部に達しなかったので然らば地下岩盤の露出の先端ではないかという。
     都路往来の文中に「蛙鳴くなる小田原の里」とあるのはこの蛙石が小田原に異変がある時には必ず鳴声を発するためだと伝えられ特に北条時代小田原落城の際は夜な夜な盛んに鳴いたというのは名高い伝説である。

  • 【松原神社社誌】<br />一、祭神 日本武命、相殿 素盞嗚命、宇迦魂命<br />一、由緒<br /> 縁由及び創祀の記録は灰燼に帰して詳かではないが古老の口碑に依れば近衛天皇久安年間の勧請なりと云はれている。後醍醐天皇の頃、当所に真鶴が棲み、故に鶴の森明神と称したと云う。<br /> 後奈良天皇天文年間に山王原村松原の海中より十一面観音が出現、その託宣に依り当社の本地佛として祀ったことから神号を松原大明神と称したと云う。明応四年北条氏の小田原を治めるに当り当社への尊崇頗る厚く、鎮守として社領一万石を寄せ氏綱、氏康等大事毎に必ず祈願した。天正十八年北条氏廃滅後、後水尾天皇寛永九年稲葉氏の領となっても亦、鎮守として崇祀し社費は悉く藩財を以て之に当てた。 霊元天皇貞享三年領主大久保氏が封を再び此の地に受けた事に依り猶先規に従い鎮守とし崇敬前代に劣らず代々小田原の宿十九町の総鎮守とした。明治二年松原神社と改称し、明治六年一月旧足柄県に於いて懸社と定められ、明治四十年四月二日神饌弊帛料供進神社に指定された。<br />一、例祭 五月三日、四日、五日

    【松原神社社誌】
    一、祭神 日本武命、相殿 素盞嗚命、宇迦魂命
    一、由緒
     縁由及び創祀の記録は灰燼に帰して詳かではないが古老の口碑に依れば近衛天皇久安年間の勧請なりと云はれている。後醍醐天皇の頃、当所に真鶴が棲み、故に鶴の森明神と称したと云う。
     後奈良天皇天文年間に山王原村松原の海中より十一面観音が出現、その託宣に依り当社の本地佛として祀ったことから神号を松原大明神と称したと云う。明応四年北条氏の小田原を治めるに当り当社への尊崇頗る厚く、鎮守として社領一万石を寄せ氏綱、氏康等大事毎に必ず祈願した。天正十八年北条氏廃滅後、後水尾天皇寛永九年稲葉氏の領となっても亦、鎮守として崇祀し社費は悉く藩財を以て之に当てた。 霊元天皇貞享三年領主大久保氏が封を再び此の地に受けた事に依り猶先規に従い鎮守とし崇敬前代に劣らず代々小田原の宿十九町の総鎮守とした。明治二年松原神社と改称し、明治六年一月旧足柄県に於いて懸社と定められ、明治四十年四月二日神饌弊帛料供進神社に指定された。
    一、例祭 五月三日、四日、五日

  • 【小田原宿】<br /> 江戸時代の小田原は、城下町であるとともに東海道屈指の宿場町として発展しました。小田原宿は、東海道起点の江戸日本橋からおよそ80Kmの距離にあり、第一宿の品川宿から数えて九番目の宿場で、通常は途中一泊してここに到着します。<br /> 東は歩行渡り(10月から3月の間は橋が架けられました)の酒匂川、西は東海道一の難所箱根越えが控えていたので、小田原宿で宿泊する人が多く、常時90軒前後の旅籠が軒を連ねていました。また、参勤交代で往来する大名行列も同様で、彼らが休泊に利用した本陣4・脇本陣4の計8軒という数は東海道随一を誇ります。<br /> 小田原城下は、藩士が居住する武家地と寺社地及び商職人の住む町人地からなっていました。中でも小田原宿の中心であったのがこの辺りの宮前町と西隣の本町でした。ここには、本陣、脇本陣だけでなく旅籠の多くが集中していました。<br /> 小田原宿は宿泊者が多かったため、土産物や旅の必需品を売る店も多く、蒲鉾・梅干・ういろう・小田原提灯などが小田原の名物として広く知れ渡るようになりました。市内には江戸時代から続く古い店が残っており、今でも伝統を引き継いでこれらの名物を製造・販売しています。

    【小田原宿】
     江戸時代の小田原は、城下町であるとともに東海道屈指の宿場町として発展しました。小田原宿は、東海道起点の江戸日本橋からおよそ80Kmの距離にあり、第一宿の品川宿から数えて九番目の宿場で、通常は途中一泊してここに到着します。
     東は歩行渡り(10月から3月の間は橋が架けられました)の酒匂川、西は東海道一の難所箱根越えが控えていたので、小田原宿で宿泊する人が多く、常時90軒前後の旅籠が軒を連ねていました。また、参勤交代で往来する大名行列も同様で、彼らが休泊に利用した本陣4・脇本陣4の計8軒という数は東海道随一を誇ります。
     小田原城下は、藩士が居住する武家地と寺社地及び商職人の住む町人地からなっていました。中でも小田原宿の中心であったのがこの辺りの宮前町と西隣の本町でした。ここには、本陣、脇本陣だけでなく旅籠の多くが集中していました。
     小田原宿は宿泊者が多かったため、土産物や旅の必需品を売る店も多く、蒲鉾・梅干・ういろう・小田原提灯などが小田原の名物として広く知れ渡るようになりました。市内には江戸時代から続く古い店が残っており、今でも伝統を引き継いでこれらの名物を製造・販売しています。

  • 小田原なりわい交流館パンフより

    小田原なりわい交流館パンフより

  • 蒲鉾屋さんの老舗、”籠清(かごせい)”。<br />近隣に、”うろこき”、”杉鎌”のブランド蒲鉾店もあり。このあたり「かまぼこ横丁」と呼ばれる。

    蒲鉾屋さんの老舗、”籠清(かごせい)”。
    近隣に、”うろこき”、”杉鎌”のブランド蒲鉾店もあり。このあたり「かまぼこ横丁」と呼ばれる。

  • 【八棟(やつむね)造り再建に就いて】八棟造りとは棟の数の多い建物。<br />外朗(ういろう)家の八棟造りは、永正元年北条早雲に招かれ京都より来往した外郎家五代外郎宇野藤右衛門定冶が、同三年(1523)に建設した建物で、竣工に際し後柏原天皇より勅使を派遣され、綸旨を賜った。この八棟造りは寛永の地震で倒壊し再建された時は、もう既に北条家は滅亡、外郎家は小田原にそのまま留まることは許されたが野に下っていたので、建物も菊と桐の紋章はそのまま使用されたものの建て方は三階建てながら町屋風を取り入られたものと考えられる。この八棟造りが江戸時代の錦絵に出てくる八棟造りである。元禄地震で又被害を受け、天明の地震で倒壊し、建て替えられた時は、地震直後に建築された為、資材、職人が間に合わず二階建ての建物になって了った。この建物が大正十二年の関東大震災の時に崩壊して了ったのである。北条時代の八棟造りの用材は、非常に大きなもので、今日ではこのような用材入手困難のため、木造での復元が無理である。しかし鉄筋コンクリート工法が進歩しているので、この方法によって北条時代の八棟造りの状態が再現出来た次第である。<br /><br />〔純正生薬製剤 家伝霊薬 透頂香(とうちんこう) ういらう〕 ~以下説明書による<br /><br />概歴<br /><br /> 祖先は、元の順宋に仕へ大医院となり礼部員外郎といふ役であったが明が元を滅ぼすと二朝に仕へる事を恥じて日本に帰化して陳外郎と称した。其の子宋奇が後小松天皇の御代足利義満の命に応じて明国に使いして家宝の「霊宝丹」を伝えた。効能顕著であったから、朝廷、将軍家をはじめ皆之を珍重した。これにより時の帝より「透頂香」の名を賜った。透頂香は時とともに益々霊薬の名高く陳外郎の薬と申すところか此薬を外郎「ういろう」とも呼んだのである。上述のごとく、五代目が早雲に招かれて小田原に来住し「八棟造」の家屋と共に小田原の名物として有名になった。<br /><br />又歌舞伎十八番の「外郎」としても十辺舎一九の弥次喜多膝栗毛によっても遍く知られる処である。「ういろう」は日本で最古の歴史を持つ薬である。<br /><br />

    【八棟(やつむね)造り再建に就いて】八棟造りとは棟の数の多い建物。
    外朗(ういろう)家の八棟造りは、永正元年北条早雲に招かれ京都より来往した外郎家五代外郎宇野藤右衛門定冶が、同三年(1523)に建設した建物で、竣工に際し後柏原天皇より勅使を派遣され、綸旨を賜った。この八棟造りは寛永の地震で倒壊し再建された時は、もう既に北条家は滅亡、外郎家は小田原にそのまま留まることは許されたが野に下っていたので、建物も菊と桐の紋章はそのまま使用されたものの建て方は三階建てながら町屋風を取り入られたものと考えられる。この八棟造りが江戸時代の錦絵に出てくる八棟造りである。元禄地震で又被害を受け、天明の地震で倒壊し、建て替えられた時は、地震直後に建築された為、資材、職人が間に合わず二階建ての建物になって了った。この建物が大正十二年の関東大震災の時に崩壊して了ったのである。北条時代の八棟造りの用材は、非常に大きなもので、今日ではこのような用材入手困難のため、木造での復元が無理である。しかし鉄筋コンクリート工法が進歩しているので、この方法によって北条時代の八棟造りの状態が再現出来た次第である。

    〔純正生薬製剤 家伝霊薬 透頂香(とうちんこう) ういらう〕 ~以下説明書による

    概歴

     祖先は、元の順宋に仕へ大医院となり礼部員外郎といふ役であったが明が元を滅ぼすと二朝に仕へる事を恥じて日本に帰化して陳外郎と称した。其の子宋奇が後小松天皇の御代足利義満の命に応じて明国に使いして家宝の「霊宝丹」を伝えた。効能顕著であったから、朝廷、将軍家をはじめ皆之を珍重した。これにより時の帝より「透頂香」の名を賜った。透頂香は時とともに益々霊薬の名高く陳外郎の薬と申すところか此薬を外郎「ういろう」とも呼んだのである。上述のごとく、五代目が早雲に招かれて小田原に来住し「八棟造」の家屋と共に小田原の名物として有名になった。

    又歌舞伎十八番の「外郎」としても十辺舎一九の弥次喜多膝栗毛によっても遍く知られる処である。「ういろう」は日本で最古の歴史を持つ薬である。

  • 江戸期からの老舗薬局

    江戸期からの老舗薬局

  • 『劑生堂小西藥房』<br />創業寛永10年の薬屋。<br />寛永十年(1663)創業と言う小西薬局の庇上には『調劑藥舗 小西本店』、庇下には『劑生堂小西藥房』と書かれた看板が掲げられていた。<br /> 現在の建物は、関東大震災で倒壊した旧店舗の材料を一部利用して大正十四年に完成したものとの事。

    『劑生堂小西藥房』
    創業寛永10年の薬屋。
    寛永十年(1663)創業と言う小西薬局の庇上には『調劑藥舗 小西本店』、庇下には『劑生堂小西藥房』と書かれた看板が掲げられていた。
     現在の建物は、関東大震災で倒壊した旧店舗の材料を一部利用して大正十四年に完成したものとの事。

  • 小田原一夜城から市内を見下ろした風景です。(気分転換に)

    小田原一夜城から市内を見下ろした風景です。(気分転換に)

  • 2021年7月追加<br />旧東海道に面した築100年越えの平野家”ぶこう醤油”蔵。裏には製造所跡地あり

    2021年7月追加
    旧東海道に面した築100年越えの平野家”ぶこう醤油”蔵。裏には製造所跡地あり

  • 2021年7月フォト追加<br />平野家の穀物蔵を借用し、会場に利用したグループ絵画展があり、自身も出品参加した事あり。その展示風景です。五点マイ作品です。<br /><br />蔵の内部は、歴史の雰囲気を感じ、なかなか良いです。

    2021年7月フォト追加
    平野家の穀物蔵を借用し、会場に利用したグループ絵画展があり、自身も出品参加した事あり。その展示風景です。五点マイ作品です。

    蔵の内部は、歴史の雰囲気を感じ、なかなか良いです。

  • 2017年7月フォト追加<br />これも、別機会の展示風景です。

    2017年7月フォト追加
    これも、別機会の展示風景です。

  • 【箱根板橋地蔵尊】<br />普段はガランとしているが、正月と8月二十三、二十四日は大勢で賑わう。<br />ここには、戊辰戦争の箱根戦争の戦死者13名の名が刻まれる。<br />【板橋の地蔵尊】<br /> この地蔵尊は「板橋のお地蔵さま」と呼ばれ、古くからこの地方に名高くしれわたっている。<br /> 永禄12年(1569)、香林寺九世の文察和尚は、身丈一丈(約330センチ)の大座像を造り、箱根湯本の宿古堂に祭られていた弘法大師彫像の御真体を胎内に安置したといわれている。<br /> 毎年1月と8月の23日・24日の両日が縁日で、当日は境内及び参道に市が立ち参拝者で賑わう。この地方では、新ホトケが出た時、その家族および縁者が3年間つづけてこの地蔵尊へ参詣する習俗があり、この日に参詣すると故人に似た人に必ず合えるといわれている。<br /> この境内には、寛政7年(1795)に建てた一刀流6代目の横田常右衛門豊房と7代名坂四郎治政宣の供養碑が立っている。また明治戌辰の役の後に、合戦の犠牲者となった官軍の軍監中井範五郎らあわせて13名の姓名を刻んだ慰霊碑もある。

    【箱根板橋地蔵尊】
    普段はガランとしているが、正月と8月二十三、二十四日は大勢で賑わう。
    ここには、戊辰戦争の箱根戦争の戦死者13名の名が刻まれる。
    【板橋の地蔵尊】
     この地蔵尊は「板橋のお地蔵さま」と呼ばれ、古くからこの地方に名高くしれわたっている。
     永禄12年(1569)、香林寺九世の文察和尚は、身丈一丈(約330センチ)の大座像を造り、箱根湯本の宿古堂に祭られていた弘法大師彫像の御真体を胎内に安置したといわれている。
     毎年1月と8月の23日・24日の両日が縁日で、当日は境内及び参道に市が立ち参拝者で賑わう。この地方では、新ホトケが出た時、その家族および縁者が3年間つづけてこの地蔵尊へ参詣する習俗があり、この日に参詣すると故人に似た人に必ず合えるといわれている。
     この境内には、寛政7年(1795)に建てた一刀流6代目の横田常右衛門豊房と7代名坂四郎治政宣の供養碑が立っている。また明治戌辰の役の後に、合戦の犠牲者となった官軍の軍監中井範五郎らあわせて13名の姓名を刻んだ慰霊碑もある。

  • しだれサクラでも有名な【長興山紹太寺】の案内図<br />ここは、幕末まで巨大な伽藍と寺域を誇る大寺院であった。創建は寛永12年、小田原城主稲葉正則によるもので、開山当時の寺号麟祥院は正則の祖母で、家光の乳母で春日局の法号から取られた。<br />往時は、広大な境内に七堂の伽藍と大庭園があり、壮麗さを誇った。しかし、安政年間に多くのがらんを焼失後、再建されることはなかった。<br />樹齢三百年の枝垂れ桜がある。<br /><br />【紹大寺】<br /> 紹大寺は、江戸時代の初期(寛永9年(1632)~貞享2年(1685))小田原藩主であった稲葉氏一族の菩提寺で黄檗宗大本山萬福寺の末寺である。 はじめ小田原城下山角町(現・南町)に建立された臨済宗の寺院であったが、寛文9年(1669)稲葉正則は寺を入生田牛臥山のこの地に移し、黄檗宗長興山紹大寺と号して、父母及び祖母春日局(徳川三代将軍家光の乳母)の霊を弔った。 往時は寺城方10町(1092m四方)に及ぶ広大な地に七堂伽藍の整った大寺院であった。<br /> 元禄4年(1691)この地を通過したオランダ南館医師ドイツ人ケンペルの紀行文にも、その壮麗な姿が描かれている。しかし、幕末と明治初年の火災で焼失してしまった。<br /> 現在の紹大寺は、その折、難を逃れた子院の清雲院がその法灯を継いでいる。<br />    現在の市指定文化財<br />○稲葉一族の墓所と鉄牛和尚の寿塔  ○長興山開発供養塔  ○長興山紹大寺の境内絵図<br />○開山鉄牛和尚の画像  ○鉄牛和尚の血書  ○長興山のしだれ桜  ○長興山鉄牛和尚寿塔付近の樹叢

    しだれサクラでも有名な【長興山紹太寺】の案内図
    ここは、幕末まで巨大な伽藍と寺域を誇る大寺院であった。創建は寛永12年、小田原城主稲葉正則によるもので、開山当時の寺号麟祥院は正則の祖母で、家光の乳母で春日局の法号から取られた。
    往時は、広大な境内に七堂の伽藍と大庭園があり、壮麗さを誇った。しかし、安政年間に多くのがらんを焼失後、再建されることはなかった。
    樹齢三百年の枝垂れ桜がある。

    【紹大寺】
     紹大寺は、江戸時代の初期(寛永9年(1632)~貞享2年(1685))小田原藩主であった稲葉氏一族の菩提寺で黄檗宗大本山萬福寺の末寺である。 はじめ小田原城下山角町(現・南町)に建立された臨済宗の寺院であったが、寛文9年(1669)稲葉正則は寺を入生田牛臥山のこの地に移し、黄檗宗長興山紹大寺と号して、父母及び祖母春日局(徳川三代将軍家光の乳母)の霊を弔った。 往時は寺城方10町(1092m四方)に及ぶ広大な地に七堂伽藍の整った大寺院であった。
     元禄4年(1691)この地を通過したオランダ南館医師ドイツ人ケンペルの紀行文にも、その壮麗な姿が描かれている。しかし、幕末と明治初年の火災で焼失してしまった。
     現在の紹大寺は、その折、難を逃れた子院の清雲院がその法灯を継いでいる。
        現在の市指定文化財
    ○稲葉一族の墓所と鉄牛和尚の寿塔  ○長興山開発供養塔  ○長興山紹大寺の境内絵図
    ○開山鉄牛和尚の画像  ○鉄牛和尚の血書  ○長興山のしだれ桜  ○長興山鉄牛和尚寿塔付近の樹叢

  • 遠くに、小田急線箱根湯本駅が見えてきました。橋は三枚橋。旧街道へは、これを渡ります。<br /><br />早川にかかる橋になる。北条氏時代は川幅が広く2つの中洲があって3つの橋が架けられており、順番に地獄橋、極楽橋、三昧橋と言い、渡ったところに早雲寺の総門がありどんな罪人も寺に逃げ込めば罪を免れると言われ、極楽橋まで渡ると追手も追わず助かったと言う。江戸後期の記録では長さ22間(40m)幅1丈(3m)の土橋がかかっていた。<br />

    遠くに、小田急線箱根湯本駅が見えてきました。橋は三枚橋。旧街道へは、これを渡ります。

    早川にかかる橋になる。北条氏時代は川幅が広く2つの中洲があって3つの橋が架けられており、順番に地獄橋、極楽橋、三昧橋と言い、渡ったところに早雲寺の総門がありどんな罪人も寺に逃げ込めば罪を免れると言われ、極楽橋まで渡ると追手も追わず助かったと言う。江戸後期の記録では長さ22間(40m)幅1丈(3m)の土橋がかかっていた。

  • 小田急線箱根湯本駅。その手前にある三枚橋を渡って旧東海道は続きます。次回をお楽しみに。

    小田急線箱根湯本駅。その手前にある三枚橋を渡って旧東海道は続きます。次回をお楽しみに。

  • 箱根登山線入生田駅に近い地球博物館。こちらの表にあるトイレを借用した。

    箱根登山線入生田駅に近い地球博物館。こちらの表にあるトイレを借用した。

  • 早川で鮎つり人。流れの次の溜まり場に泳いでるらしい。

    早川で鮎つり人。流れの次の溜まり場に泳いでるらしい。

  • 早川に掛かる釣り橋。定員は大人4名、又は子供は6名までの標記あり。よく揺れるはしです。

    早川に掛かる釣り橋。定員は大人4名、又は子供は6名までの標記あり。よく揺れるはしです。

  • 早雲寺の惣門。奥に見えるのが本殿の山門。<br /><br />【早雲寺】<br /> 早雲寺は、大永元年(1521)北條早雲の遺命により、その子氏綱によって建立された寺であり、 以来北條氏一門の香火所としてその盛衰をともにし現在に至っています。 この寺には、北條文化の香りを伝える数多くの文化財が残されており 北條文化を語るのに欠く事のできない寺です。

    早雲寺の惣門。奥に見えるのが本殿の山門。

    【早雲寺】
     早雲寺は、大永元年(1521)北條早雲の遺命により、その子氏綱によって建立された寺であり、 以来北條氏一門の香火所としてその盛衰をともにし現在に至っています。 この寺には、北條文化の香りを伝える数多くの文化財が残されており 北條文化を語るのに欠く事のできない寺です。

  • 【早雲寺惣門】<br />小田原城主・北条氏の菩提寺。2代氏綱(うじつな)が初代早雲(そううん)の遺言によって1521年(大永元)に建立した臨済宗大徳寺派の名刹です。箱根湯本の町は、もともと早雲寺の門前町として始まったと言われています。<br />1590年(天正18)の豊臣秀吉の小田原攻めで一度消失。1627年(寛永4)僧侶・菊径により再興されました。(パンフレットより)

    【早雲寺惣門】
    小田原城主・北条氏の菩提寺。2代氏綱(うじつな)が初代早雲(そううん)の遺言によって1521年(大永元)に建立した臨済宗大徳寺派の名刹です。箱根湯本の町は、もともと早雲寺の門前町として始まったと言われています。
    1590年(天正18)の豊臣秀吉の小田原攻めで一度消失。1627年(寛永4)僧侶・菊径により再興されました。(パンフレットより)

  • 早雲寺は神奈川県足柄下郡箱根町湯本にある臨済宗大徳寺派の寺。<br />境内には、連歌で有名な宗祇法師(そうぎほうし)の供養塔もある。<br /><br />【早雲寺】<br />小田原城主・北条氏の菩提寺。2代氏綱(うじつな)が初代早雲(そううん)の遺言によって1521年(大永元)に建立した臨済宗大徳寺派の名刹です。箱根湯本の町は、もともと早雲寺の門前町として始まったと言われています。1590年(天正18)の豊臣秀吉の小田原攻めで一度消失。1627年(寛永4)僧侶・菊径により再興されました。山門の左側の鐘楼に大きな古い梵鐘があり、これは豊臣秀吉が北條氏を攻めて小田原に押し寄せたとき、石垣山の一夜城に使われたといわれています。

    早雲寺は神奈川県足柄下郡箱根町湯本にある臨済宗大徳寺派の寺。
    境内には、連歌で有名な宗祇法師(そうぎほうし)の供養塔もある。

    【早雲寺】
    小田原城主・北条氏の菩提寺。2代氏綱(うじつな)が初代早雲(そううん)の遺言によって1521年(大永元)に建立した臨済宗大徳寺派の名刹です。箱根湯本の町は、もともと早雲寺の門前町として始まったと言われています。1590年(天正18)の豊臣秀吉の小田原攻めで一度消失。1627年(寛永4)僧侶・菊径により再興されました。山門の左側の鐘楼に大きな古い梵鐘があり、これは豊臣秀吉が北條氏を攻めて小田原に押し寄せたとき、石垣山の一夜城に使われたといわれています。

  • 境内には梅、椿、桜などが植えられ、冬から春にかけて次々に花を付け目を楽しませてくれます。<br />【早雲寺本堂】<br />旧街道より苔生した山門を潜ると、臨済宗大徳寺派、金湯山早雲寺である。<br />北条早雲の菩提寺として、早雲の遺言に従い、その子氏綱が1521年に建立した。天文11年(1542年)には、後奈良天皇綸旨(りんじ)によって勅願寺(ちょくがんじ)になったため、関東屈指の禅刹(ぜんさつ)となった。<br />北条氏5代の墓や重要文化財に指定されている北条早雲画像、織物脹文台、硯函がある。<br /><br />*「早雲寺は二代当主北条氏綱が伊勢新九郎長氏(法号、初代当主北条早雲)の遺言で、大永元年(1521)に建立したという。関東における臨済宗の中本山として一時は鎌倉の円覚寺や建長寺、あるいは本山の大徳寺をしのぐ関東随一の禅刹として発展した。後奈良天皇諭旨によって勅願寺となった。しかし天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めによる後北条氏の滅亡とともに衰退した。」<br /><br />【本堂(方丈)】 箱根町指定重要文化財<br />本尊    釈迦三尊(釈迦如来坐像、文殊・普賢菩薩)<br />開山    以天宗清(大徳寺83世)<br />開基    北條氏綱<br />中興開山 菊径宗存(早雲寺27世 大徳寺165世)<br />創建    大永元年(1521)<br />再建    寛永四年(1627)<br /><br />※現本堂は寛政年間(1790年代)の建立。平成15年6月近世寺社建築の遺構として初めて町指定文化財に指定されました。元は茅葺き寄棟造。

    境内には梅、椿、桜などが植えられ、冬から春にかけて次々に花を付け目を楽しませてくれます。
    【早雲寺本堂】
    旧街道より苔生した山門を潜ると、臨済宗大徳寺派、金湯山早雲寺である。
    北条早雲の菩提寺として、早雲の遺言に従い、その子氏綱が1521年に建立した。天文11年(1542年)には、後奈良天皇綸旨(りんじ)によって勅願寺(ちょくがんじ)になったため、関東屈指の禅刹(ぜんさつ)となった。
    北条氏5代の墓や重要文化財に指定されている北条早雲画像、織物脹文台、硯函がある。

    *「早雲寺は二代当主北条氏綱が伊勢新九郎長氏(法号、初代当主北条早雲)の遺言で、大永元年(1521)に建立したという。関東における臨済宗の中本山として一時は鎌倉の円覚寺や建長寺、あるいは本山の大徳寺をしのぐ関東随一の禅刹として発展した。後奈良天皇諭旨によって勅願寺となった。しかし天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めによる後北条氏の滅亡とともに衰退した。」

    【本堂(方丈)】 箱根町指定重要文化財
    本尊    釈迦三尊(釈迦如来坐像、文殊・普賢菩薩)
    開山    以天宗清(大徳寺83世)
    開基    北條氏綱
    中興開山 菊径宗存(早雲寺27世 大徳寺165世)
    創建    大永元年(1521)
    再建    寛永四年(1627)

    ※現本堂は寛政年間(1790年代)の建立。平成15年6月近世寺社建築の遺構として初めて町指定文化財に指定されました。元は茅葺き寄棟造。

  • 【早雲寺、枯山水の庭】<br />本堂と鐘楼が、禅寺ではの落ち着いた佇まいを見せる。<br /><br />現在、早雲寺には、戦国時代を代表する文化人として名高かった北条長綱(幻庵:早雲の三男)の作といわれる枯山水庭園が残るほか、北条五代の墓、「北条早雲像」(国指定重要文化財)などの文化財が保存されています。また、裏手には常緑広葉樹林(神奈川県天然記念物)が自然林の形で残っており、初夏には箱根町指定天然記念物ヒメハルゼミ(神奈川県下ではここ早雲寺林にしか生息しない)の大合唱を聞くことができます。それに合わせたイベントも企画されています。(箱根町観光協会)<br /><br />早雲寺は、1521年(大永元年)、北条早雲(伊勢盛時)の遺言により二代氏綱が<br />創建した臨済宗大徳寺派の寺院。本尊は釈迦三尊仏(室町時代)。<br />小田原北条氏の菩提寺として栄え、1542年(天文11年)には後奈良天皇の勅願寺となったが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、秀吉軍の本陣が置かれ、石垣山の一夜城が完成すると焼き払われた。<br />その後、1627年(寛永4年)、十七世菊径宗存によって再建されている

    【早雲寺、枯山水の庭】
    本堂と鐘楼が、禅寺ではの落ち着いた佇まいを見せる。

    現在、早雲寺には、戦国時代を代表する文化人として名高かった北条長綱(幻庵:早雲の三男)の作といわれる枯山水庭園が残るほか、北条五代の墓、「北条早雲像」(国指定重要文化財)などの文化財が保存されています。また、裏手には常緑広葉樹林(神奈川県天然記念物)が自然林の形で残っており、初夏には箱根町指定天然記念物ヒメハルゼミ(神奈川県下ではここ早雲寺林にしか生息しない)の大合唱を聞くことができます。それに合わせたイベントも企画されています。(箱根町観光協会)

    早雲寺は、1521年(大永元年)、北条早雲(伊勢盛時)の遺言により二代氏綱が
    創建した臨済宗大徳寺派の寺院。本尊は釈迦三尊仏(室町時代)。
    小田原北条氏の菩提寺として栄え、1542年(天文11年)には後奈良天皇の勅願寺となったが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、秀吉軍の本陣が置かれ、石垣山の一夜城が完成すると焼き払われた。
    その後、1627年(寛永4年)、十七世菊径宗存によって再建されている

  • 早雲寺の庭。苔の緑がとても綺麗です。

    早雲寺の庭。苔の緑がとても綺麗です。

  • 俳聖松尾芭蕉が敬慕した連歌師・飯尾宗祇の句碑。<br />  「世に帰(ふ)るも 更にしぐれの やどり可奈」 <br />意味・・時雨降る一夜の雨宿りをするのは侘しい限りであるが、更に言えばこの人生<br />そのものが時雨の過ぎるのを待つ雨宿りのようではないか

    俳聖松尾芭蕉が敬慕した連歌師・飯尾宗祇の句碑。
      「世に帰(ふ)るも 更にしぐれの やどり可奈」
    意味・・時雨降る一夜の雨宿りをするのは侘しい限りであるが、更に言えばこの人生
    そのものが時雨の過ぎるのを待つ雨宿りのようではないか

  • 後北条5代の墓。右から、【早雲】<br />天正18年(1590年)、秀吉の小田原討伐の時、早雲寺が本営となった。そして、後北条氏の滅亡と共に衰退した。本堂左横の石段を登ったところに北条五代の墓碑がある。これは、後になって河内国狭山藩主北条氏治(うじはる)によって、寛文12年(1672年)に建立された供養塔である。<br />北条早雲(1432~1519)の墓(供養塔)。<br />「早雲寺殿天岳宗瑞公大居氏俗名伊勢新九郎長氏」と刻まれていた。<br />早雲の供養塔には北条ではなく「伊勢新九郎長氏」の文字が刻まれていた。<br />北条早雲は備前生まれ、戦国時代初期を代表する武将。<br />京都から駿河今川家に身を寄せ伊豆・相模を攻略、戦国時代の幕を開いた。<br />伊豆韮山で没。享年八十八歳。 <br /><br />〔史跡北條五代の墓〕<br /> 天正十八年(1590)4月5日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え早雲寺に入り本陣とした。六月下旬一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院は尽く灰燼に帰したのである。<br /> 七月五日北條氏が降伏し、同十一日氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放され、翌天正十九年十一月四日逝去した。なお北條一門では、伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大阪河内内狭山に約一万石を許され(狭山北条氏)、鎌倉玉縄城主北條氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられて(玉縄北條氏)、その家系は江戸時代を通じて存続している。<br /> 早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山十七世菊径宗存によって着手されるが、その復興に北條両家の外講は欠かせないものであった。<br /> こうして、北條五代の墓は寛文十二年(1672)八月十五日狭山北條家五代当主氏冶によって、早雲公(伊勢新九朗長氏)の命日に竣工したのである。小田原北条氏滅亡から82年後のことであった。<br /><br />北條早雲 (1432~1519)<br /> 俗名、伊勢新九郎長氏。備前生、戦国時代初期を代表する武将。京都から駿河今川家に身を寄せ伊豆・相模を攻略、戦国時代の幕を開いた。伊豆韮山で没。享年八十八歳。<br />北條氏綱(1486~1541)<br /> 父早雲の遺志を継ぎ武蔵・下総へ進出、小田原北條氏の領国を拡大した。享年五十六歳。<br />北條氏康(1515~1571)<br /> 扇谷上杉を滅ぼし関東の覇権を握る。領国経営にすぐれた手腕を発揮した。享年五十七歳。<br />北條氏政(1538~1590)<br /> 夫人は信玄の娘黄梅院。信玄の西上を後援、その没後は信長と連携して武田勝頼討伐に加担。やがて秀吉に敗れ切腹。享年五十三歳。<br />北條氏直(1562~1591)<br /> 夫人は家康の娘督姫。下野宇都宮氏を降し後北條氏最大の領国を形成。上野真田昌幸の名胡桃城を奪取して秀吉と対立して破れる。家康の助命で高野山に流される。享年三十歳。<br /><br /> 

    後北条5代の墓。右から、【早雲】
    天正18年(1590年)、秀吉の小田原討伐の時、早雲寺が本営となった。そして、後北条氏の滅亡と共に衰退した。本堂左横の石段を登ったところに北条五代の墓碑がある。これは、後になって河内国狭山藩主北条氏治(うじはる)によって、寛文12年(1672年)に建立された供養塔である。
    北条早雲(1432~1519)の墓(供養塔)。
    「早雲寺殿天岳宗瑞公大居氏俗名伊勢新九郎長氏」と刻まれていた。
    早雲の供養塔には北条ではなく「伊勢新九郎長氏」の文字が刻まれていた。
    北条早雲は備前生まれ、戦国時代初期を代表する武将。
    京都から駿河今川家に身を寄せ伊豆・相模を攻略、戦国時代の幕を開いた。
    伊豆韮山で没。享年八十八歳。

    〔史跡北條五代の墓〕
     天正十八年(1590)4月5日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え早雲寺に入り本陣とした。六月下旬一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院は尽く灰燼に帰したのである。
     七月五日北條氏が降伏し、同十一日氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放され、翌天正十九年十一月四日逝去した。なお北條一門では、伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大阪河内内狭山に約一万石を許され(狭山北条氏)、鎌倉玉縄城主北條氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられて(玉縄北條氏)、その家系は江戸時代を通じて存続している。
     早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山十七世菊径宗存によって着手されるが、その復興に北條両家の外講は欠かせないものであった。
     こうして、北條五代の墓は寛文十二年(1672)八月十五日狭山北條家五代当主氏冶によって、早雲公(伊勢新九朗長氏)の命日に竣工したのである。小田原北条氏滅亡から82年後のことであった。

    北條早雲 (1432~1519)
     俗名、伊勢新九郎長氏。備前生、戦国時代初期を代表する武将。京都から駿河今川家に身を寄せ伊豆・相模を攻略、戦国時代の幕を開いた。伊豆韮山で没。享年八十八歳。
    北條氏綱(1486~1541)
     父早雲の遺志を継ぎ武蔵・下総へ進出、小田原北條氏の領国を拡大した。享年五十六歳。
    北條氏康(1515~1571)
     扇谷上杉を滅ぼし関東の覇権を握る。領国経営にすぐれた手腕を発揮した。享年五十七歳。
    北條氏政(1538~1590)
     夫人は信玄の娘黄梅院。信玄の西上を後援、その没後は信長と連携して武田勝頼討伐に加担。やがて秀吉に敗れ切腹。享年五十三歳。
    北條氏直(1562~1591)
     夫人は家康の娘督姫。下野宇都宮氏を降し後北條氏最大の領国を形成。上野真田昌幸の名胡桃城を奪取して秀吉と対立して破れる。家康の助命で高野山に流される。享年三十歳。

     

  •  北条五代とは、後北条氏、早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の5名。<br />*1590年(天正18年)7月5日、豊臣秀吉の小田原攻めによって小田原城は開場<br />*四代当主氏政とその弟の氏照は切腹、当時小田原城主だった五代当主氏直は徳川家康の娘婿であったため助命され高野山へ追放された。<br />*翌1591年(天正19年)、氏直は秀吉より一万石が与えられ大名として復活する動きもあったが、同年11月4日に死亡。<br />*そのため、小田原北条氏は北条氏規(北条氏康の五男)が継承し、その子氏盛は狭山藩主となり狭山藩北条氏として明治維新まで存続した。<br />*早雲寺の北条五代の墓は、1672年(寛文12年)、狭山藩北条家五代当主の氏治が北条早雲の命日である8月15日に建立したもの。<br /><br />*「北条早雲(初代)は、戦国時代初期を代表する武将。京都から駿河今川家に身を寄せ伊豆・相模を攻略、戦国時代の幕を開いた。伊豆韮山で没。<br /> 北条氏綱(二代)は、父早雲の遺志を継ぎ武蔵・下総へ進出、小田原北条氏の領国を拡大した。<br /> 北条氏康(三代)は、扇谷上杉を滅ぼし関東の覇権を握る。領国経営にすぐれた手腕を発揮した。<br /> 北条氏政(四代)は、武田信玄の西上を後援、その没後は織田信長と連携して二十代当主武田勝頼討伐に加担。やがて豊臣秀吉に敗れ切腹した。<br /> 北条氏直(五代)は、下野宇都宮氏を降し後北条氏最大の領国を形成。上野真田昌幸の名胡桃城を奪取して秀吉と対立し敗れる。家康の助命で高野山に流された。」と説明されている。<br /><br />

     北条五代とは、後北条氏、早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の5名。
    *1590年(天正18年)7月5日、豊臣秀吉の小田原攻めによって小田原城は開場
    *四代当主氏政とその弟の氏照は切腹、当時小田原城主だった五代当主氏直は徳川家康の娘婿であったため助命され高野山へ追放された。
    *翌1591年(天正19年)、氏直は秀吉より一万石が与えられ大名として復活する動きもあったが、同年11月4日に死亡。
    *そのため、小田原北条氏は北条氏規(北条氏康の五男)が継承し、その子氏盛は狭山藩主となり狭山藩北条氏として明治維新まで存続した。
    *早雲寺の北条五代の墓は、1672年(寛文12年)、狭山藩北条家五代当主の氏治が北条早雲の命日である8月15日に建立したもの。

    *「北条早雲(初代)は、戦国時代初期を代表する武将。京都から駿河今川家に身を寄せ伊豆・相模を攻略、戦国時代の幕を開いた。伊豆韮山で没。
     北条氏綱(二代)は、父早雲の遺志を継ぎ武蔵・下総へ進出、小田原北条氏の領国を拡大した。
     北条氏康(三代)は、扇谷上杉を滅ぼし関東の覇権を握る。領国経営にすぐれた手腕を発揮した。
     北条氏政(四代)は、武田信玄の西上を後援、その没後は織田信長と連携して二十代当主武田勝頼討伐に加担。やがて豊臣秀吉に敗れ切腹した。
     北条氏直(五代)は、下野宇都宮氏を降し後北条氏最大の領国を形成。上野真田昌幸の名胡桃城を奪取して秀吉と対立し敗れる。家康の助命で高野山に流された。」と説明されている。

  • 北条五代の説明<br />【史跡北條五代の墓】<br />天正十八年(1590)四月五日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え早雲寺に入り本陣とした。六月下旬一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院は尽く灰燼に帰したのである。七月五日北條氏が降伏し、同十一日氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放され、翌天正十九年十一月四日逝去した。なお北條一門では、伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大阪河内内狭山に約一万石を許され(狭山北条氏)、鎌倉玉縄城主北條氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられて(玉縄北條氏)、その家系は江戸時代を通じて存続している。早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山十七世菊径宗存によって着手されるが、その復興に北條両家の外講は欠かせないものであった。こうして、北條五代の墓は寛文十二年(1672)八月十五日狭山北條家五代当主氏冶によって、早雲公(伊勢新九朗長氏)の命日に竣工したのである。小田原北条氏滅亡から82年後のことであった。<br />〇北條早雲 (1432~1519) 俗名、伊勢新九郎長氏。備前生、戦国時代初期を代表する武将。京都から駿河今川家に身を寄せ伊豆・相模を攻略、戦国時代の幕を開いた。伊豆韮山で没。享年88歳。<br />〇北條氏綱(1486~1541) 父早雲の遺志を継ぎ武蔵・下総へ進出、小田原北條氏の領国を拡大した。 享年56歳。<br />〇北條氏康(1515~1571) 扇谷上杉を滅ぼし関東の覇権を握る。領国経営にすぐれた手腕を発揮した。享年57歳。<br />〇北條氏政(1538~1590) 夫人は信玄の娘黄梅院。信玄の西上を後援、その没後は信長と連携して武田勝頼討伐に加担。やがて秀吉に敗れ切腹。享年53歳。<br />〇北條氏直(1562~1591) 夫人は家康の娘督姫。下野宇都宮氏を降し後北條氏最大の領国を形成。上野真田昌幸の名胡桃城を奪取して秀吉と対立して破れる。家康の助命で高野山に流される。享年三十歳。(説明版)<br />

    北条五代の説明
    【史跡北條五代の墓】
    天正十八年(1590)四月五日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え早雲寺に入り本陣とした。六月下旬一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院は尽く灰燼に帰したのである。七月五日北條氏が降伏し、同十一日氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放され、翌天正十九年十一月四日逝去した。なお北條一門では、伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大阪河内内狭山に約一万石を許され(狭山北条氏)、鎌倉玉縄城主北條氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられて(玉縄北條氏)、その家系は江戸時代を通じて存続している。早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山十七世菊径宗存によって着手されるが、その復興に北條両家の外講は欠かせないものであった。こうして、北條五代の墓は寛文十二年(1672)八月十五日狭山北條家五代当主氏冶によって、早雲公(伊勢新九朗長氏)の命日に竣工したのである。小田原北条氏滅亡から82年後のことであった。
    〇北條早雲 (1432~1519) 俗名、伊勢新九郎長氏。備前生、戦国時代初期を代表する武将。京都から駿河今川家に身を寄せ伊豆・相模を攻略、戦国時代の幕を開いた。伊豆韮山で没。享年88歳。
    〇北條氏綱(1486~1541) 父早雲の遺志を継ぎ武蔵・下総へ進出、小田原北條氏の領国を拡大した。 享年56歳。
    〇北條氏康(1515~1571) 扇谷上杉を滅ぼし関東の覇権を握る。領国経営にすぐれた手腕を発揮した。享年57歳。
    〇北條氏政(1538~1590) 夫人は信玄の娘黄梅院。信玄の西上を後援、その没後は信長と連携して武田勝頼討伐に加担。やがて秀吉に敗れ切腹。享年53歳。
    〇北條氏直(1562~1591) 夫人は家康の娘督姫。下野宇都宮氏を降し後北條氏最大の領国を形成。上野真田昌幸の名胡桃城を奪取して秀吉と対立して破れる。家康の助命で高野山に流される。享年三十歳。(説明版)

  • 箱根湯本大橋と箱根湯本駅に停車中の小田急ロマンスカー。<br />早川沿いのこの大橋の袂でおにぎりランチを食べた。涼しい川風と大橋の木陰で、ビールと合わせて美味しくいただいた。

    箱根湯本大橋と箱根湯本駅に停車中の小田急ロマンスカー。
    早川沿いのこの大橋の袂でおにぎりランチを食べた。涼しい川風と大橋の木陰で、ビールと合わせて美味しくいただいた。

  • 早川沿いに建つ、箱根湯本駅。箱根駅伝で目にします。

    早川沿いに建つ、箱根湯本駅。箱根駅伝で目にします。

  • 箱根湯本駅に直結の”あじさい橋” 。橋の正面が湯本駅の入り口です。

    箱根湯本駅に直結の”あじさい橋” 。橋の正面が湯本駅の入り口です。

  • 箱根湯本温泉街を走る人力車。見習い研修生が、師匠を乗せて走るらしい。そう言えば、研修生いくぶん緊張の面持ち。がんばれよ!!

    箱根湯本温泉街を走る人力車。見習い研修生が、師匠を乗せて走るらしい。そう言えば、研修生いくぶん緊張の面持ち。がんばれよ!!

  • 箱根湯本駅前付近の早川

    箱根湯本駅前付近の早川

  • 箱根湯本駅改札に通じる高架橋より。<br />この下の箱根道は、正月の箱根駅伝が通過する駅前通りです。ほんまに、この風景で駅伝選手を観れると良いのだが。実は、当日、この場所には広い幕が張られて、視界ゼロになります。残念!<br />

    箱根湯本駅改札に通じる高架橋より。
    この下の箱根道は、正月の箱根駅伝が通過する駅前通りです。ほんまに、この風景で駅伝選手を観れると良いのだが。実は、当日、この場所には広い幕が張られて、視界ゼロになります。残念!

  • 箱根湯本駅ホーム。これで新宿まで行けますよ。さ、帰りましょ。

    箱根湯本駅ホーム。これで新宿まで行けますよ。さ、帰りましょ。

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