2026/03/12 - 2026/03/12
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おやじさん
墨俣一夜城で知られる岐阜県大垣市墨俣町。
町内の北側を犀川が流れ、東に長良川、木曽川、西に揖斐川の木曽三川が流れ、分流される以前は網の目のように洲が自然形成された地域で、古くから水害に悩まされ、江戸時代から集落全体を堤で囲う輪中が作られてきた。
- 旅行の満足度
- 2.5
- 観光
- 2.5
- 交通
- 1.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
-
2026/03/12
前日から「明日は風がなければ、つくしを探しに行こう」と話していた。
期待どおり、当日の朝は風もなく、やわらかな陽ざしが差し込む春らしい一日の始まりだった。
通勤車両が増える前に市内を抜け、渋滞に巻き込まれないうちに大垣市のさいかわさくら公園を訪れた。
犀川は墨俣一夜城で知られ、桜の時期には美濃路沿いの堤並木が見事な場所です。
公園から眺める伊吹山は美しい姿を見せているが、琵琶湖側からの眺めは採掘により痛々しい姿を曝け出している。 -
長良川に注ぐ犀川右岸のさい川さくら公園。
これから桜が咲く時期になると花見客で賑わうようになる。
今日の目的は桜ではなく、春の山野菜・つくしだ。
春になると毎年摘みに出かけるが、造成が進み、僅かに残った緑地も犬の散歩コースとなってしまい、今年はここまで足を延ばした。 -
まだ冬の装いの犀川護岸、草むらの中を注視すると写真のように芽吹いたつくしが頭を出していた。
既に穂先の開いたものが多いが、少ない雨でも次の準備を整えている。
穂の開いていないものを選んで摘んでも、一回分の春の苦味を味わうには十分な量を摘むことができた。
原油から作られた肥料を与えられ、温室で育てられた訳でもない、自然の息吹は実に力強い。 -
下流に目を転じれば墨俣一夜城、1993年に鉄筋コンクリート造で建てられた歴史資料館が聳えています。
大河ドラマで稲葉山城攻略に墨俣一夜城が出てきたばかりですが、実際のところ写真のような天守はなく、複数の簡素な櫓だという資料や、一夜城そのものが存在しなかったとする説もあり幻の城といってもいい。
このあたりは鎌倉街道、美濃街道が通り、ここから少し南に墨俣宿跡や脇本陣もあり、水運・陸路の要であったことは事実だろう。
東に長良川、木曽川、西に揖斐川の木曽三川が流れ、分流される以前は網の目のように洲が自然形成された地域で、古くから水害に悩まされ、江戸時代から集落全体を堤で囲う輪中が作られてきた。
周辺には複数の神社もあり、今回は犀川堤の下に鎮座する西町 八幡神社を掲載します。 -
西町 八幡神社の鎮座地は墨俣町の北端で、犀川右岸の墨俣歴史資料館を望む、さい川さくら公園駐車場から南側の堤を降りた美濃路墨俣宿入口に鳥居を構えます
美濃国安八郡式内社 荒方神社の論社の一つとされる小栗判官ゆかりの神社です。 -
社頭の前を美濃路が横切り、鳥居からの眺めは、右手に八幡神社社標が立っており、鳥居の先は常夜灯、太鼓橋、唐破風が印象的な拝殿の姿があります。
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鳥居の額は「正八幡宮」。
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境内にある「小栗判官伝説ゆかりの宮」解説。
『小栗判官(おぐりはんがん)は、伝説上の人物で、これを主人公として中世以降に伝承されてきた物語。
物語は常陸(ひたち)の国(現茨城県)の小栗判官小次郎助重は、相模(さがみ)の横山郡代の娘照手(てるて)に恋をし、結ぶも横山一族に殺される。
地獄に落ちた小栗は、閻魔大王のはからいで餓鬼阿弥(がきあみ)の姿となるも、藤沢の上人の力により助けられ、土車に乗せ美濃青墓へ。
その時、青墓の宿(萬屋)に売られていた照手がそれを見かね大津の関寺まで引き、その後も多くの人々の手で、熊野本宮へ向かい、湯の峰の薬湯につかると元の姿になって、京都で両親と対面し、美濃国青墓の照手ともめでたく再会。
その後、都に上り、天皇より死からの帰還は稀であるとたたえられ、常陸、駿河、美濃の国を賜ることになる。
大垣市をはじめ、各地に「小栗判官と照手姫」の伝説は語り継がれており、説経節、浄瑠璃、歌舞伎にも取りあげられている。
小栗の死後、現人神としてこの八幡神社に祀られ、照手姫も結びの神として結神社に祀られていると伝えられている。
なお、神社本殿の南北の壁面には、馬と龍が一体化して彫られた不思議な彫刻が据えられている。
馬は男性を龍は女性を象徴したものと伝えられている。』
掲示の内容は、各地に伝わる小栗判官と照手姫の物語の広がりを伝えるものであり、「ゆかり」という言葉の捉え方についても様々に考えさせられます。
物語の舞台として伝わる美濃青墓の地とはやや距離があるものの、美濃路沿いに西へ三十分ほど歩いた先には照手姫を祀る結神社も鎮座しており、地域の中で両者の名が結び付けられてきた様子もうかがえます。 -
太鼓橋から拝殿の眺め。
開け放たれた扉の先に本殿の姿が見えます。
太鼓橋から右手に回り込み拝殿に向かいます。 -
右手には写真の手水舎と複数の境内社が祀られています。
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見上げるような犀川堤の下に鎮座することもあり、水には恵まれているようです。
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手水舎の後方の小さな泉の畔には七福神像、左の石標は道標だろうか、「こゝよしと石」?「こゝより右」?違うなぁ、わかりません。
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美濃路が続く堤を背にして建つ秋葉神社。
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堤を背にして建つ津島社。
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産神、五輪塔のようにも見え、梵字らしき文字が刻まれているが読めないところが悲しい。
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堤側から眺める拝殿、入母屋瓦葺の平入唐破風付きの木造で、手前に一対の狛犬が安置されています。
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年季を感じさせる風貌が漂う狛犬。
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拝殿唐破風周りの意匠と正八幡宮の額。
西町 八幡神社の由緒は以下。
創建の年代は不詳である。
往古の鎮座地は、犀川右岸上流の本巣郡と安八郡の境の河川敷に鎮座していたとされます。
「延喜式神名帳」に記載された安八郡四座の一つである荒方神社であり、また『美濃国神名帳』に記載された安八郡十九座のうちの一つ、従一位荒方明神にあてられる著名な古社であるとされる。
社号は荒方八幡宮とも称した。
当社に伝わる古い額面には「八幡宮」とあり、その肩書に「荒方神社」と記され、鎌倉時代の古物であると鑑定されている。
天保三年四月および同五年の棟札には「荒方八幡神社」と記され、さらに神祇伯が当社神主・大江豊前時房に宛てた継目相続許可書(安政二年二月二十一日)や、神葬祭式次第授与書、安政四年二月の宗門改免除書、嘉永二年の西町出火記など、いずれの史料にも「荒方神社八幡宮神主」と記され、式内社の荒方神社とは当社のことであるとされる。
当社には安政二年、天明七年、天保十年、嘉永四年の旧記が現存する。
天明七年五月二十五日には、松平土佐守家老・泰○髴○が初穂料を奉献し、代参して祈願を行った。
嘉永四年には高須藩主が毎月二度、五穀豊穣の祈願を行っている。
天明五年八月十五日および同七年八月十五日には、岐阜町奉行・黒田六一郎、同役人の勝田定兵衛、伊藤丈右衛門らが祭礼に際して当社を参拝し、山車芸の検分を行った。
明治二十四年十一月十日には、小松宮彰仁親王殿下が参拝され、本殿階下に自ら松をお植えになり、その松は今も青々と繁っている。
また、『墨俣町史(1956)』にも以下のように記されています。
『もと式内社荒方神社であったが、八幡神社と改称した。
八幡神社神額(鏡倉末期より室町時代初期頃迄のもの)あり、その額右上部に荒方明神とあって、中央部に正八幡宮とあり、これ荒方明神を八幡宮と改称の史実を物語るものである。
社殿の造営並修繕の記録として、元和七年八月、享保十一年十一月、宝暦十二年八月、文化元年七月、寛保二年十二月、弘化三年三月の棟札が現存する』とも記されていた。
延喜式神名帳(927)の荒方明神の論社として、墨俣歴史資料館敷地内の白髭神社もそのひとつだが、いずれにせよ歴史はかなり古そうだ。 -
拝殿から望む本殿域。
拝殿内には年度不明の奉納額が掛けられていましたが、手振れが酷く掲載を見送ります。 -
本殿域の全景。
高く積まれた基壇の上に築かれた本殿域に、一対の狛犬と唐破風のついた流造の本殿が建てられています。
祭神は応神天皇を祀ります。 -
本殿左にも3社の境内社が祀られています。
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手前左は南宮神社。
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奥の二社は左が御鍬神社で朱の鳥居は古渡稲荷。
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境内の太鼓橋から美濃路が横切る社頭の眺め。
岐阜県大垣市墨俣町『八幡神社』
創建 / 不詳
祭神 / 応神天皇
境内社 / 津島社、秋葉神社、その他
祭例 / 10月10日
所在地 / 岐阜県大垣市墨俣町墨俣1
名古屋から所要時間 / 県道128号、県道23号線経由、約40km・80分。
参拝日 / 2026/03/12
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