2005/06/03 - 2005/06/04
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アリヤンさん
あれは確か、1971年だったと思う。
大阪万博が終わって、昭和天皇が訪英した。
ワタクシはその時、たまたまロンドンに留学していた。
カメラをもって、なんとか昭和天皇とエリザベス女王を撮ろうと、バッキンガム宮殿から、馬車を追いかけて、あちこちに走った。
これが、そのときの1ショットです。
あれから45年近くが経ってしまった。
当時のワタクシの下宿先だった、Murswel Hill, Connnaught Garden N10.をたずねていった。
前年の2004年にも、パリに住んでいた娘と一緒に、アロースターに乗ってドーバー海峡を渡ってロンドンを訪れた。
その時、わが古き下宿先を探したが、どうしても見つからなかった。
そもそも、Connnaught Gardenを知る人が近所に居なかったのだ。
今回(2005年)は、一人で、ロンドン滞在のすべてを、その下宿捜索にあてた。
Connaught Garden N10という地名のみが頼りでした。
詳細な市内地図でないと、載っていない、北部郊外住宅街の小さな路地。
High Gateの森近くで、現地住民らしき人々にきいたが、わからなかった。
かなりな、お年寄りのお爺さんなら知ってるカモ?と聞いてみると、
「だいたい、ここらあたりじゃないかなあ?」と。
そのお爺さんも、
「ここらは小さなエリアが沢山あって難しいんジャ。
Connaught Garden?
ン!?
聞いたことがあるナア。」
自分の小さな地図を出してきて、調べてくれた。
「オオッ!ここじゃ、ここじゃ。近いゾ!!」
ついに発見!
ひさしぶりに感動した!
興奮した!
希望と不安で一杯の、青春時代・・・の1ページを再発見したことは、ワタクシにとって大きな喜びでもありました。
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イチオシ
これが、私がお世話になった下宿。
1971年の Connaught Garden の下宿前の写真です。
車が置いてある、前の家がそうです。
1971年の初夏、High Gateの森を越えて、向こう側にあった、Davie's School of English に語学留学していた。
この学校は、今はもう無いそうだ。
住んでる人たちも、もう当時とは全く違うようだ。
ここが私の青春の最初の源地点だ。
ここをスタートに、パリも含めた約3年半のヨーロッパ生活が始まった。
パリからユーラシア大陸を横断し、私に「たび」の面白さをおしえてくれたのも、ここが源地点だろう。 -
これが、2005年現在の下宿前。
まわりの様子はほとんど変わっていない。
この持続性が、ヨーロッパの特徴だ。
「むかしと変わらない」。
文化の「懐の奥深さ」が、ワタクシは好きだ。 -
ワタクシの下宿のすぐそばに、High Gateの森があった。
地下鉄駅、High Gateや、Archwayは、この Queen's Woodsの周りを囲むようにできた、閑静な住宅地に住む人々が利用する駅だ。
High Gateの森とこのQueen's Woodsは隣りあわせだ。
この2つの森の中を歩いてみた。
昔と全く変わらない。
リスの数が、若干へったと思うくらいだ。
下宿近辺の写真では、上のものくらいしか、残っていない。
ここロンドンの、1年間の全ての思い出は、ワタクシの頭の中にだけ、しっかりと残っている。 -
今日(2007年9月7日)、古いものを整理していて、1971年当時のロンドンの写真が出てきた。
早速、追加アップロードします。
これはHigh Gate Woodsの森の中。
写真のような太い木々には、リスが巣くっていてカワイイ姿を良く見せてくれる。
この森の中を歩いて横切って、毎日、英語学校に通っていた。
うっそうとした森で、雷雨などで薄暗くなると、気味が悪いくらいです。
再訪して下宿を発見した2005年6月3日、実際にこの森の中で、激しい雷雨にさらされた。
大木の下で、持っていたコートで頭を覆って、激しい雨をしのいだ。
その間、約1時間。
すごい雷雨のもと、深い森の中で、45年前のロンドンでの生活をゆっくり反芻していました。 -
森はこの坂を下りきったところに入り口があり、そこから森の中を抜けて学校にも、地下鉄駅(High Gate)にも行く。
青春の一部を過ごした、Connaught Gardenと、High Gateの森(Queen's Woods)を散策していて、当時、1971年の、夏の思い出が、フラッシュ・バックしてきた。 -
イチオシ
語学学校では、誰とでも友達になれた。
特に、夏休み期間中には、ヨーロッパのアチコチから、サマー・イングリッシュ・スクールとして、Davie's English Schoolに、多くの若者たちが英語学習にやって来た。
特にパリからのチャールズ、ノルマンディーからのブリジット、バスクからのイニャキとは、大の仲良しになった。
わが下宿には、その友達を良く呼んで、日本茶を飲ませたものだ。
左からバスク人のイニャキ、フランス・ノルマンディーのブリジット、パリのチャールズ。
3人と、ワタクシは大の仲良しだった。
ブリジットには、淡い恋心を抱いていたが、夏休みが終わるとノルマンディーに帰ってしまい、淡い恋は終わった。
かわいいフランセーズは、やっぱりアコガレでもあった。
趣味を聞けば「乗馬」と答えたチャーミングなノルマンディーの女の子であった。 -
さて、サマースクールでやってくる連中は、夏の2ヶ月くらいで、みな帰って行くのだ。
サマースクール卒業記念として、チャールズとイニャキとワタクシの3人で、小旅行をすることになった。
小旅行といっても、ヒッチハイクで、コーンウオールの先端、ペンザンスを目指すのである。
誰が一番早く、イギリスの最西端にたどり着けるか?競争をした。
何日かかってもイイのだ。
さすが、チャールズとイニャキは慣れていたせいか、車を止めて乗り込むのが早かった。
当方はこのときが初めてヒッチだった。
途中、ユースホステルに泊まったりして進んだ。
たいてい、次の街で落ち合うことにしていたので、3人は時々顔を合わせた。 -
これはそのときの旅程だ。
白い断崖絶壁のホワイト・クリフの上を、なだらかな丘陵地帯が波打つ。
海風に吹かれる牧草をみながら、どんどん西に向かうのだ。
ある夜、あるユースホステルに泊まろうとして、宿泊拒否をされたことがあった。
宿のおじいさんが「日本人は嫌いダッ!」というのである。
当方にとっては???であった。
仕方なく、枯れた牧草を積み上げた畑の真ん中で寝た、ことがあった。
その夜の満天の星空は限りなく美しかった。
でもなぜ?「日本人がキライ???」
どうも、前の世界大戦で日本人兵に、アジアのどこかでひどい目にでもあったのだろうか。
なにも知らない、青春時代の苦い思い出でした。
ヒッチ競争は結局、ワタクシがビリとなってしまった。
拡大版⇒http://www.geocities.jp/ariyan9911/UKDrivingMap.jpg -
途中、どこかの街の公衆トイレで、チャールズ(左)、イニャキ(右)のジェントルマン・スナップ。
-
短い夏は終わり、ブリジットはノルマンディーに、イニャキはスペインのバスクに帰って行った。
さびしくなった。
チャールズがパリに帰るという9月に、2人で一大旅行を企てた。
レンタカーでイギリス半周をする、という計画だ。
日本で免許取得して、すぐ渡英、ペーパードライバーのワタクシが運転するのだ。
チャールズは、当時まだ高校生で運転免許なしなのだ。
お互い、あまり金も無いので、寝るのは車の中、若さに任せ、飛ばしに飛ばして、ドンドン前に進んだ。
ある夜、ある村のパブでギネスを一杯飲んで、酔っ払い、目がグルグル回りながら、高速道路を走ったことを、昨日のように覚えている。
よく事故を起こさなかったものだ。
ロンドンにやっとの思いで帰り着き、すぐにチャールズはパリに帰って行った。
その後、ワタクシは貧乏学生を続けながら、うら哀しいロンドンの秋を過ごした。
拡大版⇒http://www.geocities.jp/ariyan9911/UKDrivingMap.jpg -
当初はニコンの一眼レフ・カメラを持っており、イッチョウマエに写真を撮っていた。
当時のピカデリー・サーカス。 -
リージェント・ストリート。
秋の終わりごろ、アルバイトを始めた。
ユダヤ人の営む切手販売業者で毎日、切手ちぎりをやった。
「○○チーズを買って、切手をもらおう!」キャンペーンの仕事を請け負った業者での、切手ちぎりと応募者に対する発送作業だった。
そこで人生の転機となる、ある出会いがあって、ワタクシは翌春には、ドーバーを渡ってフック・オブ・ホランドに上陸、その後パリに行くことになった。
パリ生活については;
http://4travel.jp/traveler/ariyan-eurasia/album/10178704/ -
ビクトリア・ステーション。
-
これはどこか?思い出せない。
でもこのような暗い雰囲気のロンドンが好きだった。 -
これはロンドン・ブリッジの裏、ビーフィーターズが居るところ。名前は忘れた。
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イチオシ
ヒロヒト天皇がロンドンに来られたとき、タマタマ街中に居合わせた。
何と!
エリザベス女王と、ヒロヒト天皇が、一緒に馬車に乗ってるではないか。
バッキンガム宮殿前では、中々撮れず走って追いかけて、やっとこの一枚を撮ったように記憶している。
それにしてもこの馬車のスピードは速く、アッという間に通り過ぎてしまった。 -
これは当時日本の映画館で上映された毎日新聞ニュース映画のひとコマ。
上のワタクシのライブ写真がいかに女王と天皇の馬車に近かったか! が分かります。 -
あとはハイド・パークでスピーカーズ・コーナーを見学。
おまわりさんまで出ての大盛況。 -
ハイド・パークの恋人達。
写真はその時々で使うフィルムによって、白黒だったり、カラーになったりした。 -
これは、1971年、イギリス入国のスタンプだが、たった1ヶ月しか滞在は許されなかった。
話せば長いが、、、
初めての飛行機、初めての海外で気分はずっとハイになっていた。
関西から羽田まで行って、安い片道切符のエジプト・エアに乗った。
香港、デリー、カイロ、アテネ経由で、ロンドンに行く便だった。
カイロに着くと、トランジットに確か、10時間くらいの待ち合わせ。
空港内ホテルに宿泊できる、サービスをゲットした。余計なことに、アテネ行きより、パリ経由の便に変えてもらった。
この変更が、エライことを引き起こした。
無事にパリに着いたら、ワタクシの荷物だけが出てこないノダ!
エジプト・エアに掛け合ってもラチがアカン。
途方に暮れて、無い知恵を絞った。
そう、先進国の人なら何とかしてくれるのデハ?
エアー・フランスのスタッフに頼んだ。
おネエさん、さすが先進国、親切に話を聞いてくれた。
ロンドンの下宿先の住所を渡して、荷物がでてきたら其処に送ってもらえるように頼んだ。
バカなことに、別送荷物の中にT/Cも入れていたのだ!
ロンドンにホウホウの体でたどりついた時、正直にロストバッグの件、T/Cもそこに入っていた事を申告した。
すると、滞在許可が1ヶ月のみ、となった。 -
初海外で、初飛行機で、英語もしゃべれん、のに途中で航路を変えたりした。
パリでは1泊して、オペラ座にあったエジプト・エアに行って、作文した英文を読み上げて抗議をした。
相手にされず。
ロンドンにたどり着いても、もうクタクタで、当日は下宿までよう行かんかった。
空港バスの着いた辺りのB&Bに泊まった。
翌日、下宿を探して行った。
下宿に着くと、「捨てる神あれば、拾う神あり」、だ。
ナントッ!
ロストしたバッグが、ちゃんと着いていたではないか!
すぐに中をチェックした。
トラベラーズ・チェックは手付かずで、そのまま出てきた。
ヤレヤレ。
こうして、ワタクシの初めての海外生活が始まったのでした。
その後Home Office(外人登録局)に行って滞在延長をした。 -
今では信じられないことだが、1971年当時、海外に出る人は、外貨持ち出し制限があって、1000ドルまでしか持って出られなかった。
しかもこのように、パスポートのお終いのページに「渡航費用に関する証明」というページに、外貨いくらいくら、と申告して許可をもらうことになっていた。
当時1ドル=360円であったが、1000ドルだけとは、なんとも心細いはなしではあった。
*この「渡航費用に関する証明」の記載は1970年代後半の外貨自由化で姿を消したのだが、1983年にイラクのバグダッド空港で、この記載の提示を求められて「事実は小説より奇なり」アリヤンバクダッド事件
( http://4travel.jp/traveler/ariyan-eurasia/album/10178465/ )
につながったのだった。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- Jenioさん 2011/12/03 17:18:02
- 貴重なお写真の数々素敵でした
- アリヤンさん、初めまして(^^)
イギリスが大好きなので、1971年当時の貴重なロンドンの
写真を拝見出来てとても嬉しかったです。
当時は海外渡航の手続きやルートがとても厳しかったんですね。
ピカデリー・サーカスの看板広告がやはり今とは全く違って、
フォルクスワーゲンやチンザノ、スコールなのがとても印象的
でした。
すごくたくさんの国々に行かれてらっしゃるんですね!
他の旅行記も拝見させて頂きたくなりました(^^)
- アリヤンさん からの返信 2011/12/03 17:39:44
- RE: 貴重なお写真の数々素敵でした
- Jenioさん、
イギリスは一種独特の雰囲気があって、ワタクシも好きです。
最近はあまりいきませんが、1971年にはフランス人の友達と2人でレンタカーでコンウオールやマンチェスター、リバプールまで行って、グレート・ブリテン島の南半分を旅行しました。
そのころに、今のようなデジカメがあったら、さぞかしたくさんの写真があって、もっと面白いイギリス紀行が書けたカモ?
まあ、ロンドンはパリと並んで今も「ワタクシの青春の原点」です。
今後機会があれば、ゆっくりタビをしたいものです。
-
- hiroさん 2010/07/06 11:07:00
- 40年前
- 初めての海外がロンドン
言葉不都合、お安い南周りのチケットかな?乗り換え、乗り換えの搭乗券
始めが香港にて洗礼を受け、へとへと2日後にやっとたどり着いたロンドン
アリアンさんは
全てに桁外れ、足元にも及ばず お羨ましい!
いいお写真 大事にされ保管されて
昔見た あの風景がまさに飛び込んできました。
ありがとう御座います。
- アリヤンさん からの返信 2010/07/06 14:39:56
- RE: 40年前
- hiroさん、
> 言葉不都合、お安い南周りのチケットかな?乗り換え、乗り換えの搭乗券
> 始めが香港にて洗礼を受け、へとへと2日後にやっとたどり着いたロンドン
良くご存知ですネ。
ひょっとして、hiroさんも、このようなチケットでロンドンに行かれたクチ?かな?
当時、ロンドンのアールズコートには、日本人の貧乏青年が、わんさか住んでいまして、今の若者にはアンビリバボーなイングリッシュライフを送っていましたヨ。
当方は、まだ、そうした連中の仲間にはよう入らず、ひとりで「明日に向かって撃て」的生活を送っていました。
今後ともよろしくお願いします。
アリヤン
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