2016/09/17 - 2016/09/17
182位(同エリア609件中)
ベームさん
連日続く曇りか雨の合間、かろうじて晴れ間の出た一日谷中墓地に著名人の墓を訪ねました。
もっとも主目的は知人に貰ったチケットで上野の東京国立博物館で開催中の「古代ギリシャ、時空を超えた旅」展を見ることです。
久しぶりに東京に出てきたのだからと、少し足を延ばして谷中霊園を訪ねました。もとから著名人の墓に興味があり、その苔を払おうと思います。
谷中墓地は青山、雑司ケ谷、染井霊園と共に東京の都立の4大霊園の一つです。もと天王寺の寺域で、明治7年(1874年)明治政府がその一部を接収し霊園としたもので約3万坪の広さと7000基ほどの墓があるそうです。
青山や雑司ケ谷ほどの広々とした明るさは無く地味な感じですが、幕末から明治にかけ真摯に近代日本の礎を築いた学者、政治家、思想家、文学者・ジャーナリストの墓が多いと思いました。
この投稿をするため故人の履歴を調べたりして良い勉強になりました。著名人と言っても人により判断するところは違うと思います。ここに載せたのは私好みの著名人です。
写真は墓地のメインストリート桜通り。元天王寺の参道で春は桜の名所です。
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横浜から上野東京ラインに乗り上野で降りました。帰りは日暮里からでした。
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上野公園を通り抜けます。相変わらずの賑わい、外国人の姿が多いです。
途中にあった野口英世博士像。 -
昭和26年3月建立。
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東京国立博物館前。
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東京国立博物館のゲート。
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東京国立博物館は本館、平成館、表慶館、東洋館、法隆寺宝物館、敷地外にある黒田記念館などから成る広大なものです。
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本館。
縄文時代から江戸時代まで日本美術の流れを常設展示し、国宝、重文も多くあります。特別展として「平安の秘仏」展をやっていました。 -
本館。
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表慶館。
明治42年/1909年開館。日本で初めての本格的な美術館だそうです。明治末期の洋風建築を代表するものとして重要文化財に指定されています。 -
表慶館。
横光利一の小説「旅愁」のなかにこの建物が出てくる。
”一見したとき、矢代はパリのモンマルトルの丘上を仰いだ瞬間に目に映ったサクレ・キュールの寺院を思ひ出した。”
横光は昭和11年パリを中心に洋行しており、その時モンマルトルに行ったのでしょう。石段の下から見上げるサクレ・クールとはだいぶ違いますが。 -
目指すは平成館。
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平成館の前にある森鴎外のパネルが建っていました。。
鴎外森林太郎は今の東京国立博物館の前身帝国博物館の総長を大正7年から11年その死まで務めています。その総長室がここにあったそうです。 -
鴎外は文人としての盛名のほかに官吏としても功成り名を遂げた人で、軍医としての最高位、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長にまで登りつめました。医学博士、文学博士にもなり、同時代の文豪夏目漱石が一高、東大教授の座をなげうち博士号を蹴飛ばして一民間人として生涯を送った生きざまとはあまりにも対照的です。
漱石の在野精神はこんな所にも表れています。
明治40年6月、時の宰相西園寺公望が当時の代表的文壇人20名ほどを自邸に招待し懇親会を催した。森鴎外、幸田露伴、広津柳浪、大町桂月、泉鏡花、国木田独歩、田山花袋、島崎藤村などで、雨声会と名付けられその後何回か続いた。
文士の中にはオレのとこには招待状が来なかったと不平を言うものもいたなか、夏目漱石は「時鳥(ほととぎす)厠(かわや)半ばに出かねたり」の句を西園寺に呈し招待を断った。政治家の息がかかっては思うような文筆活動は出来ないと思ったのか。坪内逍遥、二葉亭四迷も断っている。 -
三鷹、禅林寺の森鴎外の墓。
樋口一葉かだれかの葬儀に軍服姿で騎馬で参列を申し入れたというから、かなり権威誇示欲の強かった(と思います)鴎外ですが、その死に際し「余は石見の人森林太郎として死せんと欲す」と遺言し、墓石にはこれも遺言によりただ「森林太郎墓」と彫られているのみです。 -
平成館。
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特別展「古代ギリシャ 時空を超えた旅」。
ある大学のオープンカレッジでギリシャ神話を聴講したことがあるので興味があります。 -
展示品の幾つかをパンフレットより紹介します。すべて今回の展示のためにギリシャ各地からもたらされたものです。
漁夫のフレスコ画。
サントリーニ島出土。紀元前17世紀。 -
クーロス像。
ボイオティア、アポロン神域出土。紀元前520年頃。大理石。
アルカイック時代の男性裸体立像をクーロスと呼びます。その笑みがアルカイック・スマイルです。 -
コレー像。
アテネ、アクロポリス出土。紀元前520年頃。
アルカイック時代の女性着衣立像をコレーと呼びます。衣の襞が見事に彫られています。大理石。 -
アルテミス像。
デロス島出土。紀元前100年頃。
狩りの女神ですが勇ましさより女性の優美さが目立ちます。 -
スペドス型女性像。
大理石。クフォニシア群島出土? 紀元前2800〜2300年、初期青銅器時代。 -
アレクサンドロス頭部。
アテネ、アクロポリス出土。紀元前340〜330年。
後にアレキサンダー大王になる前の王子時代と思われます。 -
アリストテレス像。
アテネ、アクロポリス出土。1世紀後半。 -
オリンピックの原点。
左:競技者像。アッティカ地方出土。紀元前2世紀後半。競技者は騎馬競技を除き全裸で戦い、優勝者はオリーヴの冠と名誉を得ました。
右:アンフォラ。ボクシングをする競技者。アイギナ島出土。紀元前500年頃。
アンフォラとは二つの取っ手のある壺の事で、葡萄酒、オリーヴ油などの容器として使われた。 -
博物館を後にして谷中の方に歩きます。
旧因州池田屋敷表門。 -
もと丸の内大名小路にあった物で、曲折の末昭和29年ここに移築されました。
大名屋敷表門としては最も格式が高いそうです。 -
黒田記念館。東京国立博物館の施設です。
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国立国会図書館国際子ども図書館。
レンガ造りの立派な建物は明治39年帝国図書館として建てられたものです。旧制一高の貧乏学生だった菊池寛はここで勉強し、蔵書の大半を読んだという。 -
平成12年/2000年に開館された児童書専門の図書館。
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その前に小泉八雲/ラフカディオ・ハーン像。
小泉八雲はギリシャ生まれのイギリス人。1850~1904/明治37年。
1890/明治23年来日。熊本5高教授、東大講師を務め、奇しくもその後を夏目漱石が襲っている。
著作に怪談とか日本の昔噺があり、この図書館にも納められているのかも知れません。 -
上野桜木辺り。
遠くに押上のタワーが見えました。 -
寛永寺墓地の徳川綱吉霊廟の門。
中には入れません。 -
徳川綱吉霊廟勅額門。重要文化財。
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徳川13代将軍家定の正室篤姫の墓もここにあるようです。
天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ):
1835年薩摩の島津忠剛(ただたけ)の長女として生まれる。
1853年島津斉彬(なりあきら)の養女となり篤姫と改名。
1856年徳川家定に輿入れ。21歳。
1858年家定死去により仏門に入り天璋院と号す。
維新の際徳川家の存続に努力。
1883年、明治16年49歳で死去。
漱石の「吾輩は猫である」に、苦沙弥先生の家の裏に住む二絃琴のお師匠さんのことを飼い猫の三毛子が、「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先の御っかさんの甥の娘なんだって」、と言って吾輩を煙にまいた天璋院です。 -
天璋院篤姫墓所。
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非公開だそうです。拝見したいものです。
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上野の寛永寺です。
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東叡山寛永寺。天台宗関東総本山。
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根本中堂。
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寛永2年/1625年、徳川3代将軍家光のとき天海大僧正により創建。芝の増上寺と共に徳川家の菩提寺となる。
1868年戊辰戦争の時彰義隊がここに立てこもり官軍との戦いとなり寺の大部分は炎上した。今の根本中堂は明治12年の再建。 -
寛永寺の鐘。
芭蕉の句「花の雲 鐘は上野か浅草か」と詠われた鐘(時の鐘)とは違います。「時の鐘」は上野公園、不忍池の側にあります。
写真の右下、少女がお地蔵さんに手を合わせて拝んでいます。可愛いですね。 -
銅鐘。
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高さ177㎝、口径92㎝。1681年の鋳造。
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寛永寺旧本坊表門(黒門)の鬼瓦。
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旧本坊表門:寛永初年、寛永寺開山天海大僧正の建立。
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1868年/慶応4年戊辰戦争の際、江戸城無血開城に反対する一部抗戦派は彰義隊を結成し寛永寺に立てこもりました。
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官軍は指揮者大村益次郎のもと7月4日総攻撃をかけ、戦いは一日で終わり彰義隊は壊滅しました。上野戦争と呼びます。
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では谷中墓地に向かいます。
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上野桜木町から入っていくと15代将軍徳川慶喜の墓所がありました。
谷中にある徳川家墓所とは違います。 -
大政奉還で将軍を返上した慶喜は自らの意志で寛永寺の徳川家墓所には入らないと決めたそうです。
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中央左慶喜、右正室美賀子の墓。
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慶喜の墓。
墓の形は神道のもので葺石円墳というそうです。神式にしたのも慶喜の意思でした。 -
墓域には入れません。中央の饅頭が慶喜の墓。正室のほか側室などの墓もあります。
慶喜は11男10女の子沢山だったそうです。正室、側室合わせてのことでしょうが、それにしてもお盛んなことです。 -
津山藩主松平斉民(なりたみ)。
11代徳川将軍家斉の14男。1814/文化11~1891/明治24年。 -
松平斉民。
院殿大居士、さすが大名の戒名。
「文定院殿成誉寂然確堂大居士」。 -
墓地のメインストリート桜通りに出てきました。
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千駄木、谷中方面から三崎坂を上って来た入り口で何軒かの古い花屋が並んでいます。
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この花屋は明治3年の創業と言う。
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まずは付近の蕎麦屋で腹とのどを潤しました。この写真とは違います。
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谷中霊園管理事務所。
ここで霊園の地図を貰いました。 -
桜通り。
ここから著名人のお墓巡り開始です。 -
平野義太郎。1897~1980年。
マルクス主義法学者、平和運動家。
ドイツでマルクス主義を学び帰国後反戦・平和運動を推進。第2次世界大戦後は日本共産党の理論的指導者。
マルクス経済学、いわゆるマル経なんて私らの年代の若いころは一度はかぶれたものですが、今の学生はどうなんでしょう。 -
平野義太郎の碑。
「平和に生きる権利」と彫られていますが薄くて読めません。 -
高橋お伝。1850~1879年/明治12年。
経歴は次の写真を見てください。日本で斬首された最後の女囚とされています。
南千住の小塚原回向院に葬られましたが、明治14年三回忌に、お伝物を書いて大儲けした仮名垣魯文(高橋阿伝夜叉譚)が世話役になり全国から寄付を集め谷中にも墓が建てられました。
毒婦とされていますが、男に利用された哀れな女性だったという見方もありお花が絶えません。
辞世の句として「しばらくも望みなき世にあらむより 渡しやいそぐ三途の河守」と彫られています。お伝がどのくらい歌の素養があったかは分かりませんが自作かどうかちょっと疑問です。
どんな人が手向けるのか、まだ新しい花。 -
この頃、鳥追お松、夜嵐お絹など女性の猟奇犯罪があり、それらを主題にした毒婦物の小説がはやり、高橋お伝の話は芝居にもなり団十郎、菊五郎、左団次などが演じました。
建立賛同者として守田勘弥、尾上菊五郎、市川左団次など歌舞伎役者の名が並んでいます。 -
川上音二郎。1864~1911/明治44年。
新派の創始者とされる。福岡出身。川上貞奴はその妻。
これは墓ではありません。墓は郷里博多にあるそうです。
台座の上に音二郎の銅像がありましたが先の大戦中金属として拠出されてしまったそうです。 -
右上の写真が元の姿です。
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音二郎と貞奴。
音二郎一座は明治32年から35年にかけ数回欧米を巡業、エキゾチックな貞奴の芸者姿は大人気となりました。音二郎はこの真面目な顔でオッペケペ節を唸ったのです。
貞奴は明治44年の音二郎死後しばらく公演を続けるが引退。引退後は、福沢諭吉の女婿で「電力王」と言われた福沢桃介と生涯生活を共にした。 -
澤田正二郎。明治25~昭和4年。
早稲田大学在学中に坪内逍遥の文芸協会に参加。のち島村抱月、松井須磨子らとともに文芸協会を脱退し芸術座を結成。さらに須磨子と対立し芸術座を堕胎し劇団「新国劇」設立。
大衆演劇の役者で「澤正」と呼ばれ人気を博した。新国劇の創始者。大津市出身。
「国定忠治」、「月形半平太」物で人気を博し、西洋物も演出した。のちに新国劇の看板となる島田正吾、辰巳柳太郎を育てる。 -
福知源一郎、号桜痴(おうち)。1841~明治39年。
旧幕臣、新聞人、劇作家、政治家。長崎出身。
薩長政府側に立つ東京日日新聞社長、歌舞伎の台本作者、東京府会議員、衆議院議員など多彩な活動をした。明治22年の歌舞伎座設立発起人の一人。歌舞伎座には名優市川団十郎が拠り東京を代表する芝居小屋となり、福知は多くの作品を書き歌舞伎の世界に君臨した。
歴史にも造詣が深く、「幕府衰亡論」は高く評価された。 -
福知源一郎。
宴会などで興に乗ればやおら平家琵琶を抱え唸りだすので客は頭を抱えたそうです。
その処世術には評価が分かれていたようですが当時新聞・演劇・文壇界の大御所だったことは間違いないと思います。 -
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中村正直。号敬宇。1832~1891/明治24年。
教育者、啓蒙学者。東京出身。
幕吏として幕末にイギリス留学。帰国後「西国立志編」、「自由の理」を訳出し、特に前者は福沢諭吉の「学問のすすめ」とならぶ100万部を超す大ベストセラーとなる。明治6年、森有礼、福沢勇吉、西周らと「明六社」設立。英学塾「同人社」設立。お茶の水女子大の前身東京女子師範学校初代校長、帝大教授、貴族院議員。 -
長田秋濤(おさだしゅうとう)。明治4~大正4年。
劇作家、仏文学者。静岡出身。フランスに学びデュマの「椿姫」の日本最初の翻訳者。伊藤博文など政界人とも近かった。尾崎紅葉の病が進み読売新聞社を退社した後、その医療費のねん出の面倒を見たりしています。
カメラが傾いたのでなく墓標が傾いています。 -
長谷川一夫。明治41~昭和59年。
俳優。京都府宇治出身。
阪東妻三郎、大河内伝次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵等と共に往年の時代劇の大スター。 -
昭和五十九年四月六日父一夫。
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桜通りの中ほどに交番があります。霊園の中にある交番なんて珍しいのでは。
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天王寺五重塔跡地。
交番の隣にあります。 -
当初のは1644年/寛永21年建立。1772年/明和9年の大火で焼失。1791年/寛政3年、近江の棟梁八田清兵衛のもと再建。高さ34.18mで関東一の高さだったという。
昭和32年7月、男女の放火心中により焼失、その後再建されていない。
幸田露伴の小説「五重塔」は清兵衛の塔再建の様をモデルにしたもの。 -
ビニールシートの奥。
露伴はこのすぐ近くに住んでいたことがあり、朝な夕なに五重塔を眺めていたのでしょう。 -
今は礎石が残るのみ。
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放火心中した48歳と21歳の男女は五重塔の歴史を知ってか知らでか、不倫清算の代償としてはあまりにも大きな損失です。
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天王寺の五重塔といい金閣寺といい貴重な歴史遺産が思慮のない人間により失われました。
金閣寺は立派に復元しましたが五重塔はついに再建されないままです。再建には莫大な費用が掛かるそうで、だれか日本の大金持ちで寄付をする太っ腹な御仁はいませんか。 -
真ん中、炎上する様。
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在りし日の谷中天王寺五重塔。
上野寛永寺、浅草浅草寺、芝増上寺、池上本門寺と共に江戸五塔と云われた。 -
明治30年頃の谷中天王寺。
山本松谷:新選東京名所図会より。
桜の季節で、花見を楽しむ人たちが描かれています。 -
獅子文六。明治26~昭和44年。本名岩田豊雄。
小説家、演出家。横浜出身。
岸田国士、久保田万太郎と共に文学座創立。
代表作「てんやわんや」、「自由学校」、「大番」。 -
佐々木弘綱、佐々木信綱。
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佐々木弘綱。1828~1891/明治24年。
幕末から明治にかけての歌人、国文学者。信綱の父。伊勢出身。
佐々木信綱。号竹柏園。1872/明治5~1963/昭和38年。
歌人、国文学者、万葉学者。昭和12年第1回文化勲章受章。
短歌革新を目指し竹柏会を創り歌誌「心の花」刊行。会には川田順、木下利玄、大塚楠緒子、九条武子などが集まった。明治33年頃の歌壇はそのほか「明星」に依る与謝野鉄幹の新詩社、「日本」に依る正岡子規の根岸短歌会が盛んであった。
万葉集研究に功績があり「校本万葉集」を著している。
「卯の花のにおう垣根に時鳥(ほととぎす)早もきなきて・・・」の歌詞で知られる唱歌「夏は来ぬ」の作詞者です。 -
加波山(かばさん)事件の主犯として刑死した人たちの墓。
1884年/明治17年9月、時の栃木県令三島通庸(みちつね)の過酷な自由民権運動弾圧に抗し、急進的自由党員を中心に三島他政府高官を暗殺しようとした事件。背景には松方内閣のデフレ政策による米価下落など地方農民の窮乏、没落化があった。
計画は事前に発覚し、茨城県の加波山に立てこもった民権運動家たちは捕えられ、7名死刑、3名無期懲役となった。
三島は福島および栃木県令として過酷な行政を行ったが、そんな男でも後に子爵、警視総監に栄達し明治21年死去。県令とは県知事みたいなものだが、今の知事よりはるかに権力が強かった。 -
通庸の長男が三島弥太郎で、徳富蘆花の小説「不如帰/ふじょき、ほととぎす」の主人公川島武男のモデル。その妻浪子のモデルとされたのが元老大山巌元帥の娘大山信子。
浪子の「ああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」とか「ああつらい! つらい! もう女なんぞに生まれはしませんよ」の台詞で満天下の婦女子の紅涙を絞らせ大ベストセラーになった「不如帰」は蘆花を一躍文壇の第一人者にした。
弥太郎は横浜正金銀行頭取、日本銀行総裁になっている。 -
鏑木清方(かぶらききよかた)。1878/明治11~1972/昭和47年。
浮世絵師、日本画家。東京出身。
最初新聞の挿絵画家として、また泉鏡花、島崎藤村の小説の挿絵を描く。のち本来の絵画に進む。東京の下町風俗、当世風の美人画を得意とした。
明治初期のジャーナリスト条野採菊の子。採菊の墓も谷中にあります。鏑木は母方の姓。
随筆に「こしかたの記」。 -
「春宵」。
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「一葉女史の墓」。
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広津家の墓。
広津柳浪、広津和郎(柳浪の子)、広津桃子(和郎の娘)が合祀されている。
柳浪は尾崎紅葉と共に硯友社の重鎮でした。 -
広津柳浪。1861~1928/昭和3年。
小説家。長崎出身。
東大医学部予備門中退後官吏などを経て文学を志し硯友社同人となる。尾崎紅葉とともに硯友社を代表するが紅葉とは一線を画す。永井荷風の師。
代表作:残菊、今戸心中、黒蜥蜴。
広津和郎の父。 -
広津和郎。1891/明治24~1968/昭和43年。
小説家、評論家、翻訳家。東京出身。
広津柳浪の子。早稲田で谷崎精二、葛西善蔵らと知り合い文学の道を歩む。最初は翻訳家そして文芸評論家として、のち作家生活に入る。松川事件では粘り強く被告側を弁護しついに全員無罪を勝ち取る。
「神経病時代」、「やもり」、「風雨強かるべし」、「年月のあしおと」、「志賀直哉論」。
字はは志賀直哉。 -
裏面。
谷崎精二(谷崎潤一郎の弟、作家)の碑文。和郎の娘桃子建立。
広津桃子も作家の道を歩み、「春の音」、「つわぶきの花」で文学賞を受賞している。1918~1988年。 -
鷲津家墓所。
鷲津毅堂(わしずきどう、1825~1882年)は尾張の儒者、漢学者で作家永井荷風の母方の祖父。 -
永井荷風の次弟貞二郎は鷲津家を継いでいる。
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浅田宗伯。1815~1894/明治27年。
漢方医、儒学者。松本出身。
徳川将軍家の典医、宮内省侍医。天璋院の徳川慶喜助命運動に関与。
西洋医学に押される漢方医学の存続に力を注いだ。せき止め浅田飴の創始者。 -
浅田宗伯。
夏目漱石の「吾輩は猫である」に宗伯を揶揄した一文がある。
「この老人(宗伯のこと)が病家を見舞うときは必ず駕籠に乗ってそろりそろりと参られたそうだ」。
江戸時代、医者は患者の家を周るのに四ツ手駕籠に乗ったそうですが、宗伯は維新後何年も経ってからも旧習を行っていたので漱石が皮肉ったのでしょう。 -
鳩山家。
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鳩山一郎。1883/明治16~1959/昭和34年。
政治家、弁護士。3次にわたり内閣総理大臣。昭和31年、保守合同により初代自由民主党総裁。弁護士、衆議院議長鳩山和夫の子。東京出身。息子に鳩山威一郎。
鳩山薫。明治21~昭和57年。
共立女子学園理事長を長く務める。夫一郎を援け、「宰相を作り上げた賢夫人」と言われた。 -
横山大観。1868/明治元年~1958/昭和33年。
日本画家。水戸出身。
明治、大正、昭和を通じ日本画壇の重鎮。岡倉天心に師事。
大変な酒豪で晩年まで毎日日本酒(銘柄は広島の酔心)一升飲んだという。樽で送られてくる酔心の支払いは大観の絵だったそうです。 -
「霊峰飛鶴」。
横山大観記念館蔵。 -
「春朝」。
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「夜桜」。
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田口卯吉。1855/安政2年~1905/明治38年。
経済学者、歴史家、政治家。東京出身。
幕臣の子として生まれる。イギリス的自由主義経済自由貿易を提唱、東京経済雑誌を刊行。群書類従などの史書の編纂も手掛ける。東京市会議員、衆議院議員。
徳富猪一郎(蘇峰)の論文を東京経済雑誌に載せその世に出るきっかけを与えた。
著書に「日本開化小史」。
小諸義塾の創設者木村熊二の妻で、明治女学校を興した木村鐙子(とうこ)は卯吉の姉。 -
依田学海(よだがっかい)。1834/天保4~1909/明治42。
漢学者、評論家、劇作家。佐倉藩士の子。
歌舞伎の近代化、演劇改良運動を進めた。森鴎外に漢文を教えるなど明治の文壇の大御所をもって任じた。
歌舞伎のため台本のほか著書に「譚海」、「学海目録」。 -
重野安繹(しげのやすつぐ)。1827~1910/明治43。
漢学者、歴史学者。鹿児島出身。
日本歴史学研究の泰斗。帝国大学に国史科を創設。最初の文学博士。帝大教授、貴族院議員。 -
条野采菊(じょうのさいぎく、伝平)。号山々亭有人(さんさんていありんど)。1832/天保3~1902/明治35年。
江戸から明治にかけての戯作者、ジャーナリスト、劇評家。東京出身。
人情本を多く書く。明治5年、東京初の日刊紙「東京日日新聞」発刊。明治19年「やまと新聞」発刊。画家鏑木清方の父。 -
条野采菊。
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戸山正一。1848~1900/明治33年。
教育家、啓蒙学者。東京出身。
幕末から明治にかけ幕府留学生として英米に留学。矢田部良吉、井上哲次郎と共に「新体詩抄」を発刊、日本近代詩の先駆者。東大総長、貴族院議員、文部大臣歴任。 -
中島歌子。1845~1903/明治33年。
女流歌人。坂戸出身。
歌塾「萩の舎(はぎのや)」を主宰、門弟1000人を数えたという。樋口一葉、三宅花圃は門下生だった。
夫は水戸藩士で天狗党の乱に加わり戦死している。 -
中島歌子。
歌子の母幾子も葬られており、樋口一葉は度々墓参に来たことをその日記に書いています。 -
箕作秋坪(みつくりしゅうへい)。1826~1886/明治19年。
蘭学者、啓蒙家。岡山出身。
緒方洪庵の適塾で蘭学を学ぶ。1862年、文久の岩倉遣欧使節団に同行。
明六社設立。専修学校(専修大学の前身)創立にも関与。
菊池大麓の父。
菊池大麓と箕作秋坪の墓は隣り合っています。 -
菊池大麓。1855~1917/大正6年。
数学者、教育者、政治家。東京出身。
幕末から明治初期に英国(ケンブリッジ)に留学、数学、物理学を学び、近代数学を日本にもたらした。東大、京大総長、文部大臣、貴族院議員歴任。
蘭学者箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の子。 -
宮城道雄。
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宮城道雄。1894/明治27~1956/昭和31年。
筝曲家。神戸出身。
7歳のころ失明、琴を中島検校に学び日本を代表する琴の名手となる。演奏だけでなく作曲も数多く手がけた。新日本音楽運動を起こし、洋楽の導入、17絃など楽器の改良を行う。
昭和31年6月25日、大阪公演に向かう途中東海道線刈谷駅近くで夜行寝台急行「銀河」から謎の転落死を遂げた。
代表曲:「水の変態」、「春の海」、「さくら変奏曲」、「越天楽変奏曲」。
文筆にも優れ「雨の念仏」ほか随筆の著作がある。 -
岸本辰雄。1851~1912/明治45年。
法学者。鳥取出身。
明治初期司法省留学生としてパリ大学に学び、法律学士の学位取得。明治14年、後の明治大学である明治法律学校創立、初代学長。大審院判事等歴任。 -
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津田真道(つだまみち)。1829~1903/明治36年。
法学者、政治家。岡山出身。
旧幕臣。幕末頃西周らと共にオランダに留学。維新後は新政府の法律整備に尽力。
明治6年、福沢諭吉、森有礼らと共に明六社設立。衆議院副議長、貴族院議員歴任。 -
津田真道。
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馬場辰猪(たつい)。1850~1888/明治21年。
思想家、政論家。高知出身。
土佐藩士の子。福沢塾(後の慶応義塾)で諭吉に学ぶ。明治初期イギリスに留学。
自由民権運動の指導者のひとり。板垣退助らと共に自由党結党に参加。38歳の若さでフィラデルフィアで客死。
馬場孤蝶。1869/明治2~1940/昭和15年。
翻訳家、評論家。馬場辰猪の弟。兄と違って文学の世界に生きる。
明治学院で島崎藤村、戸川秋骨と親交を結ぶ。斉藤緑雨、平田禿木、戸川秋骨、上田敏らと文芸雑誌「文学界」同人。「文学界」の同人はよく樋口一葉の家に集まって文学論を戦わしたが、皆一葉に思いを寄せていたようである。声の良い弧蝶はよく一葉の家で義太夫をうなったらしい。一葉に関する書物も残している。
著書に「明治の東京」、「明治文壇の人々」。
墓碑は小島政二郎の字。 -
渋沢家墓域。
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渋沢栄一。号青淵。1840~1931/昭和6年。
実業家、官僚。深谷出身。
旧幕臣。第一国立銀行設立に関与、頭取。日本資本主義の父といわれる。
1867年のパリ万博に幕府より派遣されヨーロッパ各国の産業・軍備に感銘を受ける。維新後新政府の大蔵官僚となる。退官後は今でも日本を代表する多くの企業の設立に関与する。 -
穂積家。
左穂積陳重。中妻歌子。右端穂積重遠。 -
穂積陳重(ほずみのぶしげ)。1855~1926/大正15年。
民法学者。宇和島出身。
明治初期イギリス、ドイツに留学。日本にヨーロッパ法を導入。民法典を起草。
中央大学の前身英吉利法律学校創立者の一人。東大教授、枢密院議長歴任。日本初の法学博士。
弟に憲法学者穂積八束、子に民法学者穂積重遠。
妻歌子が渋沢栄一の娘のためか墓は渋沢家墓域にあります。 -
穂積重遠(しげとお)。1883/明治16~1951/昭和26年。
民法学者。東京出身。
ドイツ、フランスに学ぶ。近代的な家族観に基ずく家族法学の基礎を築き日本家族法の父といわれる。親族法、相続法の改正に尽力。
東大教授、最高裁判事を歴任。穂積陳重の長男、渋沢栄一の孫。 -
青山胤通(たねみち)。1859/安政6~1917/大正6年。
医学者。中津川出身。
ドイツで医学を学び帰国後東大教授、青山内科を主宰。ペストなど伝染病研究に功績。癌研究所設立。明治天皇の侍医。森鴎外とは東大医学部時代からの友人。 -
青山胤通。
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新しい形式の墓も有ります。
樹木葬のようです。 -
上田萬年(かずとし、まんねん)。1867/慶応3~1937/昭和12年。
国語学者。尾張藩士の子。
近代国語学の祖。ドイツ留学後東大教授。西洋言語学を導入、日本語の標準語、仮名遣いの統一に尽力。国学院大学学長。
教え子に新村出、金田一京助。作家圓地文子は娘。 -
岸田吟香(ぎんこう)。1833~1905/明治38年。
ジャーナリスト、実業家。岡山出身。
若いころ漢学を学び三河挙母藩に儒官として仕えたり、脱藩して江戸吉原の妓楼で三助をしたり妓楼の主人になったりと、波乱の半生を送る。30歳のころ目を患い横浜に居たヘボン(宣教師、医師、ヘボン式ローマ字の創始者)の治療を受ける。その縁でヘボンに英語を学び、ヘボンの和英辞書作成に協力する。この辞書は政府にも認められ長い間標準の辞書として使われた。 -
岸田吟香。
1867年、ヘボンに伝授された目薬「精錡水」を売り出し成功する。
1868/慶応4年、新聞「もしほ草」を発刊、新聞の先駆けとなる。のち東京日日新聞の記者、主筆(編集長)となる。退社後は売薬業に専念。中国・清にまで販路を伸ばし、日清友好にも尽力した。
日本で初めて卵かけご飯を食べたとも言われる。画家岸田劉生は吟香の息子。 -
墓地の中を結構歩いたので足が痛くなり、関心のある人たちの墓も大方訪ねたので帰ります。
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途中谷中霊園の一角にある天王寺/護国山天王寺に寄りました。
山門。 -
当初1274年、日蓮宗の感応寺として開山。1698年、幕府の日蓮宗弾圧により天台宗に改宗。1833年、寺名を天王寺に改称。
1700年、富くじ興行を認められ(目黒の目黒不動滝泉寺、湯島天神とともに江戸三富)1842年まで続く。
有名な五重塔は1644年建立。1722年明和の大火で焼失。1791年近江の棟梁八田清兵衛の手で再建。昭和32年放火で焼失。 -
東京に数少ない江戸時代以前からある古刹で盛時は3万坪の寺域を持ち、幕府の祈祷所でもあった。
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何故かあまり写真を撮っていません。疲れていたようです。
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帰りは日暮里に出ました。
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JR山手線日暮里駅。
連日雨か曇天が続くなか今日だけ晴れ間があり東西の文化に浸った良い一日でした。
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この旅行記へのコメント (7)
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- frau.himmelさん 2016/10/18 23:14:07
- えっ、ベームさんが国内旅行記を!
- ベームさん、こんばんは。
スイス旅行記を終えてのんびりしていらっしゃるとばかり思っていました。
ベームさんが国内旅行記を、しかも4冊も!
びっくりしました。そして気が付かなくて大変失礼しました。
早速1冊目を拝見致しました。
ヨーロッパ旅行記と同じように、ベーム調の重厚な国内版。
素晴らしいです。
それにしても「古代ギリシャ展」をご覧になった後に谷中墓地散策とは。
お墓って広いし、それに地図を見て有名人のお墓を捜し歩くって結構体力がいるのですよね。
私も先日、多磨霊園で有名人のお墓を探して歩き回り、ものすご〜〜く疲れたものですから、ベームさんの当日の歩数を考えただけで、私なら悲鳴を上げてしまいます。
ベームさん、もうヨーロッパ旅行は打ち止めなんて、お元気ではありませんか。まだまだ行けますよ。
谷中墓地ってそうそうたる方が眠っていらっしゃるのですね。
私も興味が湧いてきました。いつか行ってみよう。
他の旅行記もゆっくり拝見させていただきますね。
himmel
- ベームさん からの返信 2016/10/19 21:03:02
- RE: えっ、ベームさんが国内旅行記を!
- いやあ、スイス以来初めて長時間の歩きで試してみたのですが、3冊目に書いたように案の定足を痛めました。まだ不安があります。
東京の散歩もいつまで続くか分かりません。横浜からですと結構費用が掛かることもありますがとにかく疲れます。疲れた身体で東京駅から電車に乗っても東京・上野ラインとか始発でないので座れません。行きはまだ元気がありますが帰りは辛いです。東京に住んでいる方が羨ましいですよ。
あとなんとか本郷、浅草・根岸方面、雑司ケ谷、青山墓地は巡りたいと思っています。
ベーム
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- コクリコさん 2016/10/13 23:29:59
- 谷中霊園掃苔記
- ベームさん、こんばんは!
私の『谷中七福神巡り』の旅行記をベームさんが読んでくださり「いいね!」してくださるとは珍しいと思ったのですが、ベームさんも谷中歩きされていたのですね。
実家のお墓が谷中霊園のベームさんが写された徳川慶喜公のお墓の近くなんですよ。
谷中霊園は桜並木が綺麗なので、桜の季節をねらってお墓参りに行っています。
でも、著名人のお墓を丹念に訪ねたことがなくて。
こんなに多くの方たちが眠っていたのですね。
寛永寺から上野への道はお気に入りのコースです。
あまり身近すぎて谷中霊園の旅行記は書かず、パリのパッシー墓地の掃苔記を書いてしまいました。
小・中学校の友達たちの実家の墓地が谷中に点在するお寺にあるので、皆で皆の実家のお墓参りしようか、という話も出ています。
見覚えのある写真ばかりなので、楽しみながら拝見しました。
ところで今年はパリから日帰りでLaonに行きました。
ランの旅行記は4トラに無いなぁと思っていたら、ベームさんの旅行記を見つけました!
私が行った時はPomaが運行していなかったのが残念でした。
- ベームさん からの返信 2016/10/14 11:36:05
- RE: 谷中霊園掃苔記
- コクリコさん、
書き込み有難うございます。
海外旅行が困難になって来たので国内派になろうかなんて考えています。
まず手始めに谷根千から始めました。今でこそ東京は山の手が華やかですが江戸、明治の情緒を残すのは城東、下町ですから。最も私の場合お墓巡りが多いので抹香くさいです。でも横浜からですと結構お金がかかり年金暮らしの身ではそうたびたびと言うわけにはいきません。
谷中あたりにお住まい、あるいはお住まいだったのですか。ご実家のお墓が徳川慶喜の近くとは。ではあの辺りはお詳しいのですね。
ランに行かれましたか。日本人観光客にはあまりポピュラーではありませんが綺麗な町ですね。Pomaが動いていなかったのは残念でした。旅行記はまだですね、お待ちしています。
ベーム
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- ペコリーノさん 2016/09/23 10:01:18
- 谷中の五重塔
- ベームさん、こんにちは。
旅行記をいつも楽しみにしています。
先日のスイスも大変な充実ぶりで、素晴らしかったです。
谷中近辺は 10年ぐらい前は私の休日の散歩道でした。最近はめっきりと出不精になり、出歩かなくなりましたが、あの辺りはまだまだ変わらずにあるのだな、と懐かしくなりました。涼しくなってきたことだし、久々に散歩してみようか・・・と思いました。
そんな散歩をしていた頃、谷中で古民家などを開放してお茶会をやっているときがあり、「どなたでもどうぞ」ということで、確か500円ぐらいのお茶券を買って行ったことがあります。
主催は東大か芸大の建築関係の学生で、お席主は粋な感じの元大工の棟梁という方でした。谷中の五重塔の修復にも関わったことがあるそうで、古い木材が床の間に飾られており、それは五重塔の一部だったものだそうです。斗きょう(ときょう=組みもの)のような形をしておりました。かなり大きかったです。
五重塔や谷中の界隈にある古い建物の話を聞けて、とても楽しかった思い出があります。
全く関係ない話ですが、『谷中の五重塔』という文字を見て、こんなことを思い出してしまいました。
失礼いたしました。
ペコリーノ
- ベームさん からの返信 2016/09/23 16:05:25
- RE: 谷中の五重塔
- ペコリーノさん、
今日は。いつもご訪問いただき有難うございます。
谷中にいろいろ思い出がお有りなんですね、あの近くにお住まいだったのですか。
現役のころは定期券を使って休日には時々東京へ出ては昔の東京を探しに、お墓巡りなどもしたのですが、足を奪われて以降は滅多に行かなくなりました。めまぐるしく変貌する東京でも墓地は変わりませんね。墓碑銘を見ながら歩いていてひょっと知った名前に出くわすと嬉しいものです。
ペコリーノさんは今年まだベルリンには行っておられないようですがこれからですか。
ベーム
- ペコリーノさん からの返信 2016/09/23 16:34:05
- RE: RE: 谷中の五重塔
- ベームさん、お返事、ありがとうございます。
> ペコリーノさんは今年まだベルリンには行っておられないようですがこれからですか。
>
> ベーム
これからです。12月に行く予定です。昨年のインスブルックやウィーンのクリスマスマーケットがとっても良かったので、北ドイツとベルリンも見てみたいと思っています。
インスブルックの寒さも経験したので、北ドイツも大丈夫かな?と思っています。
ペコリーノ
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