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 九州の北西部の4城を訪ねた。弥生時代の遺跡・吉野ヶ里を最初に訪ねた。ここは城跡とは言えないが、環濠が発掘されており、その環濠が堀ということで百名城に指定されているらしい。次いで鍋島藩の佐賀城を訪ねた。本丸御殿が復元されていました。その日は14日発生の熊本地震の余震が頻発している中、佐賀市内のホテルに宿泊したが、やはり就寝中余震の揺れを感じました。明くる日は、長崎県の平戸城へ、松浦家800年の歴史を持つ城です。そして、太閤秀吉が朝鮮出兵のため築いた名護屋城址を訪ねました。<br /> 表紙写真は平戸城の模擬天守です。

九州の100名城を訪ねて(2)/吉野ヶ里、佐賀城、平戸城、名護屋城

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2016/04/16 - 2016/04/17

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ひま人

ひま人さん

 九州の北西部の4城を訪ねた。弥生時代の遺跡・吉野ヶ里を最初に訪ねた。ここは城跡とは言えないが、環濠が発掘されており、その環濠が堀ということで百名城に指定されているらしい。次いで鍋島藩の佐賀城を訪ねた。本丸御殿が復元されていました。その日は14日発生の熊本地震の余震が頻発している中、佐賀市内のホテルに宿泊したが、やはり就寝中余震の揺れを感じました。明くる日は、長崎県の平戸城へ、松浦家800年の歴史を持つ城です。そして、太閤秀吉が朝鮮出兵のため築いた名護屋城址を訪ねました。
 表紙写真は平戸城の模擬天守です。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
ホテル
3.5
グルメ
3.5
ショッピング
3.5
交通
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
観光バス 新幹線 JRローカル 私鉄 徒歩

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  •  国特別史跡、吉野ヶ里遺跡・環濠跡。約50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落跡で、昭和61年(1986年)からの発掘調査によって発見されました。現在は国営吉野ケ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっています。

     国特別史跡、吉野ヶ里遺跡・環濠跡。約50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落跡で、昭和61年(1986年)からの発掘調査によって発見されました。現在は国営吉野ケ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっています。

  •  環濠跡。佐賀県東部、福岡県境である標高1000m前後の脊振山地を北端に、脊振山地南麓の丘陵地帯、佐賀平野、有明海へと移りにつけて標高が低く、南に開けた地形となっている。吉野ヶ里丘陵はこの脊振山地南麓の丘陵地帯の一つです。

     環濠跡。佐賀県東部、福岡県境である標高1000m前後の脊振山地を北端に、脊振山地南麓の丘陵地帯、佐賀平野、有明海へと移りにつけて標高が低く、南に開けた地形となっている。吉野ヶ里丘陵はこの脊振山地南麓の丘陵地帯の一つです。

  •  北墳丘墓(きたふんきゅうぼ)。南北約40m、東西約27m、高さ1.2m盛土の墳墓です。発掘した遺跡です。弥生時代中期前半から中頃(2200年〜2100年前)の埋葬で、埋葬の特徴から歴代の首長など、高い身分の人たちのものと考えられるそうです。

     北墳丘墓(きたふんきゅうぼ)。南北約40m、東西約27m、高さ1.2m盛土の墳墓です。発掘した遺跡です。弥生時代中期前半から中頃(2200年〜2100年前)の埋葬で、埋葬の特徴から歴代の首長など、高い身分の人たちのものと考えられるそうです。

  •  北内郭集落。高床式になっている。

     北内郭集落。高床式になっている。

  •  北内郭集落。

     北内郭集落。

  •  北内郭祭殿。吉野ヶ里集落の中で最も重要な神聖な場所とされており、当時まつりごとが行われていた所と考えられています。

     北内郭祭殿。吉野ヶ里集落の中で最も重要な神聖な場所とされており、当時まつりごとが行われていた所と考えられています。

  •  南内郭集落。

     南内郭集落。

  •  弥生時代の儀式の様子。

     弥生時代の儀式の様子。

  •  弥生時代の儀式の様子。

     弥生時代の儀式の様子。

  •  「大人(だいじん)」の家。竪穴住居。

     「大人(だいじん)」の家。竪穴住居。

  •  南内郭物見やぐら。

     南内郭物見やぐら。

  •  佐賀城本丸歴史館。平成16年復元開館。佐賀城はもともと龍造寺氏が居城としていた村中城を改修・拡張したものです。九州北部に覇を唱えていた龍造寺隆信は天正12年(1584年)に島津・有馬連合軍に敗れて戦死した。これを機に龍造氏家臣の鍋島直茂が実験を握った。<br /> 江戸幕府政権下で佐賀藩主と認められた後の、慶長7年(1602年)本丸の改修をはじめた。次の藩主鍋島勝茂が慶長16年(1611年)に完成させました。

     佐賀城本丸歴史館。平成16年復元開館。佐賀城はもともと龍造寺氏が居城としていた村中城を改修・拡張したものです。九州北部に覇を唱えていた龍造寺隆信は天正12年(1584年)に島津・有馬連合軍に敗れて戦死した。これを機に龍造氏家臣の鍋島直茂が実験を握った。
     江戸幕府政権下で佐賀藩主と認められた後の、慶長7年(1602年)本丸の改修をはじめた。次の藩主鍋島勝茂が慶長16年(1611年)に完成させました。

  •  本丸大広間。

     本丸大広間。

  •  本丸御殿御座間。藩主の居間。天保期の瓦や柱など当時の部材を使用。

     本丸御殿御座間。藩主の居間。天保期の瓦や柱など当時の部材を使用。

  •  史蹟 佐賀城址城門石碑。

     史蹟 佐賀城址城門石碑。

  •  鯱の門(大手門)・国重文指定。

     鯱の門(大手門)・国重文指定。

  •  佐賀城天守台址石碑。天守閣は享保11年(1726年)に焼失し、以後再建されなかった。

     佐賀城天守台址石碑。天守閣は享保11年(1726年)に焼失し、以後再建されなかった。

  •  天守台石垣。

     天守台石垣。

  •  天守台敷地。

     天守台敷地。

  •  平戸城天守閣(昭和37年復元)。平戸城は平戸島の北部、平戸市街の東部に位置します。平戸港を見下ろし、対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上にあります。三方を海に囲まれ天然の堀としています。その南側に二の丸、東側に三の丸が配された梯郭式の平山城です。<br /> 最初は安土桃山時代の末期に松浦鎮信によって築かれたが破却され、江戸時代中期になって再建された。再建にあたっては山鹿素行の軍学に沿って縄張りがなされた。平城の赤穂城と並んで、平山城では唯一の山鹿流による城郭です。

    平戸城天守閣(昭和37年復元)。平戸城は平戸島の北部、平戸市街の東部に位置します。平戸港を見下ろし、対岸の九州本土を望む平戸瀬戸に突き出た丘陵上にあります。三方を海に囲まれ天然の堀としています。その南側に二の丸、東側に三の丸が配された梯郭式の平山城です。
     最初は安土桃山時代の末期に松浦鎮信によって築かれたが破却され、江戸時代中期になって再建された。再建にあたっては山鹿素行の軍学に沿って縄張りがなされた。平城の赤穂城と並んで、平山城では唯一の山鹿流による城郭です。

  •  大手門。

     大手門。

  •  狸櫓。伝説では、櫓の床下に狸が住みだした。天保初年(1830年頃)櫓の修理のため床板をすべて剥ぎ取った。するとある夜、小姓に化けた狸が藩主の寝所にやって来て、我ら一族を櫓に住ませて頂きたい、そうすれば城を永代守護すると嘆願したので、翌日、床を元通りに戻してやったという。これ以後、この櫓は狸櫓と呼ばれるようになりました。

     狸櫓。伝説では、櫓の床下に狸が住みだした。天保初年(1830年頃)櫓の修理のため床板をすべて剥ぎ取った。するとある夜、小姓に化けた狸が藩主の寝所にやって来て、我ら一族を櫓に住ませて頂きたい、そうすれば城を永代守護すると嘆願したので、翌日、床を元通りに戻してやったという。これ以後、この櫓は狸櫓と呼ばれるようになりました。

  •  北虎口門。

     北虎口門。

  •  北虎口門。石垣と石垣の間にのった「渡櫓」様式で、城内に現存する唯一の木造遺構です。

     北虎口門。石垣と石垣の間にのった「渡櫓」様式で、城内に現存する唯一の木造遺構です。

  •  平戸城石垣。

     平戸城石垣。

  •  平戸城石垣。

     平戸城石垣。

  •  城内にある「平戸ツツジ保存園」。平戸ツツジは、当地の突然変異からの栽培で生まれた品種です。

     城内にある「平戸ツツジ保存園」。平戸ツツジは、当地の突然変異からの栽培で生まれた品種です。

  •  平戸ツツジ保存園。

     平戸ツツジ保存園。

  •  名護屋城阯石碑。名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣添城があったが、豊臣秀吉は大陸への侵攻を企画した際、ここを前線基地として大がかりな築城を行った。<br /> 当時の大坂城に次ぐ規模をわずか5ヵ月で完成させました。

     名護屋城阯石碑。名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城、垣添城があったが、豊臣秀吉は大陸への侵攻を企画した際、ここを前線基地として大がかりな築城を行った。
     当時の大坂城に次ぐ規模をわずか5ヵ月で完成させました。

  •  名護屋城石垣。名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90m)を中心に17万?にわたり築かれた平山城の陣城です。五重天守や御殿が建てられ、周囲には、全国の戦国大名が集まり130ヵ所ほどの陣屋がおかれた。城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口20万人を超えるほど繁栄しました。

     名護屋城石垣。名護屋城は波戸岬の丘陵(標高約90m)を中心に17万?にわたり築かれた平山城の陣城です。五重天守や御殿が建てられ、周囲には、全国の戦国大名が集まり130ヵ所ほどの陣屋がおかれた。城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口20万人を超えるほど繁栄しました。

  •  名護屋城石垣。秀吉の死後、大陸侵攻が中止されたために城は廃城となりました。建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わります。<br />石垣も江戸時代の島原の乱後に一揆などの立て籠もりを防ぐ目的で、石積の角側などが破却されています。

     名護屋城石垣。秀吉の死後、大陸侵攻が中止されたために城は廃城となりました。建物は寺沢広高によって唐津城に移築されたと伝わります。
    石垣も江戸時代の島原の乱後に一揆などの立て籠もりを防ぐ目的で、石積の角側などが破却されています。

  •  天守台への石段。

     天守台への石段。

  • 天守台石垣。石積の角側が破却されている。

    天守台石垣。石積の角側が破却されている。

  •  東出丸跡。

     東出丸跡。

  •  三の丸跡。

     三の丸跡。

  •  名護屋城天守台址石碑。

     名護屋城天守台址石碑。

  •  天守台址。

     天守台址。

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