2016/10/07 - 2016/10/07
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ベームさん
先日谷中墓地に著名人の墓の苔を払ってから、都内にある文士、学者など文化人の痕跡、お墓など、あわせて史跡などを訪ねて回りたいという気持ちがむくむくと頭をもたげてきました。もともとこういうことは好きで若い頃仕事の合間にかなり断片的に見て歩きましたが、改めて街歩きとして老人の目で見ようと思います。
現役時代は通勤定期という有難いものが有りましたが、今はそうはいきません。横浜からですと交通費、昼食、ビール(これは余分なことですが)、ちょっと一休みをすると5千円は掛かってしまいます。何よりも往復の東海道線が辛いです。
腰痛持ちの私には度々は難しいので体と相談しながらポツリポツリやって行こうと思います。
手始めは上野から谷根千(谷中、根津、千駄木)にしました。ここから本郷台にかけては江戸、明治から大正にかけて多くの文人が集まり、その作品の舞台にたびたび登場するところです。
1日で全て周ってしまうつもりで出かけましたがとてもとても無理、おまけに谷中の途中で足が引き攣りを起こしてしまいました。それで根津と千駄木は改めて出直すことになりました。
なおこれを作成するにあたって森まゆみ氏、井上謙氏の著作を参考にさせて頂きました。
写真、上野と言えば西郷さん。
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- 一人旅
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- JRローカル
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上野、谷中の地図。
上野公園を抜けて池之端から谷中へ。 -
横浜から上野まで東京・上野ラインという便利な列車が出来たので乗り換えなしです。スタートはJR上野駅。出たのは不忍口。横浜で列車の先頭に乗ってしまったので上野駅の構内を不忍口まで結構歩きました。
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目の前に上野公園に登る石段があります。隣は京成上野駅。
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石段の袂に川柳の原点、誹風柳多留(はいふうやなぎだる)発祥の地のモニュメントがあります。
彫られている句は「羽のあるいいわけほどはあひるとぶ」。あひるも羽を持っているからには少しは飛ばないといけません。 -
川柳は江戸中期に俳諧から派生した5・7・5の句で、誹風柳多留とは最初の句集の名だそうです。その発行元がこの辺りにありました。
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江戸時代、東叡山寛永寺の社地だったが維新時上野戦争で建物の大部分が焼失。その後帝室御料地となり、大正13年東京市に下賜される。それで恩賜公園と名付けられた。通称上野公園。
国立西洋博物館、東京国立博物館、東京文化会館、上野動物園などの文化施設がある。 -
石段を登ると右手に西郷さんの銅像。
西郷隆盛:1828~1877/明治10年。
明治維新時幕府側の勝海舟と協力、江戸城無血開城を果たし維新政府の中心となるも対朝鮮政策で岩倉具視、大久保利通らと対立、下野した。明治10年、不平士族・学生らに担がれ西南戦争を起こし敗北、鹿児島の城山で自刃。
明治政府の重鎮で海軍大臣、内務大臣を歴任した元老西郷従道は隆盛の弟であるが兄の側に付かなかった。後に首相に推す声もあったが逆賊の弟であることを理由に固辞した。 -
西南の役で逆徒となったが明治22年の大日本帝国憲法発布時に大赦となり、逆に西郷隆盛の評価が高まりその功績を顕彰するため銅像建設となったそうです。
本来なら西郷の履歴から軍服ないし正装姿が相応しいのでしょうが、一度は逆徒だったことをおもんばかりこの姿になったそうです。 -
作は高村光雲、明治31年除幕。
像の身長は370センチという。除幕の時西郷の未亡人は「うちの主人はこんなひとではなかった」と薩摩弁で言ったそうですが、この像が実物に似ていないということか、主人はこんな格好で出歩かなかったという意味か。
光雲が造ったのは西郷だけで、犬は別の彫刻家の作だそうです。 -
参考までに。2像ともウィキより。
鹿児島市、市立美術館近くに建つ西郷像。陸軍大将の正装姿。
郷土の彫刻家安藤照の作、昭和12年。 -
霧島市西郷公園の現代を見つめる西郷隆盛像。
昭和51年、古賀忠雄作。10.5mあるそうです。 -
西郷像の後ろに彰義隊の墓がありました。
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1868年、鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は大阪城から江戸に逃げ帰り上野寛永寺に蟄居する。慶喜警護のため薩長側に不満を持つ幕臣、不平分子を中心に結成された彰義隊は同年4月の江戸城無血開城、慶喜の水戸退去後も上野の山に立てこもり官軍と対立を続ける。
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1868/慶応4年5月、ついに新政府は大村益次郎を総大将に上野の山を総攻撃、彰義隊はあっけなく敗れさった。上野戦争という。
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彰義隊生き残りの隊士たちにより、戦死した隊士が火葬されたこの場所に建立された。明治7年。
彰義隊士の多くは旧幕臣、会津藩、高田藩、桑名藩、高崎藩、水戸藩など徳川親藩の武士だった。 -
墓石の「戦死の墓」は山岡鉄舟の字。賊軍である彰義隊の名は無い。
彰義隊は183人の戦死者をだしたが、死体は見せしめのため三日三晩そのまま放置された後この場所で荼毘に付されました。
山岡鉄舟は江戸城無血開城に関与した旧幕臣で、彰義隊に心情的には同情していたかもしれません。 -
さらに奥に進みます。
清水観音堂。 -
寛永8年、1631年、寛永寺の天海僧正が京都の清水寺を模して創建。平成2年解体修復。公園内最古のお堂です。
本尊は恵心僧都の作になる千手観音坐像。 -
看板には清水堂、不忍池、月の松が描かれています。
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清水観音堂。
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脇本尊は子育観音で子宝に恵まれない人たちから崇拝されていて、願いがかなうと身代りに人形を奉納する。その人形は年に一度供養されます。
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人形供養碑。
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建物は上野戦争の戦火にも生き残りました。
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国指定重要文化財。
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舞台。京都の本家よりは随分小さい。
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舞台から月の松を通して弁天堂が見えます。
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目の下は不忍池の弁天堂。
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舞台の前の「月の松」。
江戸時代の植木職人が松の枝を丸く仕立てて月に見立てたものです。明治初期に台風により消失しましたが平成24年、現代の職人の手で復活しました。 -
歌川広重が名所江戸百景に描いています。
「上野清水堂不忍ノ池」。
舞台の上から不忍池の景色を眺める人々。 -
同「上野山内月の松」。
不忍池と右下に弁天島。対岸には池之端の町屋、高台には本郷台の大名屋敷を月の松を眼鏡代わりに描いています。
江戸時代不忍池は蓮見、花見、納涼、月見、雪見の場所として江戸市民の遊覧の地でした。 -
下から見上げた舞台。
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舞台と月の松。
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弁天堂の方に降りていきました。
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弁天島。
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正式名称。
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弁天島の弁天堂。
1625年、東叡山寛永寺を開いた天海僧正が不忍池を琵琶湖に見たてて、竹生島を模した弁天島を造らせ弁天堂を建てたものです。
今は地続きですが当初は完全な島で船で渡ったそうです。 -
今の堂宇は昭和33年のもの。
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朱の色が鮮やかです。
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弁天様には琵琶が欠かせません。
明治19年、青銅製で琴筝の組合が奉納した物らしい。碑文は山岡鉄舟の選。 -
大昔東京湾は本郷台と上野台の間をずっと根津の辺りまで入り込んでいて、それが引いた後に残ったのが不忍池だそうです。そして今は暗渠になっている藍染川が谷中の方から流れ込んでいました。
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蓮池の向うはオフィスビルが立ち並んでいます。
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ボート池。
古地図を見ると、江戸の始めのころは今の3倍ほどの広さだったらしい。
明治の中頃までは池の周りに堤防を築き、競馬や競輪が行われていたそうです。記録にも、明治31年「内外連合自転車競技運動会」というのが開かれています。 -
弁天堂の周りには色んな塚が建っています。
鳥塚。東京都内の食鳥肉販売業者の建立。 -
包丁塚。
これは調理師か割烹業者の組合でしょう。 -
魚塚。
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スッポン感謝の塔。
スッポン料理を生業とする業者団体?。碑文の周りはスッポンの形に彫られています。 -
扇塚。
初代花柳寿美(すみ)愛用の扇が埋められています。
日本舞踏家。新橋の芸妓から舞踏家に転身、日本舞踏の新時代を築いた。明治31~昭和22年。
碑文は佐藤春夫の歌並びに書。 -
ふぐ供養塔。
スッポン感謝の塔と同じ趣意でしょう。儲けさせていただいて感謝します。食べられた後で供養されてもしょうがない。 -
めがねの碑。
眼鏡の小売、卸業者、レンズ・フレームなどの製造業者の奉納。
弁天堂に奉納したのは天海僧正が慈眼大師だからです。
真ん中の眼鏡は徳川家康愛用の眼鏡の形だそうです。 -
弁天島の隅に豊大公護持大黒天堂があります。
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聖天島の大聖歓喜天。
聖天島は最初からあった島で、弁天島のように人工の島ではありません。 -
今日は入れません。
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弁天堂をあとにして五条天神社。
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五条天神社。
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五条天神社。
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医薬祖神とあり無病息災にご利益があるようです。
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西暦110年頃、日本武尊創建というおっそろしく古い神社です。
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五条天神社の境内にある花園稲荷神社。
上野戦争の時最後の激戦地となった所で、穴稲荷の戦いといわれます。 -
お稲荷さんですね。
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外人が興味深そうに歩いていました。
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花園稲荷神社。
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その横にある懐石料理の韻松亭。明治8年創業と言う。
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上野精養軒入口。
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入口の横の小高い所に鐘楼があります。
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「花の雲 鐘は上野か浅草か」と芭蕉が詠った鐘、「時の鐘」です。
「時の鐘」は江戸市内に何か所かあり市民に定時に時を知らせていました。今でも朝夕6時と正午に鳴らされるそうです。
「時の鐘」の聞こえる範囲内で時計のない家は聞き料を払っていた。正岡子規の句に
「行く秋の 鐘つき料を 取りに来る」というのがあります。根岸に住んでいた子規が聞いたのは上野の時の鐘だったでしょう。
上野寛永寺にも鐘はありますが「時の鐘」とは違います。 -
時の鐘 BELLS OF TIME
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当初の鐘は1666年鋳造され、今のは1787年のものです。芭蕉が聞いた鐘の音は当初のものです。
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上野精養軒。
明治9年開業の西洋料理の老舗。政財界人、文人、知識人に愛用された。小説にもよく登場しています。漱石の「三四郎」、「行人」には実名で、「吾輩は猫である」には名前は出ないが迷亭が西洋料理屋でボーイを困らせる場面がある。
「月並みは食べ飽きた。トチメンボーを二人前もってこい」。ボーイが「トチメンボーはありませんがメンチボーならございます」と答えると迷亭はさらに「メンチボーではない、トチメンボーだ」と追及する。ボーイは「トチメンボーは今日は売り切れました」と逃げる。
森鴎外の「青年」にも登場するが、こちらの描写は諧謔味がない。 -
大仏パゴダ。擂鉢山に建っています。
森鴎外も精養軒には行ったようで、鴎外を知らないボーイが鴎外を田舎者と見て、料理の英語名を言ってどうせ分からないだろうと馬鹿にする風をする。すると直ちに鴎外は完全な英語でもってボーイを叱りつけた。
鴎外の娘森茉莉が鴎外に連れられて精養軒で見たことです。森茉莉は随筆「父の帽子」で精養軒のことを「お上品な食料の館」と皮肉っています。明治時代、西洋料理がまだはしりのころにはこういった嫌味な高級レストランがあったのでしょう。 -
元々この地に大仏、釈迦如来像が建っていたが大正12年の関東大震災で頭部が崩落。胴体は先の大戦時供出され頭だけが残った。
大仏パゴタは上野の観光名所にするため昭和42年建設。薬師如来、日光・月光菩薩が祀られている。 -
上野大仏のお顔。
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さらに奥に進むと大きな灯篭が建っていました。その大きさからお化け灯篭と言われています。
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信長、秀吉、家康に仕えた信濃の武将佐久間氏が東照宮に寄進した物。1631年。
高さ6.1m、笠石の周り3.6m。京都白川から切り出した大石を刻んだ。
京都南禅寺と熱田神宮の灯篭と共に日本3大灯篭といわれています。 -
上野東照宮にやって来ました。
神門。 -
大石鳥居。1633年、重要文化財。
酒井雅楽頭の奉献。 -
家康をお祀りする東照宮は日光、久能山ほか各地にあり、区別するため上野東照宮と呼ばれます。
1627年、津藩主藤堂高虎と天海僧正により創建。現在の社殿は1651年3代将軍家光により造営。
天海僧正という名がよく出てきます。徳川家康の側近として、また秀忠、家光にも仕えて幕閣のなかで絶大な権勢を誇った坊主です。慈眼大師。本能寺の変を起こした明智光秀のその後だという説もあります。 -
ぼたん、桜の名所です。
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参道の両側の石灯篭。全国の諸大名の寄進。
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青銅灯篭。
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参道の両側に全部で50基並んでいます。国重要文化財。
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徳川御三家はじめ全国諸大名の奉納。
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銅灯篭。
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祭神は徳川家康、吉宗、慶喜。
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拝殿です。
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社殿は江戸時代初期の権現造り。
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震災、戦火にも遭っていません。
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唐門。
扉の左右には左甚五郎の龍の彫り物。 -
唐門。
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1651年築。重要文化財。
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色鮮やかな彫り物。
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扉の右側に左甚五郎の降り竜。左側には昇り竜が彫られています。
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参道の右手に旧寛永寺五重塔が建っています。国指定重要有形民俗文化財。
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動物園の柵があり近づけません。
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塔は上野動物園の中にあるので足元に行くには動物園に入らないといけません。入園料を払ってまで側に行くこともないので止めました。
柵から覗くと塔の周りには人はいません。子供連れで動物園に行く人たちにとって五重塔なんて関心が無いのでしょうね。 -
1631年建立。1639年焼失、再建。
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美しい姿です。高さ36m。
昭和33年寛永寺より東京都に寄進され、今は都の所有物件のため、旧寛永寺といわれます。 -
懐かしい上野動物園。
1882/明治15年開園、日本最初の動物園。
写真右下の母子連れ、早く早く、はやる気持ちがわかります。 -
動物園の下の動物園通りを谷中の方に向かう途中水月ホテル鴎外荘があります。
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ホテルのエントランスを通り抜けると森鴎外の旧居があります。自由に入れます。
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新婚の森鴎外が明治22年から明治23年にかけ住んだところ。
当時上野花園町11番地。 -
突き当りホテルのエントランス。
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ドイツ留学から帰った陸軍軍医森鴎外は明治22年3月男爵海軍中将赤松則良の娘登志子と結婚、赤松家の別荘であるこの家に住んだ。鴎外27歳、登志子17歳。翌年長男於菟(おと)生まれる。
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ここに住んでいる間に「於母影/おもかげ」、「舞姫」、「うたかたの記」を発表、文芸評論誌「しがらみ草紙」を創刊するなど軍医である一方文学者として華々しいスタートを切った。
落合直文、幸田露伴、内田魯庵、斉藤緑雨などの文士たちがこの家の2階の一室に集まり夜遅くまで毎日のように文学論を戦わしていたという。 -
一方実家から妹二人、老女、女中二人を連れてきた登志子は夫の集まりに加わることもなく、1階で華族のしきたりを守った日常を送っていた。女中たちは聞こえてくる動物園の猛獣の吠え声を怖がったらしい。
登志子が妹二人連れてきたのに対し鴎外も弟潤三郎を連れてきています。複雑ですね。お目付け役みたいです。 -
翌明治23年9月、突然鴎外は息子於菟を親に預け一方的にこの家を出て駒込の千駄木町に移ってしまう。激怒した赤松家は登志子を引き取り離婚となった。結婚の媒酌をした鴎外の同郷の大先輩西周も怒り、鴎外との交わりを絶った。
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鴎外が家を出た原因は分かっていない。鴎外はこのことについて語っていない。文学者の生活への無理解、華族風の生活の押し付け(老女は鴎外を殿様と呼んだ)、幼い妻の接客態度、登志子の容姿等々への不満がそうさせたとも言われる。さらに、赤松家の養子的待遇。赤松家は男爵であり、登志子の母の姉が榎本武揚夫人であるという陰に陽に名家の無言の圧力を鴎外が嫌ったと思われる。
もともと結婚そのものが写真による見合い結婚で、愛を伴ったものではなかった。 -
明治33年、鴎外と離婚しその後再婚した登志子の病死が小倉の師団軍医部長をしていた森鴎外のもとに伝えられると、鴎外は日誌「小倉日記」にこう書いている。
「嗚呼是れ我が旧妻なり。於菟の母なり。赤松登志子は眉目妍好ならずといえども色白く丈高き女子なりき。和漢文を読むことを解し・・・。同棲一年の後故ありて離別す・・・。」
鴎外は登志子を嫌っていたわけではないようです。 -
明治35年、鴎外41歳の時大審院判事荒木博臣の娘しげ子(志げ、23歳)と結婚する。共に再婚同士だった。しげ子は評判の美人で鴎外は友人への手紙で「好い齢をして少々美術品らしき妻を相迎え大いに心配致し候・・・」とのろけている。
しげ子は美人で文才もある気性のきつい女性で鴎外の母峰子と折り合いが悪く、鴎外は母と妻との間で苦労することになる。 -
舞姫の間。
森家の長男、御曹司鴎外を溺愛しいつまでも自分のもとに引き付けておこうとする母峰子、それに応え孝養をつくす鴎外、それに反発するプライド高い大審院判事の娘しげ子、しげ子と鴎外の先妻の息子於莵との対立等々の中で再婚後の鴎外の日常は平穏ではなかった。にもかかわらず高級官僚としての職務を全うし、あれだけの文学上の業績を残したのだから稀有な人物だったと言えよう。 -
玄関。
母峰子はこんなこともしている。
赤松登志子との離婚のあと、鴎外が女遊びをしないようその性欲のはけ口にと、児玉せきという未亡人を鴎外にあてがったのだ。せきは人柄よくおとなしい女性だったらしい。鴎外は夜になると時々近くに住まわせたせきの所に出かけたという。
鴎外の長男、森於兎が「鴎外の隠し妻」に書いているので本当のことでしょう。 -
玄関の間。
明治の文豪といえば常に森鴎外と夏目漱石が挙げられ比較される。私は漱石フアンなのですが、文学(小説)の分野では遥かに漱石のほうが上ですが、全人的な面からは、陸軍医務官僚としての職をそつなくこなし、翻訳、美学、評論、小説、戯曲、史伝、詩歌など広い分野で一流だった鴎外のほうが守備範囲が広かったのではと思います。
また時には神経を高ぶらせ、妻、子供らに厳しく当たった漱石に比べ鴎外は家庭的には極めて妻を立て子煩悩だったそうです。漱石や鴎外の子が父のことを書いた本を読んでも、父に対する子の感情にはっきり違いがあります。 -
門。
後日記:水月ホテルは新型コロナ禍による業績悪化で閉鎖するようです。鴎外荘はどうなるのでしょう。(2020年5月) -
最初の妻登志子。
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二番目の妻しげ子。彼女も出戻りでした。
鴎外はこの美貌に惚れたのでしょう。多少の文才はあったようで、「青鞜」などにも小品を寄せています。 -
水月ホテルの先に六龍鉱泉の看板。
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昭和6年開業で地中からくみ上げている本当の鉱泉。美肌の湯らしい。
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子供のころ、入浴時に亀の子タワシならぬヘチマのたわしをよく使いました。
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ゆるく右に左に登る清水坂。
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清水坂、別名暗闇坂。昔は鬱蒼と木が覆いかぶさる暗い道だったそうです。
円地文子「妖」の一文。
「その静かな坂は裾の方で振袖の丸みのように鷹揚なカーブを見せ、右手に樹木の多い高土手を抱えたまま、緩やかな勾配で高台の方へ延び上がっていた」 -
この辺りは池之端。
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清水坂の途中にある都立上野高校。
前身は1924年設立の第2東京市立中学校というから伝統ある学校です。
ドイツ文学者高橋義孝、評論家福田恒存、数学者矢野健太郎、近くは歌手小椋佳などが卒業生です。 -
谷中地図。清水坂を上り切った所、これから谷中です。地図下の方に清水坂。
丸で囲ったところが訪問地。 -
清水坂を上りきると言問通りの善光寺坂に突き当たります。ここから先は谷中のお寺町です。
突き当たった所の一乗寺。 -
一乗寺。
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江戸中期の儒学者大田錦城(おおたきんじょう)の墓があります。
加賀大聖寺の出身。儒学で一家をなす。1765~1825年。 -
大行寺。
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大行寺。
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自性院、別名愛染寺。大行寺の先にあります。
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川口松太郎はここにある愛染明王とかつらの古木をヒントに「愛染かつら」を書いたとされています。これには信州別所温泉北向観音の愛染明王堂とかつらの木だ、という説もあるようです。
昭和13年製作の田中絹代、上原謙主演の映画「愛染かつら」はリバイバルで見ましたが、当時の田中絹代は可憐でした。 -
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愛染堂。
左にかつらの大木があります。 -
愛染堂。この中に愛染明王像が安置されています。縁結びの愛染明王として信仰されています。
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これがそのかつらの古木でしょうか。
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隣りの感應寺(かんのうじ)。
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感應寺。
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ここには森鴎外の史伝中の傑作「渋江抽斎」で有名になった渋江抽斎の墓があります。
渋江抽斎(しぶえちゅうさい)。1805~1858年。江戸後期の医師、考証家。医を伊沢蘭軒に学ぶ。
森鴎外は医師であり役人であり古今の歴史・詩文書を漁った抽斎に自分を投影し関心を持ったのでしょう。 -
抽斎墓。
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渋江抽斎墓碣銘(ぼけつめい)。
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抽斎渋江君墓碣銘。
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感應寺の先、三崎坂を右に曲がると愛玉子/オーギョーチーの店があります。後で寄ります。
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その向かいに豆大福で有名な岡埜栄泉。
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三崎坂と善光寺坂の交わるところに下町風俗資料館、旧吉田屋酒店があります。
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明治43年の建築。
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江戸時代以来の老舗吉田屋酒店の建物を復元したもの。
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資料館内部。
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同。
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その向かいのカヤバ珈琲店。
何時の頃からか観光客に人気の店です。情報誌にでも載ったのか。 -
では愛玉子にちょっと寄って一休み。
何十年かまえ、妻と食べに来たことがあります。 -
これがオーギョーチーです。
台湾原産の木の実から造られる寒天みたいなものです。寒天より少しこりっとしているかな。これに甘いシロップがかかっています。
台湾ではデザートとして食べられているそうです。 -
藤山一郎、関鑑子、小磯良平、サトウハチローなど文化人がよく訪れたという。
狭い店内は椅子、テーブルなどレトロな調度で大正ロマンを感じさせるが、店内の撮影はお断りということで商品だけ。
谷中に入ったばかりで写真が150枚になりました。一服した後は次回に回します。
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