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「その6」で「明治初頭完成の田柄用水」を訪ね、当時の田柄川に合流していた地点まで行きました。<br /><br />今回「その7」は、田柄用水合流点から石神井川に合流する桜川橋まで行き、戻って当時の田柄川の最上流まで遡り、表紙写真の「練馬区立秋の陽公園」まで訪ねる、さらに地味な旅です。<br />桜川橋から始まる田柄川は、全部が暗渠化されて、地上部分は概ね「田柄川緑道」として整備され、地元民に潤いを与える空間になっていました。<br /><br />表紙の写真は、光が丘二丁目の秋の陽公園内に出現した水田。<br />練馬区で小学生時代から暮らしておりますが、昭和40年代くらいまでは、石神井川や白子川沿いの低地で水田を見かけたが、現在はほとんど見かけない。<br />ここ田柄川沿いにも明治・大正期には僅かに水田があり、明治期の田柄用水開削によって一時は増えたが、関東大震災以降の東京市街地の急速なスプロール化によって石神井川や白子川沿いよりも先に絶滅した。<br /><br />自然河川の田柄川は、現在の光が丘地区や土支田地区の雨水や湧水が水源で、いくつもの小川に分かれて流れて、合流していたらしい。<br />戦時中の陸軍成増飛行場や、その跡地のグラントハイツ、さらにその再開発の光が丘パークタウンの造成によって、田柄川は光が丘地区の排水路のような6m幅の河川に整備され、さらに1980年代に暗渠化されたようだ。<br />

練馬区の郷土史などを訪ねて その7  田柄川と田柄川緑道

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2026/07/04 - 2026/07/04

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ワンダラー

ワンダラーさん

「その6」で「明治初頭完成の田柄用水」を訪ね、当時の田柄川に合流していた地点まで行きました。

今回「その7」は、田柄用水合流点から石神井川に合流する桜川橋まで行き、戻って当時の田柄川の最上流まで遡り、表紙写真の「練馬区立秋の陽公園」まで訪ねる、さらに地味な旅です。
桜川橋から始まる田柄川は、全部が暗渠化されて、地上部分は概ね「田柄川緑道」として整備され、地元民に潤いを与える空間になっていました。

表紙の写真は、光が丘二丁目の秋の陽公園内に出現した水田。
練馬区で小学生時代から暮らしておりますが、昭和40年代くらいまでは、石神井川や白子川沿いの低地で水田を見かけたが、現在はほとんど見かけない。
ここ田柄川沿いにも明治・大正期には僅かに水田があり、明治期の田柄用水開削によって一時は増えたが、関東大震災以降の東京市街地の急速なスプロール化によって石神井川や白子川沿いよりも先に絶滅した。

自然河川の田柄川は、現在の光が丘地区や土支田地区の雨水や湧水が水源で、いくつもの小川に分かれて流れて、合流していたらしい。
戦時中の陸軍成増飛行場や、その跡地のグラントハイツ、さらにその再開発の光が丘パークタウンの造成によって、田柄川は光が丘地区の排水路のような6m幅の河川に整備され、さらに1980年代に暗渠化されたようだ。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
一人旅
交通手段
自転車 徒歩
  • ここは練馬区の北町一丁目。<br />奥に見えるのが、現 川越街道。川越街道の旧街道は数百メートル背後を走る。<br /><br />ここが現在の田柄川緑道「田柄川下宿橋」跡で、田柄川に田柄用水が合流していたとされる地点。<br />「田柄川」は、1965(昭和40)年に 一級水系荒川水系および、同水系の一級河川に指定されたという格式がある川。一級河川は、当時は建設省の直轄だった記憶。<br /><br />まずこの田柄川緑道を、下の石神井川桜川橋に合流する地点まで下ることにする。<br /><br />

    ここは練馬区の北町一丁目。
    奥に見えるのが、現 川越街道。川越街道の旧街道は数百メートル背後を走る。

    ここが現在の田柄川緑道「田柄川下宿橋」跡で、田柄川に田柄用水が合流していたとされる地点。
    「田柄川」は、1965(昭和40)年に 一級水系荒川水系および、同水系の一級河川に指定されたという格式がある川。一級河川は、当時は建設省の直轄だった記憶。

    まずこの田柄川緑道を、下の石神井川桜川橋に合流する地点まで下ることにする。

  • 現在の川越街道を渡った南側が、昔の「田柄川高徳橋」跡で、ここから田柄川緑道はほぼ南に進む。<br />入口に、屋外彫刻「あやとり」の少女像が建つ公園状の通路は、歩行者と自転車しか通らないので、建て込んだ街並みに潤いを与える空間になっている。

    現在の川越街道を渡った南側が、昔の「田柄川高徳橋」跡で、ここから田柄川緑道はほぼ南に進む。
    入口に、屋外彫刻「あやとり」の少女像が建つ公園状の通路は、歩行者と自転車しか通らないので、建て込んだ街並みに潤いを与える空間になっている。

  • 田柄川緑道を横断する道路には、田柄川が流れていた時代の橋の名が記載された車止めが、橋の欄干のように付けられている。<br />北町橋跡、金城橋跡、渡戸橋跡、横寺橋跡と南下して行く。<br />

    田柄川緑道を横断する道路には、田柄川が流れていた時代の橋の名が記載された車止めが、橋の欄干のように付けられている。
    北町橋跡、金城橋跡、渡戸橋跡、横寺橋跡と南下して行く。

  • 「中一橋」跡から「神明橋」跡に進むと、右前方に都立城北中央公園の大きな森が見えてくる。<br /><br />

    「中一橋」跡から「神明橋」跡に進むと、右前方に都立城北中央公園の大きな森が見えてくる。

  • 田柄川緑道は、都立城北中央公園の森の外周部になって一体の森になる。<br />ソフトボール場の北側で、何故か田柄川緑道のゼロメートル表示がある。<br /><br />これは、この先が練馬区と板橋区の境で、板橋側は「桜川緑道」と名が変るためらしい。ということは、田柄川時代もこの500mほどは桜川と呼ばれていたのかという疑問が。<br /><br />下練馬村と上板橋村だった時代から、練馬区が板橋区から分離独立する以前の両方が板橋区だったころは、「桜川」の地名はなくて、石神井川から直接に田柄川が分かれていたように思える。「桜川」は新住居表示で生まれた地名か?<br /><br />歴史を遡ると、1871(明治4)年に浦和県(現埼玉県)から東京府に編入された。1932年からは、従前の北豊島郡板橋町、上板橋村、志村、赤塚村、練馬町(1929年町制前は下練馬村)、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村の2町7村の区域が東京市板橋区に。<br />1947年に練馬区が分離独立。川の下流部分500m余りが板橋区に残る。

    田柄川緑道は、都立城北中央公園の森の外周部になって一体の森になる。
    ソフトボール場の北側で、何故か田柄川緑道のゼロメートル表示がある。

    これは、この先が練馬区と板橋区の境で、板橋側は「桜川緑道」と名が変るためらしい。ということは、田柄川時代もこの500mほどは桜川と呼ばれていたのかという疑問が。

    下練馬村と上板橋村だった時代から、練馬区が板橋区から分離独立する以前の両方が板橋区だったころは、「桜川」の地名はなくて、石神井川から直接に田柄川が分かれていたように思える。「桜川」は新住居表示で生まれた地名か?

    歴史を遡ると、1871(明治4)年に浦和県(現埼玉県)から東京府に編入された。1932年からは、従前の北豊島郡板橋町、上板橋村、志村、赤塚村、練馬町(1929年町制前は下練馬村)、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村の2町7村の区域が東京市板橋区に。
    1947年に練馬区が分離独立。川の下流部分500m余りが板橋区に残る。

  • 板橋区に入ると石神井川との合流地点までの短い区間は、桜川(桜川緑道)と呼ばれる(公園の左の端が桜川緑道)らしい。<br />しかし東側の公園外周道路の名称が「あいさつ通り」で、桜川緑道も「あいさつ通りの一部のような扱い(グーグルマップ)もある。<br />都立公園内内外には、右手の板橋区の上板橋体育館とか、桜川中学校、桜川児童公園など公共施設も多い。

    板橋区に入ると石神井川との合流地点までの短い区間は、桜川(桜川緑道)と呼ばれる(公園の左の端が桜川緑道)らしい。
    しかし東側の公園外周道路の名称が「あいさつ通り」で、桜川緑道も「あいさつ通りの一部のような扱い(グーグルマップ)もある。
    都立公園内内外には、右手の板橋区の上板橋体育館とか、桜川中学校、桜川児童公園など公共施設も多い。

  • ここが「石神井川桜川橋」で、正面の道路沿いを奥から流れてきた田柄川が、石神井川に合流する地点。<br />左(西)側の森が都立城北中央公園で、その東端を奥の北側から田柄川(現在は桜川緑道)が手前に向かって流れていた。

    ここが「石神井川桜川橋」で、正面の道路沿いを奥から流れてきた田柄川が、石神井川に合流する地点。
    左(西)側の森が都立城北中央公園で、その東端を奥の北側から田柄川(現在は桜川緑道)が手前に向かって流れていた。

  • ここ「桜川橋」では、現在は田柄川緑道下に埋設された下水道の田柄川幹線が、石神井川の堰堤から吐出する。写真中央の大きな穴が田柄川幹線の吐出口のよう。<br /><br />正面が都立城北中央公園で、右側が桜川橋の欄干。<br />下水道と言っても、道路などに降った雨水が中心で、今日の水量は少ない。(汚水や家庭雑排水は下水処理場に行くよう。)

    ここ「桜川橋」では、現在は田柄川緑道下に埋設された下水道の田柄川幹線が、石神井川の堰堤から吐出する。写真中央の大きな穴が田柄川幹線の吐出口のよう。

    正面が都立城北中央公園で、右側が桜川橋の欄干。
    下水道と言っても、道路などに降った雨水が中心で、今日の水量は少ない。(汚水や家庭雑排水は下水処理場に行くよう。)

  • ここで地図を見て、行程をおさらい。<br />写真は「練馬区文化財案内」の地図の一部で、田柄川(緑道)と田柄用水(跡)に水色を着色したもの。<br />地図の右(東)端が、この石神井川との合流点「桜川橋」。<br />田柄川緑道を上流に向かうと、川越街道を渡った先「下宿橋跡」で、北側から田柄用水が合流している。<br />この旅行記は、その「下宿橋跡」から、ここ「桜川橋」まで来たところで、これから上流に向かう。

    ここで地図を見て、行程をおさらい。
    写真は「練馬区文化財案内」の地図の一部で、田柄川(緑道)と田柄用水(跡)に水色を着色したもの。
    地図の右(東)端が、この石神井川との合流点「桜川橋」。
    田柄川緑道を上流に向かうと、川越街道を渡った先「下宿橋跡」で、北側から田柄用水が合流している。
    この旅行記は、その「下宿橋跡」から、ここ「桜川橋」まで来たところで、これから上流に向かう。

  • 最初の写真の地点の田柄川緑道「田柄川下宿橋跡」まで戻り、往路に辿ってきた田柄ではなく、合流点から自然河川の田柄川を上流に向かう。<br />田柄川緑道は年期が入っていて、本当に「緑道」という感じ。。

    最初の写真の地点の田柄川緑道「田柄川下宿橋跡」まで戻り、往路に辿ってきた田柄ではなく、合流点から自然河川の田柄川を上流に向かう。
    田柄川緑道は年期が入っていて、本当に「緑道」という感じ。。

  • 先ず、下練馬宿で川越街道から「ふじ大山道」が南に分岐していたが、「ふじ大山道」は4車線に立体交差の側道まで付いた環状八号線に拡幅されており、田柄川緑道は棚橋跡で大きく分断されていた。<br />環状八号線を西に渡るためには、南に大きく迂回して、現川越街道の北町交差点(陸橋)まで南下を余儀なくされた。(実は、環状八号線を渡る歩道橋があったが気付かず)

    先ず、下練馬宿で川越街道から「ふじ大山道」が南に分岐していたが、「ふじ大山道」は4車線に立体交差の側道まで付いた環状八号線に拡幅されており、田柄川緑道は棚橋跡で大きく分断されていた。
    環状八号線を西に渡るためには、南に大きく迂回して、現川越街道の北町交差点(陸橋)まで南下を余儀なくされた。(実は、環状八号線を渡る歩道橋があったが気付かず)

  • 環状八号線を渡って歩道を北側に戻ると、ここが田柄川緑道の入り口。<br />7割方歩道橋の階段などに占拠され、緑道感はない。

    環状八号線を渡って歩道を北側に戻ると、ここが田柄川緑道の入り口。
    7割方歩道橋の階段などに占拠され、緑道感はない。

  • 現川越街道の北側は、田柄用水が流れていた旧川越街道の200m~300m南を流れていて、東上線東武練馬駅に近かったので早くから都市化された地域のようだ。<br />

    現川越街道の北側は、田柄用水が流れていた旧川越街道の200m~300m南を流れていて、東上線東武練馬駅に近かったので早くから都市化された地域のようだ。

  • 5階建てくらいの中低層マンションも多いので、田柄川緑道が良きグリーンベルトの役割を果している。横断する車道の交通量も多いので、横断には注意が必要。<br />上宿橋跡、観音橋跡、池の上橋跡、大豊橋跡など、田柄川に架かっていた橋の名がつづく。

    5階建てくらいの中低層マンションも多いので、田柄川緑道が良きグリーンベルトの役割を果している。横断する車道の交通量も多いので、横断には注意が必要。
    上宿橋跡、観音橋跡、池の上橋跡、大豊橋跡など、田柄川に架かっていた橋の名がつづく。

  • 再び現川越街道が近づき、その下流側、北町中学校の脇に、大堰橋跡という表示がある。きっと下練馬宿に入る前に大きな堰があったのであろう。

    再び現川越街道が近づき、その下流側、北町中学校の脇に、大堰橋跡という表示がある。きっと下練馬宿に入る前に大きな堰があったのであろう。

  • ヤブカンゾウのような花がきれいに咲く、田柄川緑道。

    ヤブカンゾウのような花がきれいに咲く、田柄川緑道。

  • 再び正面を左から右に走る現川越街道に当る。ここは北側田柄川緑道入口部分で<br />現川越街道を渡ると、すぐに近年に開通した新大宮バイパスがある。

    再び正面を左から右に走る現川越街道に当る。ここは北側田柄川緑道入口部分で
    現川越街道を渡ると、すぐに近年に開通した新大宮バイパスがある。

  • 新大宮バイパスの東側、田柄川緑道の入り口

    新大宮バイパスの東側、田柄川緑道の入り口

  • 新大宮バイパスの西側、田柄川緑道の入り口

    新大宮バイパスの西側、田柄川緑道の入り口

  • 緑道中央部下に暗渠化された下水幹線があって、そこには荷重がかからないようにグリーンベルトにして、両側に一方通行路があるスタイル。<br /><br />全体の幅員が広いのは、想像であるがこのあたりの田柄川の北側に鉄道線路が走っていたためではなかろうか。<br />トラク輸送が一般化する以前の輸送の主役であった鉄道は、東武東上線の上板橋駅から分岐して、現在の自衛隊練馬駐屯地の前身の陸軍倉庫群や、戦時中の陸軍成増飛行場建設に使われ、戦後は現光が丘地区の米軍グラントハイツへの輸送に使われていた啓志線(1959年廃線)。残念ながら見たことはない。

    緑道中央部下に暗渠化された下水幹線があって、そこには荷重がかからないようにグリーンベルトにして、両側に一方通行路があるスタイル。

    全体の幅員が広いのは、想像であるがこのあたりの田柄川の北側に鉄道線路が走っていたためではなかろうか。
    トラク輸送が一般化する以前の輸送の主役であった鉄道は、東武東上線の上板橋駅から分岐して、現在の自衛隊練馬駐屯地の前身の陸軍倉庫群や、戦時中の陸軍成増飛行場建設に使われ、戦後は現光が丘地区の米軍グラントハイツへの輸送に使われていた啓志線(1959年廃線)。残念ながら見たことはない。

  • 田柄川は、東京都練馬区と板橋区を流れる荒川水系の一級河川とされていた(1965年~1981年)。<br />1970年代から1980年代初頭にかけて暗渠化されて、水路敷が田柄川緑道として整備された。<br />この水位表示板は、地下を流れる下水道田柄川幹線の水位を、下水道上端をゼロにして下端のマイナス5mまで表示するというシステム。<br /><br />田柄川緑道は、古くからの街道である埼玉道(都道442号)と直交し、西に延びる。<br /><br />

    田柄川は、東京都練馬区と板橋区を流れる荒川水系の一級河川とされていた(1965年~1981年)。
    1970年代から1980年代初頭にかけて暗渠化されて、水路敷が田柄川緑道として整備された。
    この水位表示板は、地下を流れる下水道田柄川幹線の水位を、下水道上端をゼロにして下端のマイナス5mまで表示するというシステム。

    田柄川緑道は、古くからの街道である埼玉道(都道442号)と直交し、西に延びる。

  • 下水道田柄川幹線は、浸水対策のための下水道で、1980年ごろまでに田柄川を暗渠化してつくられた荒川水系の一部を担う。<br />田柄から下流では近年さらにその下に、シールド方法で内径3.5mの第二田柄川幹線と呼ばれる4.2kmの下水管も追加された。

    下水道田柄川幹線は、浸水対策のための下水道で、1980年ごろまでに田柄川を暗渠化してつくられた荒川水系の一部を担う。
    田柄から下流では近年さらにその下に、シールド方法で内径3.5mの第二田柄川幹線と呼ばれる4.2kmの下水管も追加された。

  • 児童遊園なのか写真の「怪獣ホスコン」(他にワニゴン、三小ザウルス)などが、突如、緑道に出没する。<br /><br />「怪獣ホスコン」などは、1978年に田柄第三小学校の生徒たちが制作した作品とされる。当時の流行に即した、ゴジラのようにしっぽを引きずりながら2本足で歩く姿の怪獣。もう半世紀近いが、ペンキ?などで手入れは良い。

    児童遊園なのか写真の「怪獣ホスコン」(他にワニゴン、三小ザウルス)などが、突如、緑道に出没する。

    「怪獣ホスコン」などは、1978年に田柄第三小学校の生徒たちが制作した作品とされる。当時の流行に即した、ゴジラのようにしっぽを引きずりながら2本足で歩く姿の怪獣。もう半世紀近いが、ペンキ?などで手入れは良い。

  • 写真の地図は、明治26年の「北豊島全図」に水車などの調査をされた明治期の方が記号を書き加えた「水車之分布図資料」の一部です。<br /><br />表紙の写真説明にも書きましたが「自然河川の田柄川は、現在の光が丘地区や土支田地区の雨水や湧水が水源で、いくつもの小川に分かれて流れて、合流していた」らしいです。<br />水色で塗ったのが田柄用水と田柄川で、「大門山」など数か所に湧水のような池が描かれ、そこから田柄川の支流が流れ出ています。

    写真の地図は、明治26年の「北豊島全図」に水車などの調査をされた明治期の方が記号を書き加えた「水車之分布図資料」の一部です。

    表紙の写真説明にも書きましたが「自然河川の田柄川は、現在の光が丘地区や土支田地区の雨水や湧水が水源で、いくつもの小川に分かれて流れて、合流していた」らしいです。
    水色で塗ったのが田柄用水と田柄川で、「大門山」など数か所に湧水のような池が描かれ、そこから田柄川の支流が流れ出ています。

  • 秋の陽公園入口側から見た田柄川緑道(正面)で、東に流れて行く。

    秋の陽公園入口側から見た田柄川緑道(正面)で、東に流れて行く。

  • こちらは往路に通った田柄用水が流れていた現都立田柄高校敷地。<br />秋の陽公園の北隣りにあり、田柄川の流路とは指呼の間で数メートル高い位置。

    こちらは往路に通った田柄用水が流れていた現都立田柄高校敷地。
    秋の陽公園の北隣りにあり、田柄川の流路とは指呼の間で数メートル高い位置。

  • 表紙で紹介したが、秋の陽公園に再現された水田で、近隣の小学校生徒が稲の生育を管理して、教材にしている。

    表紙で紹介したが、秋の陽公園に再現された水田で、近隣の小学校生徒が稲の生育を管理して、教材にしている。

  • 実は、田柄川の後継になる下水道田柄幹線は、光が丘を越えてもっと西側までを流域にしている。南側の石神井川の谷に直接に流下できない雨水や、尾根道である土支田通りの南東側で白子川側に直接に流下できない雨水は、下水道田柄幹線が排水路になっている。<br /><br />写真は秋の陽公園内(正面に写っている水田の西)にある田柄幹線埋設の標柱で、光が丘には他にも2本以上の田柄幹線埋設の標柱があるとされる。<br />東京都下水道局のホームページも下水道台帳図によると、田柄川幹線は光が丘公園内を通って光が丘団地こひつじ公園を横切り、田柄用水跡を辿ったのち南に折れて土支田の地蔵通りから谷原6丁目の北原通り、三軒寺交差点から目白通り三原台3丁目方向に延びている。

    実は、田柄川の後継になる下水道田柄幹線は、光が丘を越えてもっと西側までを流域にしている。南側の石神井川の谷に直接に流下できない雨水や、尾根道である土支田通りの南東側で白子川側に直接に流下できない雨水は、下水道田柄幹線が排水路になっている。

    写真は秋の陽公園内(正面に写っている水田の西)にある田柄幹線埋設の標柱で、光が丘には他にも2本以上の田柄幹線埋設の標柱があるとされる。
    東京都下水道局のホームページも下水道台帳図によると、田柄川幹線は光が丘公園内を通って光が丘団地こひつじ公園を横切り、田柄用水跡を辿ったのち南に折れて土支田の地蔵通りから谷原6丁目の北原通り、三軒寺交差点から目白通り三原台3丁目方向に延びている。

  • 秋の陽公園内の水田の上流は、写真のように、田柄川跡に田柄川を再現してつくられた人工的なせせらぎがある。<br />この水辺にはカモが棲むよう。この公園では親子連れのカルガモの目撃情報があり、それカモ?

    秋の陽公園内の水田の上流は、写真のように、田柄川跡に田柄川を再現してつくられた人工的なせせらぎがある。
    この水辺にはカモが棲むよう。この公園では親子連れのカルガモの目撃情報があり、それカモ?

  • 「せせらぎ」の先は、光が丘パークタウンの集合住宅地区に入る。<br /><br />ここは光が丘パークタウンを南北に貫く「銀杏通り」の歩行者遊歩道。<br />このあたりでは建物の二階部分にあたり、自動車道路とは立体交差になっている。路面は、昭和40年代に撤去された都電廃線跡の花崗岩が再利用で敷き詰められている。<br /><br />

    「せせらぎ」の先は、光が丘パークタウンの集合住宅地区に入る。

    ここは光が丘パークタウンを南北に貫く「銀杏通り」の歩行者遊歩道。
    このあたりでは建物の二階部分にあたり、自動車道路とは立体交差になっている。路面は、昭和40年代に撤去された都電廃線跡の花崗岩が再利用で敷き詰められている。

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