モスクワ旅行記(ブログ) 一覧に戻る
95年、私が初めてモスクワに訪れた時、ロシアは経済危機の最中だった。<br /><br /> 大国はソ連崩壊時既に経済破綻し、物価が高騰する反面、貨幣価値が下がり、国民は貧困にあえいだ。モスクワ大学(MГУエム・ゲー・ウー)の留学生は毎月200ドルあれば生活できたというが、僅か一年で最低300ドルなければ生活がままならない程、急激なインフレだった。94年8月、ロシアに訪れた時、 1ドルが既に2400ルーブル、その僅か半年後の95年1月には1ドル6000ルーブルまで貨幣価値が下落する一方で、物価はみるみるあがっていく。<br /><br /> もちろんこうしたインフレに所得が追いついているはずもない。MГУといえば、モスクワ国際関係大学と並び、世界的に知名度のある大学でもある。この2大学は裏口入学が一般的にあると言われるロシアの大学ですら、コネでも入ることができないのだと地元の人も話していた。その為モスクワ大学への受験勉強は熾烈を極め、入学するために大学教授を家庭教師に雇う人もいるのだという。勿論日本の大学と異なり、入学後の学業も厳しい反面、かの時代にはMГУを卒業すれば、一生が補償されたのと同然だった程、大変権威ある大学だった。しかしその世界に名だたるMГУの教授ですら、副業をせねば生活が成り立たぬ程、当時のロシアの経済はどん底に沈んでいた。<br /><br /> 一方時代の波に乗ったニューリッチや、政治までも牛耳るロシアマフィアは裕福な生活を謳歌していた。こうした背景の中、ロシア人達は今まで経験した事のない経済格差に混乱し、更に第一次チェチェン戦争ではロシア連邦軍は敗北を喫し、ロシアはかつての自信を失っていた。<br /><br /> そんな95年、私は初めてモスクワのシェレメチェボ空港に降立った。ただでさえ薄暗い空港は電力不足が輪をかけて不気味な雰囲気を醸し出した。そしてターミナルを出ると「タクシー?」と声をかけて来る白タク人だかり、栄光の面影を失ったロシア人達の姿には大国の面影が全くない。<br /><br />モスクワは一月の最も寒い時期、毎日のように雪が降りしきっていた。そんな中老婆が段ボールに座り込み、物乞いする姿は衝撃的だった―老後が手厚く保障された、これが共産主義の末路かと。95年のモスクワでの男性の平均月収が25,000円、年金生活者の需給金額が5,000円。到底これだけの月収では一家を支える事ができないので、多くのロシア人は副業を営んでいた。この時誰がその十年後のロシアが史上空前の好景気に沸くと想像しただろうか?<br /><br /> 翌96年6月、私は再びモスクワへと訪れた。再訪時、ロシアは大統領選挙の真っ最中だった。当時現職のエリツィン、自民党のジリノフスキー、共産党のジュガーノフが激しい三つ巴の選挙戦を繰り広げ、戦局が不利だったエリツィンはモスクワ市長の支援を受け戦っていた。<br /><br /> ジュガーノフ陣営は老齢者を味方につけ選挙運動を展開し、彼らは厳しい顔をしながらジュガーノフのポラロイド写真付の新聞を配っていたのは印象的だった。<br /><br /> そしてジリノフスキーの支援者は老婆に手を差し延べる写真を掲載した機関紙を配り歩いている。その写真は偽善者そのもの、まるでナチスのプロパガンタを見ているようだった。<br /><br /> 一方エリツィンは度派手な演出をしていた。赤の広場の裏手に特設ステージを作り、まるで学際のようにミュージシャンが歌い、そしてエリツィンはアルコールのボトルを持ちながら千鳥足で現われた。本人は踊っているつもりなのだろうが、傍からみると、どう見ても酒の飲みすぎでヨタッているようにしかみえなかった。<br /><br /> そんな激しい選挙活動が行われている中で、チェチェン戦争が影を落とした―モスクワではテロが発生だ。モスクワで死亡者が発生する程の大きなテロが起こったのはこの時が初めての経験だったと、当時の新聞からも記憶する。市内を走る地下鉄がターゲットにされ、私がいた地下鉄駅の直ぐ隣の駅が標的となり、多くの死傷者を出し、モスクワに衝撃が走った事は、当時モスクワ滞在中の私ですらも肌で感じた。「迷走」という言葉がそのままロシアを現していた。<br /><br /><br /><br />

ソ連の末路:95~96年モスクワの滞在

15いいね!

1995/01/15 - 1995/01/30

698位(同エリア1830件中)

0

16

worldspan

worldspanさん

95年、私が初めてモスクワに訪れた時、ロシアは経済危機の最中だった。

 大国はソ連崩壊時既に経済破綻し、物価が高騰する反面、貨幣価値が下がり、国民は貧困にあえいだ。モスクワ大学(MГУエム・ゲー・ウー)の留学生は毎月200ドルあれば生活できたというが、僅か一年で最低300ドルなければ生活がままならない程、急激なインフレだった。94年8月、ロシアに訪れた時、 1ドルが既に2400ルーブル、その僅か半年後の95年1月には1ドル6000ルーブルまで貨幣価値が下落する一方で、物価はみるみるあがっていく。

 もちろんこうしたインフレに所得が追いついているはずもない。MГУといえば、モスクワ国際関係大学と並び、世界的に知名度のある大学でもある。この2大学は裏口入学が一般的にあると言われるロシアの大学ですら、コネでも入ることができないのだと地元の人も話していた。その為モスクワ大学への受験勉強は熾烈を極め、入学するために大学教授を家庭教師に雇う人もいるのだという。勿論日本の大学と異なり、入学後の学業も厳しい反面、かの時代にはMГУを卒業すれば、一生が補償されたのと同然だった程、大変権威ある大学だった。しかしその世界に名だたるMГУの教授ですら、副業をせねば生活が成り立たぬ程、当時のロシアの経済はどん底に沈んでいた。

 一方時代の波に乗ったニューリッチや、政治までも牛耳るロシアマフィアは裕福な生活を謳歌していた。こうした背景の中、ロシア人達は今まで経験した事のない経済格差に混乱し、更に第一次チェチェン戦争ではロシア連邦軍は敗北を喫し、ロシアはかつての自信を失っていた。

 そんな95年、私は初めてモスクワのシェレメチェボ空港に降立った。ただでさえ薄暗い空港は電力不足が輪をかけて不気味な雰囲気を醸し出した。そしてターミナルを出ると「タクシー?」と声をかけて来る白タク人だかり、栄光の面影を失ったロシア人達の姿には大国の面影が全くない。

モスクワは一月の最も寒い時期、毎日のように雪が降りしきっていた。そんな中老婆が段ボールに座り込み、物乞いする姿は衝撃的だった―老後が手厚く保障された、これが共産主義の末路かと。95年のモスクワでの男性の平均月収が25,000円、年金生活者の需給金額が5,000円。到底これだけの月収では一家を支える事ができないので、多くのロシア人は副業を営んでいた。この時誰がその十年後のロシアが史上空前の好景気に沸くと想像しただろうか?

 翌96年6月、私は再びモスクワへと訪れた。再訪時、ロシアは大統領選挙の真っ最中だった。当時現職のエリツィン、自民党のジリノフスキー、共産党のジュガーノフが激しい三つ巴の選挙戦を繰り広げ、戦局が不利だったエリツィンはモスクワ市長の支援を受け戦っていた。

 ジュガーノフ陣営は老齢者を味方につけ選挙運動を展開し、彼らは厳しい顔をしながらジュガーノフのポラロイド写真付の新聞を配っていたのは印象的だった。

 そしてジリノフスキーの支援者は老婆に手を差し延べる写真を掲載した機関紙を配り歩いている。その写真は偽善者そのもの、まるでナチスのプロパガンタを見ているようだった。

 一方エリツィンは度派手な演出をしていた。赤の広場の裏手に特設ステージを作り、まるで学際のようにミュージシャンが歌い、そしてエリツィンはアルコールのボトルを持ちながら千鳥足で現われた。本人は踊っているつもりなのだろうが、傍からみると、どう見ても酒の飲みすぎでヨタッているようにしかみえなかった。

 そんな激しい選挙活動が行われている中で、チェチェン戦争が影を落とした―モスクワではテロが発生だ。モスクワで死亡者が発生する程の大きなテロが起こったのはこの時が初めての経験だったと、当時の新聞からも記憶する。市内を走る地下鉄がターゲットにされ、私がいた地下鉄駅の直ぐ隣の駅が標的となり、多くの死傷者を出し、モスクワに衝撃が走った事は、当時モスクワ滞在中の私ですらも肌で感じた。「迷走」という言葉がそのままロシアを現していた。



同行者
一人旅
交通手段
鉄道 高速・路線バス タクシー ヒッチハイク
航空会社
アエロフロート・ロシア航空

PR

  • 滞在していたMGU(エムゲーウー、モスクワ大学)寮の付近。寮生の話ではこれらのビルは何年も建設途中でほっぱらかしになっているそうです。左端遠くにMGUがみえます。

    滞在していたMGU(エムゲーウー、モスクワ大学)寮の付近。寮生の話ではこれらのビルは何年も建設途中でほっぱらかしになっているそうです。左端遠くにMGUがみえます。

  • 寮から見た夜景<br /><br />

    寮から見た夜景

  • MGUの寮。部屋は真冬でもTシャツでいられるほど、暖房は効いています。

    MGUの寮。部屋は真冬でもTシャツでいられるほど、暖房は効いています。

  • 寮付近<br />

    寮付近

  • 96年、モスクワ郊外の勝利広場に訪れました。

    96年、モスクワ郊外の勝利広場に訪れました。

  • 勝利広場には大理石で作られた大祖国戦争博物館がつくられ、いかに第二次世界大戦でソ連が勝利したかを誇示しています。当時のロシアは厳しい財政にも拘らず、こんな立派な博物館を作り、あきれてしまいました。<br />

    勝利広場には大理石で作られた大祖国戦争博物館がつくられ、いかに第二次世界大戦でソ連が勝利したかを誇示しています。当時のロシアは厳しい財政にも拘らず、こんな立派な博物館を作り、あきれてしまいました。

  • 1996年6月、大統領選挙の時、モスクワに滞在していました。こちらエリツィン陣営

    1996年6月、大統領選挙の時、モスクワに滞在していました。こちらエリツィン陣営

  • 当時の大統領選挙ではエリツィン、自民党からジリノフスキー、共産党ではジュガーノフの三人が他者を大きく引き離し争っていました。<br /><br /><br /><br />

    当時の大統領選挙ではエリツィン、自民党からジリノフスキー、共産党ではジュガーノフの三人が他者を大きく引き離し争っていました。



  • エリツィン支持派<br />この日各国の多くのメディアとかち合いました。

    エリツィン支持派
    この日各国の多くのメディアとかち合いました。

  • 当時チェチェンの独立戦争は泥沼化しており、モスクワでこの日テロが行われ、地下鉄がターゲットされ、多数の死傷者がでました。<br />

    当時チェチェンの独立戦争は泥沼化しており、モスクワでこの日テロが行われ、地下鉄がターゲットされ、多数の死傷者がでました。

  • モスクワは選挙で大変な盛り上がりでした。<br />

    モスクワは選挙で大変な盛り上がりでした。

  • デモ後のトヴェリツカヤ通り。モスクワの繁華街の一つです。

    デモ後のトヴェリツカヤ通り。モスクワの繁華街の一つです。

  • 赤の広場の裏側にできた特設ステージにエリツィンが現れ、踊って、酒を飲んで、上機嫌でした。

    赤の広場の裏側にできた特設ステージにエリツィンが現れ、踊って、酒を飲んで、上機嫌でした。

  • グム百貨店

    グム百貨店

  • マクドナルドもキリル文字

    マクドナルドもキリル文字

  • 赤の広場

    赤の広場

15いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

ロシアで使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
ロシア最安 518円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

ロシアの料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから海外旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP