2015/09/10 - 2015/09/10
2334位(同エリア2957件中)
ムッシュさん
奥州仙台道を、岩沼宿⇒中田宿⇒長町宿⇒仙台のコースを歩く。
- 旅行の満足度
- 4.5
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岩沼市の街道沿いの民家。入口門は貫録あります。存在感たっぷり。
【八島家住宅(旧検断屋敷)】
概要:
八島家住宅は案内板によると「八島家はもと奥州街道の岩沼宿本陣と南町検断を兼ねた家である。本陣は、他藩の大名や幕府の役人が宿をとり、仙台藩主の伊達氏が宿泊または昼食をとるときは、御休所と呼ばれた。」とあります。
旧街道側には変形な楼門形式の長屋門が現存(年代不明、切妻、桟瓦葺、三間一戸、上層部は格子戸、下層部は真壁造り鏝押え、腰壁は下見板張り縦押縁押え、両側の長屋から桁が伸び、出桁造りのように2階が乗っている特異な形式が採用されています。)していて両側が長屋として使われています。このような形式の門は極めて珍しく初めて見るタイプです。特に文化財指定はされていないようですが、敷地内に残されている文庫蔵と共に岩沼の歴史性や町並み保全の為にも長く保存してもらいたい建物の1つです。
本陣・南町権断屋敷跡(八島家)
街道左側にかつての南町検断屋敷、岩沼宿本陣があった。
南町検断屋敷は北町、中町と同様に藩の費用で設置されたもので、治安、交通運搬、鉄砲鑑札等を担っていた。また肝入り(名主、庄屋)と共に、「高人数御改帳」の役目も担っていた。
左の写真は当時の検断屋敷の突上二階櫓門である。 -
こちらは蔵屋敷風の様式。
岩沼市は岩沼藩の藩庁が置かれた岩沼城の城下町として発展した町で、奥州街道の宿場町でもありました -
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こちらの商店も素敵です。【相傳商店】
初代傳兵衛が文政4年(1821年)に創業した酒造店で、名取川の伏流水を汲み上げて利用している。
銘酒「名取駒」で知られた蔵元だ。
また副産物である酒粕を利用した奈良漬も評判で、農林大臣賞も受賞してい -
店蔵を利用した軽食喫茶店「四方山」
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【道祖神路(芭蕉の句碑)】
名「芭蕉の句碑」「笠島塚」「芭蕉塚」と呼ばれています。
碑の正面(東面)に「道祖神路」と刻まれ、北面には、道祖神社や藤原実方の墓の場所や、この碑建立の趣旨のほか、道祖神社・名取川・仙台城下への距離が刻まれているため、一種の道標であると考えられます。南面には、「笠島はいづこ皐月のぬかり道 はせを」という松尾芭蕉の句が刻まれています。安政3年(1856)に仙台の小西利兵衛と地元の人々によって再建されてもので、それ以前は「笠島塚」と言われる道標があったと伝えられています。 -
【弘誓寺(ぐせいじ)】境内に到着。
本日は雨の中での歩きです。実は、茨城県で鬼怒川決壊の災害が起きた日です。
東北一古い鐘があるそうだ。
真言宗の古寺、弘誓寺(ぐぜいじ)は9世紀前半に弘法大師空海が開いたと伝えられています。江戸時代には、仙台藩より寺領2貫文を与えられており、高い格式を持ち、旧名取郡内に末寺を16箇所も有していました。この寺の界隈の植松という地名は、かつて寺の門前にあった、弘法大師が植えた由緒ある松にちなんだものと言われています
金剛遊山観音院弘誓寺は宮城県名取市植松4丁目に境内を構えている真言宗智山派の寺院です。弘誓寺は案内板によると「当時は真言宗智山派で本尊は不動明王。承和年間(834~848年)弘法大師が開基したといわれ、中興開山は寛喜2年(1230年)慈明坊良賢だとされる。境内には、日切地蔵尊、観音堂がある。」とあります。
創建伝説の他の説は弘仁2年(811年)に弘法大師空海(真言宗の開祖)によって開山したとされ、江戸時代には仙台藩(藩庁:仙台城)から寺領2貫文を安堵されて末寺を16ケ寺を擁する大寺院として発展しました。 -
【館腰神社】
神社の由来は、嵯峨天皇の弘仁2年(811年)、弘法大師(空海)が弘誓寺を創建する時に、京都伏見稲荷社を分霊したと伝えられています。祀られている神 は、倉(う)稲(かの)魂(みたまの)神(かみ)・大宮(おおみや)姫(ひめの)神(かみ)・猿田彦(さるたひこの)神(かみ)の3神で、奥州(街)道沿 い館の腰といわれる山の麓に近い所に鎮座することから社名が館腰神社と呼ばれるようになりました。
由緒を記した案内板によると「嵯峨天皇の弘仁2年(811年)僧空海、当地に弘誓寺(ぐせいじ)を創建するにあたり、京都伏見稲荷大社より分霊奉斎すと伝えられる。境内には神仏混合の名残で弘誓寺観音堂や日切地蔵尊、撫牛大黒天、鐘付堂などがあり、地名の由来となった弘法大師手植えの松などがある。 -
日切地蔵堂
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【日切地蔵堂】
延宝のころ(1670年代)、石巻の牧山観音長禅寺に法力非凡の栄存法印という僧侶がいた。しかしその地の代官、笹町新左衛門との間で争いが起こり、代官は権力をもって、栄存法印を女川の江ノ島へ流刑に処した。 法印は無実の罰を嘆き怒り、笹町を恨みつつ江ノ島で没した。一方笹町は栄存法印の亡霊に悩まされ、発狂し家族を切り殺し、一家は断絶した。そのとき、笹町家に女中をつとめていたここ植松出身の佐竹某の妻女が、栄存法印と笹町家の弔慰のため宝永元年(1704年)地蔵尊を奉祀勧請したのがこの日切地蔵尊である。 以来、この尊前に日を切って願をかけるものは、その願いがかなったことから、誰いうともなく日切のお地蔵様と言う様になり信仰をあつめ今に至る。 -
日切地蔵堂
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【衣笠の松(増田公民館)】 ここは北方検断屋敷跡
仙台藩政時代から明治にかけて名取郡の北方検断を勤めた菊地善蔵氏邸内(現増田公民館敷地)の庭に繁茂していた古木の中に樹齢数百年と思われる大傘の松(アカマツ)がありました。
明治9年6月、明治天皇東北ご巡幸のおり、同屋敷の大傘の松の近くに行在所(あんざいしょ)をあつらえ、そこで天皇御一行が御休息の際、随行者の木戸孝允が詠んだ和歌「大君の立寄りましし蔭なれば、衣笠の松とこそいうなかりけれ」によって”衣笠の松”と命名されました。
また、この松の横に衣笠の松の由来と菊地家の武勲と忠誠について書かれている「衣笠松記念碑」が建立されています。
名取市教育委員会発行「名取の文化財ハンドブック」より
【検断屋敷跡に立つ衣笠の松】
奥州街道の開通に伴い慶安3年(1650)仙台藩主伊達忠宗の時に増田宿駅を設置された。人馬の世話をする役所が置かれ、衣笠の松はその最後の検断菊池氏屋敷跡に建つ老松で、樹齢300有余年、高さ5m余り、笠の形をしている。明治9年(1876)、明治天皇の東北巡行の折、随行者の木戸孝允が詠んだ「大君の立ち寄りましし陰ならば、衣笠とこそいうなかりけれ」より、衣笠の松と命名された。 -
「明治天皇増田御膳水」の碑が立っている
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仙台市に到着しています。
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北目町の交差点を直進し、丁字路にぶつかると、【大日如来堂】 がある。
柳町通りの名が残るこの辺りは、藩政時代のお茶屋の町で、伊達家が米沢領だった時代からの譜代町であった。
ここ旧柳町は、伊達家が米沢領時代からの御譜代町で、慶長6年(1602年)伊達政宗が仙台城下の町割りに使用した縄をここに集めて燃やし、その跡に城下鎮護のため堂を建てて、大日如来を安置したと伝えられている。
以来、柳町のお大日さんとして、羊、申年生まれの守り本尊として親しまれてきた
如来堂である。 -
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ゴール。芭蕉の辻
青葉通りの交差点を過ぎると、旧奥州街道(現国分町通り)と大町(おおまち)通りの交差点となり、かつては芭蕉の辻と呼ばれたところで、この道を行くと青葉城大手門のあるところ。
そして、右側は新伝馬町、名懸丁と続いて、その先は旧陸奥国・多賀城、仙台の外港である塩竃港、松島、東回り航路の石巻へと続いていた。
この芭蕉の辻は、江戸時代の仙台城下の中心であった十字路で、宮城県の道路元標(里程元標)が設置されている。
仙台の城下町は大手門から大手筋(大町の街路)とこれに直交する奥州街道を基準に町割りが行なわれ、大町と国分町の両町が城下の経済の中心であった。
辻には制札場(高札場)があり、当時は「札の辻」と呼ばれていた。仙台藩の威信を示す為、この四つ角総てに城郭風の高楼を備えた同じ形状の建物が造られ、建物の一階部分は普通の商家の造りとなっていて、地元の豪商に貸与されていた。
その後、芭蕉の辻と呼ばれるようになったが、これは松尾芭蕉との関係では無かった。伊達政宗の間諜として働き、恩賞として、この辻の四隅の建物を授かった
芭蕉と言う虚無僧が住んでいたからとのことのようだ。
道標元標(里程元標)には、
「南 江戸日本橋迄 六十九次九十三里、奥州街道」、
「北 津軽三厩迄 四十五次百七里二十二丁」と刻まれてあった。
換算すると、日本橋まで約366km、
右側は芭蕉の辻と刻まれた、未だ新しい石碑であった。
奥州街道の内、仙台道と言われた旧街道の終点で、この先の奥州街道は松前道とも呼ばれていた。 -
里程標には、「南 江戸日本橋迄 六十九次九十三里、奥州街道」、「北 津軽三厩迄 四十五次百七里二十二丁」
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