2026/04/22 - 2026/04/22
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gianiさん
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筑後川沿いに佐賀/久留米/柳川3藩が接する地域。
特に小保と榎津は細い水路を隔てただけの境界ゆえに、境界線に関する問題も発生します。曖昧な藩境を感じながら、なぜこのエリアが発達したのか1800年に渉る歴史を見てみます。
市制70年を越えているのに、永らく鉄道不在の大川市の魅力を堪能できるエリアです。
- 旅行の満足度
- 5.0
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大川市は、佐賀駅と柳川駅を結ぶ西鉄バスでのアプローチします。R208で花宗大橋を渡ったところで下車。
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花宗川に沿って下ると、印象的な水路を横断します。薮町調整堰が見えます。この先(右側)から榎津になります。旧町名は籔町です。周囲は久留米藩領です。
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水天宮
1708年に榎津定番(じょうばん)職の敷内に、久留米水天宮より分霊して創建されました。旧町名は、北浜町です。
東京日本橋の水天宮は、久留米藩の江戸屋敷へ勧請したもので、明治以降は有馬家当主(お殿様の直系)が現役引退後に宮司を務めています。 -
明治橋で花宗川を渡る県道714号線。
ぱすたろう Okawa グルメ・レストラン
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左折して県道を進みます。県道は江湖(えご)を埋め立てて建設され、江湖に面した商家は花宗川を介して筑後川と繋がりました。江湖の両岸は向町と呼ばれました。
江湖:潮流の力でできた澪筋で、内側へやや入り込んだ場所が窪みます。有明海沿岸独特の語彙です。 -
江湖は、信号から100mほど延びていました。行き止まり付近には、御番(450石)の屋敷跡がありました。
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県道を奥に入ると、城山公園があります。居酒屋笑の看板が目印です。榎津城跡です。有馬氏の久留米入場時に廃城となり、正福寺の田畑となっていました。中世の榎津城を中心に、榎津の街並みは形成されました。先述の向町という地名も、お城の向かいというニュアンスです。
居酒屋 笑 グルメ・レストラン
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県道へ戻ります。
城跡の周りは、城町と呼ばれます。 -
県道(明治通り)には、写真のように三潴軌道が通っていました。明治通りは若津まで続き、若津港は門司/若松が台頭するまで日本有数の貿易港でした。
若津の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11820285 -
花宗川を下ると、道路沿いに日吉神社が。
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鳥居は川に面して建ち、花宗川から船を寄せてアプローチするのが正規(日常)のルートだったことが窺えます。
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花宗川
日吉神社には、1774年奉納の木製船神輿が格納されています。
周囲は、庄分町と呼ばれます。 -
神社の向かいの路地には、江戸時代から続く船大工の屋号「肥前屋」が今も営業しています。久留米藩の御用船や諸国から注文された船を製造しました。
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船大工としては、ほかに薩摩屋/周防屋/岩国屋といった屋号がありました。ちなみに大川市は旧筑後国です。
界隈は、横町/浦町と呼ばれます。 -
周辺の地図
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まずは、久留米藩側の藩境榎津地区の肥御街道を歩きます。界隈は、庄分町と呼ばれました。
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昭和30年頃開店した中華屋さん。中華料理は珍しく、結構遠くから食べに来たそうです。お隣の大正建築の江頭家からの聴き取り。
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鮮魚店の裏の蔵。
鮮魚店は、町屋の間口でした。 -
両側に構える蔵は、酢を製造する高橋家のもののようです。
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榎津で最古の建築物は高橋家住宅、1759年の建築です。
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現在の店舗部分は、元々は作業場として建設した建物です。
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高橋家は酒製造を行っていましたが、1711年以降は「庄分酢」のブランドで酢を製造しています。店内でお酢を物色する傍らで、古い建築を堪能できます。試飲もできるのでお奨めです。
株式会社庄分酢 専門店
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写真下は、明治23年の様子。
福岡県の大店リストに入っています。 -
辻にある高橋家。小路に面した部分も趣きがあります。向かいは、かつて古賀政男の結婚披露宴が行われた料亭「宮国」。小路は城町に該当します。
大通りへ戻ります。 -
左手前は志岐家、右の入母屋造のトタン屋根は明治築の中島家でカフェとなっています。ここからは本町になります。
WAZA DEPARTMENT CAFE グルメ・レストラン
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大正築の志岐家、志岐家は船大工をルーツとする家名です。
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右手前は、明治築の志岐家。建具/木工と看板に書かれています。
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左の商家は、江戸時代築の村石家。
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蔵の先は、願蓮寺。物凄い古刹です。
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願蓮寺
将軍足利義晴旗本(直臣)の榎津久米之介が1535年に京の本願寺の高僧に学び、翌年に帰郷し開山。現在の本堂は、1753年築です。
榎津の地名は、榎津久米之介を起源とします。この地に木工業を興したのも、彼の功績です。 -
十字路に到着。
柳川藩領の街道筋と交わります。
そこに建つのは中村家。大正の建築です。五嶋屋の屋号で五島藩の海産物を取り扱いました。戦後は紙業へ鞍替えしています。 -
中村家の軒には、高札場がありました。街で一番賑やかな(往来の多い)場所に設置され、幕府や藩の御触れが掲示されました。
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来た道を戻り、花宗川へ向かいます。
榎津と柳河藩側の小保の間(藩境)には、御堺江湖が流れています。当時の川幅は4mで、江湖に面した商家の倉庫に船を乗り付けられました。 -
江湖を下ると、花宗川へ繋がります。現在は樋門(水門)という形で、藩政期とは違う姿になっています。実は流路が変更されており、当時の藩境は、不規則な形をした庄分公園として遺っています。
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川沿いには、柳河藩の船番所が建ち、通行を監視しました。また、佐賀藩領への渡し舟も発着しました。現在は、1927年築の渡辺家住宅になっています。
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川沿いには、今も渡辺材木店が営業しています。
船の出る港(津)に位置することから、船津町と呼ばれました。
小保(こぼ)の渡しから肥後街道が延びます。 -
現在地へ移動します。
花宗川沿いの県道を挟んで渡辺家側が船津町、これから進む方が仲町になります。 -
直ぐに大正期のレンガ塀が広がります。右側は薬種商を営んでいた大正築の吉原睦家、左は母屋が1825年築の旧吉原家です。国の重文指定で、市が内部を無料公開しています。柳河藩小保町別当職を世襲し、後に蒲池組大庄屋を兼任した京都にルーツを持つ名家です。街道に面した間口は55mもありました。
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御成門
吉原家屋敷は藩の公用に利用され、殊に1838年の幕府巡検使一行に宿舎提供することは重大任務で、そのために御成門を新設しています。高位の賓客を招待する時に限って使用される、云わば開かずの門でした。 -
式台玄関
御成門を潜ると、その先は敷石の伴う式台玄関、その奥は玄関の間(8畳)です。瓦の下に見える原木の飾りは、蛙股と呼ばれます。 -
玄関の間を左折すると、三の間(8畳)/次の間(8畳)/上の間(8畳)と続きます。
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眼を斜め上へ向けると、松葉を模した格子欄間。三の間は、賓客一行の控え室として使用されます。
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二の間も、控えの間として用いられ、花灯窓(狭間花灯)が付いています。地袋の天板は三角形と洒落た意匠です。
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シンプルながらも、洒落たディティールです。
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上の間は所謂座敷で、書院造です。
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欄間はシンプルながらも高級感に溢れます。
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入側
座敷と縁側の間に位置する畳敷の通路です。次の間と上の間に面した廊下です。奥座敷の裏側までL字型に延びています。 -
縁側
板敷の廊下です。家主等が使用します。和風建築では、雨戸を開けると外と繋がる空間になります。それゆえ、入側の存在が重要になります。直線部分は最長で10間(182m)ですが、一枚板を使用しているのは、半端ない贅沢です。 -
次の間の部分で、入側と縁側がクランクする(矩折)部分は、端を45度に切って、きれいに繋がるよう工夫されています。
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畳の縁は、柄縁です。ちなみに、住居部分は無地の黒縁です。
座敷(上の間)への動線は、とにかく贅を尽くしています。
町人住宅と違うのは、贅を尽くすのは自分を楽しませるためではなく、年に一回も使用しない賓客訪問のためにという点です。 -
庭からの眺め
縁側の先の障子を締めれば、入側は外界と隔絶された空間になります。 -
住居部
吉原家の居住スペースは、フォーマルな場と比べると質素です。例えば、縁側の矩折(かねおり)部分の板材は直角に交わっています。 -
吉原家の為の座敷は、中庭を挟んで賓客用座敷の向かいに位置します。入側は設けられず、縁側に座敷が直接面しています。
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縁側の天井は、矢筈模様が施されます。端財を使用する際に大工職人の意匠が加わることで、全く違う仕上がりになります。
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奥座敷の天井は、4枚の正方形の楠材の板(1.8m四方/厚さ5cm)で構成されます。経年と共に反らないよう、何年も十分に乾燥させて反った材木の表面を鉋で削って平板に仕上げています。
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使用された材料の木目を活かして埋め木細工を施しています。大工職人の遊び心が光ります。
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座敷の手前は納戸です。様々な時代様式の箪笥が設置されています。
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左は刀箪笥で、1817年に江戸の小伝馬町で購入したものです。
大庄屋として佐賀/久留米藩の間で起きた紛争(鐘ヶ江事件1815年)の仲介を幕府より命じられ、江戸へ向かいます。その功績で帯刀を許され、急遽刀箪笥が入用になったというのが背景です。 -
納戸の手前は板の間/台所/土間と続きます。
天井には大型の牛梁(横木)が通りますが、曲がった木材を巧みに使用しています。用途や予算に合わせて材料の質を選択できる建築技術が背景にあります。 -
土間には、竈があります。水運が富をもたらす半面、薪の調達は困難を極め、麦藁/豆殻/葦/柳を燃料としました。それゆえ、囲炉裏が無いのが地域的特徴です。
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敷地には、土蔵が2棟あります。1888/1902年築で、それぞれ展示室として活用されています。
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大川市=木工業という産業史は、榎津久米之介の帰郷(1536年)まで遡ります。榎津は数百メートルの航行で筑後川まで到達し、有明海も目の前なので積荷を洋航船か川船へ積み替える必要がある物流ポイントに位置しました。船大工は、ニーズに応える職種でした。
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筑後川流域は林業が盛んで、造船に必要な良質な木材が容易に調達できることも発達要因でした。杉/楠等が丸太に加工され、筏流しで河口まで運ばれました。
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榎津指物は、船大工の技術の派生形として誕生しましたが、19世紀に田ノ上嘉作が久留米で指物修行をすることで洗練されたものとなります。明治以降は庶民の生活も徐々に向上し、家具の需要が増えました。榎津箪笥は1877年頃に誕生し、時代に合わせて変化し、高度成長期(第二次ベビーブームの婚期)まで「作れば売れる時代」を謳歌しました。
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吉原家を後にします。写真は、普段使いの門です。
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緑色の壁が印象的な森田家。明治期の建築です。
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隣の森田漆店も大正築です。
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1888年の絵図を見ると、①の森田商店は金物商が主で、併せて漆金銀箔粉販売も行っていたようです。
②は先に吉原睦家として紹介した薬種商吉原商店が大店として紹介されています。 -
常楽寺
1624年開基で、隣の吉原家に賓客が宿泊する際は、こちらも下宿(遂行員の宿泊先)として機能しました。そのために2階部分を上の間と次の間に改造しています。 -
森田家の隣の緒方家は、吉原家と同じ時期の建築で、武家屋敷としての佇まいを残す建築だそうですが、こんな状態です。
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藩の普請役/藩医などを生業としていました。
筑後国は江戸幕府開府後に田中吉政が割り当てられましたが、1614年に田中家は改易され、久留米藩(有馬家)と柳河藩(立花家)に分割されます。 -
九州建具
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東家(錨屋)
明治期の建築で、船用具を扱い始め、建材へ手を伸ばします。 -
現在も、浅野セメント/浅野煙突のホーロー看板が残ります。
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向かいは吉原義朗家。
1838年の建築です。酒造業を営み、地元では酒場と呼ばれました。ここまでが仲町です。隣の法泉寺からは上町になります。 -
法泉寺
16世紀開基で、江戸時代の建築。鐘楼も印象的です。上町は、小保で最も古い集落です。 -
宮崎家
1928年築。建具店を経営しています。 -
宮崎家の先で、新町からの道と合流します。写真は、後ろを振り返った構図で、辻にある雑貨店の所に、柳川藩の高札場がありました。現在も広場のようになっています。
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小保八幡宮
小保の原始の地点で、八幡様の前の広場に市が立ったことをきっかけに町が広がりました。榎津城を中心に発展した榎津とは対照的な歴史です。鳥居の先の石橋を始め、四方を堀で囲まれた境内です。 -
左奥には、弥生時代の支石墓とされる巨石が立っています。
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高札場のある広場には、藩境となる水路が。この家の建物は、藩境を跨いでいます。その先は、石柱が藩境を表しています。
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御境石
道路側が柳河藩、建物側が久留米藩です。遅くとも1759年の記録には登場します。柳河藩は小保を肥後街道の宿場町にしていたので、人馬継所が向かいに建ち、御境石に馬を繋いでいました。 -
人馬継所は、旅客/貨物輸送用の人馬を確保していました。飛脚も然りで、飛脚の胸当ても伝わっています。
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浄福寺
津村城主の祈願寺でしたが、1575年の落城と共に荒廃、1617年に津村秀門の孫が住職となることで復興します。
山門は柳川城の御辻門を移設したもの、本堂は1834年築です。柳河藩領小保宿の本陣を兼ね、1812年に伊能忠敬が公儀による測量の際に、1838年には幕府巡検使が宿舎として利用しています。 -
間口は狭いですが、奥へ向かって境内が広がります。現在空き地になっている部分には、旅籠/人馬継所等が建っていました。
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御境石は途中で消えて、久留米藩側の肥前街道と交わる辻の部分は柳河藩領となります。
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久留米藩領中村家の向かいの菜園には、柳川藩の忠平が軒を構えていました。
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1816年の境界紛争(小保榎津取合)
小保の忠平が家の前の道路を補修すべく土を盛ると、隣に住む榎津の喜一が異議を唱え、何者かが忠平宅の軒下まで土を寄せます。5か月後、藩境に木柱を立てますが、何者かに引き抜かれ、最終的に五島屋の敷地に石柱を立てて一件落着します。 -
是より東七間二尺五柳川領。と刻まれています。さすがに本当の境界に立てると往来の邪魔になるので、、、。現在の感覚でいうとセンチメートル単位まで表記しており、争いのセンシティブさを感じさせます。明治4年の廃藩置県で無用になり、個人が持ち帰って大事に保管していました。
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小保の道が合流した肥後街道は、柳川を目指します。街道沿いは水入町と呼ばれ、久留米藩領でした。右奥には、藩境のまち広場が写っています。実は先ほどの石柱は、広場のトイレ横に移設展示されていました。
街道沿いの市街地は、水入町/津村町と続いていました。 -
津村町に面した農村部には、津村八幡宮があります。
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奉納鳥居には、津村氏の名前が。
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津村城の本丸を横断する道路には、城跡であることを示す掲示版があります。現在は堀に囲まれた住宅地で、不思議な雰囲気です。津村氏は大友宗麟に従いますが、龍造寺隆信の攻撃を受けて1575年に滅ぼされます。
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近くには、津村秀門ゆかりの医徳寺等が今も残ります。
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小保の船津まで戻ります。
沿道には、木材が置かれています。 -
江頭家住宅
現在も材木商をしています。 -
駅前通り
筑後川昇開橋で有名な旧国鉄佐賀線筑後大川駅が存在しました。 -
佐賀線線路跡に沿って花宗川を渡ると、
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花宗川が筑後川に合流しています。
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明治通りを進みます。
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明治橋を渡って、再び榎津へ。
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往時の明治橋の様子
軌道線は、1930年に廃止されました。 -
料亭を再利用した和食店
江戸時代の建築です。 -
籔町の明治8年築の松本勲家。だいぶリフォームされています。
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大正築の松本憲治家
取り壊されていました。敷地の形がよくわかります。 -
榎津箪笥を作っていました。
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風浪宮
神功皇后の伝説が伴います。本殿は、蒲池鑑盛が1560年に寄進しました。国の重文指定を受けています。蒲池鑑盛は筑後十五衆筆頭の国人で、柳川城を最初に整備しました。龍造寺家兼を保護し、佐賀県の歴史に永続的な影響を与えた人物です。松田聖子(本名蒲池法子)の先祖でもあります。風浪宮 寺・神社・教会
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三韓征伐の帰途、白鷺に導かれました。その場所に植えた楠だとされます。樹齢2000年。小路は、1834年前なので、辻褄は合いそうです。
宮司は、宗像大社と並びヤマト政権発足前から深い関係にあります。 -
本殿と並び、国の重文指定の五重塔。14世紀のものです。
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外苑は、大川公園として市が整備しています。目の前は花宗川ですが、1800年前は筑後川の河口でした。
大川公園 公園・植物園
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おまけ
国道沿いのから揚げ屋さん
名物の焼き鳥は16:00以降に焼くそうです。 -
からふく大川店
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11957371
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