2013/07/21 - 2013/07/21
107位(同エリア158件中)
滝山氏照さん
江戸氏菩提寺の華林院・慶元寺(けいげんじ、東京都世田谷区喜多見)は二代目江戸重長(えど・しげなが、生誕不詳~1225)が開基した浄土宗寺院ですが、従来は江戸氏の本貫地(本籍地)である江戸の紅葉山に文治2年(1186)創建され、その名も天台宗の岩戸山大沢院東福寺と称していました。
そもそも江戸氏は由緒ある家柄で、桓武平氏の流れを汲む秩父一族の諸流で平重綱(たいらの・しげつな、生没不詳)の四男重継(しげつぐ、生没不詳)が金杉・霞が関・桜田(現在の港区・千代田区)の海岸に流れる平川の上流の南部の荏原郡辺りを本拠とし、その地名から自らの姓を「江戸」と称することになります。
一方伊豆に配流の源頼朝は平氏に不満を持つ周辺武士の支援に合わせ治承4年(1880)兵を挙げますが石橋山で敗北、再起を図るため安房に逃れます。
安房で下総・上総の武士団を編成した頼朝は1ヶ月後には下総と武蔵国境に到着、兵力は既に3万7千余騎の勢力に増えており、武蔵国を渡る状況になります。
ここで頼朝は在武蔵国の主たる武士団に参向するように呼びかけますが、主力の秩父一族の反応は芳しくなく豊島・葛西の参集を除き期待外れの結果となります。ここで頼朝は葛西清重(かさい・きよしげ、1161?~1238)に命じ秩父一族の棟梁・江戸重長を誘き出して殺すように命じ、同時に総勢の軍団を率い隅田川を渡り武蔵国を進みます。
ところが数日後頼朝の武蔵入国に対し強い抵抗を示していた江戸重長が葛西清重の説得が功を奏したのか一族の畠山重忠(はたけやま・しげただ、1164~1205)・河越重頼(かわごえ・しげより、生年不詳~1185)らと共に参向してきます。
頼朝はこの参向について三浦氏攻撃の経緯を認識しつつも現状を考慮しこれを許し、とにかく源義朝ゆかりの地である鎌倉へ向けて行軍を続きますがその先頭は今ほど参向の意を表した畠山重忠であり、言ってみれば頼朝はこの先陣を務める名誉を与えたことは秩父一族を重視せざるを得ない状況を認識してしていたことでありました。
当然ながら頼朝は強力な秩父一族を取りまとめる江戸重長に武蔵国における政務代行を命じ、頼朝が武蔵国を占拠運営するにあたりに重長にその権限を与えることになりますが裏返せば頼朝は差当り重長に頼らざるを得ない立場であった事を裏付けています。
上述の理由により秩父一族に属する畠山氏、河越氏、葛西氏を中心とする御家人の取り扱いは重要視され、とりわけ秩父一族の実力者として重長の名は頼朝の行事には必ず供奉人の中に連なりまさしく有力御家人の一人として重要視されていました。
建久6年(1195)頼朝が二回目の上洛をして東大寺供養に臨んだ際、御供隋兵28騎に当然ながら重長の名が記されていましたが以降については彼の活躍の状況が判らず恐らく間もなく死去したと思われます。
室町時代に入りますとかつての秩父一族などといった枠組みは完全に過去のものとなり、幕府のミニ版鎌倉府が公方と公方を補佐する関東管領により関東十国(後に十二国)が運営されます。
然しながら室町幕府の慢性的な統制力欠如のため将軍選出時には鎌倉公方の反幕府の動きがあり、これに対し関東管領を支援する幕府軍が公方方へ武力介入し沈静化を図りますが幕府の不安定であるがゆえにその場凌ぎが否めません。
こうした幕府の不安定さが関東にも影響が伝わり、鎌倉公方と関東管領上杉氏の争いの中、江戸氏は他の武士組織と同様に自らの将来をかけざるを得なくなります。
江戸氏は南北朝の騒乱においては当初は南朝の新田義貞に従い、後に北朝に帰順して鎌倉公方に仕えることになります。その中で足利方の命により江戸高良(えど・たかよし、生没不詳)並びに冬長(ふゆなが、生没不詳)らが策略を使い義貞息子の新田義興(にった・よしおき、1331~1358)を謀殺、これにより「きたなきふるまい」とのレッテルを貼られ江戸氏の衰退が始まります。
一方関東管領山内上杉氏に不満を抱く当時の棟梁である河越直重(かわごえ・なおしげ、生没不詳)を中心とした秩父一族による平一揆が挙兵しますが逆に見事に鎮圧され、武蔵国を代表する秩父一族は勢力を一掃され同族の江戸氏も例外なく勢力を失い衰退してゆきます。
勢力を失った武士団はみじめです。江戸氏も然りで本来所領である荏原郡はすべて失われ扇谷上杉氏支配下となり、家宰の太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)に江戸城を明け渡し、江戸氏は残された領地多摩西部の喜多見に追われるように移ります。
新たな秩序として喜多見を拠点とする江戸氏は世田谷城主・吉良氏に属する武士団として再出発、小田原北条氏の庇護のもと戦国時代後期を耐え忍びます。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐に関連し、江戸勝重(えど・かつしげ、生没不詳)は小田原北条氏の一員となって小田原城に籠城、秀吉の包囲に耐え切れず開城し小田原北条氏滅亡、敗れた勝重は喜多見に逃れ秀吉軍の追討を凌ぎ生きながらえます。
同年関東に入部した徳川家康は早急に広大な新領地を治めるため、かつての旧統治者の活用をすべく各地より有力者を重用します。
家康は江戸氏についても勝重に旧領の喜多見500石を安堵し、これを機に江戸氏は家康の江戸入城を考慮して自らを喜多見氏に改姓し徳川家の旗本となり再起を図ることになります。
その後喜多見重政(きたみ・しげまさ、1651~1693)は5代将軍綱吉の側小姓となり、貞享2年(1685)の生類憐みの令の推進者として活躍、やがて2万石の大名に列せられ、喜多見氏の栄華を極めます。
この栄華は続かず元禄2年(1689)、喜多見氏内部の不倫沙汰から刃傷事件に広がりこれが幕府の知る所となり改易の憂き目に遭い江戸氏はとうとう滅亡します。
2023年8月7日追記
境内に建てられた説明板には当該寺の縁起が次のように記述されています。
『 華 林 院 慶 元 寺
浄土宗、京都知恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来坐像である。
当寺は、文治2年(1186)3月、江戸太郎重長が今の皇居紅葉山辺に開基した江戸氏の氏寺で、当時は岩戸山大沢院東福寺と号し、天台宗であった。室町時代の中ごろ、江戸氏の木田見(今の喜多見)移居に伴い氏寺もこの地に移り、その後、天文9年(1540)真蓮社空誉上人が中興開山となり浄土宗に改め、永劫山華林院慶元寺と改称した。
更に文禄2年(1593)江戸氏改め喜多見氏初代の若狭守勝忠が再建し、元和2年(1616)には永続資糧として5石を寄進し、また、寛永13年(1636)には徳川三代将軍家光より寺領10石の御朱印地を賜り、以後歴代将軍より朱印状を贈った。
現本堂は享保元年(1716)に再建されたもので、現存する区内寺院の本堂では最古の建造物であるといわれている。
墓地には江戸氏喜多見氏の墓があり、本堂には一族の霊牌や開基江戸太郎重長と寺記に記されている木像が安置されている。
山門は宝暦5年(1755)に建立されたものであり、また、鐘楼堂は宝暦9年に建立されたものを戦後改修したものである。
境内には喜多見古墳群中の中の慶元寺3号墳から6号墳まで四基の古墳が現存している。
昭和59年3月
世田谷区教育委員会」
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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慶元寺正門
当寺は文治2年(1186)、江戸太郎が現在の皇居(江戸城)紅葉山辺に開基した江戸氏の氏寺で、往時は岩戸山大沢院東福寺と号した天台宗の寺院でした。 -
慶元寺寺標
「浄土宗 慶元寺」と刻された寺標が建立されています。 -
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慶元寺参道
左右に広くスぺースを確保した参道は厳粛な雰囲気を醸し出しています。 -
慶元寺屋根瓦
入口から社壁を捉えますが屋根瓦は鬼面となっています。 -
慶元寺屋根瓦
反対側も鬼面の屋根瓦となっています。 -
慶元寺山門
正門を入り直進、宝暦5年(1755)に建立された山門が控えています。 -
江戸太郎重長像
慶元寺開基した江戸太郎重長の像が建立されています。 -
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江戸太郎重長像(近景)
江戸氏二代目の江戸太郎重長の狩り姿銅像が建立されています。 -
慶元寺説明板
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山門扁額
山号「永劫山」と刻された額が見えます。 -
慶元寺全景
当寺は浄土宗京都知恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来像です。 -
慶元寺境内風景
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慶元寺鐘楼堂
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慶元寺本堂
享保元年(1716)の再建で近辺の寺院では最古の本堂と言われています。 -
慶元寺薬師堂
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庫裡
本堂に並列して庫裡が控えています。 -
慶元寺扁額
「慶元寺」と揮毫された扁額が掲示されています。 -
慶元寺境内風景
本堂から山門方面を見渡します。 -
慶元寺境内風景
本堂から薬師堂方面を見渡します。 -
慶元寺境内
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慶元寺三重堂
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慶元寺歴代住職墓
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江戸氏之墓所全景
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江戸氏墓所石標
右側石標には「江戸氏之墓所」と刻されています。 -
江戸氏追善供養塔
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江戸氏追善供養塔近景
中央部には初代江戸四郎重継(文治元年10月23日歿)、二代目江戸太郎重長(嘉禄元年8月12日歿)とあります。 -
江戸氏追善供養塔
中央部の墓石下部に初代、二代目の氏名がそれぞれ刻されています。 -
江戸氏関係の墓石群(左側)
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江戸氏関係の墓石群(右側)
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慶元寺境内
山門から正門方面を捉えますと、相変わらず参道が立派に引き立ちます。
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