高崎旅行記(ブログ) 一覧に戻る
魏志倭人伝で邪馬台国と対立している狗奴(クヌ:クナ)国を毛野(ケヌ)国とする説が昔からあります。一方、奥州市の陸中一ノ宮:駒形神社は、上毛野胆沢公が雄略天皇の456年に駒形山の山頂に駒形大神を勧請したものといわれ、毛野国の勢力は陸奥国まで及んでいたらしい。<br />また、534年の武蔵国造の乱では毛野王権はヤマト王権に敗れた勢力を支持したが、戦後に罰せられなかったことなどの記録から、当時の毛野国はヤマトから独立していた王権と考えられています。<br /><br />他方、活火山データベースによれば、550年頃に榛名山の二度の大噴火があった。実際に榛名山の東斜面からは火山噴出物に覆われた王の居館・水田・住居址、最近は鎧をまとった男性の骨などが発見されている。<br />恐らく、この噴火により毛野国は甚大な被害を受けて衰退し、ヤマト王権の支配下に組み込まれる原因となったらしい。この点については別の旅行記「毛野(けぬ)の国:群馬県藤岡市の白石古墳群など」に詳しく述べた。<br />実際、大化改新(645年)の直前の637年には、舒明帝が上毛野君片名軍をエミシ鎮定に派遣しているので、毛野国はヤマトの支配下にあったと思われる。<br /><br />さて、高崎を訪れました。新宿からは湘南新宿ラインで高崎直通の快速が便利です。新宿発も高崎発(小田原行き)も毎時10分ころです。<br />新宿10時13分発で12時直前に高崎着、駅蕎麦を食べて上信電鉄20分で吉井駅に到着。<br />まず、渡来人に関係するといわれる辛科神社(からしな:韓科とも)参拝。宮司不在で話は聞けなかった。ついで2015年に世界記憶遺産に推薦されそうな上野(こうずけ)三碑の多胡碑、山上碑、金井沢碑とめぐって根小屋駅から高崎に帰着して第一日は終了。(2015年9月、世界記憶遺産に推薦された)<br />高崎市観光課(027-321-1257)の「上野三碑を歩こうマップ」が便利でした。<br /><br />多胡碑:高崎市吉井町在。8世紀後半の建碑で那須国造碑・多賀城碑とともに日本三古碑のひとつ。80文字の楷書が刻まれ、内容は上野国の片岡郡、緑野郡、甘楽郡から300戸を分けて多胡郡を作り羊に支配させる。和銅4年・・・・・という建郡碑。多胡という名前を胡人が多いと解する向きもある。占領米軍の接収を恐れて土中に埋めたこともあったが、現在は覆屋の中にあり、隣の多胡碑記念館とともに「いしぶみの里公園」として整備されている。国の特別史跡。 なお、表紙写真は多胡碑記念館にあるレプリカです。<br /><br />山ノ上碑:高崎市山名町在。681年の建碑で現存する石碑としては日本最古とされる。当然上野三碑の中の最古。古い隷書体の特徴がある4行53文字で墓誌と僧侶の家系譜が刻まれている。家系譜は女性本位の系譜である。墓誌は隣接する山ノ上古墳の墓誌と考えられている。古墳は全国的にも希少な山寄せ技法による山頂古墳で、石碑を伴う唯一の古墳。国の特別史跡。<br /><br />金井沢碑:高崎市山名町在。726年の建碑で、これにも古い隷書体の特徴がある112文字が刻まれている。祖先の菩提と父母の安穏を仏に祈る内容で、仏教の民衆への浸透を示す資料としても重要。江戸中期に出土して小川のほとりで洗濯板として使われていたという。国の特別史跡。<br /><br />二日目は藤岡市の古墳群(別旅行記)を訪ねた。<br /><br />三日目は榛名火の東斜面にある「上毛野はにわの里公園」です。<br />群馬県は公共交通が不備なので運転しない都会の高齢者は、群馬バス(www.gunbus.co.jp )の時刻表にあわせるか、高崎駅から片道約3000円のタクシーを覚悟するかになる。一時間に一本あるJRで北高崎駅まで140円で行けばタクシー代は約半額程度になるらしい。<br />今回は高崎駅から一日5便の榛東(しんとう)村役場ゆきバスで秋葉前下車。ここから歩いて国指定史跡の保渡田古墳群や火曜日休館の博物館などに行きました。2013年秋のバス時刻は、高崎駅2番乗り場発は9:50か次の13:45。帰りは秋葉前12:47か15:02、次は17:47。所要時間は約20分。<br />公園地区には「かみつけの里博物館」「土屋文明記念館」のほか、保渡田古墳群と総称される二子山、八幡塚、薬師塚の3つの大型前方後円墳があり、八幡塚古墳は見学用によく整備されています。<br /><br />南方1.5kmには5世紀から6世紀にかけての豪族の屋敷跡(三つ寺遺跡)があり、幅30mの濠に囲まれた86m四方の祭祀をかねた居館や、約1300枚の小さな水田が発見されているが、すべて540年〜550年の二度にわたる榛名山の噴火で火山噴出物に覆われていた。この噴火がヤマトに対抗して隆盛を誇った毛野王権の衰退・没落の序章となった。<br />(渋川市で発掘された鎧をつけた人骨も火山灰に覆われていた)<br /><br />残念ながら、訪問当日は火曜日で博物館は休館だったので、八幡塚古墳だけを見て帰京しましたが、渡来人の見事な飾履とか毛野王権についてなど、興味ふかい展示があるようです。<br /><br />

毛野(けぬ)の国 高崎市:世界記憶遺産・上野三碑(こうづけさんぴ) と 保渡田古墳群

53いいね!

2013/10/27 - 2013/10/29

67位(同エリア599件中)

0

30

ANZdrifter

ANZdrifterさん

魏志倭人伝で邪馬台国と対立している狗奴(クヌ:クナ)国を毛野(ケヌ)国とする説が昔からあります。一方、奥州市の陸中一ノ宮:駒形神社は、上毛野胆沢公が雄略天皇の456年に駒形山の山頂に駒形大神を勧請したものといわれ、毛野国の勢力は陸奥国まで及んでいたらしい。
また、534年の武蔵国造の乱では毛野王権はヤマト王権に敗れた勢力を支持したが、戦後に罰せられなかったことなどの記録から、当時の毛野国はヤマトから独立していた王権と考えられています。

他方、活火山データベースによれば、550年頃に榛名山の二度の大噴火があった。実際に榛名山の東斜面からは火山噴出物に覆われた王の居館・水田・住居址、最近は鎧をまとった男性の骨などが発見されている。
恐らく、この噴火により毛野国は甚大な被害を受けて衰退し、ヤマト王権の支配下に組み込まれる原因となったらしい。この点については別の旅行記「毛野(けぬ)の国:群馬県藤岡市の白石古墳群など」に詳しく述べた。
実際、大化改新(645年)の直前の637年には、舒明帝が上毛野君片名軍をエミシ鎮定に派遣しているので、毛野国はヤマトの支配下にあったと思われる。

さて、高崎を訪れました。新宿からは湘南新宿ラインで高崎直通の快速が便利です。新宿発も高崎発(小田原行き)も毎時10分ころです。
新宿10時13分発で12時直前に高崎着、駅蕎麦を食べて上信電鉄20分で吉井駅に到着。
まず、渡来人に関係するといわれる辛科神社(からしな:韓科とも)参拝。宮司不在で話は聞けなかった。ついで2015年に世界記憶遺産に推薦されそうな上野(こうずけ)三碑の多胡碑、山上碑、金井沢碑とめぐって根小屋駅から高崎に帰着して第一日は終了。(2015年9月、世界記憶遺産に推薦された)
高崎市観光課(027-321-1257)の「上野三碑を歩こうマップ」が便利でした。

多胡碑:高崎市吉井町在。8世紀後半の建碑で那須国造碑・多賀城碑とともに日本三古碑のひとつ。80文字の楷書が刻まれ、内容は上野国の片岡郡、緑野郡、甘楽郡から300戸を分けて多胡郡を作り羊に支配させる。和銅4年・・・・・という建郡碑。多胡という名前を胡人が多いと解する向きもある。占領米軍の接収を恐れて土中に埋めたこともあったが、現在は覆屋の中にあり、隣の多胡碑記念館とともに「いしぶみの里公園」として整備されている。国の特別史跡。 なお、表紙写真は多胡碑記念館にあるレプリカです。

山ノ上碑:高崎市山名町在。681年の建碑で現存する石碑としては日本最古とされる。当然上野三碑の中の最古。古い隷書体の特徴がある4行53文字で墓誌と僧侶の家系譜が刻まれている。家系譜は女性本位の系譜である。墓誌は隣接する山ノ上古墳の墓誌と考えられている。古墳は全国的にも希少な山寄せ技法による山頂古墳で、石碑を伴う唯一の古墳。国の特別史跡。

金井沢碑:高崎市山名町在。726年の建碑で、これにも古い隷書体の特徴がある112文字が刻まれている。祖先の菩提と父母の安穏を仏に祈る内容で、仏教の民衆への浸透を示す資料としても重要。江戸中期に出土して小川のほとりで洗濯板として使われていたという。国の特別史跡。

二日目は藤岡市の古墳群(別旅行記)を訪ねた。

三日目は榛名火の東斜面にある「上毛野はにわの里公園」です。
群馬県は公共交通が不備なので運転しない都会の高齢者は、群馬バス(www.gunbus.co.jp )の時刻表にあわせるか、高崎駅から片道約3000円のタクシーを覚悟するかになる。一時間に一本あるJRで北高崎駅まで140円で行けばタクシー代は約半額程度になるらしい。
今回は高崎駅から一日5便の榛東(しんとう)村役場ゆきバスで秋葉前下車。ここから歩いて国指定史跡の保渡田古墳群や火曜日休館の博物館などに行きました。2013年秋のバス時刻は、高崎駅2番乗り場発は9:50か次の13:45。帰りは秋葉前12:47か15:02、次は17:47。所要時間は約20分。
公園地区には「かみつけの里博物館」「土屋文明記念館」のほか、保渡田古墳群と総称される二子山、八幡塚、薬師塚の3つの大型前方後円墳があり、八幡塚古墳は見学用によく整備されています。

南方1.5kmには5世紀から6世紀にかけての豪族の屋敷跡(三つ寺遺跡)があり、幅30mの濠に囲まれた86m四方の祭祀をかねた居館や、約1300枚の小さな水田が発見されているが、すべて540年〜550年の二度にわたる榛名山の噴火で火山噴出物に覆われていた。この噴火がヤマトに対抗して隆盛を誇った毛野王権の衰退・没落の序章となった。
(渋川市で発掘された鎧をつけた人骨も火山灰に覆われていた)

残念ながら、訪問当日は火曜日で博物館は休館だったので、八幡塚古墳だけを見て帰京しましたが、渡来人の見事な飾履とか毛野王権についてなど、興味ふかい展示があるようです。

同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • 上信電鉄は高崎駅のゼロ番線から発車する。

    上信電鉄は高崎駅のゼロ番線から発車する。

  • 絵手紙列車が有名で、海外からも絵手紙が寄せられているという。<br />寄せられたすべての絵手紙を掲示するとのことで、たしか、第7回と書いてあった。

    絵手紙列車が有名で、海外からも絵手紙が寄せられているという。
    寄せられたすべての絵手紙を掲示するとのことで、たしか、第7回と書いてあった。

  • 目的地の吉井駅の手前に馬庭念流の道場がある馬庭駅がある。<br /><br />私事で恐縮だが、1901年生まれの亡父が馬庭念流の剣士で、何らかの折に賞品として貰った日本刀を大切にしていたのを思い出して、一時の感慨にふけった。

    目的地の吉井駅の手前に馬庭念流の道場がある馬庭駅がある。

    私事で恐縮だが、1901年生まれの亡父が馬庭念流の剣士で、何らかの折に賞品として貰った日本刀を大切にしていたのを思い出して、一時の感慨にふけった。

  • 林のなかの辛科神社。昔は韓科神社と書いたそうで、<br />渡来人と関係があるらしい。

    林のなかの辛科神社。昔は韓科神社と書いたそうで、
    渡来人と関係があるらしい。

  • 辛科神社の正面

    辛科神社の正面

  • 狛犬は痩せ型で、腹の下が全部空間になっている。

    狛犬は痩せ型で、腹の下が全部空間になっている。

  • 低い石段を登って狛犬の先の楼門。<br />奥に拝殿が見える。

    低い石段を登って狛犬の先の楼門。
    奥に拝殿が見える。

  • 拝殿。お賽銭をあげる。

    拝殿。お賽銭をあげる。

  • 本殿。かなり見事で凝った彫刻が施されている。

    本殿。かなり見事で凝った彫刻が施されている。

  • 上の写真の右手前、本殿に向かって右に多胡碑のレプリカが置いてある。<br /><br />近づいても、触ってもしかられない。

    上の写真の右手前、本殿に向かって右に多胡碑のレプリカが置いてある。

    近づいても、触ってもしかられない。

  • これが本物。<br />本物の多胡碑は「いしぶみの里公園」で覆い屋の中でした。<br />ガラスが邪魔で写真には不都合です。

    これが本物。
    本物の多胡碑は「いしぶみの里公園」で覆い屋の中でした。
    ガラスが邪魔で写真には不都合です。

  • 公園にある「多胡碑記念館」で、日本三古碑と上野三碑(こうずけさんひ)の説明です。

    公園にある「多胡碑記念館」で、日本三古碑と上野三碑(こうずけさんひ)の説明です。

  • これが多胡碑記念館です。<br />この建物の右側に入り口があるのですが、多胡碑から見ると閉ざされているように見えるので、訪れずに帰る人が多いようです。<br />なお、60歳以上の高齢者?は入場無料でした。<br />担当の女性は親切を絵に描いたような人で、上野三碑を巡る順路を調べて、タクシーも手配してくれました。

    これが多胡碑記念館です。
    この建物の右側に入り口があるのですが、多胡碑から見ると閉ざされているように見えるので、訪れずに帰る人が多いようです。
    なお、60歳以上の高齢者?は入場無料でした。
    担当の女性は親切を絵に描いたような人で、上野三碑を巡る順路を調べて、タクシーも手配してくれました。

  • 多胡碑記念館には古碑のレプリカや拓本が展示されていました。<br /><br />写真の大きな石碑は多賀城碑のレプリカ、左は金井沢碑のレプリカです。

    多胡碑記念館には古碑のレプリカや拓本が展示されていました。

    写真の大きな石碑は多賀城碑のレプリカ、左は金井沢碑のレプリカです。

  • 拓本の中には好大王碑の拓本もありました。

    拓本の中には好大王碑の拓本もありました。

  • これは 多胡碑の拓本。市価は17万円もするとタクシーの運転手が言ってました。

    これは 多胡碑の拓本。市価は17万円もするとタクシーの運転手が言ってました。

  • 山上碑の入り口。<br />休憩所とトイレが、撮影者の後ろにありました。

    山上碑の入り口。
    休憩所とトイレが、撮影者の後ろにありました。

  • 山上古墳。<br />尾根をコの字に掘り込み、石室を作ってから円墳の外観をつくったもので、山寄せ古墳と呼ばれる珍しい形態だという。<br />

    山上古墳。
    尾根をコの字に掘り込み、石室を作ってから円墳の外観をつくったもので、山寄せ古墳と呼ばれる珍しい形態だという。

  • 上野三碑の中で最古の山上碑は、覆い屋の中でガラス越しなので、写真はこの程度。<br /><br />葬られたのは佐野三家(さのみやけ)の子孫、黒売刀自で、681年に刀自の子である放光寺の僧、長利が文を書いた。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />

    上野三碑の中で最古の山上碑は、覆い屋の中でガラス越しなので、写真はこの程度。

    葬られたのは佐野三家(さのみやけ)の子孫、黒売刀自で、681年に刀自の子である放光寺の僧、長利が文を書いた。






  • このような現代語の訳文が書かれている。681年の建碑。<br /><br />家系譜が刻まれているが、時代のせいか女性が中心である。<br />群馬県だから というわけではあるまい。

    このような現代語の訳文が書かれている。681年の建碑。

    家系譜が刻まれているが、時代のせいか女性が中心である。
    群馬県だから というわけではあるまい。

  • 帰り際に石段の写真を上から撮りました。<br />150段もある石段を一気に上ったので、夜には足が痙攣してしまいました。

    帰り際に石段の写真を上から撮りました。
    150段もある石段を一気に上ったので、夜には足が痙攣してしまいました。

  • 金井沢碑の入り口です。水道と確かトイレもあったような・・・・・・

    金井沢碑の入り口です。水道と確かトイレもあったような・・・・・・

  • 最後に短い石段があって、その上に三碑に共通の覆い屋が見えます。

    最後に短い石段があって、その上に三碑に共通の覆い屋が見えます。

  • ガラス越しに側面を撮りました。

    ガラス越しに側面を撮りました。

  • 碑文の現代語訳<br />祖先の菩提と父母の安穏を仏に祈るという内容で、仏教が民間に広まっていたことを示す資料として重要。726年の建碑。

    碑文の現代語訳
    祖先の菩提と父母の安穏を仏に祈るという内容で、仏教が民間に広まっていたことを示す資料として重要。726年の建碑。

  • ここまでは高崎市の南部でしたが、これからは高崎市の中北部に接する榛東村(しんとうむら)です。榛名山の東斜面にあり、自衛隊の演習場に隣接している村です。<br /><br />碑は保渡田(ほとだ)古墳群の八幡塚古墳の入り口です。

    ここまでは高崎市の南部でしたが、これからは高崎市の中北部に接する榛東村(しんとうむら)です。榛名山の東斜面にあり、自衛隊の演習場に隣接している村です。

    碑は保渡田(ほとだ)古墳群の八幡塚古墳の入り口です。

  • 全面が葺き石で覆われた八幡塚古墳。<br />全長102メートル。後円部径56メートル。周壕は馬蹄形で三重に取り巻いている。<br />後円部の頂部から地下の石室に通じているらしい階段の見学通路が見えたが、施錠されていた。<br />写真によれば石室には石をくりぬいた石棺がある。

    全面が葺き石で覆われた八幡塚古墳。
    全長102メートル。後円部径56メートル。周壕は馬蹄形で三重に取り巻いている。
    後円部の頂部から地下の石室に通じているらしい階段の見学通路が見えたが、施錠されていた。
    写真によれば石室には石をくりぬいた石棺がある。

  • 葺き石のなかの縦に並んだ石は、個人またはグループの担当範囲を示していると考えられています。

    葺き石のなかの縦に並んだ石は、個人またはグループの担当範囲を示していると考えられています。

  • 後円部をかこんで四つある小型円丘は祭祀場とされている。<br /><br />この古墳は多くの埴輪が出土している。<br />円筒埴輪だけでなく、ニワトリ、家、武人などが復元されている。

    後円部をかこんで四つある小型円丘は祭祀場とされている。

    この古墳は多くの埴輪が出土している。
    円筒埴輪だけでなく、ニワトリ、家、武人などが復元されている。

  • 中堤の一角には各種の埴輪がまとめて並べられていた。<br /><br />この八幡塚古墳のほかに墳丘長108メートルの二子山古墳と、同じく100メートルを超える薬師塚古墳が近隣にある。いずれも二重に周壕がめぐらされている。

    中堤の一角には各種の埴輪がまとめて並べられていた。

    この八幡塚古墳のほかに墳丘長108メートルの二子山古墳と、同じく100メートルを超える薬師塚古墳が近隣にある。いずれも二重に周壕がめぐらされている。

この旅行記のタグ

53いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP