1995/01/15 - 1995/01/30
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worldspanさん
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95年、私が初めてモスクワに訪れた時、ロシアは経済危機の最中だった。
大国はソ連崩壊時既に経済破綻し、物価が高騰する反面、貨幣価値が下がり、国民は貧困にあえいだ。モスクワ大学(MГУエム・ゲー・ウー)の留学生は毎月200ドルあれば生活できたというが、僅か一年で最低300ドルなければ生活がままならない程、急激なインフレだった。94年8月、ロシアに訪れた時、 1ドルが既に2400ルーブル、その僅か半年後の95年1月には1ドル6000ルーブルまで貨幣価値が下落する一方で、物価はみるみるあがっていく。
もちろんこうしたインフレに所得が追いついているはずもない。MГУといえば、モスクワ国際関係大学と並び、世界的に知名度のある大学でもある。この2大学は裏口入学が一般的にあると言われるロシアの大学ですら、コネでも入ることができないのだと地元の人も話していた。その為モスクワ大学への受験勉強は熾烈を極め、入学するために大学教授を家庭教師に雇う人もいるのだという。勿論日本の大学と異なり、入学後の学業も厳しい反面、かの時代にはMГУを卒業すれば、一生が補償されたのと同然だった程、大変権威ある大学だった。しかしその世界に名だたるMГУの教授ですら、副業をせねば生活が成り立たぬ程、当時のロシアの経済はどん底に沈んでいた。
一方時代の波に乗ったニューリッチや、政治までも牛耳るロシアマフィアは裕福な生活を謳歌していた。こうした背景の中、ロシア人達は今まで経験した事のない経済格差に混乱し、更に第一次チェチェン戦争ではロシア連邦軍は敗北を喫し、ロシアはかつての自信を失っていた。
そんな95年、私は初めてモスクワのシェレメチェボ空港に降立った。ただでさえ薄暗い空港は電力不足が輪をかけて不気味な雰囲気を醸し出した。そしてターミナルを出ると「タクシー?」と声をかけて来る白タク人だかり、栄光の面影を失ったロシア人達の姿には大国の面影が全くない。
モスクワは一月の最も寒い時期、毎日のように雪が降りしきっていた。そんな中老婆が段ボールに座り込み、物乞いする姿は衝撃的だった―老後が手厚く保障された、これが共産主義の末路かと。95年のモスクワでの男性の平均月収が25,000円、年金生活者の需給金額が5,000円。到底これだけの月収では一家を支える事ができないので、多くのロシア人は副業を営んでいた。この時誰がその十年後のロシアが史上空前の好景気に沸くと想像しただろうか?
翌96年6月、私は再びモスクワへと訪れた。再訪時、ロシアは大統領選挙の真っ最中だった。当時現職のエリツィン、自民党のジリノフスキー、共産党のジュガーノフが激しい三つ巴の選挙戦を繰り広げ、戦局が不利だったエリツィンはモスクワ市長の支援を受け戦っていた。
ジュガーノフ陣営は老齢者を味方につけ選挙運動を展開し、彼らは厳しい顔をしながらジュガーノフのポラロイド写真付の新聞を配っていたのは印象的だった。
そしてジリノフスキーの支援者は老婆に手を差し延べる写真を掲載した機関紙を配り歩いている。その写真は偽善者そのもの、まるでナチスのプロパガンタを見ているようだった。
一方エリツィンは度派手な演出をしていた。赤の広場の裏手に特設ステージを作り、まるで学際のようにミュージシャンが歌い、そしてエリツィンはアルコールのボトルを持ちながら千鳥足で現われた。本人は踊っているつもりなのだろうが、傍からみると、どう見ても酒の飲みすぎでヨタッているようにしかみえなかった。
そんな激しい選挙活動が行われている中で、チェチェン戦争が影を落とした―モスクワではテロが発生だ。モスクワで死亡者が発生する程の大きなテロが起こったのはこの時が初めての経験だったと、当時の新聞からも記憶する。市内を走る地下鉄がターゲットにされ、私がいた地下鉄駅の直ぐ隣の駅が標的となり、多くの死傷者を出し、モスクワに衝撃が走った事は、当時モスクワ滞在中の私ですらも肌で感じた。「迷走」という言葉がそのままロシアを現していた。
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- 鉄道 高速・路線バス 船 タクシー ヒッチハイク
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滞在していたMGU(エムゲーウー、モスクワ大学)寮の付近。寮生の話ではこれらのビルは何年も建設途中でほっぱらかしになっているそうです。左端遠くにMGUがみえます。
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寮から見た夜景
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MGUの寮。部屋は真冬でもTシャツでいられるほど、暖房は効いています。
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寮付近
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96年、モスクワ郊外の勝利広場に訪れました。
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勝利広場には大理石で作られた大祖国戦争博物館がつくられ、いかに第二次世界大戦でソ連が勝利したかを誇示しています。当時のロシアは厳しい財政にも拘らず、こんな立派な博物館を作り、あきれてしまいました。
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1996年6月、大統領選挙の時、モスクワに滞在していました。こちらエリツィン陣営
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当時の大統領選挙ではエリツィン、自民党からジリノフスキー、共産党ではジュガーノフの三人が他者を大きく引き離し争っていました。
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エリツィン支持派
この日各国の多くのメディアとかち合いました。 -
当時チェチェンの独立戦争は泥沼化しており、モスクワでこの日テロが行われ、地下鉄がターゲットされ、多数の死傷者がでました。
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モスクワは選挙で大変な盛り上がりでした。
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デモ後のトヴェリツカヤ通り。モスクワの繁華街の一つです。
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赤の広場の裏側にできた特設ステージにエリツィンが現れ、踊って、酒を飲んで、上機嫌でした。
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グム百貨店
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マクドナルドもキリル文字
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赤の広場
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