2026/06/08 - 2026/06/08
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frau.himmelさん
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前編では、出島とオランダ東インド会社の歴史について調べているうちに、途中でギブアップ。私が出島に来た目的はヨーロッパの王侯貴族を魅了した伊万里焼(有田焼)と東インド会社に興味を持ったからでしたが、とてもそこまで辿りつけませんでした。
後編では、他の出来事と前後しますが、まずは東インド会社と日本の陶磁器の関係から始めます。
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鎖国時代、日本と世界を結ぶ唯一の窓だった長崎出島は、計り知れないものを日本に与えてくれました。文化や技術・学問・それに人も。これらは日本の近代化に大きく貢献してくれました。
もしあの頃、長崎出島がなかったら、鎖国時代のままだったら、何も情報や文化が入ってこない日本は、もしかしたら今頃はどこかの植民地になっていたかも知れない・・・。という私の考えは飛躍しすぎでしょうか。
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1639年にポルトガルが島原の乱で日本への入港が禁止され、オランダ商館が平戸から出島に移転するまでは、陶磁器関係はポルトガルもオランダもまだ中国の景徳鎮窯などがヨーロッパ輸出の中心だったのですね。
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しかし中国の明朝が滅亡するとオランダは景徳鎮磁器が手に入らなくなった。
そこで代替品として東インド会社が目をつけたのが伊万里焼(有田焼)でした。
(館内展示の様子) -
最初は小ぶりの藍色一色の磁器だったが、次第に大型の磁器も造られるようになっていった。そしてオランダから注文で器の中にVOC(オランダ東インド会社の略)のマークを入れたり、ヨーロッパ貴族などの家紋の頭文字を入れた磁器も作るようになった。
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ヨーロッパの食卓に使われる蓋つき鉢やヨーロッパらしいデザインの模様なども、有田焼の職人がヨーロッパの注文で作ったものです。
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当初は藍色一色の染付が中心でしたが、有田焼職人たちの技術の向上で、色絵磁器が造られるようになりました。特に柿右衛門様式や豪華な金襴手などはヨーロッパの王侯貴族に大人気で、膨大な数の伊万里焼きが海外に渡りました。
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ヨーロッパ輸出向けに制作された染錦手の見事な大壺。
右は、色絵牡丹の手付き調味料入れ。A(酢)・O(オイル)・L(レモン)・S(ソース)など文字入りなど輸出向けに有田で製作された。 -
その他にも、コーヒーカップ・ソーサーや何に使うかわからない食器も、求めに応じて有田焼で作られた。
左下は柿右衛門の「髭皿」だそう。凹みのところに首をあて受け皿として使用したもの。 -
伊万里焼(有田焼)はヨーロッパで人気を博し、王侯貴族・富裕層の室内装飾品として競うように求められた。何かで見た情報では、東インド会社の船がオランダに到着すると、待ち構えている人もいたほどだとか。
写真はベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。
プロイセン王国のフリードリヒ1世が妻ゾフィー・シャルロッテにプレゼントしたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿には膨大な数の有田焼や景徳鎮が飾られた豪華な磁器の間があります。 -
私は、2018年にシャルロッテンブルク宮殿を訪れています。
その時、上記の写真と同じ場所を撮っていました。
(2018年撮影) -
2018年撮影
細部まで詳しく。見事ですね。
その時の旅行記はこちら↓
https://4travel.jp/travelogue/11621596
2018 三度目のシニア三人旅 ☆シャルロッテンブルク宮殿でプロイセン王国の歴史勉強を -
私も勘違いしておりましたが、東インド会社を通して、日本の陶磁器だけがヨーロッパに運ばれたのでありませんでした。輸出があれば当然輸入もあるわけで、西洋陶器も日本にもたらされました。
鎖国時代の江戸時代のこと、それらは西洋を象徴する憧れの対象となりました。 -
東インド会社からヨーロッパに大量に送られた有田焼の伊万里や柿右衛門でしたが、18世紀になるとヨーロッパ諸国でも東洋の磁器に匹敵するものが製造されるようになりました。
イギリススタフォード社製、染付花卉文六角蓋付鉢。イチゴの図柄はやはりヨーロッパのものですね。下:同じく蓋付鉢 -
オランダマーストリヒトで製作されたおちょこと徳利。
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出島では、日本から輸出された伊万里や、外国から入ってきたヨーロッパの磁器などのかけらがいろいろ発掘されています。
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そういう資料が展示してある館内。
展示品を一つひとつじっくり見ているわけですから時間もかかります。 -
時代は前後しますが、オランダとの貿易の始まりは陶磁器が最初ではありません。初期のころは中国の景徳鎮が主流でしたから。
最初は日本は生糸やラシャ・ビロード・砂糖などを輸入し、日本からは銀・銅・樟脳などを輸出していました。
特に銅は日本の主要な輸出品でした。
「組頭部屋・銅蔵」には銅の展示がありますので入ってみます。 -
江戸時代、国内で生産された銅は、長崎から中国やオランダの貿易船によって世界へ向けて輸出されました。世界では日本の銅が求められ、様々な製品が造られました。
ここでは、出島の銅貿易についての展示があります。
手前より、炉跡(温めた石の上で棹銅を叩いて品質検査を行う)。
奥は銅の軽量に用いられた秤。 -
見難い絵ですが、当時の銅貿易について。
日本の役人とオランダの商館員立ち合いのもと、棹銅の検品をしてオランダ船まで運ばれる様子。
川原慶賀「蘭館絵巻」より -
このような棹銅で輸出された。
御用棹銅を納めた木箱。1箱に百斤入り。百斤は現在の60㎏。
住友吉次郎と言うのは現在の住友財閥のこと。
住友家の別子銅山から採掘された銅が輸出される様子。 -
日本から輸出された銅で鋳造された東インド会社のコイン。
これらのコインは同社の貿易ネットワークで広く流通した。 -
次は砂糖。
江戸時代、日本で唯一西洋と貿易が許された窓口である出島には、東インド会社バタヴィアなどから大量の砂糖が輸入された。それらは、日本の食文化に大きな影響を与えました。 -
倉庫
出島内の建物の多くは1階が倉庫になっていた。
部屋の隅に日本に運ばれた砂糖などが積まれている。
右は天秤ばかり。 -
オランダ船が運んできた輸入品の砂糖などを天秤ばかりで計量しているジオラマ。
長崎で陸揚げされた砂糖は、海路で大坂へ運ばれ、陸路では「長崎街道」を通って小倉へ運ばれた。 -
長崎から小倉へ続く長崎街道はシュガーロードと呼ばれ、街道沿いの宿場町ではカステラやぼーろ、金平糖など各地で砂糖文化が花開きました。
「シュガーロード」は2020年に日本遺産にも認定されました。 -
「拝礼筆者蘭人部屋(蘭学館)」
帳簿などの筆記を行うオランダ人の書記の長が住んでいた建物。ここでは出島から入ってきた蘭学を紹介しています。 -
江戸時代、鎖国下の日本において西洋に開かれた唯一の窓口だった出島。
この地を通じて日本にもたらされたものはモノ(交易品)だけではありません。オランダの商館医によってガク(蘭学)ももたらされました。 -
ドゥーフ・ハルマ辞書
通史(通訳)が商館長ヘンドリック・ドゥーフの指導のもと編纂された蘭和辞書(1804-18) -
杉田玄白「蘭学事始」
蘭学学者杉田玄白がまとめた蘭学に関する回想録。 -
杉田玄白「解体新書」
杉田玄白らが、刑場での腑分け(解剖)をきっかけに、オランダ語の解剖学書を翻訳し、1774年に出版した解剖学書。
蘭学に大きく貢献した。 -
シュペリー著「日本植物誌」
オランダ船の主任医官として来日したカール・パーター・ツュンベリーは、日本で多くの植物を採取しヨーロッパに持ち帰り、帰国後その研究経過をまとめ、1784年に出版した。 -
シーボルト著「日本」
出島和蘭商館医シーボルトが日本で収集した資料をもとに出版した。日本とその周辺地域に関する研究書。 -
江戸時代に日本の植物や文化を世界に伝えたドイツ人医師シーボルトが、愛する日本人妻・楠本滝(お滝)にちなんでアジサイに名付けた愛称「オタクサ」。
学名としては『Hydrangea otaksa』と命名されました。 -
館内には、オランダから入ってきた技術的な「モノ」もいろいろ展示されていて、興味を魅かれましたが、キリがないので割愛します。
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外に出ると通りには雨に濡れて生き生きとした「オタクサ」が並んでいます。
さて、次はどこへ行きましょう。 -
美しく整えられた庭園に出てきました。
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その中程に石造日時計があります。日光の陰により時間を計ることができる時計。
今日は雨なので、用を成していない。 -
その先には「ミニ出島」。15分の1の縮尺だそうです。
長崎のビルの真ん中にこういう小人の国があるのって面白いですね。 -
別の角度から撮ったもの。
まるで一面雪が降っているかのように見えますが、なんででしょうね。 -
"白いモニュメント「フレンドシップメモリー」。
日本とポルトガルの交流に尽力した6名の人物がモチーフになっているそうです。" -
ミニ出島のむこうには近代的な建物が見えます。
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「旧出島神学校」。
1878年(明治11年)に建てられた日本に現存する最古のプロテスタント神学校です。
明治期に建てられた出島で2つだけの洋館。 -
そしてもう一つの洋館は、この長崎内外倶楽部が入っている建物なのですが、建物の写真を撮っておりません。
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これも資料をコピーします。
左が「旧出島神学校」、右が「旧長崎内外倶楽部」。
出島には洋館はこの二つしかありません。
「旧長崎内外倶楽部」は1903年に長崎に在住する外国人と日本人の親交の場として建てられたものです。 -
1階はレストランになっています。
せっかくだから1903年に創業したという歴史あるレストランでお茶でもいただきましょう。 -
店内はそんな歴史を感じさせない普通のお店。
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でもさすがに調度品は凄い。
古い暖炉の上の飾りキャビネットの彫りの精巧なこと。
他にもいろいろありましたが、食事をしている客にカメラを向けるのは失礼なので、撮りませんでした。 -
席に着いたら、歴史を感じる青い足つきグラスで水が配られた。
これ、ギヤマン? -
夫はオランダのビール「ハイネケン」をおいしそうに飲み干します。
夜は妹夫婦と長崎名物卓袱料理をいただこうと思うのでアテは止めておきます。 -
私は長崎グルメ「ミルクセーキ」を。
ホントに久しぶりのミルクセーキ、「えっ、こんな味だった?」
長崎グルメのミルクセーキは食べるミルクセーキ、かき氷味でした。喉が渇いていたので美味しかった。 -
妹夫婦もホテルに着いたと連絡あったから、そろそろホテルに戻りましょう。
帰りは表門から出ます。入り口には出島乙名(日本側の役人)の紛争をした係員が。
写真を撮っていいですか?とお願いしたら快くポーズをとってくださいました。 -
お礼を言って表門橋を渡ります。
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橋の上から振り返ると、さっき入った建物や、木立の下は「ミニ出島」ですね
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それにしても表門橋はもの凄く立派です。
江戸時代の石橋とは似つかない最先端技術を取り入れた近代的な橋。 -
橋の説明
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もう一度出島表門と表門橋を。
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私たちが2泊するホテルベルビュー長崎出島。お隣の古い大きな瓦葺の建物は「文明堂本店」
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ホテルの前は「大波止」の路面電車の停留所。交通の便はとてもいいです。
既に到着していた妹夫婦と私たちの部屋でこれからのスケジュールを話し合い。
今夜はせっかく長崎に来たのだから奮発して卓袱料理をいただきたいと思っています。老舗卓袱料理屋さん「浜勝」も調べ済み。妹夫婦と時間を決めて早速予約の電話をする。
するとあいにく今日は団体のお客様で一杯とのこと。
「残念」。楽しみにしていたんだけどな~。 -
部屋は4階の角部屋のツイン。妹たちは3階の同じ間取りの部屋。
「浜勝」がダメならもう一件考えているところがあります。
電話をするとそこは予約ではなく先着順だとのこと。まだ空いているという。 -
相変わらず雨が降っているけど、ホテルからそんなに遠くはなさそうなので、歩いて向かいます。
角に史跡の案内が。
{南蛮船来航の波止場跡」
1571年、ここはポルトガル船が初めて長崎港に入港した地とのこと。当時岬になっていて波止場があったそうです。
天正10年(1582年)、天正少年使節団がローマに向けて出港したのもこの波止場だったそうです。
と言うような説明画あります。 -
途中こういう街並みも。
面白そうな商店街「江戸町商店街」。「幕末偉人通り」という名が付いています。 -
長崎の幕末偉人、何人わかりますか?
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10分ほど歩いて着いたところは「吉宗(よっそう)」。元祖茶碗蒸吉宗。
ちょっと前にテレビで見て気になっているお店でした。
中にはいると広い階段室があり、2階へ案内される。 -
窓に並ぶ「吉宗」の赤提灯。
妹が、あら雰囲気いいねと気に入った様子。よかった。
メニューは、茶碗蒸しだけかと思ったらなんと卓袱料理もあるじゃない。ただし「ミニ卓袱料理」しか出せないとのこと。それを4人分。 -
まず運ばれてきたのは、新鮮なお造り。
小鉢はさらしくじらだったかしら? -
そして一揃いが運ばれてきた。
吉宗名物茶わん蒸しに蒸寿司、エビの貝殻焼きの皿にはゴボウ巻きと何か揚げた物。
豚の角煮、デザートのメロン。
卓袱料理とは「和華蘭料理」。日本・中国・オランダ(西洋)の料理が融合した料理らしい。 -
〆はお汁粉です。
残念ながらワインがなかったので、私は冷酒で。夫はビール、下戸の二人はウーロンチャ。 -
帰りはアーケードを通り、表通りに出てタクシーでホテルに帰りました。
明日は一日長崎観光の日です。
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