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2026年7月4日(土)から7月11日(土)まで札幌に帰省しました。本来の目的は登山でしたが、滞在中は梅雨のような天候が続きスケジュールと会わず登山は断念、そこで札幌で訪れたことのない「北海道開拓の村」を訪れました。「北海道開拓の村」は明治から昭和初期にかけて建築された北海道各地の建造物を、54.2ヘクタールの敷地に移転復元・再現し1983年4月に開村した野外博物館です。

2026年7月 北海道開拓の村

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2026/07/09 - 2026/07/09

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めるくん

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2026年7月4日(土)から7月11日(土)まで札幌に帰省しました。本来の目的は登山でしたが、滞在中は梅雨のような天候が続きスケジュールと会わず登山は断念、そこで札幌で訪れたことのない「北海道開拓の村」を訪れました。「北海道開拓の村」は明治から昭和初期にかけて建築された北海道各地の建造物を、54.2ヘクタールの敷地に移転復元・再現し1983年4月に開村した野外博物館です。

旅行の満足度
5.0
  • JR「森林公園」駅から歩くこと25分で「北海道開拓の村」の村に到着しました。駅からバスもあるのですが時間が合わず歩きました。

    JR「森林公園」駅から歩くこと25分で「北海道開拓の村」の村に到着しました。駅からバスもあるのですが時間が合わず歩きました。

  • 旧札幌停車場(再現)です。この建造物は明治41年(1908年)に建てられ、昭和27年(1952年)まで使われた札幌停車場の正面外観と形状を4/5に縮小し、現在はチケット売場やお土産売場がある管理棟として再現されました。「北海道開拓の村」と「北海道博物館」合わせて入場料は1,400円です。<br />

    旧札幌停車場(再現)です。この建造物は明治41年(1908年)に建てられ、昭和27年(1952年)まで使われた札幌停車場の正面外観と形状を4/5に縮小し、現在はチケット売場やお土産売場がある管理棟として再現されました。「北海道開拓の村」と「北海道博物館」合わせて入場料は1,400円です。

  • 「北海道開拓の村」には約50棟ほどの建造物があります。市街地群、漁村群、農村群、山村軍と主に4つのエリアがあります。

    「北海道開拓の村」には約50棟ほどの建造物があります。市街地群、漁村群、農村群、山村軍と主に4つのエリアがあります。

  • 旧開拓使札幌本庁舎(再現)です。明治2年(1869年)、明治新政府は、草原と林におおわれた原野であった現在の札幌を、北海道の政治の中心とすることに決めました。明治6年(1873年)に開拓使札幌本庁舎が完成しました。しかし、明治12年(1879年)に火事で焼失しました。<br /><br />

    旧開拓使札幌本庁舎(再現)です。明治2年(1869年)、明治新政府は、草原と林におおわれた原野であった現在の札幌を、北海道の政治の中心とすることに決めました。明治6年(1873年)に開拓使札幌本庁舎が完成しました。しかし、明治12年(1879年)に火事で焼失しました。

  • 旧浦河支庁庁舎です。

    旧浦河支庁庁舎です。

  • この建物は、大正8年(1919年)に地元の浦河村および道庁の費用で建築され、昭和7年(1932年)日高支庁と改称しました。昭和31年(1956年)浦河町に払い下げられた後は、町会館や博物館に利用されていました。

    この建物は、大正8年(1919年)に地元の浦河村および道庁の費用で建築され、昭和7年(1932年)日高支庁と改称しました。昭和31年(1956年)浦河町に払い下げられた後は、町会館や博物館に利用されていました。

  • 旧浦河支庁庁舎の内観です。

    旧浦河支庁庁舎の内観です。

  • 旧浦河支庁庁舎の内観です。

    旧浦河支庁庁舎の内観です。

  • 旧浦河支庁庁舎の内観です。

    旧浦河支庁庁舎の内観です。

  • 旧浦河支庁庁舎の内観です。洋風で雰囲気の良い役場でした。

    旧浦河支庁庁舎の内観です。洋風で雰囲気の良い役場でした。

  • 旧手宮駅長官舎です。明治13年(1880年)、北海道で初めての鉄道として、幌内鉄道が敷設されました。その職員官舎として建てられたのがこの建物です。<br />

    旧手宮駅長官舎です。明治13年(1880年)、北海道で初めての鉄道として、幌内鉄道が敷設されました。その職員官舎として建てられたのがこの建物です。

  • 旧手宮駅長官舎の内観です。

    旧手宮駅長官舎の内観です。

  • 旧開拓使爾志通洋造家です。この建物は開拓使の官舎として建てられましたが、完成後、順次払い下げられました。アメリカ中西部の建築様式を模範とし、外観は洋風ですが、内部は畳敷きなどの和風で、和洋折衷の建物です。

    旧開拓使爾志通洋造家です。この建物は開拓使の官舎として建てられましたが、完成後、順次払い下げられました。アメリカ中西部の建築様式を模範とし、外観は洋風ですが、内部は畳敷きなどの和風で、和洋折衷の建物です。

  • 旧福士家住宅です。幕末から明治期にかけて、造船・通訳・気象観測・測量など広い分野で活躍し、北海道開拓に貢献した福士成豊【天保9年(1838年)~大正11年(1922年)】が、明治半ばから大正11年(1922年)まで居住した建物です。明治前期の洋風建築と明治後期の和風住宅を接続した特異な建物です。

    旧福士家住宅です。幕末から明治期にかけて、造船・通訳・気象観測・測量など広い分野で活躍し、北海道開拓に貢献した福士成豊【天保9年(1838年)~大正11年(1922年)】が、明治半ばから大正11年(1922年)まで居住した建物です。明治前期の洋風建築と明治後期の和風住宅を接続した特異な建物です。

  • 旧福士家住宅内部の内観です。

    旧福士家住宅内部の内観です。

  • 旧松橋家住宅(再現)です。明治・大正・昭和にわたる都市生活者の住宅で、大正7年(1918年)以来、松橋家が居住していました。松橋家は、明治初期に秋田県から札幌に移住し、農業および土地会社経営に従事しました。

    旧松橋家住宅(再現)です。明治・大正・昭和にわたる都市生活者の住宅で、大正7年(1918年)以来、松橋家が居住していました。松橋家は、明治初期に秋田県から札幌に移住し、農業および土地会社経営に従事しました。

  • 旧松橋家住宅(再現)の内観です。

    旧松橋家住宅(再現)の内観です。

  • 旧有島家住宅です。日本近代文学史上の代表的作家の1人である有島武郎【明治11年(1878年)~大正12年(1923年)】が明治43年(1910年)5月から翌年7月頃まで住んだ建物です。<br /> 

    旧有島家住宅です。日本近代文学史上の代表的作家の1人である有島武郎【明治11年(1878年)~大正12年(1923年)】が明治43年(1910年)5月から翌年7月頃まで住んだ建物です。
     

  • 旧有島家住宅の内観です。

    旧有島家住宅の内観です。

  • 旧北海中学校(再現)です。この校舎は、明治41年(1908年)から翌年にわたって建築された本館部分です。創立は明治38年(1905年)で、前身は札幌農学校第三期生らが中心となり明治18年(1885年)に設立した私立北海英語学校です。<br /><br /><br />

    旧北海中学校(再現)です。この校舎は、明治41年(1908年)から翌年にわたって建築された本館部分です。創立は明治38年(1905年)で、前身は札幌農学校第三期生らが中心となり明治18年(1885年)に設立した私立北海英語学校です。


  • 旧北海中学校(再現)の内観です。

    旧北海中学校(再現)の内観です。

  • 校長室でしょうか。

    校長室でしょうか。

  • 黒板のある教室です。

    黒板のある教室です。

  • 学校内の廊下です。

    学校内の廊下です。

  • 旧青山家漁家住宅です。青山家は安政6年(1859年)に山形県から渡道し、小樽沿岸を中心に鰊建網などを経営した漁家です。建網経営には、番屋をはじめ網倉、船倉のほか海産干場、船入澗など多くの施設、設備を必要としました。鰊漁場の建物が、このように集約的に保存されているところは少なく、貴重な文化遺産の一つです。

    旧青山家漁家住宅です。青山家は安政6年(1859年)に山形県から渡道し、小樽沿岸を中心に鰊建網などを経営した漁家です。建網経営には、番屋をはじめ網倉、船倉のほか海産干場、船入澗など多くの施設、設備を必要としました。鰊漁場の建物が、このように集約的に保存されているところは少なく、貴重な文化遺産の一つです。

  • 旧青山家漁家住宅の内観です。

    旧青山家漁家住宅の内観です。

  • 漁家住宅らしい光景です。

    漁家住宅らしい光景です。

  • 廊下(再現)です。廊下は陸揚げした鰊を一時収蔵するための施設です。漁期後は、船・櫓・櫂などの大型の漁労具や加工用具を収納する倉として利用されました。<br />

    廊下(再現)です。廊下は陸揚げした鰊を一時収蔵するための施設です。漁期後は、船・櫓・櫂などの大型の漁労具や加工用具を収納する倉として利用されました。

  • 旧秋山家漁家住宅です。秋田県男鹿半島から明治末期に移住した秋山嘉七が、焼尻島周辺での鰊漁が盛んであった時期に建造した漁家住宅です。同家では3代にわたり、鰊刺網漁のほか磯回り漁などを続けながら、昭和53年(1978年)まで住んでいました。<br />

    旧秋山家漁家住宅です。秋田県男鹿半島から明治末期に移住した秋山嘉七が、焼尻島周辺での鰊漁が盛んであった時期に建造した漁家住宅です。同家では3代にわたり、鰊刺網漁のほか磯回り漁などを続けながら、昭和53年(1978年)まで住んでいました。

  • 旧秋山家漁家住宅の内観です。

    旧秋山家漁家住宅の内観です。

  • 旧土谷家はねだしです。はねだしは、鰊漁家の付属施設として、海岸の地形に合わせて海側へ跳ね出す形で建てられた倉です。正面を経なくても床の開口部を通して、直接荷物の出し入れを行うことができます。この倉は漁具、漁獲物、魚粕・身欠鰊・数の子などの加工品を収納するために使用されました。

    旧土谷家はねだしです。はねだしは、鰊漁家の付属施設として、海岸の地形に合わせて海側へ跳ね出す形で建てられた倉です。正面を経なくても床の開口部を通して、直接荷物の出し入れを行うことができます。この倉は漁具、漁獲物、魚粕・身欠鰊・数の子などの加工品を収納するために使用されました。

  • 旧若狭家たたみ倉です。たたみ倉は主に道南の上ノ国町周辺においてみられます。倉は長方形の角材を積み重ねて外壁を作り、屋根をかける校倉造で、北海道の建物としては特殊な構造をもっています。近在の漁家や農家が、家具や調度品、漁具、農具などを収納するのに用いました。

    旧若狭家たたみ倉です。たたみ倉は主に道南の上ノ国町周辺においてみられます。倉は長方形の角材を積み重ねて外壁を作り、屋根をかける校倉造で、北海道の建物としては特殊な構造をもっています。近在の漁家や農家が、家具や調度品、漁具、農具などを収納するのに用いました。

  • 旧田村家北誠館蚕種製造所です。絹(糸)の原料となる蚕の卵(蚕種)をとる建物です。浦臼村の養蚕伝習所教師だった田村忠誠が、当時模範とされた東京蚕業試験場の蚕室を参考に、明治34年(1901年)から同38年にかけて建築したものです。<br />

    旧田村家北誠館蚕種製造所です。絹(糸)の原料となる蚕の卵(蚕種)をとる建物です。浦臼村の養蚕伝習所教師だった田村忠誠が、当時模範とされた東京蚕業試験場の蚕室を参考に、明治34年(1901年)から同38年にかけて建築したものです。

  • 旧田村家北誠館蚕種製造所の内観です。人形が初めて出てきたので少しビックリしました。

    旧田村家北誠館蚕種製造所の内観です。人形が初めて出てきたので少しビックリしました。

  • 旧田村家北誠館蚕種製造所の内観です。

    旧田村家北誠館蚕種製造所の内観です。

  • 旧田村家北誠館蚕種製造所の内観です。

    旧田村家北誠館蚕種製造所の内観です。

  • 旧岩間家農家住宅です。岩間家は、旧仙台藩亘理領(宮城県亘理町)の士族移民団の一員として、明治4年(1871年)に入植した畑作農家です。この建物は、明治15年(1882年)に郷里の大工によって建築され、間取りなどに郷里の建築様式が受けつがれています。

    旧岩間家農家住宅です。岩間家は、旧仙台藩亘理領(宮城県亘理町)の士族移民団の一員として、明治4年(1871年)に入植した畑作農家です。この建物は、明治15年(1882年)に郷里の大工によって建築され、間取りなどに郷里の建築様式が受けつがれています。

  • 旧岩間家農家住宅の内観です。

    旧岩間家農家住宅の内観です。

  • 旧河西家米倉(再現)です。札幌の厚別地区の米作は、明治16年(1883年)長野県からの移住者によって始められました。水田は付近の低湿地に造られ、明治20年代になり本格的に耕作されるようになりました。<br />

    旧河西家米倉(再現)です。札幌の厚別地区の米作は、明治16年(1883年)長野県からの移住者によって始められました。水田は付近の低湿地に造られ、明治20年代になり本格的に耕作されるようになりました。

  • 旧樋口家農家住宅(再現)です。樋口家は富山県から移住した水田農家で、明治26年(1893年)に入植し、5年目にこの家を建てました。富山出身の棟梁に建築を依頼したこの住宅には、郷里の建築様式であるワクノウチ造がみられます。

    旧樋口家農家住宅(再現)です。樋口家は富山県から移住した水田農家で、明治26年(1893年)に入植し、5年目にこの家を建てました。富山出身の棟梁に建築を依頼したこの住宅には、郷里の建築様式であるワクノウチ造がみられます。

  • 旧樋口家農家住宅(再現)の内観です。

    旧樋口家農家住宅(再現)の内観です。

  • 旧小川家酪農畜舎(再現)です。この畜舎は、大正末期に札幌農学校出身の小川三策がアメリカから取り寄せた設計図を参考に建築したもので、19世紀のアメリカで発達したバルーンフレーム構造が特徴です。

    旧小川家酪農畜舎(再現)です。この畜舎は、大正末期に札幌農学校出身の小川三策がアメリカから取り寄せた設計図を参考に建築したもので、19世紀のアメリカで発達したバルーンフレーム構造が特徴です。

  • 旧小川家酪農畜舎(再現)の内観です。

    旧小川家酪農畜舎(再現)の内観です。

  • 旧菊田家農家住宅です。明治19年(1886年)、新潟県長岡の有力者であった大橋一蔵や関矢孫左衛門などは、越後農民による北海道開拓を計画して北越殖民社を組織しました。この建物は、その一員の新潟県魚沼郡出身者が移住直後の明治26年(1893年)頃に建築し、のちに同じく南蒲原郡出身の初代菊田常吉が買い受けて居住したものです。

    旧菊田家農家住宅です。明治19年(1886年)、新潟県長岡の有力者であった大橋一蔵や関矢孫左衛門などは、越後農民による北海道開拓を計画して北越殖民社を組織しました。この建物は、その一員の新潟県魚沼郡出身者が移住直後の明治26年(1893年)頃に建築し、のちに同じく南蒲原郡出身の初代菊田常吉が買い受けて居住したものです。

  • 旧菊田家農家住宅の内部の内観です。

    旧菊田家農家住宅の内部の内観です。

  • 開拓小屋(再現)です。開拓小屋は開墾小屋とも称し、移住者が最初に建てた住居です。丸太を埋め立てて柱とし、桁や梁、垂木をわたし、笹や茅などで屋根や壁を葺き、出入口と窓にはムシロを下げました。屋内は一部が土間で、他は笹や枯草を重ねた上にむしろを敷いて居間とし、炉を設けました。

    開拓小屋(再現)です。開拓小屋は開墾小屋とも称し、移住者が最初に建てた住居です。丸太を埋め立てて柱とし、桁や梁、垂木をわたし、笹や茅などで屋根や壁を葺き、出入口と窓にはムシロを下げました。屋内は一部が土間で、他は笹や枯草を重ねた上にむしろを敷いて居間とし、炉を設けました。

  • 開拓小屋(再現)の内部の内観です。

    開拓小屋(再現)の内部の内観です。

  • 旧山田家養蚕板倉です。開拓使は、屯田兵の授産事業として養蚕を奨励し、琴似兵村ではその成果がみのって、屯田兵のなかに独自の養蚕施設を持つ人も現われました。<br />この板倉は、屯田兵として入植した山田家が建てたもので、草創期のくらしぶりを伝える数少ない建物の一つです。

    旧山田家養蚕板倉です。開拓使は、屯田兵の授産事業として養蚕を奨励し、琴似兵村ではその成果がみのって、屯田兵のなかに独自の養蚕施設を持つ人も現われました。
    この板倉は、屯田兵として入植した山田家が建てたもので、草創期のくらしぶりを伝える数少ない建物の一つです。

  • 旧納内屯田兵屋です。納内に屯田兵が入地したのは、明治28・29年(1895年・1896年)です。明治8年(1875年)に始まった屯田兵は、家族とともに兵村で暮らし、北辺の警備と農業開拓に従事しました。当初は士族を募集しましたが、明治23年(1890年)からは主力を平民に移し、空知・上川・北見地方など北方内陸部に屯田兵村が作られていきました。

    旧納内屯田兵屋です。納内に屯田兵が入地したのは、明治28・29年(1895年・1896年)です。明治8年(1875年)に始まった屯田兵は、家族とともに兵村で暮らし、北辺の警備と農業開拓に従事しました。当初は士族を募集しましたが、明治23年(1890年)からは主力を平民に移し、空知・上川・北見地方など北方内陸部に屯田兵村が作られていきました。

  • 旧納内屯田兵屋の内部の内観です。

    旧納内屯田兵屋の内部の内観です。

  • 旧ソーケシュオマベツ駅逓所です。喜茂別村と徳舜瞥村(現在の伊達市大滝)の中間地点で、明治42年(1909年)から昭和9年(1934年)まで営業していた官設駅逓所です。

    旧ソーケシュオマベツ駅逓所です。喜茂別村と徳舜瞥村(現在の伊達市大滝)の中間地点で、明治42年(1909年)から昭和9年(1934年)まで営業していた官設駅逓所です。

  • 旧ソーケシュオマベツ駅逓所内部の内観です。

    旧ソーケシュオマベツ駅逓所内部の内観です。

  • 旧山本消防組番屋(再現)です。この建物は、札幌の山本地区にあった消防用具の格納庫です。消防組織は大正8年(1919年)頃からの地区の自警団を前身とし、のちに山本消防組となりました。昭和45年(1970年)まで、消防活動を続けた建物です。<br />

    旧山本消防組番屋(再現)です。この建物は、札幌の山本地区にあった消防用具の格納庫です。消防組織は大正8年(1919年)頃からの地区の自警団を前身とし、のちに山本消防組となりました。昭和45年(1970年)まで、消防活動を続けた建物です。

  • 旧札幌拓殖倉庫です。札幌軟石を使用したこの倉庫は、五十嵐倉庫合名会社より明治45年(1912年)創立の札幌拓殖倉庫株式会社に引き継がれました。この建物は札幌駅北側に隣接し、線路に直角に位置していた6棟の内の一番西側の棟です。

    旧札幌拓殖倉庫です。札幌軟石を使用したこの倉庫は、五十嵐倉庫合名会社より明治45年(1912年)創立の札幌拓殖倉庫株式会社に引き継がれました。この建物は札幌駅北側に隣接し、線路に直角に位置していた6棟の内の一番西側の棟です。

  • 旧札幌拓殖倉庫内部の内観です。

    旧札幌拓殖倉庫内部の内観です。

  • 旧札幌拓殖倉庫内部の内観です。

    旧札幌拓殖倉庫内部の内観です。

  • 旧広瀬写真館(再現)です。この建物は、大正末期から昭和33年(1958年)まで岩見沢市街で営業した写真館です。外観は、洋風ですが、内部の多くは和風で、和洋折衷の建物です。撮影には自然光を用いたため、写場は2階に設け、北側の屋根をシングル・スラントと呼ばれた斜めのガラス張りとなっています。

    旧広瀬写真館(再現)です。この建物は、大正末期から昭和33年(1958年)まで岩見沢市街で営業した写真館です。外観は、洋風ですが、内部の多くは和風で、和洋折衷の建物です。撮影には自然光を用いたため、写場は2階に設け、北側の屋根をシングル・スラントと呼ばれた斜めのガラス張りとなっています。

  • 旧広瀬写真館(再現)の内観です。

    旧広瀬写真館(再現)の内観です。

  • 旧本庄鉄工場です。明治30年代から2代にわたって営業した本庄鉄工場の仕事場として、大正14年(1925年)から昭和50年代まで使用されていました。石狩川河口にひらけた旧市街にあって、漁具や漁船の付属品のほか、農具などをつくっていました。開拓地に欠かせなかった鍛冶屋のようすがしのばれる建物です。

    旧本庄鉄工場です。明治30年代から2代にわたって営業した本庄鉄工場の仕事場として、大正14年(1925年)から昭和50年代まで使用されていました。石狩川河口にひらけた旧市街にあって、漁具や漁船の付属品のほか、農具などをつくっていました。開拓地に欠かせなかった鍛冶屋のようすがしのばれる建物です。

  • 旧本庄鉄工場の内部の内観です。

    旧本庄鉄工場の内部の内観です。

  • 旧本庄鉄工場の内観です。

    旧本庄鉄工場の内観です。

  • 旧藤原車橇製作所(再現)です。明治31年(1898年)、兵庫県出身の宮大工藤原信吉が深川に入植し、同36年(1903年)には妹背牛で車橇製造を開業しました。以後、3代にわたり営業を続けました。

    旧藤原車橇製作所(再現)です。明治31年(1898年)、兵庫県出身の宮大工藤原信吉が深川に入植し、同36年(1903年)には妹背牛で車橇製造を開業しました。以後、3代にわたり営業を続けました。

  • 旧藤原車橇製作所(再現)の内観です。

    旧藤原車橇製作所(再現)の内観です。

  • 旧太田装蹄所(再現)です。大正13年(1924年)から昭和20年(1945年)まで、札幌市街の江別方面に通じる幹線道路(現在の国道12号線)沿いで営業していた装蹄所です。蹄鉄屋の名で親しまれていた装蹄所は、馬が物資運搬や農耕の主役であった時代にはどこの町や村でもみられ、馬蹄の保護には欠かせない職種でした。

    旧太田装蹄所(再現)です。大正13年(1924年)から昭和20年(1945年)まで、札幌市街の江別方面に通じる幹線道路(現在の国道12号線)沿いで営業していた装蹄所です。蹄鉄屋の名で親しまれていた装蹄所は、馬が物資運搬や農耕の主役であった時代にはどこの町や村でもみられ、馬蹄の保護には欠かせない職種でした。

  • 旧太田装蹄所(再現)の内観です。

    旧太田装蹄所(再現)の内観です。

  • 旧大石三省堂支店(再現)です。札幌の菓子舗で修行した大石泰三が、大正14年(1925年)帯広町の繁華街電信通りに店舗を求め、菓子の製造販売を始めた建物です。店は親子二代にわたり、昭和30年(1955年)まで営業を続けました。<br />

    旧大石三省堂支店(再現)です。札幌の菓子舗で修行した大石泰三が、大正14年(1925年)帯広町の繁華街電信通りに店舗を求め、菓子の製造販売を始めた建物です。店は親子二代にわたり、昭和30年(1955年)まで営業を続けました。

  • 旧大石三省堂支店(再現)の内観です。

    旧大石三省堂支店(再現)の内観です。

  • 旧渡辺商店です。中頓別は、明治30年代に砂金掘りでにぎわい、大正5年(1916年)の鉄道開通後は交通の要所として発達しました。この建物は、中頓別市街に建てられた雑貨店です。漆喰仕上げの土蔵造は、石造やレンガ造とともに耐火・耐寒を目的とした構造です。

    旧渡辺商店です。中頓別は、明治30年代に砂金掘りでにぎわい、大正5年(1916年)の鉄道開通後は交通の要所として発達しました。この建物は、中頓別市街に建てられた雑貨店です。漆喰仕上げの土蔵造は、石造やレンガ造とともに耐火・耐寒を目的とした構造です。

  • 旧山本理髪店です。この建物は所有者が代わっても、一貫して理髪店として使用されてきました。傾斜の急な切妻屋根、玄関の雨よけアーチなど、大正期の洋風建築の特徴を残したスマートな外観は、理髪業とよくなじみ、北海道神宮裏参道沿いの「床屋さん」として親しまれてきました。

    旧山本理髪店です。この建物は所有者が代わっても、一貫して理髪店として使用されてきました。傾斜の急な切妻屋根、玄関の雨よけアーチなど、大正期の洋風建築の特徴を残したスマートな外観は、理髪業とよくなじみ、北海道神宮裏参道沿いの「床屋さん」として親しまれてきました。

  • 旧山本理髪店内部の内観です。

    旧山本理髪店内部の内観です。

  • 旧武岡商店です。武岡家は、旧徳島藩の家老稲田邦植に従い明治4年(1871年)に淡路島から静内郡に移住した士族移民団の一員で、明治15年(1882年)から米穀、雑貨、荒物などを扱ってきた商家です。<br />

    旧武岡商店です。武岡家は、旧徳島藩の家老稲田邦植に従い明治4年(1871年)に淡路島から静内郡に移住した士族移民団の一員で、明治15年(1882年)から米穀、雑貨、荒物などを扱ってきた商家です。

  • 旧武岡商店内部の内観です。

    旧武岡商店内部の内観です。

  • 旧島歌郵便局です。北海道で近代郵便の取扱が始まるのは明治5年(1872年)で、島歌には明治19年(1886年)に郵便局が設置されました。明治26年(1893年)には畑野清治が2代目局長として就任し業務を取り扱いました。以後この局は畑野家により引継がれてきました。この建物は業務用だけで、局長や職員の住居は別棟でした。

    旧島歌郵便局です。北海道で近代郵便の取扱が始まるのは明治5年(1872年)で、島歌には明治19年(1886年)に郵便局が設置されました。明治26年(1893年)には畑野清治が2代目局長として就任し業務を取り扱いました。以後この局は畑野家により引継がれてきました。この建物は業務用だけで、局長や職員の住居は別棟でした。

  • 旧札幌警察署南一条巡査派出所です。明治18年(1885年)、札幌創成橋の脇に最初に立てられた交番は木造で、札幌創成橋交番所と呼ばれていました。同じ木造で一度改築されましたが、明治44年(1911年)の皇太子の行啓に向けて個人の篤志寄付で建てかえられたのがこの建物です。壁のレンガは、小口面と長手面を交互に表わして積むイギリス積みを用いています。

    旧札幌警察署南一条巡査派出所です。明治18年(1885年)、札幌創成橋の脇に最初に立てられた交番は木造で、札幌創成橋交番所と呼ばれていました。同じ木造で一度改築されましたが、明治44年(1911年)の皇太子の行啓に向けて個人の篤志寄付で建てかえられたのがこの建物です。壁のレンガは、小口面と長手面を交互に表わして積むイギリス積みを用いています。

  • 旧札幌警察署南一条巡査派出所の内観です。

    旧札幌警察署南一条巡査派出所の内観です。

  • 旧開拓使工業局庁舎です。明治6年(1873年)に設置された開拓使工業局は、道路・橋梁・官庁・学校等の建設をはじめ、家材・機械・農具・車両などの製造事業を行ない、本道開拓の発展に大きな業績を残しました。この建物は明治初期の洋風事務所建築の特徴を示し、開拓使関係庁舎として唯一のものです。平成25年(2013年)8月7日に国の重要文化財の指定をうけました。

    旧開拓使工業局庁舎です。明治6年(1873年)に設置された開拓使工業局は、道路・橋梁・官庁・学校等の建設をはじめ、家材・機械・農具・車両などの製造事業を行ない、本道開拓の発展に大きな業績を残しました。この建物は明治初期の洋風事務所建築の特徴を示し、開拓使関係庁舎として唯一のものです。平成25年(2013年)8月7日に国の重要文化財の指定をうけました。

  • 旧開拓使工業局庁舎のエントランスです。

    旧開拓使工業局庁舎のエントランスです。

  • 旧近藤医院です。この建物は、明治33年(1900年)に函館病院から古平病院に招かれ、同35年に古平町で開業した近藤清吉が建てた病院で、昭和33年(1958年)まで使われました。木造2階建の医院棟には1階に診察室、手術室、茶の間などがあり、2階に居室があります。石造2階建の倉は、明治後期建築の文庫倉です。<br /><br />

    旧近藤医院です。この建物は、明治33年(1900年)に函館病院から古平病院に招かれ、同35年に古平町で開業した近藤清吉が建てた病院で、昭和33年(1958年)まで使われました。木造2階建の医院棟には1階に診察室、手術室、茶の間などがあり、2階に居室があります。石造2階建の倉は、明治後期建築の文庫倉です。

  • 旧近藤医院の内観です。

    旧近藤医院の内観です。

  • 旧近藤医院の手術室です。

    旧近藤医院の手術室です。

  • 旧武井商店酒造部です。この建物は、茅沼で石炭荷役、回船業を営んでいた武井家が、明治19年(1886年)頃に建てたものです。酒造業は9年後の明治28年(1895年)頃から始められ、永く親しまれた清酒「松の露」や「玉の川」の製造は、戦時下の統制で酒造中止命令が出された昭和19年(1944年)まで続けられました。

    旧武井商店酒造部です。この建物は、茅沼で石炭荷役、回船業を営んでいた武井家が、明治19年(1886年)頃に建てたものです。酒造業は9年後の明治28年(1895年)頃から始められ、永く親しまれた清酒「松の露」や「玉の川」の製造は、戦時下の統制で酒造中止命令が出された昭和19年(1944年)まで続けられました。

  • 旧武井商店酒造部の内観です。

    旧武井商店酒造部の内観です。

  • 旧武井商店酒造部の内観です。

    旧武井商店酒造部の内観です。

  • 旧河本そば屋です。この建物は、明治18年(1885年)頃に石川県から小樽へ移住した河本徳松(当時18歳)が、そば屋の修行を積みのれんを継いで新築した店です。小樽市街のなかでも最も栄えた地域にあったこのそば屋は、食事や宴会の場として多くの人びとに利用されていました。

    旧河本そば屋です。この建物は、明治18年(1885年)頃に石川県から小樽へ移住した河本徳松(当時18歳)が、そば屋の修行を積みのれんを継いで新築した店です。小樽市街のなかでも最も栄えた地域にあったこのそば屋は、食事や宴会の場として多くの人びとに利用されていました。

  • 旧河本そば屋内部の内観です。

    旧河本そば屋内部の内観です。

  • 旧小樽新聞社です。小樽新聞は明治27年(1894年)に創刊され、函館毎日新聞、北海タイムスとともに道内の代表的新聞の一つでした。この建物は、木造の骨組に札幌近郊で産出する札幌軟石(溶結凝灰岩)を外壁に積みあげた構造で、明治期石造建築の特徴を示しています。

    旧小樽新聞社です。小樽新聞は明治27年(1894年)に創刊され、函館毎日新聞、北海タイムスとともに道内の代表的新聞の一つでした。この建物は、木造の骨組に札幌近郊で産出する札幌軟石(溶結凝灰岩)を外壁に積みあげた構造で、明治期石造建築の特徴を示しています。

  • 旧小樽新聞社内部の内観です。

    旧小樽新聞社内部の内観です。

  • 馬車が通過してました。

    馬車が通過してました。

  • 旧来正旅館です。東永山兵村に屯田兵として入植した来正策馬は、明治31年(1898年)に退役後、開通直後の宗谷本線の永山駅前に移り、待合所を開業しました。大正7年(1918年)に大水の被害を受けたため、翌年に旅館兼待合所を新築し営業を再開しました。

    旧来正旅館です。東永山兵村に屯田兵として入植した来正策馬は、明治31年(1898年)に退役後、開通直後の宗谷本線の永山駅前に移り、待合所を開業しました。大正7年(1918年)に大水の被害を受けたため、翌年に旅館兼待合所を新築し営業を再開しました。

  • 旧来正旅館の内観です。

    旧来正旅館の内観です。

  • 旧近藤染舗です。近藤染舗は、明治31年(1898年)に創業された旭川で最も古い染物店です。この建物は、店の繁盛にともない大正2年(1913年)に地元の建築業者によって新築された店舗兼住宅です。外観や内部の間取りは、当時の店舗建築の様子をよくあらわしています。

    旧近藤染舗です。近藤染舗は、明治31年(1898年)に創業された旭川で最も古い染物店です。この建物は、店の繁盛にともない大正2年(1913年)に地元の建築業者によって新築された店舗兼住宅です。外観や内部の間取りは、当時の店舗建築の様子をよくあらわしています。

  • 旧近藤染舗の内観です。

    旧近藤染舗の内観です。

  • 山村群の建物を見忘れてしまいましたが、充分楽しむことができました。小雨の中2時間30分程で素晴らしい建物を見ることができました。「北海道開拓の村」見学後、次の目的地である「北海道博物館」に向かいました。

    山村群の建物を見忘れてしまいましたが、充分楽しむことができました。小雨の中2時間30分程で素晴らしい建物を見ることができました。「北海道開拓の村」見学後、次の目的地である「北海道博物館」に向かいました。

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