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       <br />   <br />  釜山の金海空港で乗った出迎えのバスは釜山港へ向けて出発し、間もなく洛東江を渡った。この河は1950年に勃発した朝鮮戦争の時、北朝鮮軍がソウルを落とした勢いで釜山へ迫り、韓国軍最後の防衛線となったところだなと往時の悲惨な戦禍のことを想像しながら渡った。ガイドの金嬢も朝鮮戦争の被害のことを折りに触れて説明していたが、表面見る限りもう戦争の痕跡は認められないし、山手に立ち並ぶ近代的な高層住宅群を見るとこの国が発展している様子が即物的に理解できるような気がする。<br /><br />  釜山港へ着いてから国際市場とチャガルチ市場を見学した。人口400万人の韓国第二の都市で且つ韓国第一の貿易港釜山の国際市場は「国際市場」という名のビルを中心に大小のビルが犇いて立ち並び、ありとあらゆる商品が取引されている巨大な市場である。戦後の闇市から発展した市場だというが、東京で言えばアメ横の雰囲気であり、表面見た目にはどこの国にも見られる雑然とした中にも熱気のある市場の風景である。チャガルチ市場は港直近の市場なので海産物や魚介類が殆どで、水槽に泳がせている魚も沢山いた。<br /><br />  海鮮鍋の夕食を地酒のジンロウと共にしこたま賞味した後、京釜高速道路に乗って走行すること約一時間で慶州チョースンホテルへ到着した。<br /><br />  慶州は紀元前57年から935年まで新羅王朝の都としておよそ1,000年の間栄えてきた町である。慶尚道の人口は308万人でありその中約一割の29万人がこの穏やかな地方都市に住んでいる。黒灰色の瓦で葺かれた反りのある入母屋作りの民家は門壁に囲われて実り豊かな農村地帯の裕福な農家の雰囲気を留めているし、王侯の丸い墳墓を初めとする史跡が沢山残っている風光明媚な町である。この地を訪れる観光客は外国人、現地人共に多いが外人観光客の中では圧倒的に日本人が多くその九割に及ぶという。<br /><br /> 四囲を見回すとなるほどそれぞれにカメラをぶら下げた老若男女の日本人観光客ばかりである。観光客誘致のための美化運動も積極的に進められているようで、自動車道路に沿って街路樹が沢山植えられており、とりわけ見渡す限りの桜並木は素晴らしい。花の咲く頃再訪してみたいという思いに駆られる。折から国花の木槿の花がそちこちに咲いていたが、これまた可憐な風情があり一際旅情をそそる。このあたりの風景には日本では既に失われてしまった農村の原風景が残っているようで懐かしい。この地域から古代日本へ渡来した帰化人の血が我々の先祖を通じて流れているからなのだろうか。やはり何処となく懐かしい国である。<br /><br />  翌朝、標高750mの吐含山山腹にある石窟庵へ向かった。生憎また雨が降っていた。 石窟庵は751年に新羅35代の景徳王時代の宰相・金大城が両親のために創建した釈迦如来像を安置するための石窟である。安置されている釈迦如来像は花崗岩を丸彫りした高さ3.26mの石像で、仏教美術上の最高傑作といわれている。しかも一年を通じて元旦にだけ如来像の顔に石窟内を通り抜けた太陽光があたるように設計されているうえ、仏像の設置位置は円形窟の中心点よりやや後方にずらされていて正面から対峙する参詣者に荘厳さを際立たせる工夫がなされていて、当時の技術水準の高さが窺われる。仏像を取り囲む四方の石壁には十一面観音、金剛力士、四天王等のレリーフがあり釈迦如来の光背も遠近感を考慮して彫られている。如来像は全体が石窟で覆われていて、石窟の上には土が盛られていて草むしており外見では小高い山のようになっている。また吐含山は湿気の多い岩山で地表や岩間を流れる水量が多く、流れる水に耐えて保存されてきたことでも特異な存在の石窟、石像であるという。折からガラス張りの石窟の中では僧侶が読経しており、その後方左手には熱心な女性の信徒が細長い座布団を敷いて五体投地の拝礼を繰り返していた。世界遺産に登録されている。<br /><br />  次に仏国寺へ赴いた。仏国寺も吐含山にある寺院で、韓国屈指の名刹として知られている。528年新羅の法興王が夫人の法流尼のために創建した。「華厳教」に説かれる仏国土をこの世で代表する寺と考えられ、真興王、景徳王の時代に堂舎が整備された。のち、1592年豊臣秀吉の朝鮮侵攻の際、兵火にあい堂塔の多くを消失したが、李王朝によって修補、再建が重ねられた。現存する石造物は756年、木造建築物は1659年に構築されたもので、伽藍は大雄殿を中心とする東区、為祝殿を中心におく西区からなり、これに配された多宝塔、釈迦塔、橋、廊や仏像等東洋美術上の逸品が多い。特に柴霞門、安養門にはそれぞれアーチ型の二つの石橋が架けられており、均整のとれた姿や石造技術の優秀さには見る者をして感嘆せしむるものがある。またそこかしこに見られる石組みにも見るべきものが多い。更に極楽殿の阿弥陀仏、毘盧殿の毘盧舍那仏の美しさには見とれて忘我の境を彷徨いそうである。<br /><br />  古墳公園は七基の巨大な新羅王陵を中心に23基の古墳群を整備した公園であるが、奈良の若草山に似た墳墓に生えている草はよく手入れされており幾つも並んだ古墳群の単純な形は外見上とても美しい。墳墓の内部を公開しているのは天馬塚であるが、この塚からは盗掘にあっていない一万二千点余の副葬品が発掘され、博物館に展示されている。天馬塚内部には木枠で囲われた埋葬箇所が展示されているが、説明によれば入り口も出口もない閉ざされた木箱の中に王の柩と共に多数の家来が生き埋めされて殉死したという。木箱の上には石塊が積み重ねられるのだから、木箱の中に生きたまま閉じ込められ次第に空気がなくなってきて断末魔の呻きをあげながら殉死していった人々の魂がいまでも彷徨っているような気がして身の毛がよだつ思いであった。<br /><br />  翌朝ソウルに向かうべく慶州駅へ向かった。急行列車セマウル号は外観が薄汚れていて清掃を殆どしていないのではないかと思われる程のひどさであったが、列車内の客室は広軌のせいかゆったりしていて清掃もきちんとなされていた。四時間半程の旅程は田園風景を眺めやったり、持ち込んだ碁盤で同行者と囲碁を打ったり、配給された弁当をたべたりして退屈することはなかった。<br /><br />  ソウルでは開園を待って昌徳宮の観光をした。ここには専任の日本語ガイドが配置されていて、日本人観光客を纏めて説明する都合上、入園時間が指定されているのである。開園と同時に夥しい数の日本人観光客がどっとガイド嬢を取り囲む。その数ざっと400〜500人であろうか。ガイド嬢はハンドマイクを片手に堪能な日本語で説明してくれるが、なんとなく発音が不自然である。<br /><br />  昌徳宮は1405年に李朝三代王太宗のとき、正宮である景福宮の離宮として造営された宮殿である。1412年に正門である敦化門が建てられ、宮殿としての面目を整えてきた。一四五九年世祖が規模を拡大し15万坪にまでなった。1529年の豊臣秀吉の侵攻によって宮殿の大部分が消失した。その後、宜祖が再建を始め1610年光海君の時完成した。その後数回の火災があったが、1917年の火災で大造殿のほか内殿が消失したので、当時の朝鮮総督府が景福宮の交泰殿と康寧殿を解体移設して建てたのが現在の大造殿と熙政堂である。<br /><br />  昌徳宮は光海君以降13代にわたり約270年間政務が執られた宮殿で、正宮の景福宮よりも長い期間、王の御座所であった。現在の面積は135,212坪、宮殿の建物が、13棟、後庭に28棟の楼閣が残っている。秘苑の名でよく知られている後苑は、自然との調和美を生かした韓国伝統の造景の特徴がよく保存されている代表的な宮殿の庭園である。この昌徳宮は1997年ユネスコの世界遺産として登録された。<br /><br />  構内の仁政殿は韓国の国宝に指定されており、敦化門、宣政殿、熙政堂、大造殿と何れも宝物に指定されている。なかでも、王と王妃の寝殿であり、且つ王とその家族が生活した中宮でもあった大造殿は棟瓦を置いていない建築様式が珍しい。韓国では棟瓦のことを竜棟と呼び国王は竜に喩えられたので国王の寝殿であるこの大造殿の瓦は省かれたのである。<br /><br />  昌徳宮の中にある楽善斉は1847年に後宮として建てられたものであるが、西側から楽善斉、錫福軒、寿康斉が配置され、正面に回廊が渡され一郭をなしており、総称して楽善斉と呼ばれている。この建物は両班の建物を模して質素を旨として建てられたと言われており、廻りの景色とよく調和して素朴でこじんまりとした趣を感じさせる。なお日本皇族の梨本宮家から降嫁した李方子女史が一九八九年まで生活したところでもある。<br /><br />  秘苑は1405年昌徳宮が創建された当時造営されたところで、豊臣秀吉の侵攻の際、大半の庭亭が消失した。今残っている楼亭は仁祖以後歴代の王によって改修増築されたものである。ここは大きく分けて芙蓉池を中心とする空間と、愛蓮亭と演慶堂を中心とする空間、そして半島池と玉流川の流域からなっている。この秘苑は韓国の伝統的な造園で地形に合わせて楼閣を建てたり、花と木を植えたり、また池を掘ったりして、その美しい調和の美をかもし出している。庭木も鬱蒼として古木が多く中には樹齢六百年と言われる巨木もあった。栗鼠などの小動物も生息しており、その可愛らしい姿が観光客の感嘆の声を誘っていた。<br /><br />  昌徳宮を後にして国立中央博物館へ赴いた。博物館は正宮であった景福宮の構内の一郭にある。往時通りすがりにあった元の朝鮮総督府の建物は解体されて跡形もなくなっており、跡地には勤政殿を再建中の工事現場があった。殿舎は大体出来上がっており、テントの中では最後の仕上げ工事が行われているようであった。その光景を複雑な思いで眺めやった。<br /><br /> 翻って日韓関係の不幸な歴史を顧みると日本政府は1910年に韓国を併合し、この地に朝鮮総督府の建物を建設し軍主導の植民地支配の武断政治を行ったのである。韓国の人々にしてみれば、崇敬する王宮の構内中枢位置に異民族による支配機構の建物を建てられたわけだからその屈辱感と敗北感には我々の量り知れないものがあったことであろうと粛然とした気持ちになった。<br /><br /><br />

どことなく懐かしい国、韓国

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2000/08/25 - 2000/08/28

36618位(同エリア40712件中)

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12

早島 潮

早島 潮さん



釜山の金海空港で乗った出迎えのバスは釜山港へ向けて出発し、間もなく洛東江を渡った。この河は1950年に勃発した朝鮮戦争の時、北朝鮮軍がソウルを落とした勢いで釜山へ迫り、韓国軍最後の防衛線となったところだなと往時の悲惨な戦禍のことを想像しながら渡った。ガイドの金嬢も朝鮮戦争の被害のことを折りに触れて説明していたが、表面見る限りもう戦争の痕跡は認められないし、山手に立ち並ぶ近代的な高層住宅群を見るとこの国が発展している様子が即物的に理解できるような気がする。

釜山港へ着いてから国際市場とチャガルチ市場を見学した。人口400万人の韓国第二の都市で且つ韓国第一の貿易港釜山の国際市場は「国際市場」という名のビルを中心に大小のビルが犇いて立ち並び、ありとあらゆる商品が取引されている巨大な市場である。戦後の闇市から発展した市場だというが、東京で言えばアメ横の雰囲気であり、表面見た目にはどこの国にも見られる雑然とした中にも熱気のある市場の風景である。チャガルチ市場は港直近の市場なので海産物や魚介類が殆どで、水槽に泳がせている魚も沢山いた。

海鮮鍋の夕食を地酒のジンロウと共にしこたま賞味した後、京釜高速道路に乗って走行すること約一時間で慶州チョースンホテルへ到着した。

慶州は紀元前57年から935年まで新羅王朝の都としておよそ1,000年の間栄えてきた町である。慶尚道の人口は308万人でありその中約一割の29万人がこの穏やかな地方都市に住んでいる。黒灰色の瓦で葺かれた反りのある入母屋作りの民家は門壁に囲われて実り豊かな農村地帯の裕福な農家の雰囲気を留めているし、王侯の丸い墳墓を初めとする史跡が沢山残っている風光明媚な町である。この地を訪れる観光客は外国人、現地人共に多いが外人観光客の中では圧倒的に日本人が多くその九割に及ぶという。

 四囲を見回すとなるほどそれぞれにカメラをぶら下げた老若男女の日本人観光客ばかりである。観光客誘致のための美化運動も積極的に進められているようで、自動車道路に沿って街路樹が沢山植えられており、とりわけ見渡す限りの桜並木は素晴らしい。花の咲く頃再訪してみたいという思いに駆られる。折から国花の木槿の花がそちこちに咲いていたが、これまた可憐な風情があり一際旅情をそそる。このあたりの風景には日本では既に失われてしまった農村の原風景が残っているようで懐かしい。この地域から古代日本へ渡来した帰化人の血が我々の先祖を通じて流れているからなのだろうか。やはり何処となく懐かしい国である。

翌朝、標高750mの吐含山山腹にある石窟庵へ向かった。生憎また雨が降っていた。 石窟庵は751年に新羅35代の景徳王時代の宰相・金大城が両親のために創建した釈迦如来像を安置するための石窟である。安置されている釈迦如来像は花崗岩を丸彫りした高さ3.26mの石像で、仏教美術上の最高傑作といわれている。しかも一年を通じて元旦にだけ如来像の顔に石窟内を通り抜けた太陽光があたるように設計されているうえ、仏像の設置位置は円形窟の中心点よりやや後方にずらされていて正面から対峙する参詣者に荘厳さを際立たせる工夫がなされていて、当時の技術水準の高さが窺われる。仏像を取り囲む四方の石壁には十一面観音、金剛力士、四天王等のレリーフがあり釈迦如来の光背も遠近感を考慮して彫られている。如来像は全体が石窟で覆われていて、石窟の上には土が盛られていて草むしており外見では小高い山のようになっている。また吐含山は湿気の多い岩山で地表や岩間を流れる水量が多く、流れる水に耐えて保存されてきたことでも特異な存在の石窟、石像であるという。折からガラス張りの石窟の中では僧侶が読経しており、その後方左手には熱心な女性の信徒が細長い座布団を敷いて五体投地の拝礼を繰り返していた。世界遺産に登録されている。

次に仏国寺へ赴いた。仏国寺も吐含山にある寺院で、韓国屈指の名刹として知られている。528年新羅の法興王が夫人の法流尼のために創建した。「華厳教」に説かれる仏国土をこの世で代表する寺と考えられ、真興王、景徳王の時代に堂舎が整備された。のち、1592年豊臣秀吉の朝鮮侵攻の際、兵火にあい堂塔の多くを消失したが、李王朝によって修補、再建が重ねられた。現存する石造物は756年、木造建築物は1659年に構築されたもので、伽藍は大雄殿を中心とする東区、為祝殿を中心におく西区からなり、これに配された多宝塔、釈迦塔、橋、廊や仏像等東洋美術上の逸品が多い。特に柴霞門、安養門にはそれぞれアーチ型の二つの石橋が架けられており、均整のとれた姿や石造技術の優秀さには見る者をして感嘆せしむるものがある。またそこかしこに見られる石組みにも見るべきものが多い。更に極楽殿の阿弥陀仏、毘盧殿の毘盧舍那仏の美しさには見とれて忘我の境を彷徨いそうである。

古墳公園は七基の巨大な新羅王陵を中心に23基の古墳群を整備した公園であるが、奈良の若草山に似た墳墓に生えている草はよく手入れされており幾つも並んだ古墳群の単純な形は外見上とても美しい。墳墓の内部を公開しているのは天馬塚であるが、この塚からは盗掘にあっていない一万二千点余の副葬品が発掘され、博物館に展示されている。天馬塚内部には木枠で囲われた埋葬箇所が展示されているが、説明によれば入り口も出口もない閉ざされた木箱の中に王の柩と共に多数の家来が生き埋めされて殉死したという。木箱の上には石塊が積み重ねられるのだから、木箱の中に生きたまま閉じ込められ次第に空気がなくなってきて断末魔の呻きをあげながら殉死していった人々の魂がいまでも彷徨っているような気がして身の毛がよだつ思いであった。

翌朝ソウルに向かうべく慶州駅へ向かった。急行列車セマウル号は外観が薄汚れていて清掃を殆どしていないのではないかと思われる程のひどさであったが、列車内の客室は広軌のせいかゆったりしていて清掃もきちんとなされていた。四時間半程の旅程は田園風景を眺めやったり、持ち込んだ碁盤で同行者と囲碁を打ったり、配給された弁当をたべたりして退屈することはなかった。

ソウルでは開園を待って昌徳宮の観光をした。ここには専任の日本語ガイドが配置されていて、日本人観光客を纏めて説明する都合上、入園時間が指定されているのである。開園と同時に夥しい数の日本人観光客がどっとガイド嬢を取り囲む。その数ざっと400〜500人であろうか。ガイド嬢はハンドマイクを片手に堪能な日本語で説明してくれるが、なんとなく発音が不自然である。

昌徳宮は1405年に李朝三代王太宗のとき、正宮である景福宮の離宮として造営された宮殿である。1412年に正門である敦化門が建てられ、宮殿としての面目を整えてきた。一四五九年世祖が規模を拡大し15万坪にまでなった。1529年の豊臣秀吉の侵攻によって宮殿の大部分が消失した。その後、宜祖が再建を始め1610年光海君の時完成した。その後数回の火災があったが、1917年の火災で大造殿のほか内殿が消失したので、当時の朝鮮総督府が景福宮の交泰殿と康寧殿を解体移設して建てたのが現在の大造殿と熙政堂である。

昌徳宮は光海君以降13代にわたり約270年間政務が執られた宮殿で、正宮の景福宮よりも長い期間、王の御座所であった。現在の面積は135,212坪、宮殿の建物が、13棟、後庭に28棟の楼閣が残っている。秘苑の名でよく知られている後苑は、自然との調和美を生かした韓国伝統の造景の特徴がよく保存されている代表的な宮殿の庭園である。この昌徳宮は1997年ユネスコの世界遺産として登録された。

構内の仁政殿は韓国の国宝に指定されており、敦化門、宣政殿、熙政堂、大造殿と何れも宝物に指定されている。なかでも、王と王妃の寝殿であり、且つ王とその家族が生活した中宮でもあった大造殿は棟瓦を置いていない建築様式が珍しい。韓国では棟瓦のことを竜棟と呼び国王は竜に喩えられたので国王の寝殿であるこの大造殿の瓦は省かれたのである。

昌徳宮の中にある楽善斉は1847年に後宮として建てられたものであるが、西側から楽善斉、錫福軒、寿康斉が配置され、正面に回廊が渡され一郭をなしており、総称して楽善斉と呼ばれている。この建物は両班の建物を模して質素を旨として建てられたと言われており、廻りの景色とよく調和して素朴でこじんまりとした趣を感じさせる。なお日本皇族の梨本宮家から降嫁した李方子女史が一九八九年まで生活したところでもある。

秘苑は1405年昌徳宮が創建された当時造営されたところで、豊臣秀吉の侵攻の際、大半の庭亭が消失した。今残っている楼亭は仁祖以後歴代の王によって改修増築されたものである。ここは大きく分けて芙蓉池を中心とする空間と、愛蓮亭と演慶堂を中心とする空間、そして半島池と玉流川の流域からなっている。この秘苑は韓国の伝統的な造園で地形に合わせて楼閣を建てたり、花と木を植えたり、また池を掘ったりして、その美しい調和の美をかもし出している。庭木も鬱蒼として古木が多く中には樹齢六百年と言われる巨木もあった。栗鼠などの小動物も生息しており、その可愛らしい姿が観光客の感嘆の声を誘っていた。

昌徳宮を後にして国立中央博物館へ赴いた。博物館は正宮であった景福宮の構内の一郭にある。往時通りすがりにあった元の朝鮮総督府の建物は解体されて跡形もなくなっており、跡地には勤政殿を再建中の工事現場があった。殿舎は大体出来上がっており、テントの中では最後の仕上げ工事が行われているようであった。その光景を複雑な思いで眺めやった。

 翻って日韓関係の不幸な歴史を顧みると日本政府は1910年に韓国を併合し、この地に朝鮮総督府の建物を建設し軍主導の植民地支配の武断政治を行ったのである。韓国の人々にしてみれば、崇敬する王宮の構内中枢位置に異民族による支配機構の建物を建てられたわけだからその屈辱感と敗北感には我々の量り知れないものがあったことであろうと粛然とした気持ちになった。


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  • 墳墓。慶州

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  • 慶州。チョースンホテル

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  • 旧朝鮮総督府を解体し、新しい建物を建設中

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