2009/07/07 - 2009/07/07
247位(同エリア393件中)
まみさん
2009/07/07火 キエフ観光2日目
・ウクライナ・エキスポセンター内のインフォメーションに寄ってみる
・ミコラ・プルチュスコ(Mykola Prytysko)教会(道を間違えた途中で見つけた教会)
・チェルノヴィリ博物館
コントラクトヴァ広場を経由して
・ピロゴシュキ聖処女就寝教会(Dormition Church of the Blessed Virgin of Pyrogoschchi)
・聖フロー修道院(St. Flor’s Monastery)
・一本道の博物館
・アンドレイ坂で民俗土産物屋台とアートギャラリー2つ見学
ウクライナの心の宝博物館は修復中なのか見学できず(泣)
・聖ミハイルの黄金ドーム修道院鐘楼内の歴史博物館&教会
・ドニエプル川沿いの公園とウラジーミル聖公像
【キエフ泊:ホテル・フレシチャーチク(Khreschatic)】
チェルノヴィリ───ウクライナを旅行するなら、無視できないと思いました。
事件当時は、核の恐ろしさに改めて身震いしつつも、遠い見知らぬ国のこととして、ベールにかかったようにピンとこなかったのです。
それではいけないと思いました。
実はこの事件については、通り一遍なことしか知りませんでした。
なので、むしろこの博物館に行けば、いろいろ分かるのだろうと。
英語のオーディオガイドも借りて見学しました。
ただ、オーディオガイドは長すぎるし、専門的な話は頭に入らなく、何を言ってるのかさっぱり分からないところもありました。
どの展示の説明か探せないときも。
展示されているものは、予想に反して、おどろおどろしくはありませんでした。
それが何なのか分かるまで、首を傾げるしかなかったものも。
でも、だからこそ帰国後にきちんと調べようという気になりました。確かにきっかけになりました。
知らないことばかりでした。
図書館に行けばなんとか資料は見つかったけれど、もうたいていの書店にはチェルノヴィリ事件について書かれた本がおいていないのは、哀しくなりました。
博物館に展示されていたのは、事故そのものに関する解説の展示や、その後、放射能の危険をほとんど知らされずに消火や復旧、解体作業に携わって亡くなった人々の写真や身の回りの品々や身分証明書、事故を知らされず避難が遅れた周辺住民を含め、放射能の影響を受けた人々を救う医療活動、日本を含む世界中からの支援の様子、それから、失われた村の写真や豊かだったフォークロア文化に関する展示や、亡くなった子供たちの写真、事故の恐ろしさを象徴したり、2度とこのような事故が起こらないようにと願いを込めた絵画や展示など。
そしてそれらは、帰国してから自分なりに調べてやっと、重みがじわじわと胸に迫ってきました。
チェルノヴィリ原子力発電所事故
「1986年4月26日1時23分(モスクワ時間 ※UTC+3)にソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉が起こした原子力事故。
4号炉は炉心溶融(メルトダウン)ののち爆発し、放射性降下物がウクライナ・ベラルーシ・ロシアなどを汚染した。事故後のソ連政府の対応の遅れなどが重なり被害が甚大化・広範化し、史上最悪の原子力事故となった。」
(ウィキペディアフリー百科事典より)
※2009年ウクライナ旅行の旅程一覧はこちら。
簡易版「2009年ウクライナ旅行プロローグ(旅程一覧)地図付」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10359084/
詳細版「2009年ウクライナ旅行の詳細旅程」(もう1つのブログ「まみ’s Travel Diary」より)
http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/2009/07/2009-2271.html
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やっと見つけたチェルノヴィリ博物館
最寄りの地下鉄コントラクトヴィ・プローシチャ駅から迷いました、迷いました。
やっとチェルノヴィリ博物館のある通りにたどり着きました。
印象的な建物だなぁ(なんとなく収容所跡みたいで……!?)と、ちょっと足を止めて写真を撮ったら、これがそうでした。
最初の目的地なのに、もう11時半です。
最寄り駅から迷ったてんまつを書いた旅行記
「2009年ウクライナ旅行第3日目(1)キエフ:地下鉄に乗ってかつての下町ポディール地区へ」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10369966/
「チェルノブイリ博物館
ポディール地区にある、おびただしい量の写真と資料でチェルノヴィリ原発事故の悲劇を伝える博物館。事故処理に実際に使われた防護服の展示がある。事故後に生まれた奇形の馬の写真などを見ると、冷たい恐怖が伝わってくる。中央ホールにある、被爆した子供たちが持ち寄ったという多数のおもちゃが悲しみを誘う。事故の経過を再現した活動ジオラマもあり、団体の見学者が来たときに上演される。」
(「地球の歩き方ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、コーサカスの国々」('08〜’09年版)より) -
さりげなく戦車(?)が駐車していた、おとなりの警察署の建物
-
チェルノヴィリ博物館の入口(住所:Khoreviy Provulok通り1番)
入場料は5.00フリヴニャ、写真代は5.00フリヴニャ、英語のオーディオガイドは50.00ウリヴニャで保証金が確か100.00フリヴニャでした。
(2009年7月現在、1フリヴニャ=約14円で換算)
保証金はオーディオガイドを返却すると戻ってきます。
見学時間は11時半から12時半となりました。
展示室自体はそう大きな博物館でありません。
オーディオガイドがなかったら、よく分からずに10分くらいで終わってしまったのではないでしょうか。
英語のオーディオガイドは、聞き取りができずに何度か聞き返したときもありましたが、かなり詳しくて、1つの説明ポイントに対しての説明がとても長かったので、後半になったら全部聞くには苦痛になりました。
なんの展示か、概要が分かったら、途中でも次のポイントに飛ばしてしまいました。
そんなズル(?)をしてやっと、最後のポイントまでなんとか聞けた、という状態でした。
「チェルノヴィリ博物館
1990年に、内務省が発起人となり開館しました。二階建て建物の入口のホールには、原発事故前のプリピャーチとチェルノブィリの住民の生活のドキュメンタリーフィルムを試写出来る他、ウクライナ人画家の描いたチェルノブィリに関する絵画が飾ってあります。玄関を入った所の階段には原発事故後、消失してした町のおびただしい数の名札が掲げられており、事故の悲惨さをものがたっています。2階部分は4つのホールに分かれており、事故発生時の午前1時23分で止まっている時計、原子力発電所の分布図、前線で働いていた消防士及び軍人の服等が展示されています。また、ビデオで原子炉の屋根の上で働く特殊部隊のドキュメンタリーの一コマを見ることが出来ます。」
(在ウクライナ日本大使館公式サイトの「ウクライナ情報」─「キエフ案内(2007年1月現在) III. 観光」より)
http://www.ua.emb-japan.go.jp/J/About.Ukr/kyivannai/3kyivkankou.htm#kankou -
展示室への階段には、失われた村の名前のプレートがずらり
放射能のせいで人が住めなくなった村々のプレートです。
足下の階段の床も不気味です。
【5188】
展示室のある2階のフロアの廊下にも、失われた村の名前のプレートが続く
右手前の扉から第1室目が始まり、右手へ右手へと進み、この写真に見える正面の奥が最後の一番広い展示室でした。 -
展示室のある2階のフロアの廊下にも、失われた村の名前のプレートが続く
右手前の扉から第1室目が始まり、右手へ右手へと進み、この写真に見える正面の奥が最後の一番広い展示室でした。 -
チェルノヴィリ、入れず
最後の展示室の前の上の方はこのようになっていました。
この斜めの赤線は、ふつうは村や町の境界線を出るというサインです。欧米ではこういうプレートがたいていどこでもあります。
でもこの場合、あなたはチェルノヴィリ村を出ます、というよりは、チェルノヴィリにはもう入れません、という不吉なサインにしか見えません。 -
後ろを振り返ってみると
失われた村々の名前のプレートの裏側。
村や町から出ていく人が通常見る、この斜めの赤線の入ったプレートの裏側は、まったくふつうのものです。
しかし、ここではやはり、これだけの村が入れなくなった、ということを示した悲痛なサインでしょう。 -
事後処理に使われた防御服姿のマネキンと事故発生時間で止まった時計
マネキンの背後の写真は、当局になんの危険性も伝えられないまま消火活動などの事後処理を行って、放射能の影響で亡くなった人たちだと思います。 -
チェルノヴィリ原子力発電の模型
見ても仕組みはさっぱり分からないけど……。 -
第1室目の全体と団体の見学者たち
こういうときガイドの説明が聞けるのはうらやましいです。
オーディオガイドの助けを借りて見学していますが、いま説明しているのが展示のどれかって、特に後半は分かりづらかったです。
日本の美術館などの企画展のように、ヘッドホンマークなどで目立つようにされているわけではないので。 -
鉄条網に囲まれた、チェルノヴィリ爆発を描いたカーペットと写真
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事故後の写真や、情報隠蔽という二次災害のために亡くなった人たちの写真
「1986年4月26日、キエフ北方約100キロにあるチェルノブイリ原発第四号炉が爆発した。192トンの核燃料のうち4%が大気中に放出され、広島型原爆500発分の放射能が広がった。事故それ自体も史上空前であったが、事態を一層悪くしたのは、ソ連の隠蔽体質であった。ゴルバチョフの政権獲得から1年あまり、グラスノスチもまだ浸透していない時期だったこともあり、事故は28日まで伏せられた。そのためもっと早く公表されて必要な措置がとられていれば助かったであろう多くの命が失われ、何万という人々がいまだに後遺症に悩むことになった。
またこの事故は他の環境問題にもウクライナ人の注意を向けた。ソ連はこれまで生産至上主義で、環境問題にはほとんど無関心であった。問題が起こったとしても隠すのみであった。ウクライナはソ連第一の重化学工業地帯と誇っていても、気がつけば工場・鉱山の排出する汚染物質は垂れ流しで、ウクライナ南部、東部はソ連有数の汚染地帯となり、住民の健康問題が深刻となっていた。」
(情報源:中公新書「物語ウクライナの歴史─ヨーロッパ最後の大国」黒川祐次・著) -
汚染範囲を示した地図
赤い部分が一番汚染度が高いエリアです。
チェルノヴィリは下の方の赤い部分の下端に位置します。上の赤いエリアは隣国のベラルーシです。
キエフは、内臓ストロボでガラスに光が反射して写ってしまったあたりにあります。 -
蝕まれた生命の木
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おどろおどろしい絵や事故現場などの写真
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事故の経過を再現した活動ジオラマの垂れ幕の写真
「地球の歩き方」にあったとおり、団体さんがいたときには上演されていました。
私は団体よりどんどん先に進んでいたのですが、音声を耳にして戻ってきたときは、もう終わっていました。残念。
個人の見学者に対しては上演されず、この写真のみ。 -
世界中からの支援と、天井には支援物資が入っていた数々の箱
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祈りを込めた世界の国旗や折鶴
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被爆した子供たちによる絵や詩
帰国後、図書館で「生きていたい! チェルノヴィリの子どもたちの叫び」(チェルノヴィリ子ども基金・出版/1998年刊)という本を借りて読みました。
何も知らされなかった事故当時に感じた不安。
生まれ育った村から急に出ていかなくてはならなくなったり、思い出のある村に戻れない悲しみ。
汚染された地元の牛乳を飲んだことが原因といわれるたくさんの甲状腺ガンの子供たち悲鳴、首に残る手術跡を見ないでという叫びや、一生薬を飲み続けなければならない苦しみ。
自分たちが何をしたからこんなに苦しまなくてはならないのかという子供たちの嘆き。
自分はいつまで生きられるのかという将来への不安と死への恐怖。あるいは、なぜ母親が泣くのか理解できない子供が母親を慰めようとする言葉。
こんなことは2度繰り返して欲しくないという願い───。
それらが、子供たちの絵や邦訳された詩から、シンプルであるがゆえにダイレクトに伝わってきました。 -
子供たちを救え!───世界中からの支援
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チェルノヴィリ事件を扱った日本の著書
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事故後の周辺の痛ましい写真
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最後の展示室「悲しみには限度があるが、警戒するのに限度はない(There’s Limit to Sorrow, There’s No Limit to Alarm.)」という展示の一部
イコノスタシス仕様になっていますが、こんなおどろおどろしいイコノスタシスは、当たり前ですが見たことがありません。 -
イコノスタシスに防御服の人がよりかかっている様子が、まるでイコンのよう
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さきほどのイコノスタシスの後ろから見たところ
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これもおそらく、事故処理に使われた防御服
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最後の展示室の壁のおどろおどろしい絵と生命の悲鳴
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最後の展示室の壁のおどろおどろしい絵と生命の悲鳴
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失われ村の豊かだった文化の展示の一部
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人生をチェス版の上の駒に例えたディスプレイにある最後の展示室の様子
人の運命は操られているも同然で、何が起こる分からないところが、人生をチェスにたとえられる───と、オーディオガイドでは解説していました。 -
事故の影響で亡くなった子供たちの写真
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事故の影響で亡くなった子供たちの写真
これでもごく一部なのです。 -
テチャーナ・チェブロヴァの絵
ビーズみたいなのがたくさん貼り付けられた、一種のコラージュでした。
最後の展示室に展示されていました。
子供の絵かフォークアートのようで好みです。
でも、展示とチェルノヴィリとの関連はよく分かりません。
チェルノヴィリ原発事故で汚染されたエリアの生き物がテーマでしょうか。 -
同じくテチャーナ・チェブロヴァの絵
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同じく最後の展示室に展示されていた、ウクライナ人によるチェルノヴィリ原発をテーマにした絵
顔はイエスのように見えます。それとも、ウクライナ人なら見れば分かるくらい有名な、当時のソ連政府の政治家でしょうか。
カテゴリー1とは被爆レベルのことだと思います。 -
マイクをつきつけられたイエス
なんだかよく分からないけれど、とても痛烈な皮肉が込められた絵なのだろうと思います。 -
燃えるチェルノヴィリ
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よく分からないけれどステキな現代絵画・その1
これでもテーマはチェルノヴィリ? -
よく分からないけれどステキな現代絵画・その2
シュールレアリスムの絵みたいです。 -
よく分からないけれどステキな現代絵画・その3
オブジェが欠けたように見えるところに、意味があるのでしょうか。 -
よく分からないけれどステキな現代絵画・その4
これもどこかシュールレアリスティック。 -
よく分からないけれどステキな現代絵画・その5
一見、可愛らしくて素朴な絵に見えますが、チェルノヴィリ博物館の最後の部屋にわざわざ展示されているくらいだから、それだけではなく、何か意味があるのだろうと思います。 -
よく分からないけれどステキな現代絵画のポスター
現代絵画は、期間限定の企画展だったようです。 -
中央の揺りかごの人形は、翻弄される人間の意味か?
「地球の歩き方」によれば、被爆した子供たちが持ち寄ったおもちゃということになります。 -
寂れた村で、審判の大天使が天秤で人類の罪を測る!?
最後に、在ウクライナ日本大使館公式サイトのウクライナ情報ページの「ウクライナ概観(2009年6月更新)」─「III. 内政」より「チェルノヴィリ問題」の記述を引用します。
http://www.ua.emb-japan.go.jp/J/About.Ukr/gaikan/3politics.html
チェルノヴイリ問題を少しでも理解するために参照したサイトの1つです。
「チェルノブイリ問題
(1)爆発事故
1986年4月26日、ウクライナの首都キエフ市北方約110キロにあるチェルノブイリ原発において4号炉(1983年運転開始)が爆発、192トンの核燃料のうち4%が大気中に放出され、広島型原爆500発分の放射能(5千万キューリー)が広がった。この事故による放射能汚染は、広島・長崎に落とされた原爆による放射能汚染の200倍に及んだ。これにより、ウクライナでは肥沃な農地、森林を含む5万平方キロメートルの国土(全国土の8%)が放射能によって汚染され失われた。事故の原因としては、原子炉の設計上の問題と人的ミスの双方が挙げられている。
爆発後、60万名の「事故処理作業者」(ウクライナ、ロシア及びベラルーシの消防士、警察官及び専門家。うちウクライナより31万名)が同原発及び近隣地域において緊急救援活動に従事した。これらの「事故処理作業者」のうち、10%が死亡、16.5万人が身体障害者になったとするデータもある。
(2)住民の避難
事故後数日間で、9.2万名(同原発従業員の殆どが居住するプリピャチ市の全住民を含む)及び近隣市町村の住民数千名が安全地域へ避難した。更に数ヶ月間に亘り、5.2万世帯家族、総計16.5万名が強制移住の対象となった。チェルノブイリ原発従業員の殆どは原発に程近いプリピャチ市に居住していたため、彼らの新たな住居としてスラブチッチ市が建設された。なお、チェルノブイリ原発周辺30kmは20年以上が経過した現在も立ち入り禁止ゾーンとなっている。
(3)健康被害
ウクライナの公式発表では、事故後、住民の癌発生率が倍増する等、健康面で大きな影響が出た。ウクライナにおけるチェルノブイリ関連の疾病の被害者は259.4万名であり、うち61.7万名が子供である(2006年1月現在、ウクライナ非常事態省)。他方で、事故と病気との因果関係を明確にするのは難しく、どこまでがチェルノブイリ事故の直接の被害者であるかを判断するのは困難であるとされている。
なお、放射能汚染された食物が拡大することを防ぐため、汚染地域全域において、パン工場、精肉工場、バザールなどに多くのコントロール・ポイントが置かれ、モニタリングが行われている。
(4)石棺改善
現在4号炉を覆っている建造物(石棺)は事故直後に建設されたものであるが、年々老朽化が進み、放射能漏れの危険があるため、これをアーチ型の新しい石棺で覆うこととなった。新石棺の大きさは、幅257m、高さ108m、奥行き150mで、有効期間は100年である。本プロジェクトにかかる費用は当初7億5800万ドルと見積もられていたが、作業が進むにつれ増加してきている。国際社会の積極的な支援により、2007年9月、新石棺建設にかかる契約がチェルノブイリ原発と仏系企業体「Novarka」の間で締結された。完成予定は2012年とされている。
(5)チェルノブイリ原発の閉鎖
チェルノブイリ原発4号炉の事故後も、1〜3号炉の稼働は続けられていた。同原発型原子炉の危険性を懸念していたG7は、1995年、ウクライナとの間で「オタワ・メモランダム」を締結し、2000年までの同原発閉鎖と国際社会による対ウクライナ支援につき合意した。同メモランダムに基づき、1号炉は1996年、2号炉は1999年にそれぞれ閉鎖され、最後まで残っていた3号炉も2000年12月15日に閉鎖された。これをもってチェルノブイリ原発において稼働している原子炉はなくなった。」
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