2014/06/20 - 2014/06/20
98位(同エリア309件中)
ムッシュさん
幕府管理の奥州街道は白河宿がゴールです。
白河宿は、幕府道中奉行の管轄下であった奥州道中最終の宿駅で、本陣1、脇本陣2、旅籠35軒であった。
- 旅行の満足度
- 5.0
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街道から外れてのお立寄り場所は、【白河の関公園】です。
白河の関は、江戸時代の関所ではなく、少なくとも645年の大化の改新の時に文献に出る事から、そのあたりに蝦夷の南下を防ぐために建てられた砦です。主として8?9世紀頃に機能していたようです。
平安末期に栄えた奥州藤原氏の領土の境界であった。 -
【白河の関所】は、奥州3関の1つであり(歌枕としても有名なこの地を)風流人が訪れて、様々な感動を伝えている。
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【古関跡の碑】
寛政の改革でお馴染み、白河藩主であった松平定信は、白河の関の場所を研究して、「ここだ!」と確かめ、現在地に碑を建立している。
奥州三古関のひとつに数えられる白河関は、奈良時代から平安時代頃に機能していた国境の関で、蝦夷(えみし)の南下や人、物資の往来を取り締まる機能を果たしていた。
白河の関(しらかわのせき)は、鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに、奥州三関の一つに数えられる関所である。都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として史上名高い。
その後律令制の衰退とともにその機能を失いましたが、『歌枕』(和歌の名所)として文学の世界で都人の憧れの地となり、能因や西行、松尾芭蕉など時代を代表する歌人・俳人たちが多くの歌を残しています。
【白河関跡】 国指定史跡(昭和41年9月12日指定)
白河関は、古来よりみちのくの関門として歴史にその名を刻み、また文学の世界では歌枕として数多くの国家古歌に詠まれた場所である。
関の位置については久しく不明であったが、江戸時代後期、時の白河藩主松平定信の考証により、この地が白河関跡であると断定され、寛政十二年(1800)に「古関跡」の碑が建てられ、今日に至っている。
関が置かれた年代については不明であるが、延暦十八年(799)、承和ニ年(835)の太政官符には「白河剗」の名が認められることや歴史的な背景からみて、大化の改新以後の七・八世紀頃には存在していたものと考えられる。
昭和三十四年から三十八年までに実施された発掘調査では、竪穴住居跡や掘立柱建物跡、空掘、土塁、棚列などの古代から中世にいたる遺構が発見され、縄文土器、土師器・須惠器・灰釉器、鉄製品などの古代から中世に至る遺物が出土している。出土した土師器の中には、 「門、大室、□舟」などの墨書土器がみられる。
白河関の全体像についてはまた未解明な点もあるが、現在も奥州三関の一つとして多くの人々に親しまれ、歴史のひとこまに触れることができる場となっている。
また、春には藤やかたくりの花が咲き、訪れる人々の心を和ませている。
文部科学省 白河市教育委員会
【古関蹟(こかんせき)の碑】
白河藩主松平定信(樂翁)が寛政十二年(1800)年八月、ここが白河関跡であることを断定し、建立した碑である。 -
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【白河神社・由緒】
第十三代成務天皇五年(135)白河国造命と天太玉命を奉祀し、勅命により鎮座、のち白河の関設置に当り、関所南北に住吉・玉津島明神を祀る。延暦十年(792)永承七年(1053)平兼盛、源頼義・義家等が稲田を奉献し、寿永三年(1184)三月九日源義家、文治五年(1189)源頼朝等が金弊を奉献、元和元年(1615)伊達政宗公社殿を改築奉納(本殿の棟紋に九曜星、縦三引きの紋あり)、享和元年(1180)に白河城主松平定信公が神庫を奉納。奥の細道曽良日記にも記された二所の関明神として、現在国技である大相撲二所の関部屋の発祥地、八月に二所の関古式相撲が嵐祭りとして奉納される。
白河の関を境内とし、境内は昭和四十一年九月十二日付けで文化庁より国指定史跡「白河関跡」に指定された。 -
神社の前にある『古歌碑』の説明
芭蕉が引用した歌は次の3つ。
1.都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞふく白河の関 …能因法師(後拾遺集)
2.都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関 …源頼政(千載和歌集)
3.見て過ぐる人しなければ卯の花の咲ける垣根や白河の関 …藤原季通(千載和歌集) -
白河神社の社殿脇にある古歌碑
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加藤楸邨揮毫の「おくのほそ道」碑
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「従二位の杉(樹齢800年)」
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白河の関から街道に戻って来ました。これより奥州街道を歩きます。
手稲山麓の【戊辰の役古戦場跡碑】
稲荷山の前に着く。
此の辺は戊辰戦争の白河口激戦地で、稲荷山の麓には多数の慰霊碑や記念碑が建っていた。
奥羽諸藩鎮定に向かった薩長大垣連合の西軍と、これを迎え撃つ会津、仙台、棚倉などの東軍が激しく戦った場所で、多くの戦死者を弔う石碑が道路の両側に建てられている。
【会津藩士戦死の墓】
稲荷山麓にある大きな石碑。戦死の墓と書かれてある。戊辰戦争の会津藩士の墓で、ここ白河口の戦いで亡くなった藩士の墓である。
会津藩銷魂碑には、若年寄横山主税、海老名衛門他、304名の戦没戦士の名が刻まれている。
【戊辰の役古戦場】
市内の九番町の西端、ここ松並にあり、南は水田が開け、北は稲荷山の小丘を慶応四年(1868)奥羽諸藩鎮定のために、薩摩大垣等西軍が大挙して三方から白河を攻めた。
東軍の会津、仙台、棚倉の兵は、白河城の南西の山に陣し、これを迎え撃った。この地は白河口での激戦地で、潤四月二十五日、会津兵は一旦西軍を退けたが、五月一日、再び来襲してたので、西郷頼母、横山主税等が稲荷山に陣し迎え撃ったが、激戦、数十合、弾尽き刀折れ、戦死者数しれず遂に敗退のやむなきに至り小峰城は遂に落城、城郭は焼失した。
戦後両軍は、各戦死者の碑を建て、霊を慰めた。
この白河街道の左曲する南側に、長州藩三名大垣藩三名の墓、北側に会津藩戦死者の墓と会津藩主松平松容保の題字の鎮魂碑がある。
白河市教育委員会報告 -
戊辰の役古戦場説明
【戊辰の役古戦場】
市内の九番町の西端、ここ松並にあり、南は水田が開け、北は稲荷山の小丘を慶応四年(1868)奥羽諸藩鎮定のために、薩摩大垣等西軍が大挙して三方から白河を攻めた。
東軍の会津、仙台、棚倉の兵は、白河城の南西の山に陣し、これを迎え撃った。この地は白河口での激戦地で、潤四月二十五日、会津兵は一旦西軍を退けたが、五月一日、再び来襲してたので、西郷頼母、横山主税等が稲荷山に陣し迎え撃ったが、激戦、数十合、弾尽き刀折れ、戦死者数しれず遂に敗退のやむなきに至り小峰城は遂に落城、城郭は焼失した。
戦後両軍は、各戦死者の碑を建て、霊を慰めた。
この白河街道の左曲する南側に、長州藩三名大垣藩三名の墓、北側に会津藩戦死者の墓と会津藩主松平松容保の題字の鎮魂碑がある。
白河市教育委員会報告 -
【奈良屋呉服店】大正時代の建物。
寛永四年(1627年)家康は大坂の陣で武功を挙げた丹羽長重を初代白河藩主に据えました、以降、白河宿は白河藩十万石の城下町として発展しました。
奥州の玄関口に位置する白河藩は伊達など、奥州の外様大名に対する備えとされていたため、丹羽氏以降は親藩譜代大名が藩主を勤め、歴代藩主の中には老中首座となって寛政の改革を断行した松平定信が知られています。
【奈良屋呉服店建造物群】 歴史風致形成建造物・指定番号:第9号(平成23年7月21日指定)
奈良屋呉服店は、明治14年(1881)に阿部家5代金次郎氏によって創業された。呉服店を営む以前の江戸時代には、油・砂糖を商っていたとされる。また、明治中期には、自転車を販売する代理店でもあった。
店舗は、大正2年(1913)に建築されたもので、店舗兼併用住宅の木造瓦葺である。一階には土間と12畳の空間を持つ店舗があり、その奥に当時の住居となる和室3室がある。ニ階には座敷が2室あり、床の間、違い棚等が当時のまま残されている。蔵は、明治26年(1893)に建築されたもので、黒漆喰の観音開きの扉が通りに面して設けられ、店舗と蔵が一体となって重厚な趣を醸し出している。
白河市
天保14年(1843年)の頃、白河宿の宿内家数は1,285軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠35軒で宿内人口は5,959人でした、幕府道中奉行が管轄した奥州道中最後の宿場です。 -
【月よみの庭】
天神町分岐点に戻ると左手に白河石を敷き詰めた月よみの庭があります
白河石は、芦野石と同じ種類で、白河火砕流の灰色や灰紫色の凝灰岩のことである。
白河石は那須山と二岐山の火砕流堆積物でクッション性に富み、内部に水を含み蒸散作用で足元が涼やかに感じられるといいます。
直角に右に曲がる角に「月よみの庭」と書かれた小公園がある。
月読か、月夜見の意であろうか。
地元の白河石を敷き詰めた庭である。
白河石は、芦野石と同じ種類で、白河火砕流の灰色や灰紫色の凝灰岩のことである。
一番町を抜けると、勘定町や細工町、道場町、金屋町、宰領町、鷹匠町、
手代町、袋町、蔵町、大手町等と如何にも城下町らしい町名が続いている。
【白河石の説明】
”礎固き わが白河の”
白川石の庭です。石英安山岩質の凝灰岩であるため色が白く、東京や京都の神社仏閣などでは珍重されている。
那須山とニ岐山の火砕流堆積物なので、クッション性に富み内部に水を含んでいるので、桐げたの減りも遅い。
この庭園の石材は、西郷村柏野地区道場窪「田中石材店」の「黒目」という白川石の中でも傑出したものです。この「黒目」は、水を打った時に美しく、蒸散作用で歩く足元が涼やかに感じられます。
”水清き所に良石ありとは、この石のことか。(地下鉄大江戸線に清澄白河の駅名あり) -
中町の枡形となっている道を右に入ると、
【関川寺(かんせんじ)】がある。
中世に白河を本拠とした白河結城氏の菩提寺です。
銅鐘(どうしょう)は宝暦11年(1761年)の鋳造で、時の鐘でした。
境内に戦死霊魂供養碑があります、棚倉藩士小池理八は白河口の戦いで足に重傷を負い、割腹して果てました。
碑には理八を悼む歌「武士(もののふ)の 心の駒は いさめども 黄泉(こうせん)までとは すすめざりしを」が刻まれています。
中世、白川城主の結城宗廣が開山したと伝えられ、天正9年(1581年)に現在地に移っている。
関川寺境内には戊辰戦争犠牲者の碑や、赤穂義士の妻の墓や、多数の石塔が見られる。
戊辰戦争での東軍の戦死者供養塔。慶応4年5月1日の戦いで、最大の激戦地となり、東軍の戦死者は682人にのぼったと言う。
また、赤穂四十七士の一人、中村勧助の妻の墓もある。勘助の父が白河藩士であったからのようだ。 -
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【曹洞宗関川寺(かんせんじ)】がある。
中世に白河を本拠とした白河結城氏の菩提寺です。
銅鐘(どうしょう)は宝暦11年(1761年)の鋳造で、時の鐘でした。
中町の枡形となっている道を右に入ると、関川寺(かんせんじ)がある。
中世、白川城主の結城宗廣が開山したと伝えられ、
天正9年(1581年)に現在地に移っている。
境内には戊辰戦争での東軍の戦死者供養塔がある。
慶応4年5月1日の戦いで、最大の激戦地となり、東軍の戦死者は682人にのぼったと言う。
また、赤穂四十七士の一人、中村勧助の妻の墓もある。
勘助の父が白河藩士であったからのようだ。
この辺は一帯は小峰城の南西の防衛ラインとして、
城下町特有の寺町となっているところである。
丁度、この関川寺の背後から谷津田川に沿って寺が集中している。 -
【皇徳寺】
には小原庄助さんの、お猪口と徳利の形をした墓がある。
その中で、皇徳寺には小原庄助さんの、お猪口と徳利の形をした墓がある。
戒名が「米汁呑了信士」で
辞世の句が「朝によし 昼になほよし 晩によし 飯前飯後 その間もよし」とか。 -
小原庄助さんのお墓
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墓地の奥に小原庄助(おはらしょうすけ)の墓があります
何と戒名は、「米汁呑了信士」
辞世の句は、”朝によし昼になほよし晩によし、飯前飯後その間もよし”
会津民謡会津磐梯山「小原庄助さんなんで身上つぶした朝寝朝酒朝湯が大好きでそれで身上つぶした」に唄われています。 -
文久3年(1863年)創業の老舗玉屋和菓子店。高級和菓子屋さん。
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【東北3名城に数えられる小峰城】
立ち姿は、大変美しい!
戊辰戦争で落城、焼失したが平成3年に復元された木造3重櫓の端正な姿。
現在は、2011年3月11日に発生した東日本大震災により、三重櫓の崩壊には至らなかったものの数箇所の石垣・曲輪が崩壊、または積み重ねがゆるむ被害があった。曲輪上にあった白河バラ園や公園・石碑等も崩壊し、震災以後は本丸への立ち入り禁止となっている。(2014年現在) -
城山公園があります、園内に入ると史蹟小峰城址碑があり、復元された小峰城三重櫓(やぐら)が聳えています。
白河小峰城の御三階櫓は1632年(寛永9年) に建てられた複合式層塔型3重3階の櫓で、当時は「三重御櫓」と呼ばれた実質的な天守。
幕末の白河藩主阿部正外(まさとう)は老中を勤めましたが、兵庫を無勅許で開港した責により罷免され、改易となり白河藩は消滅しました。
以降小峰城と白河藩は幕府直轄となり、大政奉還後は明治新政府の管理下に置かれました、戊辰戦役が勃発すると会津藩が小峰城を占拠しましたが、白河口の戦いで落城し焼失しました。
【小峰城跡】 国指定史跡(平成22年8月5日指定) 梯郭式平山城
小峰城後は、南北朝期の興国・正平年間(1340~69)頃に、結城親朝により築城されたのが始まりとされます。
現在に残る石垣造りの城郭は、寛永4年(1627)に初代白河藩主となった丹波長重が寛永6年(1629)より約4年の歳月をかけて改修したものです。
丹波氏以後、松平(榊原)・本多・松平(奥平)・松平(結城)・松平(久松)・阿部といった徳川譜代・親藩の7家21代の居城として、また奥州の関門としての役割を担いましたが、慶応4年(1869)の戊辰戦争白河口の戦いにより焼失落城しました。
明治以降、城郭はその多くが民間への払い下げとなりますが、本丸を中心とした範囲は陸軍省の所管となり、のち明治26年(1893)に白川町に払い下げられました。
本丸、二之丸を中心とした範囲は、城郭遺構を生かした都市公園としての整備が進められ、平成3年(1991)には三重櫓、平成6年(1994)には前御門が発掘調査の成果と絵図の記載をもとに木造で復元されています。
そして、小峰城は奥州の関門としての歴史的重要性や今なお本丸、二之丸を中心とした範囲に、石垣や堀といった遺構が良好な状態で残されていることが高く評価され、平成22年(2010)に国の史跡に指定されました。 -
南北朝時代の興国元年(1340年)、結城宗弘の子親朝(ちかとも)が、ここ小峰ヶ岡に城館を作り、子孫は小峰氏と称した。戦国時代後期からは会津城主の領地となっている。
江戸時代の寛永4年(1627年)、丹羽長重が棚倉より10万石で入り、白河藩創設。小峰城の大改築を行い、近世的な城郭と城下町を完成させた。
丹羽家以後は、松平定信を始め、7家21代の親藩、譜代大名が交替で入封した。
最期の城主は、文政6年(1823年)に武蔵忍より阿部正権(まさのり)が10万石で入封し、以後8代44年在封した。
しかし慶応2年、8代目藩主阿部正靜(まさきよ)は棚倉への転封の命を受けた。
従って、戊辰戦争の時は白河城は藩主不在のままで、奥州列藩同盟軍と新政府軍の攻防の舞台となった。その結果、戊辰戦争で同盟軍は破れ石垣のみを残し、他は焼失してしまった。 -
この追分の地に、【仙台藩士戊辰戦没の石碑】
慶応4年の白河口の戦いで戦死した150余名の慰霊碑。幟には、戊辰戦争白河の戦いの文字。臺(台)(せんだい)藩士戊辰戦歿之碑があります、明治23年(1890年)旧仙台藩主伊達宗基(むねもと)が建立したものです。
傍らの戦死供養塔は白河周辺で戦死した仙台藩士150名余を葬った墓で、明治2年(1869年)の建碑です。
仙台藩士細谷十太夫直英が率いる衝撃隊は黒装束をまとい夜戦を特異としたところから鴉(からす)組と呼ばれ、槍と刀を武器に夜襲を仕掛け、大いに恐れられ「細谷からすと十六ささげ無けりゃ官軍高枕」と唄われました。
十六ささげとは神出鬼没の戦い振りで活躍した棚倉藩の精神隊十六士を指しています。
【仙台藩士戊辰戦歿碑】
かつて会津街道(国道294号)と奥州街道(国道4号)の分岐点であったここ女石の地にあるこの碑は、明治ニ十三年(1890)、戊辰戦争における仙台藩の戦死者の慰霊のため、旧仙台藩主伊達宗基により建てられたものである。
なお、この碑の傍らの「戦死供養碑」は、白河周辺で戦死した仙台藩士百五十名余を葬った墓で、明治二年(1869)の建立である。
白河観光物産協会
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