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JR武蔵野線東浦和駅から徒歩約15分、慈了山・清泰寺(せいたいじ、埼玉県さいたま市東緑区東浦和)は平安時代初期の高僧慈覚大師円仁によって開かれたと伝えられ、甲斐国守護武田信玄の二女で信玄の親族衆の筆頭として高い家格を有する穴山氏当主穴山信君(あなやま・のぶただ、法名を梅雪と称する、1541~1582)の正室でもある見性院(けんしょういん、?~1622)の菩提寺です。<br /><br />ご存じの通り穴山氏は甲斐源氏武田氏の一族で、戦国時代には甲斐南部河内地方を知行し、国中の武田氏、郡内(甲斐東部)の小山田氏と並んで甲斐国を構成するほどの有力国人領主で、当主信君の外交手腕は父信友(のぶとも)ゆずりで信玄・勝頼に重用されとりわけ自領と接する対徳川氏との交渉においては信君の信頼は極めて高かったと言われています。<br /><br />信玄死後事実上の後継となった勝頼を補佐するものの長篠の戦いで信玄以来の譜代有力武将を多数失うほどの大敗北を喫し、これを機に各地での武田勢力が後退する中で勝頼を頼みにする事かなわずとして勝頼を見放した信君は徳川・織田両氏に接近して外交に務めます。<br />                        <br />そして天正10年(1582)3月、織田・徳川両氏の甲斐攻略に際しては家康軍の先鋒となってて富士川沿いに甲斐をへ侵攻、甲斐平定後は家康と共に甲府の治安にあたり、諏訪に置いて信長と謁見した信君は旧領を安堵されます。<br /><br />同年5月家康に従って信長の恩義に感謝するため安土城に向かい、安土城では信長の歓待を受け、その後一行は京都から堺に向かいます。<br /><br />堺に滞在中信長が明智光秀に殺害されるという「本能寺の変」が起り、これに対し信君と家康は急遽帰国する事になりますが、信君は途中で家康と別行動を取り、そのため山城国宇治田原で野盗の襲撃に遭い殺害されます。<br /><br />信君には嫡男勝千代がおり、信君亡き後家臣団に支えられ幼少ながら家督を相続、同年8月家康は勝千代に武田氏の後継者と認定し、徳川領となっていた駿河での知行地を家康が安堵することで事実上穴山氏を傘下に置くことになります。<br /><br />勝千代は天正15年(1587)に元服し武田信治(たけだ・のぶはる)と名乗りますがまもなく病死しついに穴山氏は断絶となります。<br /><br />一方信君死去によって落飾した見性院は家康に保護されて江戸城北の丸に居を与えられ、後に二代将軍秀忠が侍女のお静に産ませた幸松丸(後の保科正之)を養育することになります。<br /><br />墓地の見性院廟の前に建っている説明では次の如く書かれています。<br /><br /><br /><br />「 埼玉県指定旧跡<br />見性院の墓<br /> 指定年月日 昭和36年9月1日<br /><br />見性院は武田信玄の娘で、武将穴山梅雪の妻になり、梅雪死後は徳川家康の庇護を受けました。<br /><br />慶長16年(1611)5月、二代将軍秀忠に第四子幸松丸が誕生(母はお静の方)すると、見性院はその養育にあたりました。幸松丸は7歳で高遠(長野県)の城主保科正光の養子となり、のちに保科肥後守正之と称しました。家光の時代には山形からさらに会津(福島県)23万石の藩主となり、兄家光をたすけ幕政に参画するようになりました。保科正之は会津松平家の祖となりました。元和8年(1622)5月9日、見性院はは没し、采地であったここ大牧村清泰寺に葬られ、一本のケヤキが植えられました。また正之は養母の死をいたみ、寺境内に霊廟をつくりました。<br /><br />元禄期になり、保科正容のとき松平の姓と三ツ葉葵の紋が許されました。霊廟はこわれてしまったので門扉のみがここに移され、また墓標のケヤキも倒れてしまったので安政4年(1857)会津藩により墓石が建てられました。<br />     昭和59年10月    清泰寺<br />                 浦和市教育委員会<br /><br />

武蔵東浦和 兄三代将軍家光を支えた会津藩主保科正之の養母で武田信玄を父とし穴山信君を夫とする見性院の菩提寺『清泰寺』散歩

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2016/01/05 - 2016/01/05

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR武蔵野線東浦和駅から徒歩約15分、慈了山・清泰寺(せいたいじ、埼玉県さいたま市東緑区東浦和)は平安時代初期の高僧慈覚大師円仁によって開かれたと伝えられ、甲斐国守護武田信玄の二女で信玄の親族衆の筆頭として高い家格を有する穴山氏当主穴山信君(あなやま・のぶただ、法名を梅雪と称する、1541~1582)の正室でもある見性院(けんしょういん、?~1622)の菩提寺です。

ご存じの通り穴山氏は甲斐源氏武田氏の一族で、戦国時代には甲斐南部河内地方を知行し、国中の武田氏、郡内(甲斐東部)の小山田氏と並んで甲斐国を構成するほどの有力国人領主で、当主信君の外交手腕は父信友(のぶとも)ゆずりで信玄・勝頼に重用されとりわけ自領と接する対徳川氏との交渉においては信君の信頼は極めて高かったと言われています。

信玄死後事実上の後継となった勝頼を補佐するものの長篠の戦いで信玄以来の譜代有力武将を多数失うほどの大敗北を喫し、これを機に各地での武田勢力が後退する中で勝頼を頼みにする事かなわずとして勝頼を見放した信君は徳川・織田両氏に接近して外交に務めます。
                        
そして天正10年(1582)3月、織田・徳川両氏の甲斐攻略に際しては家康軍の先鋒となってて富士川沿いに甲斐をへ侵攻、甲斐平定後は家康と共に甲府の治安にあたり、諏訪に置いて信長と謁見した信君は旧領を安堵されます。

同年5月家康に従って信長の恩義に感謝するため安土城に向かい、安土城では信長の歓待を受け、その後一行は京都から堺に向かいます。

堺に滞在中信長が明智光秀に殺害されるという「本能寺の変」が起り、これに対し信君と家康は急遽帰国する事になりますが、信君は途中で家康と別行動を取り、そのため山城国宇治田原で野盗の襲撃に遭い殺害されます。

信君には嫡男勝千代がおり、信君亡き後家臣団に支えられ幼少ながら家督を相続、同年8月家康は勝千代に武田氏の後継者と認定し、徳川領となっていた駿河での知行地を家康が安堵することで事実上穴山氏を傘下に置くことになります。

勝千代は天正15年(1587)に元服し武田信治(たけだ・のぶはる)と名乗りますがまもなく病死しついに穴山氏は断絶となります。

一方信君死去によって落飾した見性院は家康に保護されて江戸城北の丸に居を与えられ、後に二代将軍秀忠が侍女のお静に産ませた幸松丸(後の保科正之)を養育することになります。

墓地の見性院廟の前に建っている説明では次の如く書かれています。



「 埼玉県指定旧跡
見性院の墓
 指定年月日 昭和36年9月1日

見性院は武田信玄の娘で、武将穴山梅雪の妻になり、梅雪死後は徳川家康の庇護を受けました。

慶長16年(1611)5月、二代将軍秀忠に第四子幸松丸が誕生(母はお静の方)すると、見性院はその養育にあたりました。幸松丸は7歳で高遠(長野県)の城主保科正光の養子となり、のちに保科肥後守正之と称しました。家光の時代には山形からさらに会津(福島県)23万石の藩主となり、兄家光をたすけ幕政に参画するようになりました。保科正之は会津松平家の祖となりました。元和8年(1622)5月9日、見性院はは没し、采地であったここ大牧村清泰寺に葬られ、一本のケヤキが植えられました。また正之は養母の死をいたみ、寺境内に霊廟をつくりました。

元禄期になり、保科正容のとき松平の姓と三ツ葉葵の紋が許されました。霊廟はこわれてしまったので門扉のみがここに移され、また墓標のケヤキも倒れてしまったので安政4年(1857)会津藩により墓石が建てられました。
     昭和59年10月    清泰寺
                 浦和市教育委員会

旅行の満足度
4.0
交通手段
JRローカル

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  • JR東浦和駅

    JR東浦和駅

  • 清泰寺・本堂<br /><br />清泰寺は正式には慈了山覚源院と称する天台宗の寺院ですが、訪問時の本堂はあいにく工事中です。

    清泰寺・本堂

    清泰寺は正式には慈了山覚源院と称する天台宗の寺院ですが、訪問時の本堂はあいにく工事中です。

  • 清泰寺・本堂完成予想図

    清泰寺・本堂完成予想図

  • 清泰寺・鐘楼

    清泰寺・鐘楼

  • 見性院墓・案内板

    見性院墓・案内板

  • 見性院廟<br /><br />一般墓地の奥に見性院の廟があります。

    見性院廟

    一般墓地の奥に見性院の廟があります。

  • 見性院廟(全景)<br /><br />

    見性院廟(全景)

  • 見性院廟(近景)<br /><br />扉で閉鎖されており内部に入ることができません。

    見性院廟(近景)

    扉で閉鎖されており内部に入ることができません。

  • 見性院の墓説明

    見性院の墓説明

  • 見性院廟<br /><br />廟の門扉にはいわゆる三ツ葉の葵の御門が付されています。

    イチオシ

    見性院廟

    廟の門扉にはいわゆる三ツ葉の葵の御門が付されています。

  • 「見性院殿之墓」石標

    「見性院殿之墓」石標

  • 境内風景

    境内風景

  • 清泰寺の文化財説明板

    清泰寺の文化財説明板

  • 清泰寺会館

    清泰寺会館

  • 大関東氷川神社<br /><br />清泰寺から東浦和駅に向かう途中に氷川神社があります。

    大関東氷川神社

    清泰寺から東浦和駅に向かう途中に氷川神社があります。

  • 氷川神社参道

    氷川神社参道

  • 氷川神社拝殿

    氷川神社拝殿

  • 氷川神社本殿

    氷川神社本殿

  • 本殿近景

    本殿近景

  • 本殿

    本殿

  • 氷川神社説明

    氷川神社説明

  • 境内風景

    境内風景

  • 境内風景

    境内風景

  • 赤山街道

    赤山街道

  • 赤山街道説明<br /><br />氷川神社の道路沿いに立てられた「赤山街道」説明板。江戸時代初期関東郡代伊奈忠治(いな・ただはる)が構えた陣屋のある赤山に向かう街道として知られています。伊奈氏は歴代に亘って北関東の治水事業に従事しています。

    赤山街道説明

    氷川神社の道路沿いに立てられた「赤山街道」説明板。江戸時代初期関東郡代伊奈忠治(いな・ただはる)が構えた陣屋のある赤山に向かう街道として知られています。伊奈氏は歴代に亘って北関東の治水事業に従事しています。

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