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彦根城は、徳川家康の命により、琵琶湖を見下ろす小高い丘陵「彦根山」に鎮西を担う井伊家の拠点として築城された平山城です。<br />彦根城と城下町の建設は、今からおよそ410年前の1604年に始まり、井伊直継・直孝兄弟によって18年の歳月をかけて1622年に完成しました。豊臣家や西国大名を押さえ込む拠点ともなり、彦根藩の藩庁が置かれて多くの大老を輩出した譜代大名 井伊家14代に亘る居城でした。また、「井伊の赤備え」と呼ばれる深紅の軍装は、幕府の軍事力の象徴でもありました。<br />彦根城は、明治初期の廃城令に伴い解体の危機に瀕し、一時は解体の足場まで組まれました。しかし、北陸巡幸を終え、彦根に立ち寄った明治天皇の勅命で破壊を免れました。参議 大隈重信がその消失を惜しみ、天皇に奉上したとする説や天皇が近江町長沢の福田寺で小休止された時、住持 攝専(せっせん)夫人で、天皇の従妹に当たるかね子が奉上した説も伝えられています。<br />天守と附櫓(つけやぐら)および多聞櫓(たもんやぐら)が国宝に指定されている他、安土桃山時代から江戸時代の櫓や門など5棟が現存し、国重要文化財に指定されています。<br />1996年に築城以来5度目の大改修が行われ、天守の34種類約6万枚にも及ぶ屋根瓦の吹き替えと白壁の塗り替えが行われ、かつての美しい姿を蘇らせています。<br />世界遺産を採択するユネスコには「唯一無二の価値」という基準があるため、姫路城が世界遺産として登録されている現在、彦根城の登録は難しいのですが、個人的には世界遺産にならない方が「お城好き」には幸せではないかとも思います。<br />彦根観光協会のHPはこちらを参照ください。<br />http://www.hikoneshi.com/jp/castle/

松風水月 彦根紀行①彦根城

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2015/05/02 - 2015/05/02

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73

montsaintmichel

montsaintmichelさん

彦根城は、徳川家康の命により、琵琶湖を見下ろす小高い丘陵「彦根山」に鎮西を担う井伊家の拠点として築城された平山城です。
彦根城と城下町の建設は、今からおよそ410年前の1604年に始まり、井伊直継・直孝兄弟によって18年の歳月をかけて1622年に完成しました。豊臣家や西国大名を押さえ込む拠点ともなり、彦根藩の藩庁が置かれて多くの大老を輩出した譜代大名 井伊家14代に亘る居城でした。また、「井伊の赤備え」と呼ばれる深紅の軍装は、幕府の軍事力の象徴でもありました。
彦根城は、明治初期の廃城令に伴い解体の危機に瀕し、一時は解体の足場まで組まれました。しかし、北陸巡幸を終え、彦根に立ち寄った明治天皇の勅命で破壊を免れました。参議 大隈重信がその消失を惜しみ、天皇に奉上したとする説や天皇が近江町長沢の福田寺で小休止された時、住持 攝専(せっせん)夫人で、天皇の従妹に当たるかね子が奉上した説も伝えられています。
天守と附櫓(つけやぐら)および多聞櫓(たもんやぐら)が国宝に指定されている他、安土桃山時代から江戸時代の櫓や門など5棟が現存し、国重要文化財に指定されています。
1996年に築城以来5度目の大改修が行われ、天守の34種類約6万枚にも及ぶ屋根瓦の吹き替えと白壁の塗り替えが行われ、かつての美しい姿を蘇らせています。
世界遺産を採択するユネスコには「唯一無二の価値」という基準があるため、姫路城が世界遺産として登録されている現在、彦根城の登録は難しいのですが、個人的には世界遺産にならない方が「お城好き」には幸せではないかとも思います。
彦根観光協会のHPはこちらを参照ください。
http://www.hikoneshi.com/jp/castle/

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • JR彦根駅<br />JR西日本の新快速で尼崎から1時間30分程で彦根に到着です。<br />

    JR彦根駅
    JR西日本の新快速で尼崎から1時間30分程で彦根に到着です。

  • JR彦根駅<br />駅前広場の全景です。<br />大きな時計台があります。<br /><br />

    JR彦根駅
    駅前広場の全景です。
    大きな時計台があります。

  • JR彦根駅 井伊直政騎馬像 <br />駅前ロータリでは騎馬に跨った井伊直政のブロンズ像が出迎えてくれます。<br />彦根城を築城したのはこの直政ではなく、子の直継・直孝兄弟ですが、徳川家康の腹心「徳川四天王」のひとりとして大活躍し、井伊家が彦根藩35万石の大名となる基盤を築いた人物ということで、地元では井伊家と言えば直政です。<br />若き直政が家康に取り立てられたのは、直政のはとこで養母の井伊直虎(女性)のおかげだったとも言われています。また、幕末に直弼が江戸幕府の大老に就けたのもこのことが影響しています。<br />井伊直政は今川家家臣 井伊直親の子として産まれましたが、翌年、直親は今川義元の跡を継いだ氏真から謀反の疑いをかけられ誅殺されました。井伊家を継ぐ者がおらず、窮余の策として直政のはとこで出家していた祐圓尼が男装して直虎と名乗り、ワンポイントリリーフとして井伊家を継ぎ、直政を養育することになりました。こうして世にも稀な戦国時代のジャンヌダルクとして新たな人生を歩みだしました。<br />今川家は井伊家の領地を狙うため徳政令を執拗に要求しますが、慎重に行動して平和的な決着を求めました。しかし、やむを得ず徳政令が出されると今川家は井伊谷を押収しました。直虎は城を追われ、龍潭寺に身を寄せました。その直後、今川家は武田徳川両家に攻め込まれて滅亡、直虎は武田徳川のいずれの側につくかの選択を迫られました。そこで、直親が生前密かに徳川家へつく準備を進めていたことから、直虎はその意志を受け継ぎました。<br />その後、直虎は、15歳になった直政を家康の家臣へ取り立てるよう願い出ました。直虎は、家康の行動を調べ上げ、趣味の鷹狩りに赴く道すがらに偶然を装って直政に出会うよう仕掛けました。その際、直政の着物すらも目を引くものをと、自ら縫い上げました。計画通り家康に出会った直政は、古来徳川家と井伊家は関わりがあり、自分も仕えたいと願い出ました。この時家康は、只者ではないと気に入った様子で、その後万千代という名を授かって家臣として大車輪の活躍をしました。

    JR彦根駅 井伊直政騎馬像 
    駅前ロータリでは騎馬に跨った井伊直政のブロンズ像が出迎えてくれます。
    彦根城を築城したのはこの直政ではなく、子の直継・直孝兄弟ですが、徳川家康の腹心「徳川四天王」のひとりとして大活躍し、井伊家が彦根藩35万石の大名となる基盤を築いた人物ということで、地元では井伊家と言えば直政です。
    若き直政が家康に取り立てられたのは、直政のはとこで養母の井伊直虎(女性)のおかげだったとも言われています。また、幕末に直弼が江戸幕府の大老に就けたのもこのことが影響しています。
    井伊直政は今川家家臣 井伊直親の子として産まれましたが、翌年、直親は今川義元の跡を継いだ氏真から謀反の疑いをかけられ誅殺されました。井伊家を継ぐ者がおらず、窮余の策として直政のはとこで出家していた祐圓尼が男装して直虎と名乗り、ワンポイントリリーフとして井伊家を継ぎ、直政を養育することになりました。こうして世にも稀な戦国時代のジャンヌダルクとして新たな人生を歩みだしました。
    今川家は井伊家の領地を狙うため徳政令を執拗に要求しますが、慎重に行動して平和的な決着を求めました。しかし、やむを得ず徳政令が出されると今川家は井伊谷を押収しました。直虎は城を追われ、龍潭寺に身を寄せました。その直後、今川家は武田徳川両家に攻め込まれて滅亡、直虎は武田徳川のいずれの側につくかの選択を迫られました。そこで、直親が生前密かに徳川家へつく準備を進めていたことから、直虎はその意志を受け継ぎました。
    その後、直虎は、15歳になった直政を家康の家臣へ取り立てるよう願い出ました。直虎は、家康の行動を調べ上げ、趣味の鷹狩りに赴く道すがらに偶然を装って直政に出会うよう仕掛けました。その際、直政の着物すらも目を引くものをと、自ら縫い上げました。計画通り家康に出会った直政は、古来徳川家と井伊家は関わりがあり、自分も仕えたいと願い出ました。この時家康は、只者ではないと気に入った様子で、その後万千代という名を授かって家臣として大車輪の活躍をしました。

  • JR彦根駅<br />騎馬像の足元を覗き込むと彦根城天守と西の丸 三重櫓のミニチュアが飾られています。<br />赤字に『井』」は、井桁紋と言われる赤備えの「井伊旗」です。<br />

    JR彦根駅
    騎馬像の足元を覗き込むと彦根城天守と西の丸 三重櫓のミニチュアが飾られています。
    赤字に『井』」は、井桁紋と言われる赤備えの「井伊旗」です。

  • 駅前商店街<br />キティちゃんは、もちろんご当地キャラクター「ひこにゃん」仕様に変身しています。<br />「ひこにゃん」人気は未だ健在です!<br />

    駅前商店街
    キティちゃんは、もちろんご当地キャラクター「ひこにゃん」仕様に変身しています。
    「ひこにゃん」人気は未だ健在です!

  • 駅前通り<br />石材店の軒先にも、それとなく「ひこにゃん」の石像が置かれていたりします。<br /><br />

    駅前通り
    石材店の軒先にも、それとなく「ひこにゃん」の石像が置かれていたりします。

  • 滋賀縣護国神社<br />特に興味はないのですが、通り道としてこちらを通らせてただきます。<br />1876(明治9)年に官祭招魂社として創建され、後に「護国神社」と改称されました。明治戊辰の役から西南の役、日清・日露戦争さらには大東亜戦争に至る滋賀県出身の戦没英霊を祭祀し、今は世界平和を願い祈る参拝者が数多く訪れています。<br />

    滋賀縣護国神社
    特に興味はないのですが、通り道としてこちらを通らせてただきます。
    1876(明治9)年に官祭招魂社として創建され、後に「護国神社」と改称されました。明治戊辰の役から西南の役、日清・日露戦争さらには大東亜戦争に至る滋賀県出身の戦没英霊を祭祀し、今は世界平和を願い祈る参拝者が数多く訪れています。

  • 滋賀縣護国神社<br />藤がきれいに咲いています。

    滋賀縣護国神社
    藤がきれいに咲いています。

  • 中堀 いろは松<br />天守閣がちょこんと顔を出しています。正面が二の丸 佐和口多聞櫓。右側にある松並木が「いろは松」です。<br />表門橋に向かう中濠の沿道の松並木は2代藩主直孝の頃に植えられ、47本あったために「いろは47文字」にひっかけてこの名が付けられました。現在33本(補植12本)が残り、当時の面影が偲ばれる通りです。この場所は江戸時代には「松の下」と呼ばれ、藩主の参勤や着城で必ず通る場所でした。そのため、通行の妨げにならないように根が地上に這い出さない土佐松が植えられています。

    中堀 いろは松
    天守閣がちょこんと顔を出しています。正面が二の丸 佐和口多聞櫓。右側にある松並木が「いろは松」です。
    表門橋に向かう中濠の沿道の松並木は2代藩主直孝の頃に植えられ、47本あったために「いろは47文字」にひっかけてこの名が付けられました。現在33本(補植12本)が残り、当時の面影が偲ばれる通りです。この場所は江戸時代には「松の下」と呼ばれ、藩主の参勤や着城で必ず通る場所でした。そのため、通行の妨げにならないように根が地上に這い出さない土佐松が植えられています。

  • 井伊直弼 歌碑<br />碑文の文字は、直弼の直筆を写し取ったものです。<br />「あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」。<br />「琵琶湖の磯打つ波が、打ち砕けては引き、また打ち砕けては引くことを何回も繰り返しているように、大老就任以来難問が何回となく押し寄せてくる。しかし、私は国の平和と安心を願って、全身全霊を尽くして心を砕いてきたので悔いは残らない」。歌には直弼のこんな心情が詠まれています。<br />直弼は、埋木舎時代より文武に励み、両道を極めました。和歌においても秀で、自作の和歌集を編纂したほどです。<br />この歌を詠んだ2ヶ月後、直弼は桜田門外で水戸浪士らの凶刃に倒れます。開国に揺れ動いた時代の中で、自身の信念を貫こうとした直弼の辞世の句とされています。直弼の姓に藤原とあるのは、井伊家の初代当主共保が藤原氏後裔の氏族の養子で、元は藤原姓を名乗っていたことに因んでいます。<br />この歌碑は、直弼の死から100年が経った1960年に行われた「大老開国100年祭」に先がけて市内の有志によって、いろは松と道を隔てた所に建立されました。

    井伊直弼 歌碑
    碑文の文字は、直弼の直筆を写し取ったものです。
    「あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」。
    「琵琶湖の磯打つ波が、打ち砕けては引き、また打ち砕けては引くことを何回も繰り返しているように、大老就任以来難問が何回となく押し寄せてくる。しかし、私は国の平和と安心を願って、全身全霊を尽くして心を砕いてきたので悔いは残らない」。歌には直弼のこんな心情が詠まれています。
    直弼は、埋木舎時代より文武に励み、両道を極めました。和歌においても秀で、自作の和歌集を編纂したほどです。
    この歌を詠んだ2ヶ月後、直弼は桜田門外で水戸浪士らの凶刃に倒れます。開国に揺れ動いた時代の中で、自身の信念を貫こうとした直弼の辞世の句とされています。直弼の姓に藤原とあるのは、井伊家の初代当主共保が藤原氏後裔の氏族の養子で、元は藤原姓を名乗っていたことに因んでいます。
    この歌碑は、直弼の死から100年が経った1960年に行われた「大老開国100年祭」に先がけて市内の有志によって、いろは松と道を隔てた所に建立されました。

  • 佐和口御門<br />「いろは松」に沿った登城道の正面に佐和口があり、その桝形を囲むように2度曲折する長屋のように築かれているのが佐和口多聞櫓です。佐和口は南の京橋口、西の船町口、北の長橋口と共に中濠に開く4つの門のひとつです。<br />左右の石垣を繋ぐ櫓門にはなっておらず、多聞櫓が左右に分断されて建てられています。説明書によると、かつては中堀の所に高麗門が建てられていたそうです。

    佐和口御門
    「いろは松」に沿った登城道の正面に佐和口があり、その桝形を囲むように2度曲折する長屋のように築かれているのが佐和口多聞櫓です。佐和口は南の京橋口、西の船町口、北の長橋口と共に中濠に開く4つの門のひとつです。
    左右の石垣を繋ぐ櫓門にはなっておらず、多聞櫓が左右に分断されて建てられています。説明書によると、かつては中堀の所に高麗門が建てられていたそうです。

  • 佐和口多聞櫓(重文)<br /><br />佐和口多聞櫓は、佐和口に向かって左翼に伸び、その端に2層の櫓が建ち、多聞櫓に連接しています。この多聞櫓は長屋のような形が特徴的な櫓の一種で、「多聞」の名は戦国武将 松永久秀の多聞城で初めて築かれたことに由来します。<br />西側(左側)の櫓は国重要文化財で、1962年に解体修理が行われています。また、東側(右側)の櫓は、1960年に井伊大老百年祭記念事業として造られたもので「開国記念館」として使われ、外観を昔のままに復元した鉄筋コンクリート造です。<br /><br />彦根城の面白さは、このように城壁の中を自動車が走っていることです。城と自動車といった時代を飛び越えた組合せが絵になります。<br />どことなくイタリアの古都の街角を彷彿とさせるものがあります。

    佐和口多聞櫓(重文)

    佐和口多聞櫓は、佐和口に向かって左翼に伸び、その端に2層の櫓が建ち、多聞櫓に連接しています。この多聞櫓は長屋のような形が特徴的な櫓の一種で、「多聞」の名は戦国武将 松永久秀の多聞城で初めて築かれたことに由来します。
    西側(左側)の櫓は国重要文化財で、1962年に解体修理が行われています。また、東側(右側)の櫓は、1960年に井伊大老百年祭記念事業として造られたもので「開国記念館」として使われ、外観を昔のままに復元した鉄筋コンクリート造です。

    彦根城の面白さは、このように城壁の中を自動車が走っていることです。城と自動車といった時代を飛び越えた組合せが絵になります。
    どことなくイタリアの古都の街角を彷彿とさせるものがあります。

  • 佐和口多聞櫓<br />佐和口多聞櫓の建立については、詳細は不明ですが、彦根城がおおよその完成をみた1622年までには建てられていたと考えられています。その後、1767年に城内で発生した火災で類焼し、道を挟んで左側の建物は1770年頃に再建された姿を留めています。 <br />

    佐和口多聞櫓
    佐和口多聞櫓の建立については、詳細は不明ですが、彦根城がおおよその完成をみた1622年までには建てられていたと考えられています。その後、1767年に城内で発生した火災で類焼し、道を挟んで左側の建物は1770年頃に再建された姿を留めています。

  • 佐和口多聞櫓<br />東の端から見るとこんな感じになります。<br />櫓の内部は7つに区画され、中堀に向かって△と□の狭間が交互に配置されています。三角は鉄砲用の鉄砲狭間、四角は弓矢用の矢狭間です。中堀の外にいる敵を攻撃するようになっています。

    佐和口多聞櫓
    東の端から見るとこんな感じになります。
    櫓の内部は7つに区画され、中堀に向かって△と□の狭間が交互に配置されています。三角は鉄砲用の鉄砲狭間、四角は弓矢用の矢狭間です。中堀の外にいる敵を攻撃するようになっています。

  • 馬屋(重文)<br />修復工事の真っ最中でしたが、工事の様子を見ることができます。<br />このように馬屋が近世城郭内に残されているのは他に例がないそうです。また、その規模も半端ではありません。<br />L字形をした建屋で、佐和口櫓門に接する東端に畳敷の小部屋、反対の西端近くに門がある他は、全て馬立場(うまたちば)と馬繋場(うまつなぎば)となっています。その数は21あり、21頭もの馬を収容することができました。<br />武門をもって知られた彦根藩では、戦のない時代を迎えても著名な兵法家や武術家を多数召し抱えて武術が学び継がれました。馬術も例外ではなく、2代藩主直孝に召し抱えられた神尾織部の「新当流」をはじめ、「大坪流」「大坪本流」「八条流」などの流儀が普及しました。8代藩主 直定は特に馬術を好み、藩士も250石以上は馬扶持(うまふもち)を支給されて馬を所持し、馬術の修練を怠りませんでした。<br />こうした馬に関する役職として馬役がありました。彼らは藩主の馬の日常的な管理・調教を行うとともに、藩主やその子弟、そして藩士に馬術を指南しました。馬屋の馬たちも彼ら馬役によって維持され、藩主などに供されていました。

    馬屋(重文)
    修復工事の真っ最中でしたが、工事の様子を見ることができます。
    このように馬屋が近世城郭内に残されているのは他に例がないそうです。また、その規模も半端ではありません。
    L字形をした建屋で、佐和口櫓門に接する東端に畳敷の小部屋、反対の西端近くに門がある他は、全て馬立場(うまたちば)と馬繋場(うまつなぎば)となっています。その数は21あり、21頭もの馬を収容することができました。
    武門をもって知られた彦根藩では、戦のない時代を迎えても著名な兵法家や武術家を多数召し抱えて武術が学び継がれました。馬術も例外ではなく、2代藩主直孝に召し抱えられた神尾織部の「新当流」をはじめ、「大坪流」「大坪本流」「八条流」などの流儀が普及しました。8代藩主 直定は特に馬術を好み、藩士も250石以上は馬扶持(うまふもち)を支給されて馬を所持し、馬術の修練を怠りませんでした。
    こうした馬に関する役職として馬役がありました。彼らは藩主の馬の日常的な管理・調教を行うとともに、藩主やその子弟、そして藩士に馬術を指南しました。馬屋の馬たちも彼ら馬役によって維持され、藩主などに供されていました。

  • 佐和口多聞櫓<br />裏側から中に入ることができます(入場無料)。多聞櫓の手前は駐車場になっています。<br />多聞櫓には、端が切妻屋根で不自然に途切れた箇所があります。かつてこの地には2階2櫓の櫓門が枡形を見下ろすように架かっていたそうですが、明治時代に解体され、現在は空き地だけが残されています。

    佐和口多聞櫓
    裏側から中に入ることができます(入場無料)。多聞櫓の手前は駐車場になっています。
    多聞櫓には、端が切妻屋根で不自然に途切れた箇所があります。かつてこの地には2階2櫓の櫓門が枡形を見下ろすように架かっていたそうですが、明治時代に解体され、現在は空き地だけが残されています。

  • 佐和口多聞櫓<br />左側の壁が凸凹になっているのが判りますか?<br />火災で焼けたことがあるこの櫓は、火災に懲りた人々が、少しでも燃える部材の表面積を少なくしようと、木材の部分も含めて壁として塗り込んだものだそうです。<br />壁の凸凹の正体は、焼失しないようにと願を込めた壁だったのです。<br />元々の姿は正面奥の壁に見ることができます。水平方向の木材が見えます。

    佐和口多聞櫓
    左側の壁が凸凹になっているのが判りますか?
    火災で焼けたことがあるこの櫓は、火災に懲りた人々が、少しでも燃える部材の表面積を少なくしようと、木材の部分も含めて壁として塗り込んだものだそうです。
    壁の凸凹の正体は、焼失しないようにと願を込めた壁だったのです。
    元々の姿は正面奥の壁に見ることができます。水平方向の木材が見えます。

  • 佐和口多聞櫓<br />中堀に架かる橋を直下に見下ろすことができます。<br />

    佐和口多聞櫓
    中堀に架かる橋を直下に見下ろすことができます。

  • 表門橋<br />表門橋は、明治初期の写真や当時の文献を参考にし、2004年に3年の歳月をかけて復元されたもので、内堀に架けられた橋です。木材には吉野の檜を使用しています。<br />橋の奥には櫓跡の美しい石垣が見られます。<br />この橋を渡った先から有料エリアとなります。<br /><br />築城された頃は、関ヶ原の合戦で敗れたとはいえ豊臣秀頼を盟主と仰ぐ大名達が西日本に多くいた時代であり、大阪方への備えとして彦根城が築城されていることからも、大手門が南(大阪方)に開いているのは当然のことです。<br />しかし、後年、豊臣家が亡び徳川体制になると、江戸向きの表門を利用する機会が増え、実質的にはこの表門が大手門の役割を担うことになりました。

    表門橋
    表門橋は、明治初期の写真や当時の文献を参考にし、2004年に3年の歳月をかけて復元されたもので、内堀に架けられた橋です。木材には吉野の檜を使用しています。
    橋の奥には櫓跡の美しい石垣が見られます。
    この橋を渡った先から有料エリアとなります。

    築城された頃は、関ヶ原の合戦で敗れたとはいえ豊臣秀頼を盟主と仰ぐ大名達が西日本に多くいた時代であり、大阪方への備えとして彦根城が築城されていることからも、大手門が南(大阪方)に開いているのは当然のことです。
    しかし、後年、豊臣家が亡び徳川体制になると、江戸向きの表門を利用する機会が増え、実質的にはこの表門が大手門の役割を担うことになりました。

  • 表御殿<br />彦根藩主の藩庁であったところで、ここで藩の政治が行われ、また藩主が日常生活を送りました。この建物は往時の表御殿を復元したもので、2棟の建物は対面や儀式に使われた書院造りの建物となっています。<br />現在これらの建物は彦根城博物館となっています。(現在修復中)

    表御殿
    彦根藩主の藩庁であったところで、ここで藩の政治が行われ、また藩主が日常生活を送りました。この建物は往時の表御殿を復元したもので、2棟の建物は対面や儀式に使われた書院造りの建物となっています。
    現在これらの建物は彦根城博物館となっています。(現在修復中)

  • 登り石垣<br />彦根城には、全国的にも珍しい登り石垣が5ヶ所ほど確認されています。この登り石垣は、豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮侵略の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城(わ じょう)」において顕著に見られるもので、高さ1〜2mの石垣が山の斜面を登るように築かれています。<br />斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれたものです。国内では彦根城の他には、洲本城や松山城などにしか見ることができない珍しい遺構です。彦根城では、この登り石垣の上にさらに瓦塀が築かれていたそうですが、今はその姿を見ることはできません。<br />彦根城は、このような登り石垣や大堀切が、櫓や門、堀などと巧妙に連結し、発達した軍事的防衛施設であったことを窺わせます。

    登り石垣
    彦根城には、全国的にも珍しい登り石垣が5ヶ所ほど確認されています。この登り石垣は、豊臣秀吉が晩年に行った朝鮮侵略の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城(わ じょう)」において顕著に見られるもので、高さ1〜2mの石垣が山の斜面を登るように築かれています。
    斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれたものです。国内では彦根城の他には、洲本城や松山城などにしか見ることができない珍しい遺構です。彦根城では、この登り石垣の上にさらに瓦塀が築かれていたそうですが、今はその姿を見ることはできません。
    彦根城は、このような登り石垣や大堀切が、櫓や門、堀などと巧妙に連結し、発達した軍事的防衛施設であったことを窺わせます。

  • 表門山道<br />管理事務所で入城券を求めて奥へ進むと、次の曲輪(くるわ)まで続く長い石段が現れます。各段の幅が広く、また登るに連れて傾斜が急勾配になる仕組みです。<br />これは、意図的にこのように造られたものだそうです。

    表門山道
    管理事務所で入城券を求めて奥へ進むと、次の曲輪(くるわ)まで続く長い石段が現れます。各段の幅が広く、また登るに連れて傾斜が急勾配になる仕組みです。
    これは、意図的にこのように造られたものだそうです。

  • 表門山道<br />天秤櫓の手前は、胸突き八丁といった感じで結構しんどい登りになっています。

    表門山道
    天秤櫓の手前は、胸突き八丁といった感じで結構しんどい登りになっています。

  • 天秤櫓<br />石段を登り切ると、目の前に聳え立つ高い石垣と鐘の丸から渡された廊下橋が見えてきます。これが天秤櫓です。築城当時から残っている建築物で、国重要文化財に指定されています。<br />この橋の下を潜って左へ折れて登り、その先でこの橋を渡って天秤櫓を潜ります。<br />

    天秤櫓
    石段を登り切ると、目の前に聳え立つ高い石垣と鐘の丸から渡された廊下橋が見えてきます。これが天秤櫓です。築城当時から残っている建築物で、国重要文化財に指定されています。
    この橋の下を潜って左へ折れて登り、その先でこの橋を渡って天秤櫓を潜ります。

  • 廊下橋<br />廊下橋とは、西洋城郭の跳ね橋と同じ発想の橋です。空濠を跨ぐようにして鐘の丸から天秤櫓の門へ架けられている木製の橋で、元々は屋根と壁があったことから、廊下橋の名で呼ばれています。屋根や壁が設けられていたのは、城の防備のために城兵の移動を敵方に知られないようにする工夫だったそうです。<br />この橋には「落とし橋」としての機能があり、非常時にはこの橋を落下させ敵の侵入を防ぐことができました。この橋がなければ天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸へ侵入することはできません。こうした所から、この櫓の重要性はもちろんのこと、この城がいかに堅牢なものかが窺われます。<br />城には必ず築城した時代背景や情勢が反映されています。これを知ることが城の魅力でもあり、歴史のロマンを感じさせる所以です。<br />

    廊下橋
    廊下橋とは、西洋城郭の跳ね橋と同じ発想の橋です。空濠を跨ぐようにして鐘の丸から天秤櫓の門へ架けられている木製の橋で、元々は屋根と壁があったことから、廊下橋の名で呼ばれています。屋根や壁が設けられていたのは、城の防備のために城兵の移動を敵方に知られないようにする工夫だったそうです。
    この橋には「落とし橋」としての機能があり、非常時にはこの橋を落下させ敵の侵入を防ぐことができました。この橋がなければ天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸へ侵入することはできません。こうした所から、この櫓の重要性はもちろんのこと、この城がいかに堅牢なものかが窺われます。
    城には必ず築城した時代背景や情勢が反映されています。これを知ることが城の魅力でもあり、歴史のロマンを感じさせる所以です。

  • 天秤櫓 石垣<br />彦根城の石垣は、滋賀県の湖東で多く算出する溶結凝灰岩の一種である湖東流紋岩が使われ、石垣の積み方や石垣の使われ方が多彩なのも特徴のひとつです。<br />大堀切から天秤櫓を見上げると、廊下橋を境にして東側(右手)と西側(左手)では石垣の積み方が異なります。<br />右手の高石垣が、越前の石工衆が築いたとされる築城当初の「野面積み」です。石垣は胴長な石を用い、短径面を前面に出す積み方で、「牛蒡(ごぼう)積み」の手法が用いられています。

    天秤櫓 石垣
    彦根城の石垣は、滋賀県の湖東で多く算出する溶結凝灰岩の一種である湖東流紋岩が使われ、石垣の積み方や石垣の使われ方が多彩なのも特徴のひとつです。
    大堀切から天秤櫓を見上げると、廊下橋を境にして東側(右手)と西側(左手)では石垣の積み方が異なります。
    右手の高石垣が、越前の石工衆が築いたとされる築城当初の「野面積み」です。石垣は胴長な石を用い、短径面を前面に出す積み方で、「牛蒡(ごぼう)積み」の手法が用いられています。

  • 天秤櫓 石垣<br />左手の石垣が、幕末の嘉永年間に積み替えられた、石と石の接合面を加工して積み上げる「打ち込みハギ」手法とも言われる「落し積み」です。ここまで「落とし積み」がはっきりと判る石垣は全国でも稀ですので見逃さないでください。 <br /><br />この橋を中央として左右対称に建てられているのが天秤櫓です。この櫓は、上から見ると「コ」の字形をしており、両隅に2階建ての櫓を設けて中央に門が開く構造となっています。あたかも両端に荷物を下げた天秤のようであり、江戸時代から天秤櫓と呼ばれています。<br />日本の城郭で他に類を持たない形式ですが、均整の取れた美しさと城郭の堅固な守りを兼ね備えた秀逸な建造物です。

    天秤櫓 石垣
    左手の石垣が、幕末の嘉永年間に積み替えられた、石と石の接合面を加工して積み上げる「打ち込みハギ」手法とも言われる「落し積み」です。ここまで「落とし積み」がはっきりと判る石垣は全国でも稀ですので見逃さないでください。

    この橋を中央として左右対称に建てられているのが天秤櫓です。この櫓は、上から見ると「コ」の字形をしており、両隅に2階建ての櫓を設けて中央に門が開く構造となっています。あたかも両端に荷物を下げた天秤のようであり、江戸時代から天秤櫓と呼ばれています。
    日本の城郭で他に類を持たない形式ですが、均整の取れた美しさと城郭の堅固な守りを兼ね備えた秀逸な建造物です。

  • 廊下橋<br />廊下橋の造形美をお楽しみください。<br />創建当時から橋は存在したようですが、その構造がどのようなものだったのか、何時から木橋になったのかは不明のようです。<br />現在のような堅固な構造では、直ちに橋を落とすことは、焼くにしても切るにしても不可能に近いような気がします。以前はもっと実用的な華奢な橋だったのではないでしょうか?

    廊下橋
    廊下橋の造形美をお楽しみください。
    創建当時から橋は存在したようですが、その構造がどのようなものだったのか、何時から木橋になったのかは不明のようです。
    現在のような堅固な構造では、直ちに橋を落とすことは、焼くにしても切るにしても不可能に近いような気がします。以前はもっと実用的な華奢な橋だったのではないでしょうか?

  • 天秤櫓 <br />よく見ると格子窓の数も左右で異なり、決して左右対称ではないのが判ります。因みに、両端の櫓が向いている方向の違いには諸説あります。左右対称を嫌った設計者の「粋」だとか、時代背景を反映して片方は京(朝廷)で片方は江戸(幕府)を向いているという説など。<br />井伊家の歴史書『井伊年譜』には、この櫓が羽柴秀吉が創築した長浜城の大手門を移築したものであると記しています。また、1970年に完成した解体修理時、瓦に長浜城主であった内藤家の定紋(上り藤)瓦が発見され、長浜城から移築されたとする見方も強いのですが、断定する根拠には至っていないそうです。

    天秤櫓
    よく見ると格子窓の数も左右で異なり、決して左右対称ではないのが判ります。因みに、両端の櫓が向いている方向の違いには諸説あります。左右対称を嫌った設計者の「粋」だとか、時代背景を反映して片方は京(朝廷)で片方は江戸(幕府)を向いているという説など。
    井伊家の歴史書『井伊年譜』には、この櫓が羽柴秀吉が創築した長浜城の大手門を移築したものであると記しています。また、1970年に完成した解体修理時、瓦に長浜城主であった内藤家の定紋(上り藤)瓦が発見され、長浜城から移築されたとする見方も強いのですが、断定する根拠には至っていないそうです。

  • 天秤櫓 <br />廊下橋から右手前方に佐和山が見えます。<br />左和山には、石田三成の居城だった佐和山城跡があります。琵琶湖の水運が重要だった江戸初期において、少し内陸の山の上にある堅固な佐和山城より、琵琶湖に面した彦根城の方が確かに地の利があります。<br />直政は佐和山城を模索していたようですが、この地を選んだ子の直継には先見の明があったと言うことでしょう。

    天秤櫓
    廊下橋から右手前方に佐和山が見えます。
    左和山には、石田三成の居城だった佐和山城跡があります。琵琶湖の水運が重要だった江戸初期において、少し内陸の山の上にある堅固な佐和山城より、琵琶湖に面した彦根城の方が確かに地の利があります。
    直政は佐和山城を模索していたようですが、この地を選んだ子の直継には先見の明があったと言うことでしょう。

  • 天秤櫓 <br />彦根城は、築城された時代が戦国期であったことから極めて実践向けに造られており、天秤櫓および天秤櫓と鐘の丸を繋ぐ廊下橋とにその防御思想を観ることができます。 <br />天秤櫓そのものも、表門と大手門両方からの敵を倒せる造りになっています。

    天秤櫓
    彦根城は、築城された時代が戦国期であったことから極めて実践向けに造られており、天秤櫓および天秤櫓と鐘の丸を繋ぐ廊下橋とにその防御思想を観ることができます。
    天秤櫓そのものも、表門と大手門両方からの敵を倒せる造りになっています。

  • 天秤櫓 門扉<br />侵入者が門扉を突破しようと扉の下に梯子を差し込むのを阻む「蹴放(けはなし)」と、門扉を持ち上げて外そうとしても押さえ付ける「まくさ」を上部に仕組んだ城門になっています。右端の下部に見える蹴放は、殿様が馬に乗って通る時は邪魔にならないよう取り外しができる優れものだそうです。 <br />門扉には、菱形の大きな釘隠金具が付けられています。なかなか、お洒落なデザインになっています。

    天秤櫓 門扉
    侵入者が門扉を突破しようと扉の下に梯子を差し込むのを阻む「蹴放(けはなし)」と、門扉を持ち上げて外そうとしても押さえ付ける「まくさ」を上部に仕組んだ城門になっています。右端の下部に見える蹴放は、殿様が馬に乗って通る時は邪魔にならないよう取り外しができる優れものだそうです。
    門扉には、菱形の大きな釘隠金具が付けられています。なかなか、お洒落なデザインになっています。

  • 天秤櫓 <br />櫓の中へは裏側から入ることができます。<br />

    天秤櫓
    櫓の中へは裏側から入ることができます。

  • 天天秤櫓 <br />秤櫓の内部からこのように廊下橋を見下ろすこともできます。<br />この廊下橋の先が鐘の丸になります。<br />最初に築かれたとされる「鐘の丸」の石垣は、ここから約2km離れた佐和山城の石垣を再利用していたことが分かり、当時の緊張感が伝わってきます。<br />彦根城の石垣はほとんどが湖東流紋岩だけで築かれているのですが、鐘の丸では湖東流紋岩とチャート(堆積岩の一種)の2種類が用いられています。この2種類を使っていたのは県内では佐和山城だけだったことから、石材をリサイクルしたと判断したそうです。

    天天秤櫓
    秤櫓の内部からこのように廊下橋を見下ろすこともできます。
    この廊下橋の先が鐘の丸になります。
    最初に築かれたとされる「鐘の丸」の石垣は、ここから約2km離れた佐和山城の石垣を再利用していたことが分かり、当時の緊張感が伝わってきます。
    彦根城の石垣はほとんどが湖東流紋岩だけで築かれているのですが、鐘の丸では湖東流紋岩とチャート(堆積岩の一種)の2種類が用いられています。この2種類を使っていたのは県内では佐和山城だけだったことから、石材をリサイクルしたと判断したそうです。

  • 時報鐘 (じほうしょう)<br />城全体に鐘の音が響くようにと元々置かれていた鐘の丸からこの地へ移されたものです。今も3時間毎に鐘が撞かれ、環境庁「日本の音風景百選」にも選ばれている名鐘です。<br />現在の鐘は、幕末期の1844年の12代藩主 直亮の時代に、より美しい音色にしようと鋳造の際、大量の小判が投入されたそうです。愛知郡長村(東近江市長町)の鋳大工 黄見新左衛門ら5人により制作されたと伝えています。<br />隣接する聴鐘庵は茶屋として薄茶を楽しむことができます。

    時報鐘 (じほうしょう)
    城全体に鐘の音が響くようにと元々置かれていた鐘の丸からこの地へ移されたものです。今も3時間毎に鐘が撞かれ、環境庁「日本の音風景百選」にも選ばれている名鐘です。
    現在の鐘は、幕末期の1844年の12代藩主 直亮の時代に、より美しい音色にしようと鋳造の際、大量の小判が投入されたそうです。愛知郡長村(東近江市長町)の鋳大工 黄見新左衛門ら5人により制作されたと伝えています。
    隣接する聴鐘庵は茶屋として薄茶を楽しむことができます。

  • 太鼓門櫓<br />本丸へ続く最後の門が太鼓門櫓です。この向こう側は本丸となる、まさに最後の砦です。<br />本丸表口を固める勇壮な迫力を感じさせる楼門で、その南には、「く」の字に曲がった続櫓が付設されています。<br />建物の裏面の東壁面が開放され、柱間に高欄を配して1間通りを廊下にし、初期櫓門の珍しい特徴を備えています。櫓としては非常に稀な例で、一説には名称となっている登城合図用の「太鼓」が櫓の中に置かれ、その太鼓の音を響かせるための工夫とも伝えられていますが、真相は不明となっているミステリアスな櫓です。

    太鼓門櫓
    本丸へ続く最後の門が太鼓門櫓です。この向こう側は本丸となる、まさに最後の砦です。
    本丸表口を固める勇壮な迫力を感じさせる楼門で、その南には、「く」の字に曲がった続櫓が付設されています。
    建物の裏面の東壁面が開放され、柱間に高欄を配して1間通りを廊下にし、初期櫓門の珍しい特徴を備えています。櫓としては非常に稀な例で、一説には名称となっている登城合図用の「太鼓」が櫓の中に置かれ、その太鼓の音を響かせるための工夫とも伝えられていますが、真相は不明となっているミステリアスな櫓です。

  • 太鼓門櫓<br />この廊下は人気キャラクタ「ひこにゃん」の登場口ともなっています。 <br />この太鼓門櫓も天秤櫓や西の丸 三重櫓、天守などと同様に、築城時に他の城から移築された建物です。長い間、太鼓門櫓は彦根城築城以前に彦根山の山上にあった彦根寺の山門を移築したものと考えられてきましたが、昭和30年代の解体修理工事によって反証されました。建物部材調査により、城の城門だったことが判明したのです。しかも、かつての城門は規模が大きく、それを縮小して今日の太鼓門櫓に改造していました。どこの城門なのかは今も謎のままですが、石田三成の居城 佐和山城の城門を移築したものとの説が有力ですし、そう考える方が歴史ロマンに溢れています。

    太鼓門櫓
    この廊下は人気キャラクタ「ひこにゃん」の登場口ともなっています。
    この太鼓門櫓も天秤櫓や西の丸 三重櫓、天守などと同様に、築城時に他の城から移築された建物です。長い間、太鼓門櫓は彦根城築城以前に彦根山の山上にあった彦根寺の山門を移築したものと考えられてきましたが、昭和30年代の解体修理工事によって反証されました。建物部材調査により、城の城門だったことが判明したのです。しかも、かつての城門は規模が大きく、それを縮小して今日の太鼓門櫓に改造していました。どこの城門なのかは今も謎のままですが、石田三成の居城 佐和山城の城門を移築したものとの説が有力ですし、そう考える方が歴史ロマンに溢れています。

  • 天守<br />国宝の彦根城天守は、姫路城、松本城、犬山城と合わせて「国宝4城」として知られています。<br />かつて作家の司馬遼太郎が「雅を感じさせるやさしさを持っている」と讃えた城は、規模こそ小粒ですが、牛蒡積みと呼ばれる石垣の上に3層3階地下1階の天守が威風堂々と建ち、天守本体に附櫓と多聞櫓が接続された複合式後期望楼型の天守です。<br />家康の命による急造りの城と言えども、天守には華麗な意匠が随所に施されています。また、天守には正面がなく、どこから見ても美しく見えるように造られています。外壁は総じて耐火性の高い白漆喰の大壁とし、1層目には下見板が張られ、突き上げ戸の武者窓が設けられ、実戦向けの設計です。屋根には切妻破風や入母屋破風、唐破風を優美に配し、2〜3層には禅寺に見られる窓「花頭窓(かとうまど) 」を用い、3層には高欄付きの廻縁を巡らせるなどるなど、変化に富んだ建築美を凝縮した姿にはほれぼれとさせられます。一番下にある「への字」をした切妻破風は、この城でしか見られない破風です。また、庇付きの切妻破風も彦根城天守だけの意匠です。<br />現在の本丸には天守しか残されていませんが、かつては藩主の居館であった御広間や宝蔵、着見櫓(つきみやぐら)なども建っていたそうです。

    天守
    国宝の彦根城天守は、姫路城、松本城、犬山城と合わせて「国宝4城」として知られています。
    かつて作家の司馬遼太郎が「雅を感じさせるやさしさを持っている」と讃えた城は、規模こそ小粒ですが、牛蒡積みと呼ばれる石垣の上に3層3階地下1階の天守が威風堂々と建ち、天守本体に附櫓と多聞櫓が接続された複合式後期望楼型の天守です。
    家康の命による急造りの城と言えども、天守には華麗な意匠が随所に施されています。また、天守には正面がなく、どこから見ても美しく見えるように造られています。外壁は総じて耐火性の高い白漆喰の大壁とし、1層目には下見板が張られ、突き上げ戸の武者窓が設けられ、実戦向けの設計です。屋根には切妻破風や入母屋破風、唐破風を優美に配し、2〜3層には禅寺に見られる窓「花頭窓(かとうまど) 」を用い、3層には高欄付きの廻縁を巡らせるなどるなど、変化に富んだ建築美を凝縮した姿にはほれぼれとさせられます。一番下にある「への字」をした切妻破風は、この城でしか見られない破風です。また、庇付きの切妻破風も彦根城天守だけの意匠です。
    現在の本丸には天守しか残されていませんが、かつては藩主の居館であった御広間や宝蔵、着見櫓(つきみやぐら)なども建っていたそうです。

  • 天守<br />正面からの姿と横からの姿では、破風の種類や位置、並びが異なり、印象が違って見えます。壁や軒裏、破風を漆喰で塗り込め、金箔を押した装飾金具や黒漆を多用するなど華麗な意匠が特徴です。<br />彦根城天守は、入母屋破風や千鳥破風、唐破風、切妻破風を一度に見ることができ、合計18個の破風が天守を飾っているのも珍しいものです。また、天守に切妻破風があるのは彦根城だけのようです。また、これらの内側には「破風の間」という隠し部屋が設けられたものもあり、狭間が付与されて防御にも役立っていました。<br /><br />天守は、長方形をしており、東西面はそそり立つような端正な佇まいを見せます。逆に、南北面はどっしりと安定感に富んでいます。戦乱と共に発達したのが城ですが、彦根城は一度も戦を経験することがありませんでした。従って、天守は軍用建築というよりも、城下から見上げる彦根藩の象徴だったとも言えます。

    天守
    正面からの姿と横からの姿では、破風の種類や位置、並びが異なり、印象が違って見えます。壁や軒裏、破風を漆喰で塗り込め、金箔を押した装飾金具や黒漆を多用するなど華麗な意匠が特徴です。
    彦根城天守は、入母屋破風や千鳥破風、唐破風、切妻破風を一度に見ることができ、合計18個の破風が天守を飾っているのも珍しいものです。また、天守に切妻破風があるのは彦根城だけのようです。また、これらの内側には「破風の間」という隠し部屋が設けられたものもあり、狭間が付与されて防御にも役立っていました。

    天守は、長方形をしており、東西面はそそり立つような端正な佇まいを見せます。逆に、南北面はどっしりと安定感に富んでいます。戦乱と共に発達したのが城ですが、彦根城は一度も戦を経験することがありませんでした。従って、天守は軍用建築というよりも、城下から見上げる彦根藩の象徴だったとも言えます。

  • ひこにゃん<br />ひこにゃんは、太鼓門櫓の廊下を渡って登場します。太鼓門櫓の一角に控え室が設けられているようです。<br />ステージの前は黒山の人だかりですので、ちらっと見る分には案外穴場のこちらが便利です。

    ひこにゃん
    ひこにゃんは、太鼓門櫓の廊下を渡って登場します。太鼓門櫓の一角に控え室が設けられているようです。
    ステージの前は黒山の人だかりですので、ちらっと見る分には案外穴場のこちらが便利です。

  • ひこにゃん<br />日に3回、30分程のステージをこなす過密なスケジュールです。因みに、本日は、10:30〜、13:30〜、15:00〜です。場所も時間帯や天候で異なるのでHPや現地の看板などで確認してください。<br />これからは気温も高くなるので中に入られている方は大変でしょうね。ひこにゃんが熱中症になったら洒落になりませんから…。<br />ゆるキャラ「ひこにゃん」のモデルになった赤備えの鎧「薫革威段替胴具足(すべがわおどしだんがえどうぐそく)」や切手になった「彦根屏風」は、数万点の井伊家収蔵品の一部として彦根城博物館に収められています。

    ひこにゃん
    日に3回、30分程のステージをこなす過密なスケジュールです。因みに、本日は、10:30〜、13:30〜、15:00〜です。場所も時間帯や天候で異なるのでHPや現地の看板などで確認してください。
    これからは気温も高くなるので中に入られている方は大変でしょうね。ひこにゃんが熱中症になったら洒落になりませんから…。
    ゆるキャラ「ひこにゃん」のモデルになった赤備えの鎧「薫革威段替胴具足(すべがわおどしだんがえどうぐそく)」や切手になった「彦根屏風」は、数万点の井伊家収蔵品の一部として彦根城博物館に収められています。

  • ひこにゃん<br />「ひこにゃん」のモデルが招き猫だということをご存知でしょうか?<br />2代目藩主 直孝が江戸詰めの折、鷹狩りの帰りにある寺の前でにわか雨に遭って大木の下で雨宿りをしていた際、手招きをする白猫を見て近寄ったところ、直後に大木に雷が落ち、直撃を逃れることができたそうです。それ以降、井伊家では命を救ってくれた猫を大層大事にしたそうです。その手招きした猫が「招き猫=ひこにゃん」という訳です。<br />因みに、直孝が命拾いした場所は、彦根ではなく、東京都世田谷区にある井伊家の菩提寺となっている豪徳寺です。

    ひこにゃん
    「ひこにゃん」のモデルが招き猫だということをご存知でしょうか?
    2代目藩主 直孝が江戸詰めの折、鷹狩りの帰りにある寺の前でにわか雨に遭って大木の下で雨宿りをしていた際、手招きをする白猫を見て近寄ったところ、直後に大木に雷が落ち、直撃を逃れることができたそうです。それ以降、井伊家では命を救ってくれた猫を大層大事にしたそうです。その手招きした猫が「招き猫=ひこにゃん」という訳です。
    因みに、直孝が命拾いした場所は、彦根ではなく、東京都世田谷区にある井伊家の菩提寺となっている豪徳寺です。

  • 天守<br />ひこにゃんが観光客寄せをしてくれている間に天守を鑑賞します。<br />彦根藩主井伊家の歴史を記した『井伊年譜』によると、天守閣は旧大津城天守閣の資材を使ってリサイクルしたものと伝えています。京極高次の居城 大津城天守は4層5階でしたが、それを3層3階に縮小したため、高さに比べ横幅がやや広く、ずんぐりとしています。<br />徳川幕府は国家事業の天下普請として諸大名に築城を急せました。そのため、近隣諸城から天守や城門を解体して移築するのが合理的な方法でした。石田光成の居城 佐和山城から石垣や建物など根こそぎ運び込んで組立て、寄せ集めのようなお城だったそうです。つまり、彦根城はリサイクル城であり、近江国周辺にあった城を結集して造られたモザイク城だったのです。どことなくローマのコンスタンティヌス凱旋門の発想を彷彿とさせるものがあります。

    天守
    ひこにゃんが観光客寄せをしてくれている間に天守を鑑賞します。
    彦根藩主井伊家の歴史を記した『井伊年譜』によると、天守閣は旧大津城天守閣の資材を使ってリサイクルしたものと伝えています。京極高次の居城 大津城天守は4層5階でしたが、それを3層3階に縮小したため、高さに比べ横幅がやや広く、ずんぐりとしています。
    徳川幕府は国家事業の天下普請として諸大名に築城を急せました。そのため、近隣諸城から天守や城門を解体して移築するのが合理的な方法でした。石田光成の居城 佐和山城から石垣や建物など根こそぎ運び込んで組立て、寄せ集めのようなお城だったそうです。つまり、彦根城はリサイクル城であり、近江国周辺にあった城を結集して造られたモザイク城だったのです。どことなくローマのコンスタンティヌス凱旋門の発想を彷彿とさせるものがあります。

  • 附櫓 天井<br />彦根城天守へは隣に設けられた附櫓からの登城となります。<br />附櫓の天井には曲がりくねった梁が使われ、今まで登城した城とは一線を画す趣です。<br />また、城壁(土壁)は、耐火性および物理的破壊耐性が必要なため、何層にも分かれており、厚さ40cmで石を詰めた層もあるそうです。

    附櫓 天井
    彦根城天守へは隣に設けられた附櫓からの登城となります。
    附櫓の天井には曲がりくねった梁が使われ、今まで登城した城とは一線を画す趣です。
    また、城壁(土壁)は、耐火性および物理的破壊耐性が必要なため、何層にも分かれており、厚さ40cmで石を詰めた層もあるそうです。

  • 天守 2層 狭間(ざま)<br />敵を鉄砲や矢で射るための狭間は、天守内に75箇所設けられ、外側に蓋をして漆喰を塗り、見た目では分からないようにしてあるため戦いの時には壁を破って使う「隠狭間」と呼ばれています。<br />親切に外国人向にアルファベットで「TEPPO ZA MA」と書いてありますが、読めても意味は通じませんね!?まだグローバル対応できるお城ではないようです。

    天守 2層 狭間(ざま)
    敵を鉄砲や矢で射るための狭間は、天守内に75箇所設けられ、外側に蓋をして漆喰を塗り、見た目では分からないようにしてあるため戦いの時には壁を破って使う「隠狭間」と呼ばれています。
    親切に外国人向にアルファベットで「TEPPO ZA MA」と書いてありますが、読めても意味は通じませんね!?まだグローバル対応できるお城ではないようです。

  • 天守 2層 武者走(むしゃばしり)<br />花頭窓からの採光でかなり明るくなっていますが、微妙に床に勾配が付けられ、建物の外側に向かって少し下がっています。これは欠陥建築や老朽化に伴うものではなく、敵の走り難さを計算して取り入れられた構造だそうです。<br />三半規管が敏感な人は、ここを歩くと気分が悪くなるらしいです。<br />

    天守 2層 武者走(むしゃばしり)
    花頭窓からの採光でかなり明るくなっていますが、微妙に床に勾配が付けられ、建物の外側に向かって少し下がっています。これは欠陥建築や老朽化に伴うものではなく、敵の走り難さを計算して取り入れられた構造だそうです。
    三半規管が敏感な人は、ここを歩くと気分が悪くなるらしいです。

  • 天守 2層 井伊直弼之像<br />彦根市民にとっては、井伊直政と直弼が郷土の英雄の双璧です。<br />直弼は、安政の大獄で幕政を批判する政治運動に関わった吉田松陰などの名士を処刑した独裁者であり、その反動で桜田門外で尊王攘夷急進派の水戸藩士達に暗殺された悪人と言うダートなイメージがあったのですが、改めて調べてみると幕府の要人でありながら、「開国と富国強兵こそ日本が生き残る道」と説き、「日本を救った英傑」という評価も見られます。<br /><br />2014年に世紀の発見がありました。松陰の直筆とみられる辞世の句が彦根藩の関連資料の中から発見されたのです。安政の大獄を指導したのが直弼ですから、松陰にしてみれば敵方から見つかったことになります。<br />山口県文書館に保管されている『絶筆』と同じ内容のもので、処刑直前に詠んだ「此程に思定めし出立はけふきくこそ嬉しかりける」。死への覚悟はできており、今日死ぬことを聞いても嬉しく感じるという意味です。<br />和紙には直弼の側近 長野主膳の自筆とみられる裏書きがあり、牢役人を通じて入手した旨が書かれているそうです。松陰の名は「矩方(のりかた)」ですが、文書館のものと同様、「矩之」と添えられています。これまでは処刑前に動揺して自身の名を間違えたとの見方もありましたが、刑死で名を汚さないよう意図的に改名した可能性が高いと考えられています。<br />この辞世は、井伊美術館(京都市東山区)で公開されています。

    天守 2層 井伊直弼之像
    彦根市民にとっては、井伊直政と直弼が郷土の英雄の双璧です。
    直弼は、安政の大獄で幕政を批判する政治運動に関わった吉田松陰などの名士を処刑した独裁者であり、その反動で桜田門外で尊王攘夷急進派の水戸藩士達に暗殺された悪人と言うダートなイメージがあったのですが、改めて調べてみると幕府の要人でありながら、「開国と富国強兵こそ日本が生き残る道」と説き、「日本を救った英傑」という評価も見られます。

    2014年に世紀の発見がありました。松陰の直筆とみられる辞世の句が彦根藩の関連資料の中から発見されたのです。安政の大獄を指導したのが直弼ですから、松陰にしてみれば敵方から見つかったことになります。
    山口県文書館に保管されている『絶筆』と同じ内容のもので、処刑直前に詠んだ「此程に思定めし出立はけふきくこそ嬉しかりける」。死への覚悟はできており、今日死ぬことを聞いても嬉しく感じるという意味です。
    和紙には直弼の側近 長野主膳の自筆とみられる裏書きがあり、牢役人を通じて入手した旨が書かれているそうです。松陰の名は「矩方(のりかた)」ですが、文書館のものと同様、「矩之」と添えられています。これまでは処刑前に動揺して自身の名を間違えたとの見方もありましたが、刑死で名を汚さないよう意図的に改名した可能性が高いと考えられています。
    この辞世は、井伊美術館(京都市東山区)で公開されています。

  • 天守 2層 階段<br />天守内は比較的すいていて2階まではスイスイと進めたのですが、この梯子からはず〜っと数珠つなぎ状態です。登るのにも階段の手前で10分程待ちました。<br />彦根城の天守は、小さいからと言って油断は禁物です。敵が中に攻め入っても、階段を登ってくる敵を上から突き落せるように急な角度(62度)になっています。松本城なども61度あるのですがこれほど長くはありません。<br />女性の方は、くれぐれもスカートでの来城はご遠慮くださいね!<br />

    天守 2層 階段
    天守内は比較的すいていて2階まではスイスイと進めたのですが、この梯子からはず〜っと数珠つなぎ状態です。登るのにも階段の手前で10分程待ちました。
    彦根城の天守は、小さいからと言って油断は禁物です。敵が中に攻め入っても、階段を登ってくる敵を上から突き落せるように急な角度(62度)になっています。松本城なども61度あるのですがこれほど長くはありません。
    女性の方は、くれぐれもスカートでの来城はご遠慮くださいね!

  • 天守 3層<br />こうして見ると、曲がった柱が構造力学的に有効な使われ方をしているように思えます。

    天守 3層
    こうして見ると、曲がった柱が構造力学的に有効な使われ方をしているように思えます。

  • 天守 3層 天井<br />驚くべきは天井の梁桁組です。曲がりくねった木材を巧みに組み合わせています。天守や附櫓には美しい曲線の梁が縦横に走り、匠の技に目を瞠ります。ここの天守は、通し柱を用いず、各階毎に積み上げる方式を採っており、全体として櫓の上に高欄を付けた望楼を載せる古い組立形式が見られます。<br />1957年の解体修理により、墨書のある建築材が発見され、天守の完成は1607年頃であることが判明したそうです。海外からもわざわざこの天井の曲がり梁桁組を観るために訪れる建築専門家も沢山おられるそうです。<br />4層5階だった旧大津城の天守閣を、大工棟梁 浜野喜兵衛氏が3層3階、高さ21mと小さくして再建したと『彦根旧時記』に記されています。天守に情熱を注いだ浜野棟梁の矜持と気概が満ち溢れた梁桁組は圧巻です。

    天守 3層 天井
    驚くべきは天井の梁桁組です。曲がりくねった木材を巧みに組み合わせています。天守や附櫓には美しい曲線の梁が縦横に走り、匠の技に目を瞠ります。ここの天守は、通し柱を用いず、各階毎に積み上げる方式を採っており、全体として櫓の上に高欄を付けた望楼を載せる古い組立形式が見られます。
    1957年の解体修理により、墨書のある建築材が発見され、天守の完成は1607年頃であることが判明したそうです。海外からもわざわざこの天井の曲がり梁桁組を観るために訪れる建築専門家も沢山おられるそうです。
    4層5階だった旧大津城の天守閣を、大工棟梁 浜野喜兵衛氏が3層3階、高さ21mと小さくして再建したと『彦根旧時記』に記されています。天守に情熱を注いだ浜野棟梁の矜持と気概が満ち溢れた梁桁組は圧巻です。

  • 天守 3層 天井<br />彦根城が解体の危機から脱した理由は諸説あると書きましたが、個人的には次の説明が腑に落ちます。<br />江戸時代には獣肉が嗜好され、特に珍重されたのが近江彦根藩の「反本丸(へんぽんがん)」でした。近江牛ブランドのルーツとも言える、牛肉の味噌漬です。漢方薬のような名があるのは、滋養強壮のための医療行為という建前からです。彦根藩から贈答品として贈られ、献上先には老中松平定信や将軍徳川家斉、水戸藩主 徳川斉昭などの名が連なるそうです。その後、直弼が贈答の慣習を止めようとしたことが水戸藩の「食い物の恨み」を買い、桜田門外の変に隠された真実という説さえ流布しました。彦根藩は池田屋事件や禁門の変に幕軍として出兵し、長州征伐でも先頭に立ちました。決して「食い物の恨み」だけではなく、直弼の政治的立場や井伊家には反体制派の功名心を煽る理由が潤沢にあったという訳です。<br />暗殺とは言え、大将が討たれたのは大失態です。かといって厳しく処断すれば幕府の威光に傷が付く。結局うやむやに処理され、これが奏功し幕府における彦根藩の処遇は一変します。後の戊辰戦争では新政府軍に翻り、新撰組 近藤勇を捕縛する立場に転身したのです。しかし、この転身こそが、彦根城を解体の危機から救った最大の理由だったと言われています。<br />築城された城の数は5万とも言われるのですが、1873(明治6)年の廃城令、そして震災や戦災などでそのほとんどが失われました。天守閣が現存するのはわずか12城です。現存する城郭もたまたま破壊を免れたというケースが多く、明治時代初期に歴史の遺産として残すことが決まった彦根城は例外的存在です。その経緯は明治天皇の勅命あるいは大隈重信の献策など諸説あり一致を見ませんが、彦根藩が譜代筆頭でありながら新政府に加担した論功行賞がその裏にあったとも言われています。つまり、皇室の恩情判決だった訳です。同じく徳川四天王を祖として最後まで会津藩と共に戦って幕府に殉じた庄内藩の鶴ケ丘城は、対照的に1876年に解体の憂き目に遭っています。<br />この藩政の転身で救済されたのは城と食文化だけではありません。城下町の伝統の和ロウソクや仏壇といった手工芸も恩恵に与り、今もその一端に触れることができます。<br />「死して屍拾うものなし」と言いますが、偶然の産物ですが直弼のように郷土に「死して名を残す」者もあったということです。

    天守 3層 天井
    彦根城が解体の危機から脱した理由は諸説あると書きましたが、個人的には次の説明が腑に落ちます。
    江戸時代には獣肉が嗜好され、特に珍重されたのが近江彦根藩の「反本丸(へんぽんがん)」でした。近江牛ブランドのルーツとも言える、牛肉の味噌漬です。漢方薬のような名があるのは、滋養強壮のための医療行為という建前からです。彦根藩から贈答品として贈られ、献上先には老中松平定信や将軍徳川家斉、水戸藩主 徳川斉昭などの名が連なるそうです。その後、直弼が贈答の慣習を止めようとしたことが水戸藩の「食い物の恨み」を買い、桜田門外の変に隠された真実という説さえ流布しました。彦根藩は池田屋事件や禁門の変に幕軍として出兵し、長州征伐でも先頭に立ちました。決して「食い物の恨み」だけではなく、直弼の政治的立場や井伊家には反体制派の功名心を煽る理由が潤沢にあったという訳です。
    暗殺とは言え、大将が討たれたのは大失態です。かといって厳しく処断すれば幕府の威光に傷が付く。結局うやむやに処理され、これが奏功し幕府における彦根藩の処遇は一変します。後の戊辰戦争では新政府軍に翻り、新撰組 近藤勇を捕縛する立場に転身したのです。しかし、この転身こそが、彦根城を解体の危機から救った最大の理由だったと言われています。
    築城された城の数は5万とも言われるのですが、1873(明治6)年の廃城令、そして震災や戦災などでそのほとんどが失われました。天守閣が現存するのはわずか12城です。現存する城郭もたまたま破壊を免れたというケースが多く、明治時代初期に歴史の遺産として残すことが決まった彦根城は例外的存在です。その経緯は明治天皇の勅命あるいは大隈重信の献策など諸説あり一致を見ませんが、彦根藩が譜代筆頭でありながら新政府に加担した論功行賞がその裏にあったとも言われています。つまり、皇室の恩情判決だった訳です。同じく徳川四天王を祖として最後まで会津藩と共に戦って幕府に殉じた庄内藩の鶴ケ丘城は、対照的に1876年に解体の憂き目に遭っています。
    この藩政の転身で救済されたのは城と食文化だけではありません。城下町の伝統の和ロウソクや仏壇といった手工芸も恩恵に与り、今もその一端に触れることができます。
    「死して屍拾うものなし」と言いますが、偶然の産物ですが直弼のように郷土に「死して名を残す」者もあったということです。

  • 天守 3層<br />天守から琵琶湖方面を望んだ景色です。<br />彦根城は彦根山(金亀山:こんきやま)という標高163mの丘陵を利用した平山城ですが、その特徴は姫路城等のように渦郭式の曲輪配置ではなく、主な曲輪を山の尾根に沿って直線的に配置する連郭式です。こうした曲輪配置は中世山城の特徴のひとつであり、彦根城は近世城郭でありながら中世城郭の伝統を留めている興味深い城郭です。

    天守 3層
    天守から琵琶湖方面を望んだ景色です。
    彦根城は彦根山(金亀山:こんきやま)という標高163mの丘陵を利用した平山城ですが、その特徴は姫路城等のように渦郭式の曲輪配置ではなく、主な曲輪を山の尾根に沿って直線的に配置する連郭式です。こうした曲輪配置は中世山城の特徴のひとつであり、彦根城は近世城郭でありながら中世城郭の伝統を留めている興味深い城郭です。

  • 天守 3層<br />天守から伊吹山方面を望んだ景色です。<br />彦根城は内堀と中堀、そして外堀と三重の堀に囲まれ、中世城郭の伝統を引き継ぐ惣構(そうがまえ)の城郭でした。内堀は石垣と土塁で固め、中堀は石垣、外堀は土塁と使い分けられていることや、丘陵斜面には人工断崖を造り、堀切や竪堀等も掘られています。内堀と中堀は残されていますが、外堀はそのほとんどが埋め立てられ、市内のあちこちに当時の面影をわずかに残している程度だそうです。

    天守 3層
    天守から伊吹山方面を望んだ景色です。
    彦根城は内堀と中堀、そして外堀と三重の堀に囲まれ、中世城郭の伝統を引き継ぐ惣構(そうがまえ)の城郭でした。内堀は石垣と土塁で固め、中堀は石垣、外堀は土塁と使い分けられていることや、丘陵斜面には人工断崖を造り、堀切や竪堀等も掘られています。内堀と中堀は残されていますが、外堀はそのほとんどが埋め立てられ、市内のあちこちに当時の面影をわずかに残している程度だそうです。

  • 天守 3層<br />天守から佐和山(手前の均整のとれた山)方面を望んだ景色です。<br />佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代初期、近江源氏・佐々木定綱の六男時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まりと伝えられています。その後、佐々木氏は湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立。佐和山城は両勢力の境い目の城として攻防が繰り返されました。戦国時代に入ると、湖北では京極氏に代わって浅井氏が覇権を執り、湖南の六角氏との間で佐和山城争奪戦が展開されることになります。<br />信長・秀吉の時代にも、佐和山城は近江の要衝を守る城として重視されました。信長は佐和山城に重臣 丹羽長秀を配し、信長自身も佐和山城を近江制圧の拠点として利用しました。秀吉の代も、堀秀政、堀尾吉晴そして五奉行筆頭の石田三成の入城と、佐和山城に重きを置く姿勢は変わりませんでした。佐和山城は、次第に整備され、1590(天正18)年、石田三成が城主となってからは、五層の天守を構え、鳥居本を大手とする城でした。また、三成の時代には、山上に本丸以下、二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などが連なり、山下は東山道に面して大手門が開き、二重に巡らされた堀の内には侍屋敷・足軽屋敷・町屋などの城下町が形成されていました。その後、関ヶ原の戦いで敗れ、彦根城築城に伴ない廃城となり、その際、石垣や建物の多くが彦根城へと運ばれています。

    天守 3層
    天守から佐和山(手前の均整のとれた山)方面を望んだ景色です。
    佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代初期、近江源氏・佐々木定綱の六男時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まりと伝えられています。その後、佐々木氏は湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立。佐和山城は両勢力の境い目の城として攻防が繰り返されました。戦国時代に入ると、湖北では京極氏に代わって浅井氏が覇権を執り、湖南の六角氏との間で佐和山城争奪戦が展開されることになります。
    信長・秀吉の時代にも、佐和山城は近江の要衝を守る城として重視されました。信長は佐和山城に重臣 丹羽長秀を配し、信長自身も佐和山城を近江制圧の拠点として利用しました。秀吉の代も、堀秀政、堀尾吉晴そして五奉行筆頭の石田三成の入城と、佐和山城に重きを置く姿勢は変わりませんでした。佐和山城は、次第に整備され、1590(天正18)年、石田三成が城主となってからは、五層の天守を構え、鳥居本を大手とする城でした。また、三成の時代には、山上に本丸以下、二の丸・三の丸・太鼓丸・法華丸などが連なり、山下は東山道に面して大手門が開き、二重に巡らされた堀の内には侍屋敷・足軽屋敷・町屋などの城下町が形成されていました。その後、関ヶ原の戦いで敗れ、彦根城築城に伴ない廃城となり、その際、石垣や建物の多くが彦根城へと運ばれています。

  • 天守 2層<br />破風の屋根瓦がとても美しく組まれています。<br /><br />吉田松陰は安政の大獄で井伊直弼によって死罪に処されました。幕府が開国のための条約を締結しようとするも天皇の許可が下りず、周囲からは外交政策に対して反発と批判が巻き起こるわ、早く締結したい諸外国からは圧力がかかるわ、幕府はもう身動きが取れない状況でした。この難しい状態を直弼はリーダーシップを発揮して強引なやり方で一気に片づけていきます。条約は天皇の許しなく調印を済ませ、そして幕府を批判する者は次々に牢屋にぶち込み処刑したのが安政の大獄です。<br />そんな中、危険人物として長州藩によって捕えられた松陰は、江戸の伝馬町に送られ評定所で取り調べを受けることを「至誠にして動かざる者、いまだこれ有らざるなり」という孟子の言葉を幕府に伝える絶好の好機と捉えていました。松陰は自分が企てた老中 間部詮勝暗殺計画が幕府に知られたことが捕縛の理由と思っていましたが、嫌疑の中にそれがなかったことに拍子抜けしてしまいます。そこで自ら「間部詮勝暗殺を企てた」と告白したのです。これは松陰の策略だとの説もあります。つまり、陽明学を学んでいた松陰は「知行合一」を掲げて過激な行動を起こした人物で、実行しないと気が済まない気質だったのです。自分は今すべきことを知っているが、それを「藩に迷惑がかかる」という理由で阻む弟子たちがいる。それを死罪も厭わず口にして死罪となることで、幕府や藩、更には愛弟子たちに自分の心意気を示そうとしたというのです。<br />実際、松陰は『留魂録』なる門下生宛ての遺書を執筆しています。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留め置かまし大和魂」という冒頭の一文には、死を恐れることなく、誠を行うことの大切さを伝える気持ちが込められています。<br /><br />直弼が彦根藩主となった時に、松陰が詠んだ歌があります。松陰の兄の杉梅太郎に宛てた書簡に認められた、22歳の頃のものです。 <br />「彦根今侯の御歌<br />こたび国入の折節、領内の民共数多(あまた)出迎へけるをみて、馬上にてかく読み侍る、掩(おお)ふべき袖の窄(せま)きをいかにせん 行道しげる民の草ばに 恵まではあるべきものか道のべに 迎ふる民のしたふ誠に」。<br />松陰は、直弼のことを民に対して哀れみの心を持っている人物、そして藩政も評価すべきものがあると記しています。 当時は直弼と松陰は全く縁遠い、しかも住む世界が違うほど遠く離れた存在でしたが、松陰は少なくとも直弼に好印象を持っていたことは確かなようです。<br />また、英国の詩人バートン・マーチンが直弼を思って書いた詩が伝わっています。<br />「彦根城にのぼると 小人には琵琶湖がみえる 大人には日本がみえる 偉人には世界がみえる」。しかし、この人物は何者なのか全く不明だそうです。<br />今から150年前、開国か攘夷かで幕府の意見は2分し、朝廷を巻き込んで将軍継嗣の問題と絡みながら、困難極まる決断を迫られていました。そして直弼は、250年間続いた鎖国の時代と決別し、時代の変化に対応して世界に門戸を開く英断をしました。今一度、吉田松陰の歌やバートン・マーチンの詩を胸に彦根城に登れば、今までとは違った直弼の姿が浮かんでくるかもしれません。

    天守 2層
    破風の屋根瓦がとても美しく組まれています。

    吉田松陰は安政の大獄で井伊直弼によって死罪に処されました。幕府が開国のための条約を締結しようとするも天皇の許可が下りず、周囲からは外交政策に対して反発と批判が巻き起こるわ、早く締結したい諸外国からは圧力がかかるわ、幕府はもう身動きが取れない状況でした。この難しい状態を直弼はリーダーシップを発揮して強引なやり方で一気に片づけていきます。条約は天皇の許しなく調印を済ませ、そして幕府を批判する者は次々に牢屋にぶち込み処刑したのが安政の大獄です。
    そんな中、危険人物として長州藩によって捕えられた松陰は、江戸の伝馬町に送られ評定所で取り調べを受けることを「至誠にして動かざる者、いまだこれ有らざるなり」という孟子の言葉を幕府に伝える絶好の好機と捉えていました。松陰は自分が企てた老中 間部詮勝暗殺計画が幕府に知られたことが捕縛の理由と思っていましたが、嫌疑の中にそれがなかったことに拍子抜けしてしまいます。そこで自ら「間部詮勝暗殺を企てた」と告白したのです。これは松陰の策略だとの説もあります。つまり、陽明学を学んでいた松陰は「知行合一」を掲げて過激な行動を起こした人物で、実行しないと気が済まない気質だったのです。自分は今すべきことを知っているが、それを「藩に迷惑がかかる」という理由で阻む弟子たちがいる。それを死罪も厭わず口にして死罪となることで、幕府や藩、更には愛弟子たちに自分の心意気を示そうとしたというのです。
    実際、松陰は『留魂録』なる門下生宛ての遺書を執筆しています。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留め置かまし大和魂」という冒頭の一文には、死を恐れることなく、誠を行うことの大切さを伝える気持ちが込められています。

    直弼が彦根藩主となった時に、松陰が詠んだ歌があります。松陰の兄の杉梅太郎に宛てた書簡に認められた、22歳の頃のものです。
    「彦根今侯の御歌
    こたび国入の折節、領内の民共数多(あまた)出迎へけるをみて、馬上にてかく読み侍る、掩(おお)ふべき袖の窄(せま)きをいかにせん 行道しげる民の草ばに 恵まではあるべきものか道のべに 迎ふる民のしたふ誠に」。
    松陰は、直弼のことを民に対して哀れみの心を持っている人物、そして藩政も評価すべきものがあると記しています。 当時は直弼と松陰は全く縁遠い、しかも住む世界が違うほど遠く離れた存在でしたが、松陰は少なくとも直弼に好印象を持っていたことは確かなようです。
    また、英国の詩人バートン・マーチンが直弼を思って書いた詩が伝わっています。
    「彦根城にのぼると 小人には琵琶湖がみえる 大人には日本がみえる 偉人には世界がみえる」。しかし、この人物は何者なのか全く不明だそうです。
    今から150年前、開国か攘夷かで幕府の意見は2分し、朝廷を巻き込んで将軍継嗣の問題と絡みながら、困難極まる決断を迫られていました。そして直弼は、250年間続いた鎖国の時代と決別し、時代の変化に対応して世界に門戸を開く英断をしました。今一度、吉田松陰の歌やバートン・マーチンの詩を胸に彦根城に登れば、今までとは違った直弼の姿が浮かんでくるかもしれません。

  • 天守 出口 鉄扉<br />天守の出口にある鉄扉です。<br />このように扉や柱に短冊状の鉄板を隙間なく鋲で打ち付けた鉄門(くろがねもん)は、ここ彦根城天守だけでなく、名古屋城本丸表二の門や姫路城の門などでも見られ、往時の大砲弾の直撃にも耐えられほど頑丈なものだったそうです。<br />天守から降りてきたら、天守入城待ち時間が30分と表示されていました。<br />ひこにゃんの威力恐るべしです!

    天守 出口 鉄扉
    天守の出口にある鉄扉です。
    このように扉や柱に短冊状の鉄板を隙間なく鋲で打ち付けた鉄門(くろがねもん)は、ここ彦根城天守だけでなく、名古屋城本丸表二の門や姫路城の門などでも見られ、往時の大砲弾の直撃にも耐えられほど頑丈なものだったそうです。
    天守から降りてきたら、天守入城待ち時間が30分と表示されていました。
    ひこにゃんの威力恐るべしです!

  • 天守<br />西の丸側からの景観です。<br />規模は小さいですが、白亜三層の天守は今もなお気高い雄姿を誇り、屋根の曲線の調和が美しく華麗な雰囲気を漂わせています。

    天守
    西の丸側からの景観です。
    規模は小さいですが、白亜三層の天守は今もなお気高い雄姿を誇り、屋根の曲線の調和が美しく華麗な雰囲気を漂わせています。

  • 西の丸から佐和山方面を望んだ景色です。<br />直孝は大坂夏の陣で大功をあげて父の直政(徳川四天王)に劣らぬ武将と賞賛され、譜代大名としては例を見ない30万石を受かりました。<br />彦根35万石と言われるのは、幕府領5万石の預かりを合わせると35万石になるからです。<br />

    西の丸から佐和山方面を望んだ景色です。
    直孝は大坂夏の陣で大功をあげて父の直政(徳川四天王)に劣らぬ武将と賞賛され、譜代大名としては例を見ない30万石を受かりました。
    彦根35万石と言われるのは、幕府領5万石の預かりを合わせると35万石になるからです。

  • 西の丸から琵琶湖方面を望んだ景色です。<br />左側に多景島(たけしま)が写っています。<br />全体が岩の島で竹が沢山茂ることから、元々は「竹島」と表記していましたが、島の形が見る方向によって美しく変わることに因んで「多景島」と変えられました。<br />多景島は彦根の西方6.5kmに位置し、外周600m、湖面からの高さが20mの小島です。島の象徴は、約10mの高さの岩に「南無妙法蓮華経」の文字が彫られた「題目岩」です。<br />1860(安政7)年の桜田門外の変で直弼が討たれた時には、題目岩が鮮血を滲ませたと伝えられています。直弼の死は地元の人々とって、それほど悲しみに満ちた衝撃的な事件だったのでしょう。<br />3年がかりで岩の文字を刻んだのは、島内にある日蓮宗の寺院・見塔寺(けんとうじ)を開山した日靖上人です。<br />琵琶湖には、他に竹生島(長浜市)や沖島(近江八幡市)があり、多景島と合わせて琵琶湖三島と呼ばれています。

    西の丸から琵琶湖方面を望んだ景色です。
    左側に多景島(たけしま)が写っています。
    全体が岩の島で竹が沢山茂ることから、元々は「竹島」と表記していましたが、島の形が見る方向によって美しく変わることに因んで「多景島」と変えられました。
    多景島は彦根の西方6.5kmに位置し、外周600m、湖面からの高さが20mの小島です。島の象徴は、約10mの高さの岩に「南無妙法蓮華経」の文字が彫られた「題目岩」です。
    1860(安政7)年の桜田門外の変で直弼が討たれた時には、題目岩が鮮血を滲ませたと伝えられています。直弼の死は地元の人々とって、それほど悲しみに満ちた衝撃的な事件だったのでしょう。
    3年がかりで岩の文字を刻んだのは、島内にある日蓮宗の寺院・見塔寺(けんとうじ)を開山した日靖上人です。
    琵琶湖には、他に竹生島(長浜市)や沖島(近江八幡市)があり、多景島と合わせて琵琶湖三島と呼ばれています。

  • 西の丸 三重櫓<br />城内には、天守の他にも2棟の3層の建造物がありました。そのひとつが西の丸三重櫓、もうひとつが明治初年に取り壊された山崎曲輪の三重櫓です。<br />西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置し、さらに西に張り出した出曲輪(でぐわ)との間に設けられた深い堀切(尾根を切断して造られた空堀)に面して築かれています。堀切の底から見上げる三重櫓は絶壁のようにそそり立ち、西の搦手(からめて=裏手)方面からの敵に備えた守りの要塞でした。 <br />この三重櫓は、東側と北側にそれぞれ1層の続櫓を「く」の字に付設しています。三重櫓には天守のように装飾的な破風などはありませんが、櫓全体を総漆喰塗りとし簡素な中にも気品のある櫓となっています。

    西の丸 三重櫓
    城内には、天守の他にも2棟の3層の建造物がありました。そのひとつが西の丸三重櫓、もうひとつが明治初年に取り壊された山崎曲輪の三重櫓です。
    西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置し、さらに西に張り出した出曲輪(でぐわ)との間に設けられた深い堀切(尾根を切断して造られた空堀)に面して築かれています。堀切の底から見上げる三重櫓は絶壁のようにそそり立ち、西の搦手(からめて=裏手)方面からの敵に備えた守りの要塞でした。
    この三重櫓は、東側と北側にそれぞれ1層の続櫓を「く」の字に付設しています。三重櫓には天守のように装飾的な破風などはありませんが、櫓全体を総漆喰塗りとし簡素な中にも気品のある櫓となっています。

  • 西の丸 三重櫓<br />曲がった柱も左右と中央の高さが揃ったものを厳選しているようにも窺えます。<br />この建物は浅井長政の居城だった小谷城の天守を移築したとの説もありますが、昭和30年代に行われた解体修理ではそれを証明する痕跡は確認されなかったそうです。<br />と言うのは、江戸後期の大修理で部材の8割が取り替えられたため、昭和の解体調査では証拠が見つけられなかったためです。

    西の丸 三重櫓
    曲がった柱も左右と中央の高さが揃ったものを厳選しているようにも窺えます。
    この建物は浅井長政の居城だった小谷城の天守を移築したとの説もありますが、昭和30年代に行われた解体修理ではそれを証明する痕跡は確認されなかったそうです。
    と言うのは、江戸後期の大修理で部材の8割が取り替えられたため、昭和の解体調査では証拠が見つけられなかったためです。

  • 西の丸 三重櫓<br />佐和口多聞櫓同様に、火災予防のために柱の一部が壁に埋め込まれています。<br />一説には壁の強度アップの効果も込められているそうです。

    西の丸 三重櫓
    佐和口多聞櫓同様に、火災予防のために柱の一部が壁に埋め込まれています。
    一説には壁の強度アップの効果も込められているそうです。

  • 西の丸 三重櫓<br />鉄砲用の三角狭間から見た風景です。<br />外部のアクリル板が掃除できないため、残念ながらこんな風にしか写りません。

    西の丸 三重櫓
    鉄砲用の三角狭間から見た風景です。
    外部のアクリル板が掃除できないため、残念ながらこんな風にしか写りません。

  • 大堀切<br />西の丸三重櫓の北側にある大堀切です。二の丸とその先の出郭を繋ぐ木橋を落とされると、この急峻な石垣を登ることになります。<br />

    大堀切
    西の丸三重櫓の北側にある大堀切です。二の丸とその先の出郭を繋ぐ木橋を落とされると、この急峻な石垣を登ることになります。

  • 西の丸 三重櫓<br />本丸の西側一帯を西の丸と呼び、その西の丸の一番はずれにあるのが三重櫓です。尾根を切断して造られた10m以上にも及ぶ高い石垣の上に築かれた姿は荘厳です。<br />出郭の石垣は、安土城の石垣などで有名な石垣集団の穴太衆(あのうしゅう)が携わったそうです。この手前にある石垣が穴太衆によるものでしょうか?<br />確かに、奥に見える西の丸三重櫓の石垣とは趣が異なっています。<br />三重櫓の東側一帯には桜が植えられ、春にはお花見のスポットとして賑わうそうです。 <br />

    西の丸 三重櫓
    本丸の西側一帯を西の丸と呼び、その西の丸の一番はずれにあるのが三重櫓です。尾根を切断して造られた10m以上にも及ぶ高い石垣の上に築かれた姿は荘厳です。
    出郭の石垣は、安土城の石垣などで有名な石垣集団の穴太衆(あのうしゅう)が携わったそうです。この手前にある石垣が穴太衆によるものでしょうか?
    確かに、奥に見える西の丸三重櫓の石垣とは趣が異なっています。
    三重櫓の東側一帯には桜が植えられ、春にはお花見のスポットとして賑わうそうです。

  • 登り石垣<br />西の丸三重櫓の西側斜面にも長く伸びた登り石垣が見られます。<br />雑木林を整備したため、このようにはっきりと見られるようになっています。

    登り石垣
    西の丸三重櫓の西側斜面にも長く伸びた登り石垣が見られます。
    雑木林を整備したため、このようにはっきりと見られるようになっています。

  • 大きな鳶(とび)が悠々と蒼空を旋回しています。<br />西洋人から見ると、鳶は意地のきたない鳥の代表格だそうです。かつてはロンドンなどの大都市にも棲んでいたそうで、街の空地に捨てられるクズを食べあさる掃除屋でした。このために、いやしい鳥のイメージが強められたのでしょう。<br />昔からあまり良い印象の伝承はありませんが、古代ギリシャの学者によると、「葬式の供物や神に捧げたイケニエだけは、いかにひもじくとも盗むことはしなかった」という最低限度の道徳を持っている鳥だとのことです。

    大きな鳶(とび)が悠々と蒼空を旋回しています。
    西洋人から見ると、鳶は意地のきたない鳥の代表格だそうです。かつてはロンドンなどの大都市にも棲んでいたそうで、街の空地に捨てられるクズを食べあさる掃除屋でした。このために、いやしい鳥のイメージが強められたのでしょう。
    昔からあまり良い印象の伝承はありませんが、古代ギリシャの学者によると、「葬式の供物や神に捧げたイケニエだけは、いかにひもじくとも盗むことはしなかった」という最低限度の道徳を持っている鳥だとのことです。

  • 暫し羽を休めてまた飛んでいきました。

    暫し羽を休めてまた飛んでいきました。

  • 青モミジが目に鮮やかです。

    青モミジが目に鮮やかです。

  • 登り石垣<br />坂を下り切った所にあります。<br />ここでは登り石垣が間近にはっきりと見ることができます。

    登り石垣
    坂を下り切った所にあります。
    ここでは登り石垣が間近にはっきりと見ることができます。

  • 黒門橋<br />内堀を渡り、楽々園や玄宮園などの日本庭園エリアへと繋がる黒門橋です。黒門は、今は入城するための発券所となっています。<br />黒門橋は、現在は内堀に架かる3つの橋の中で唯一土橋(内堀を埋めたもの)ですが、江戸時代は木橋だったそうです。

    黒門橋
    内堀を渡り、楽々園や玄宮園などの日本庭園エリアへと繋がる黒門橋です。黒門は、今は入城するための発券所となっています。
    黒門橋は、現在は内堀に架かる3つの橋の中で唯一土橋(内堀を埋めたもの)ですが、江戸時代は木橋だったそうです。

  • 黒門橋<br />水辺で咲いているのは、カキツバタかショウブであってアヤメではない。<br />カキツバタには、黄色の花はない。<br />以上から、キショウブと思います。<br />キショウブは、帰化種で日本の風土に適応して野生化したものだそうです。日本の花ショウブには、紫や青紫、赤紫、白、ピンクの花はあっても、黄色は無く、珍しい花として明治時代にヨーロッパから輸入されたものがキショウブで、日本古来から咲いている花ではないそうです。<br />キショウブは、日本各地の水辺で見られ、一日花ですが、その艶やかな色彩で人の目を惹き付けています。

    黒門橋
    水辺で咲いているのは、カキツバタかショウブであってアヤメではない。
    カキツバタには、黄色の花はない。
    以上から、キショウブと思います。
    キショウブは、帰化種で日本の風土に適応して野生化したものだそうです。日本の花ショウブには、紫や青紫、赤紫、白、ピンクの花はあっても、黄色は無く、珍しい花として明治時代にヨーロッパから輸入されたものがキショウブで、日本古来から咲いている花ではないそうです。
    キショウブは、日本各地の水辺で見られ、一日花ですが、その艶やかな色彩で人の目を惹き付けています。

  • 黒門橋<br />黒門橋を渡って黒門方面を振り返るとこのような感じです。<br /><br />優美な姿を今に留める彦根城天守ですが、はじめは家康の命により大阪城包囲網の東の関所として寄せ集めた材料で突貫工事の末に建てられたリサイクル城というイメージしかありませんでした。しかし、歴史を紐解いてみると、天守の母体となった旧大津城は4層5階建の豪華絢爛な大型天守だったようです。それを3層3階建に縮小したということは、単に移築したという訳ではなかったのです。また、建造物の形を変えながら資材をリサイクルするという二律背反するテーマは、新築するよりも困難を極めた難事業だったに違いありません。大工棟梁 浜野喜兵衛氏の技術と知恵、そして情熱がなければ彦根城は現存していなかったかもしれません。<br />類稀な名城 彦根城の美しさの陰には、こうした秘話が存在していたのです。<br /><br />この続きは、彦根紀行②楽々園・玄宮園でお届けします。

    黒門橋
    黒門橋を渡って黒門方面を振り返るとこのような感じです。

    優美な姿を今に留める彦根城天守ですが、はじめは家康の命により大阪城包囲網の東の関所として寄せ集めた材料で突貫工事の末に建てられたリサイクル城というイメージしかありませんでした。しかし、歴史を紐解いてみると、天守の母体となった旧大津城は4層5階建の豪華絢爛な大型天守だったようです。それを3層3階建に縮小したということは、単に移築したという訳ではなかったのです。また、建造物の形を変えながら資材をリサイクルするという二律背反するテーマは、新築するよりも困難を極めた難事業だったに違いありません。大工棟梁 浜野喜兵衛氏の技術と知恵、そして情熱がなければ彦根城は現存していなかったかもしれません。
    類稀な名城 彦根城の美しさの陰には、こうした秘話が存在していたのです。

    この続きは、彦根紀行②楽々園・玄宮園でお届けします。

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