2015/06/25 - 2015/06/26
58位(同エリア73件中)
ムッシュさん
奥州仙台道歩き。白石宿を出て、宮宿⇒金ヶ瀬宿⇒大河原宿⇒舟迫(ふなばさま)宿⇒槻木宿(つばのき)⇒岩沼宿と短い小さな宿場を多く通過します。
- 旅行の満足度
- 4.5
PR
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街道は国道から左に分かれ、【宮宿】入口の石塔群が左側にある。
宮宿の入口の微かに痕跡の残る枡形の所に、石仏、石塔が集められていた。
大きな石塔には蠶供養塔と大きく書かれてあった。
この「蠶」の字は読めなかった。調べてみると「蚕」であった。
五輪塔や、弘化4年(1848年)と刻まれた蠶影山(こかげさん)大権現(蚕の神様)、馬頭観世音、庚申塔、そして小さな蠶供養塔等が整然と並べられていた。 -
空き地に馬頭観世音や庚申などの石塔群が並んでいる。
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街道を少し進んだ、宮小学校の入り口には、【小野訓導殉職碑】 がある。
【小野訓導殉職碑】
大正11年3月に宮城県女子師範学校を卒業して、刈田郡宮尋常高等小学校(現:蔵王町宮小学校)の訓導(教師)となり、22歳で殉職した小野さつき先生の殉職碑である。
大正11年7月7日、担任をしていた4年生児童56人をつれて白石川の中河原に野外写生にでかけ、授業も終わる頃になって暑さのあまり水遊びを懇願する生 徒に仕方なく足だけ水に浸すことを許した。ところが、そのうち3人が雨で増水していた川の深みにはまりに流されてしまったのである。これに気がついた小野 先生はとっさに着衣のまま飛び込み、3人のうち2人はすぐ助け出したが、もう1人を助けようとして川に飛び込み生徒にたどり着いたが、力尽き、激流に流されてしまった。
息子を亡くした父親は,むしろの上に横たわる先生の亡骸に「我が子のために先生まで死なせてしまって申し訳ありません!」と号泣したそうだ。一方、さつき 先生の父親は、娘の死を知って「よう死んでくれた」と言った。「よそのお子さんを死なしてお前が一人生きておっては申し訳がない。」と涙をぬぐったとい う。そして、父は娘の後を追うように約1ヶ月後他界した。 -
【刈田嶺神社】
刈田峰(かったみね)神社が、地名の由来となっている。
祭神は日本武尊で、神社の北西に聳える青麻(あおそ)山を信仰の対象とし、
白鳥伝説と結びついて白鳥神社とも呼ばれている。 -
【刈田嶺神社】は、延喜式内社の由緒を誇る。
往古は大刈田山(青麻山)頂に鎮座したが、延暦二十年(801年)西山の若宮に相殿となり、永正年間(1504-1521)現地に遷座された。
江戸時代は、白石城主片倉家の鎮守社だった。本殿は享保三年(1718年)に片倉家により建築奉納され、宮城県指定文化財になっている。また、拝殿と随身門は文政十年(1827年)、宮の豪商森家により建築奉納された。拝殿の扁額は別号の「白鳥大明神」の方がくっきりと書かれている。本殿の後ろに白鳥古墳群がある。案内板によると、この地方では古くより白鳥を神の使いとして尊ぶ習慣がありその崇拝の証として白鳥碑が建てられたと伝えられているそうだ。一番左にある寛文十三年(1673)の石碑は、町内最古級の古碑だそうだ。同じ案内板の「白鳥伝説」により、児捨川の謎が解けた。往古、日本武尊がこの地に遠征した際、逗留した長者の娘とねんごろになり一人の男児を授かった。やがて尊は、妻子を残して都に帰還していった。残された男児は幼くして非凡で、里人は、長じれば必ずこの地を征服するほどになるだろうと恐れ川に投げ捨てた。ところが男児は白鳥に姿を変え、西方へと飛び去った。その後里には災いが起こるようになった。里人は神罰が下ったと恐れ、白鳥が飛び去った西方の山麓に祠を建てて許しを乞うたらその後平和が訪れたという。児捨川の地名の由来。 -
白鳥大明神とも称した、刈田郡の鎮守。
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【大高山神社】
敏達天皇が即位した敏達元年(571)の創建で、祭神は日本武尊で後に推古天皇の御代に聖徳太子の父君の用明帝も合祀されたとのこと。江戸期までは柴田郡総鎮守として崇められていた。
もとはこの上の大高山にあり、阿津賀志山の戦で敗れた奥州軍の大将、藤原国衡は同社の前で戦死したという。 -
【大高山神社】
大高山神社(大河原町)概要: 大高山神社は宮城県柴田郡大河原町金ヶ瀬字台部に鎮座している神社です。大高山神社は案内板によると「江戸時代まで柴田郡総鎮守として崇められた当社は、敏達天皇が即位した敏達元年(571年)に日本武尊を祭神とし創建、後に推古天皇御代、聖徳太子の父橘豊日尊(用命帝)も合祀された。承知9年(842年)従五位の下から昇叙(格上げ)、左大臣藤原忠平がまとめた延喜式には、国から貢ぎ物を受ける。全国285社の一社となり、明治5年(1872年)には郷社となる。本殿は江戸中期の建物で、施設内には国重要文化財の東北最古の鰐口(1293銘)、文治年間(1185~1189年)藤原忠衡寄進の鉄九輪塔、江戸期の絵馬など貴重な文化財を多く所蔵する。」とあります -
【大高山神社】
奥州街道60番目の宿場金ヶ瀬宿入口にある延喜式内社である大高山神社。
敏達天皇が即位した敏達元年(571年)の創建という。
祭神は日本武尊、用明天皇(聖徳太子の父)であるが、元来は蔵王山をご神体としていたようだ。この地方の白鳥崇拝は同社が発祥といわれている。
江戸期までは柴田郡総鎮守として柴田町新開の台ノ山にあったが焼失し、元禄4年に同地に再建されていたが、大正3年に現在地に移転。 -
大高山神社
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見事な蔵屋敷、旧家
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最勝院(西の寺)
街道左側にある真言宗・最勝院で、街道を挟んでl西側にあるので西の寺と呼ばれている。
例年夏に行われる聖天祭(おしょうでんさん)は賑やかに行われているとのこと。又寺の境内には愛宕神社が鎮座している。
最勝院の創建は天正年間1573~92と推定されていますが、『封内風土記』によると、刈田郡蔵王町宮の蓮蔵寺の4世実専和上が後継者に連蔵寺を譲って寛永2年(1625)に最勝院を中興開山した隠居寺でありました。
正徳3年(1713) と安政5年(1858)の大火で全焼し、古文書文献がほとんど焼失しましたが、本尊は無事搬出されました。その後70年間にわたり仮堂での寓居を余儀なくされていましたが、昭和8年にお檀家さんの協力によって本堂再建に着工することができ、昭和12年に落成しました。 -
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国道4号線で、その向こう側の山の麓に、新しい観音像と古い石塔、石碑群 が並んでいる。
近づくと、前から2列目に「奥の細道 韮神山」と書かれた表示杭が立っていて、その右側に芭蕉の句碑 が建っていた。芭蕉は、元禄2年(1689)5月4日(新暦6月20日)にこの地を通過し た。
そのときには、句は作らなかったが、後日、芭蕉を尊崇していた大河原の俳人、村井江三が弘化3年(1846)に、芭蕉が伊賀上野で詠んだ「鶯の 笠おとしたる 椿かな」 の句碑を建てたのである。 -
芭蕉を尊崇していた大河原の俳人、村井江三が弘化3年(1846)に、芭蕉が伊賀上野で詠んだ「鶯の 笠おとしたる 椿かな」 の句碑を建てたのである。
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芭蕉句碑・藤原実方の「憚りの関」の歌碑などが並んでいる。
芭蕉の句は伊賀上野で詠まれたもの、「憚りの関」は古来の歌枕の地で、『枕草子』にも登場する関。藤原実方は陸奥守として左遷され、東山道(東街道)を下る途中(赴任中に歌枕の「阿古耶の松」を訪れた帰途とも)、笠島の道祖神社前で馬から落ちて、落馬してあえなく死んじまった哀れな公達、源氏物語の光源氏のモデルの一人ともいうプレイボーイ。奥州街道二本松宿の手前の七夜坂でも、七夜桜の歌を詠んでいる。『奥州街道(郡山宿→二本松宿)』
芭蕉は『奥の細道』の旅で、笠島の道祖神社と実方の墓を訪れたかったが、梅雨のぬかり道で断念し、無念さを滲ませた一節と句も残している。そこ(東街道)は仙台に着いた後に歩く予定。 -
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【船迫の薬師堂】
手前左端には蠶(蚕)神、そして階段の右側には供養塔等の石塔が並べてある。
右端の白い石柱には「薬師堂のサクラ」と記されてあった。 -
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【船岡城址のモミの木】
白石川の対岸から城址を望んだものでモミの木が聳えたっている。 今から約340年前(万治3年)仙台藩62万石3代目藩主、伊達綱宗が不行跡を理由に幕府から隠居を命じられ、3歳の亀千代が家督を相続したことに端を発する、のちに伊達騒動とも呼ばれる寛文事件が勃発した。その寛文事件をテーマにした山本周五郎作のNHK大河ドラマ「樅ノ木は残った」に登場する原田甲斐は、今までの逆臣説から一転、伊達政宗の子、兵部を利用して仙台藩のとりつぶしを狙った酒井忠清の陰謀を未然に防ぎ、伊達家の安泰を守った忠義の人物という設定で描かれており、新たな原田甲斐として注目を集めた。寛文11年、酒井邸での「郡境の件尋問」の後、流血騒動となり、甲斐は斬死、一族の男は切腹、女はお預け、多くの家臣は帰農となり、悲哀の運命を辿った。船岡城址公園に残るゆかりの樅ノ木を一目見ようと、多くの人が柴田町を訪れた。 -
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【東武(とうたけ)神社】
このあたりに岩沼の一里塚があったらしい。
東武神社(とうたけじんじゃ)、祭神 : 食稲魂神(うかのみたまのかみ)例祭日 春祭り四月最後の日曜日、秋祭り九月最後の日曜日 前夜の宵祭りは、例大祭の報告祭を竹駒神社により執行される。
創建は、吹上地区が阿武隈川の増水により遊水地となる荒地であった時代に、逢隈と岩沼の境にあった深川沿いの堤防が決壊した時、その跡が池になったという。
この地の辺に水魔を鎮め五穀豊穣と氏子平安の鎮守様して食稲魂神を勧請した。 -
竹駒神社参道。
竹駒神社は日本最大稲荷の一つで、陸奥国府を鎮護するため創建された古社だ。
農業、養蚕、馬産、職人の神として信仰されてきた。
また、歌枕「武隈(たけくま)の松(二木(ふたき)の松)」の地でもある。
岩沼の古名が武隈の里であった。 -
土井晩翠の歌碑
東北では屈指の古社である竹駒神社の境内に建つ歌碑です。あの「荒城の月」の作詞者として有名な土井晩翠が、竹駒神社の桜を詠った歌が刻されています。。 -
【竹駒神社向唐門】
竹駒神社の向唐門で、天保13年(1842年)に創建1千年を記念して造られたものだ。楼門と同じく、総檜素木造りとなっている。総檜、素木造りでは、県下最大の建造物とのこと。
竹駒神社の向唐門で、天保13年(1842年)に創建1千年を記念して造られたものだ。楼門と同じく、総檜素木造りとなっている。
総檜、素木造りでは、県下最大の建造物とのこと。 -
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【竹駒神社】
別名竹駒稲荷と言われる通り、稲荷神社であるが、承和9年(842年)、小野篁(おの の たかむら)が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建したと伝えられる。戦国時代には衰微していたが伊達稙宗が社地を寄進するなど、伊達家の崇 敬を受け発展し、文化4年(1807)には正一位の神階を受けた。
かつての社殿は、仙台藩の5代藩主伊達吉村によって造営されたものであったが、平成2年(1990年)に火災で焼失し、平成6年(1994年)に再建された。
なお、竹駒という社名は、現岩沼市域の旧称「武隈」の転訛であり、もともとは、市内を流れる阿武隈川に由来するとのこと。
岩沼宿の枡形を抜けると、すぐ左手にあるのが日本三大稲荷の一社、竹駒神社(旧称武隈明神)だ。
尤も、総本宮である伏見稲荷大社では地域により異なる為、三大稲荷の三社を限定することはしていないようだ。
竹駒神社の由緒によると、承和9年(842年)、小倉百人一首にも名を連ねている。小野篁(たかむら)卿が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建したと伝えられている由。
写真は入口にある立派な楼門(随身門)で、文化9年(1812年)に建立された、
総欅材使用している。江戸後期の秀作とされている。 -
岩沼市本町で右折・左折をくり返し 「竹駒神社」へ
平成6年再建の新社殿。見事な外観で、三大稲荷と言われる所以である。なお、三大稲荷とは、 伏見稲荷大社(京都市)、豊川稲荷(愛知県)は当然として、あとの1社に上げられているのは、5~6社もある。
承和9年(842年)に小野篁(オノノタカムラ)卿が陸奥守として着任に際し 東北開拓・殖産興隆の大神として創建する
日本三大稲荷の中で 伏見稲荷神社を外すことはないだろうが 最上稲荷(岡山)瓢箪山稲荷(大阪)笠間稲荷(茨城)竹駒神社(宮城)も名乗っているらしい
竹駒神社社殿で、拝殿、幣殿、本殿が一体となっている。
前の社殿は、仙台藩5代藩主伊達吉村によって造営されたが、平成2年に放火によって焼失し、現在の社殿は平成5年に再建されたものだ。祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ、稲荷神)、保食(うけもち)神、稚産霊(わくむすび)神である。 -
【竹駒神社本堂】
承和9年(842)、小倉百人一首で有名な小野篁(おののたかむら)卿が陸奥守として多賀城に赴任した際、奥州鎮護のため京都伏見稲荷の分霊を勧請して創建したと伝えられています。伊達政宗公の曾祖父である稙宗公や、仙台藩二代藩主・忠宗公、五代藩主・吉村公など、伊達家歴代から手厚い庇護を受けました。日本三稲荷のひとつと言われ、産業開発、五穀豊穣、商売繁昌などの御神徳があることで知られています。例年、全国各地から約160万人の参詣者が訪れます。
竹駒神社社殿で、拝殿、幣殿、本殿が一体となっている。
前の社殿は、仙台藩5代藩主伊達吉村によって造営されたが、
平成2年に放火によって焼失し、現在の社殿は平成5年に再建されたものだ。
祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ、稲荷神)、保食(うけもち)神、
稚産霊(わくむすび)神である。 -
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車の安全祈願
左の女性の誘導で、車寄せにクルマで行くと、右の神主さんが、その場で祈祷して下さいます。ま、何テッ言うか、ドライブスルー方式ですね。 -
[武隈の松]
神社境内の北東部に、二木塚(ふたきつか)と言われる芭蕉句碑が立っている。
芭蕉の紀行文の奥の細道には「武隈 の松」を訪れた章があり、寛政5年(1793年)、芭蕉翁百年忌法要を記念して芭蕉六世とも言われた俳人謙阿の句碑とともに建てられた。
芭蕉の句碑には
「佐くらより 松盤(は)二木を 三月越し」 とあり、
謙阿の句碑には
「朧よ里 松は二夜の 月丹こ楚(朧より 松は二夜の 月にこそ)」 と刻まれている。
*「二木の松(ふたきのまつ)」とも呼ばれ、陸奥にある歌枕の中でも詠まれていた詩歌の多さでは屈指の松。源氏物語の中にも登場しています。
“桜より松は二木を三月越し”と詠んだのは、俳聖松尾芭蕉。元禄2年(1689)にこの地を訪れ、江戸から三月にかけて旅し、ようやくこの松を見ることができたとの感慨を詠んだと言われています。平成26年3月には、往時の威風を現在に伝える貴重な景観が評価され国名勝に指定されました。
*竹隈神社境内にある芭蕉句碑と謙阿句碑。
芭蕉は、元禄2年(1689年)、曽良と共にみちのくの旅に出て「おくのほそ道」を著した。
その中に「武隈の松」を訪れた章がある。
さらに「曽良随行日記」に竹駒明神が登場してくる。
その時の句「佐くらより 松盤(ば)二木を 三月越し」が写真左側の句碑(二木塚)に
刻まれてあった。
右側の謙阿句碑(名月塚)は、寛政5年(1793年)、芭蕉翁の百年忌法要を記念して建立された句碑である。
句碑には、謙阿の句「朧よ里(り) 松は二夜の 月丹(に)こ楚(そ)」と刻まれてあった。
謙阿は古内家の給士で、芭蕉6世とまで言われた俳人とのことだ。 -
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文化庁では、江戸時代を代表する俳人である松尾芭蕉が記した紀行文学である『おくのほそ道』に関係する、優れた風致景観を保護していくことを目的として、『おくのほそ道』に登場する名所旧蹟を一連の名勝として文化財指定しました。
【奥の細道】
5月4日、白石を出発して岩沼を経由し名取川・若林川(広瀬川)をわたって仙台に入る。
「桜より松は二木を三月越し」
挙白は、「武隈の松見せ申せ遅桜」と餞別の句を呉れたが、私を待っていたのは二木の松で、私の奥の細道の旅の今日までの3ヶ月越し待っていてくれました。そしていま私も三月越しに松を見ました。挙白に対する答礼の句。掛詞で埋まっている。たとえば、「松」は「待つ」に、「三月」は「見つ」に、「二木」は「三月」と数を揃えるために置かれている。技巧の勝って良い句とは言えない。
なお、『四季千句』では、
「散り失せぬ松や二木を三月越し」と詠んでいる。 -
「宇恵し登きち起里やしけ舞多計久満の
松をふたたびあ飛見つ留嘉那」 藤原元良
「堂希久満の松八二木越美屋古人
い可ゞと問ハゞみ起とたたへ舞」 橘 季通
万葉仮名で書かれている。
明治34年(1901年)、岩沼の醸造家松尾小左衛門建立。鈴木省三(号…雨香書。
昭和3年(1928年)7月22日、荻原井泉水は「二木の松」で歌碑を見ている。
この松の後に植継ぐべきものとして、小松が別に育ててある、そこには碑を立てて、この松に関する古歌が刻してあった。
うゑしときちぎりやしけむたけくまの」 藤原元良
松をふたゝびあひみつるかな
たけくまの松は二木を都人 橘 季通
いかゞととはゞ三木とこたへん 『随筆芭蕉』(武隈の松) -
松尾芭蕉翁像 (JR岩沼駅前広場)
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【松尾芭蕉像】
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JR岩沼駅
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「桜より松は二木を三月越し」芭蕉句碑
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岩沼市観光案内図
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