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臨済寺妙心寺派に属し、開山は足利時代と言われます。<br />境内には“東海道の暴れん坊”清水次郎長親分をはじめ、側近の大政・小政・増川仙右エ門そして生涯愛しつづけたお蝶夫人の墓があります。<br /><br />「侠客次郎長の墓」は幕臣から明治政府の郵政大臣を勤めた榎本武揚の書によるものです。また侠客としては全国唯一その半生の功労が認められ銅像が設置されています。初代の銅像は太平洋戦争で供に出され現在のものは昭和27年に堤達男氏により製作されました。背後の石垣は駿府城を、前の池は駿河湾を表し郷里清水に根をおろした次郎長の心意気が感じられます。<br /><br />「清水次郎長資料館」及び「売店」が、装いも新たに4月27日にオープン。<br />次郎長資料館には黒駒の勝蔵から贈られた水晶玉・お守りの毘沙門天道中差・<br />時計・望遠鏡・火縄銃等の遺品が展示されております。<br /> <br />清水次郎長<br />清水次郎長(本名:山本長五郎)ってこんな人でした。<br />1820年 文政三年 0歳 1月1日 駿河国有度郡清水町美濃輪に生まれ、船頭三右衛門の次男として長五郎と名づけられる。その後母方の叔父次郎八の養子に引きとられる。(次郎八の長という事で次郎長の通称で呼ばれる) <br />1839年 天保十年 20歳 旅の僧に余生が25歳と予言され、任侠の道を志す。 <br />1842年 天保十三年 23歳 江尻にて芝居見物の後、酔って帰路につくおりに闇討ちに会い瀕死の重傷を負う。これを機に生涯禁酒を誓う。<br />1845年 弘化二年 26歳 清水に戻った次郎長は甲州紬の文吉と駿州和田島の太左衛門との喧嘩を庵原川にて仲裁。その侠名が高める。 <br />1868年 明治一年 49歳 駿府町奉行が廃止され、伏谷如水駿府町差配役となり駿府の治安にあたる。これに伴い次郎長を街道警固に命じ、それまでの罪科を免じ帯刀の許可を受ける。<br />幕府の軍艦咸臨丸、清水港内で官軍に攻撃され乗組員は全員死亡。<br />湾内に浮かぶ幕軍の屍を次郎長が収容し向島に葬る。 <br />1874年 明治七年 55歳 囚徒を使役し富士裾野の開墾を始める。 <br />1878年 明治十一年 59歳 山岡鉄舟、天田五郎を次郎長に引き合わせ、次郎長の家に逗留し「東海道遊侠伝」の執筆を始める。 <br />1893年 明治二十六年 74歳 次郎長没。梅蔭禅寺にて葬る。 <br />(下記より引用)<br /><br />梅蔭禅寺については・・<br />http://www3.tokai.or.jp/komatsuen/index.htm<br />

清水-2 梅蔭禅寺、次郎長の銅像/墓が有名 ☆新設資料館を見学し

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2012/05/20 - 2012/05/20

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マキタン2

マキタン2さん

臨済寺妙心寺派に属し、開山は足利時代と言われます。
境内には“東海道の暴れん坊”清水次郎長親分をはじめ、側近の大政・小政・増川仙右エ門そして生涯愛しつづけたお蝶夫人の墓があります。

「侠客次郎長の墓」は幕臣から明治政府の郵政大臣を勤めた榎本武揚の書によるものです。また侠客としては全国唯一その半生の功労が認められ銅像が設置されています。初代の銅像は太平洋戦争で供に出され現在のものは昭和27年に堤達男氏により製作されました。背後の石垣は駿府城を、前の池は駿河湾を表し郷里清水に根をおろした次郎長の心意気が感じられます。

「清水次郎長資料館」及び「売店」が、装いも新たに4月27日にオープン。
次郎長資料館には黒駒の勝蔵から贈られた水晶玉・お守りの毘沙門天道中差・
時計・望遠鏡・火縄銃等の遺品が展示されております。

清水次郎長
清水次郎長(本名:山本長五郎)ってこんな人でした。
1820年 文政三年 0歳 1月1日 駿河国有度郡清水町美濃輪に生まれ、船頭三右衛門の次男として長五郎と名づけられる。その後母方の叔父次郎八の養子に引きとられる。(次郎八の長という事で次郎長の通称で呼ばれる)
1839年 天保十年 20歳 旅の僧に余生が25歳と予言され、任侠の道を志す。
1842年 天保十三年 23歳 江尻にて芝居見物の後、酔って帰路につくおりに闇討ちに会い瀕死の重傷を負う。これを機に生涯禁酒を誓う。
1845年 弘化二年 26歳 清水に戻った次郎長は甲州紬の文吉と駿州和田島の太左衛門との喧嘩を庵原川にて仲裁。その侠名が高める。
1868年 明治一年 49歳 駿府町奉行が廃止され、伏谷如水駿府町差配役となり駿府の治安にあたる。これに伴い次郎長を街道警固に命じ、それまでの罪科を免じ帯刀の許可を受ける。
幕府の軍艦咸臨丸、清水港内で官軍に攻撃され乗組員は全員死亡。
湾内に浮かぶ幕軍の屍を次郎長が収容し向島に葬る。
1874年 明治七年 55歳 囚徒を使役し富士裾野の開墾を始める。
1878年 明治十一年 59歳 山岡鉄舟、天田五郎を次郎長に引き合わせ、次郎長の家に逗留し「東海道遊侠伝」の執筆を始める。
1893年 明治二十六年 74歳 次郎長没。梅蔭禅寺にて葬る。
(下記より引用)

梅蔭禅寺については・・
http://www3.tokai.or.jp/komatsuen/index.htm

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
クラブツーリズム

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