2024/10/30 - 2024/10/30
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gianiさん
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僅かに大宰府を掠めて、佐賀県と接する。そんな存在感の薄い筑紫野市域を巡ります。無料だけどボリューム小さめの歴史博物館本館と分館を訪れます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のはじまりは、JR二日市駅。駅舎内の観光案内所で情報収集。
筑紫野市観光協会 名所・史跡
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二日市駅は、神社風の建築。
二日市駅 駅
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バス乗り場には、佐藤栄作が1926年に駅長に就任したことを記した顕彰碑が。鉄道省の官僚として現場経験を積み、運輸省次官を経て政界入りしました。
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歴史博物館でお勉強
諏訪市が本社の山十製糸二日市製糸所の跡地に建ちます。 -
1987年に発見された隈・西小田遺跡からは、弥生時代中期の甕棺が1500基以上発掘されました。写真の23号甕は国の重文指定です。
ふるさと館ちくしの 美術館・博物館
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副葬品として直径9cmの銅鏡が入っていました。刻字から西暦前1世紀の中国(前漢)伝来だとわかります。鏡は光を反射し、権力のシンボルでした。鉄剣/鉄戈も副葬され、戦いが繰り広げられていたことが分かります。いずれも国の重文指定です。
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副葬品には、南方の貝でできた腕輪もありました。幅広い交易があったことの証です。
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甕棺の中身は、こんな感じです。左側が頭です。
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九州最古の寺には、こんな逸話があります。
壬申の乱での戦功で筑前に赴任した藤原虎麿は、山中で火の玉を退治するために弓を射ます。夢の中で、火の玉は薬師如来が宿る霊木の精であり、矢が刺さっているのが目印であること、その霊木で薬師如来像を作って祀るようにと告げます。 -
翌日、椿の大木に自分が射た矢が刺さっているのを見つけ、都から職人を呼んで薬師如来像を彫らせ、それを祀る仏閣を建てます。これが武蔵寺の由来です。
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歴史博物館を後にして、現地へ向かいます。
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武蔵(ぶぞう)寺
飛鳥時代に開基したとされる九州最古の古刹。武蔵寺 寺・神社・教会
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武蔵寺は、天拝山の麓にあります。
901年に菅原道真が大宰府へ左遷された際に、身の潔白を天に訴えるために祈った山とされます。天拝山歴史自然公園 公園・植物園
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武蔵寺境内には、天満宮もあります。
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柴藤の滝
道真が天拝山へ登る前に、ここで身を清めたとされます。 -
長者の藤
藤原寅麿が死に際し、この地の繁栄を願って植えたとされます。実際には、樹齢千年を超える株もあるようです。 -
藤は長生きのシンボルで、とりわけ藤原氏にとっては重要なアイコンでした。
藤原虎麿は、史実では初代太宰師蘇我日向臣無邪志と同一人物とされます。 -
山を下りて、二日市温泉へ。
1世紀前は、福岡県内で唯一の温泉地でした。8世紀に大宰府長官を務めた際に大伴旅人が歌で詠んでいる歴史ある温泉です。二日市温泉 温泉
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由来
藤原虎麿には子供ができませんでしたが、薬師如来に祈ると月光が夫人の口に入り無事懐妊、生まれた娘は瑠璃子と名付けます。
ところが瑠璃子は、流行病に感染します。薬師如来に祈ると、東の田の中に湧く温泉に入ると良くなるとのお告げがあり、その通りにすると快復します。 -
噂は国中に広まり、温泉地として賑わいます。伝承では653年開湯です。ラジウム泉で、皮膚病や火傷に効きます。大宰府政庁の役人も利用していました。
永らく次田温泉/武蔵温泉と呼ばれますが、1950年の昭和天皇行幸を機に二日市温泉と改称します。 -
温泉街
古くは、大宰府朱雀大路に繋がる官道沿い、江戸時代の日田街道沿いに温泉町が広がっています。写真は1897年の地図で、通りの真ん中に温泉(川湯)が流れています。 -
道路の不自然な曲線は、川筋に道ができたことの名残です。
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御前湯は、福岡藩主専用の入浴施設です。1757年に武蔵村を領地とする家老立花勘左衛門が新たに源泉を掘って、水源としました。温泉奉行という役職を創設し、施設を管理しました。
御前湯 温泉
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廃藩置県で武蔵村へ授与され、外湯として開放されています。
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高速沿いの天拝山東麓を進むと
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蜂隈屋敷が建ちました。
武蔵村の最初の知行主小河氏が本拠地として建設、家老として福岡城へ常駐したので、屋敷管理と領地経営を家臣に委ねました。 -
敷地の大半は、1973年に高速道路用地となります。
知行主は立花氏へ移り、藩主が宿泊できるよう屋敷を整備しました。
https://www.google.co.jp/maps/place/33%C2%B029'01.0%22N+130%C2%B030'52.8%22E/@33.4836111,130.514023,19z/data=!3m1!4b1!4m12!1m7!3m6!1s0x3541994ed5c39fb3:0x7e0f9486ced14a1e!2z44GK6Iy25bGL5bGL5pW36La-!8m2!3d33.4834679!4d130.5143313!16s%2Fg%2F11y1yfpjg6!3m3!8m2!3d33.4836111!4d130.5146667?entry=ttu&g_ep=EgoyMDI1MDIwNS4xIKXMDSoASAFQAw%3D%3D -
武蔵村の高台に蜂隈屋敷があり、右下に御前湯が描かれています。温泉奉行は、松尾氏が世襲しました。位置情報↓
https://www.google.co.jp/maps/place/33%C2%B029'01.0%22N+130%C2%B030'52.8%22E/ -
二日市宿
福岡藩27宿の一つで、福岡と天領日田を結ぶ日田街道沿いに整備されました。JR二日市駅を挟んで反対側に位置します。現在の道路とは大きく異なっています。二日市村と紫村に跨りました。 -
JR二日市駅のバス乗り場を越えて栄町交差点を通過すると、谷呉服店が現れます。
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ここから道路の先へ向かって御茶屋奉行屋敷が建ち、その先に日田街道が鍵型に折れました。右側には本陣(御茶屋 1677年開設)、左側には郡屋(役場)/谷家が向かい合って並びました。
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その先でクランクして西鉄二日市駅横に宿場東構口がありました。ここまで来ると、大宰府政庁の敷地に掛かります。
西鉄二日市駅 駅
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鉄道誘致
1889年に開通した鹿児島本線は当初大宰府を通る予定でしたが、大宰府の旅館組合は福岡市から日帰りできるようになると商売に支障が出ると考えて締め出しました。一方で二日市村の谷彦一らは鉄道を誘致し、二日市温泉はより多くの利用客を獲得します。 -
続いて、原田駅まで移動します。
原田駅 (福岡県) 駅
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原田(はるだ)宿
長崎街道の宿場で、福岡藩の筑前六宿と呼ばれる最重要宿場の一つでした。さらに久留米藩(筑後国)/対馬藩田代領(肥前国)に面し、藩に3つしかない国境宿場の一つで、防衛上も重要なポジションでした。 -
上の絵を地図にプロットすると、こんな感じになります。丘に囲まれた地形でした。長崎街道(赤線)がクランクしているところには、筑紫神社があります。
現在は、国道3号線が並行しています。 -
旧長崎街道は、小麦冶の手前を右折してクランクします。
筑紫神社 寺・神社・教会
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筑紫神社のある山を登って左折して参道を下ります。山を下りて写真奥の二の鳥居を潜り、左に御池を臨んで一の鳥居(写真手前)を潜る道が旧長崎街道でした。
はるだ茶屋 グルメ・レストラン
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参道の先は住宅街です。
歩道に立つ電柱付近に東構口があったと推定され、構口の先から宿場になります。写真の左側には、名物はらふと餅を売る店があり、右枠外の丘には代官所がありました。 -
はらふと餅屋
東構口手前に位置し、原田宿の名物でした。塩餡を薄皮で包んだ、掌サイズのボリュームでした。長崎方面には三国峠/小倉方面には冷水峠という難所に挟まれていたので、エネルギー補給に最適の場所でした。 -
小河内蔵充(1575-1639)
1602年に原田村を知行地として与えられ、宿場整備を行い、初代原田代官を務めます。母方の叔父が黒田二十四騎のひとり小河信章で、彼に養子入りして家督を継ぎます。様々な軍功を立てるだけでなく、黒田騒動の際には家老として藩主を助けました。
母親は隣の山家宿を整備した桐山丹波と再婚しているので、義父に当たります。 -
そのまま直進します。
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後ろを振り返ると、一の鳥居が小さく見えます。
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小川を渡ると伯東寺が見えます。
地図では伯東寺を越えてから小川を渡るので、川か寺が移動しています。 -
地図を見ると、東構口の手前に餅屋(黄緑)、その先に東構口があり、宿場の中央に伯東寺、その先に郡屋が街道を横断する小川沿いに建ちます。代官所は餅屋の向かいの街道から離れた丘の上に有ります。
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伯東寺
オリジナルの位置か、移転したかは不明です。 -
本堂の右手前には、はらふと餅を搗いた直径60cmの石臼が保存されています。鉄道開通と国道建設で三国峠が開削されたことでニーズがなくなりました。
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郡屋跡
普請(公共工事)/要人の通行(参勤交代等)の際に、宿場の所属する郡の村々には人足を提供する義務があり、割り当てられた各村の村役人(庄屋等)と藩役人が段取りの打ち合わせをする役所です。年貢を納める際も使用します。
川が移動していないとすると、この位置になります。 -
川が移動していると、この辺りに郡屋がありました。
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現在は突き当たって右に曲がっていますが、長崎街道は真っ直ぐ通じていました。
突き当りには西構口がありました。 -
西構口の左手前には、関番所がありました。原田宿場跡という石碑が立っている場所です。
寛永の武家諸法度改正で各藩が勝手に関所を設けることを禁止されたために、番所と呼ばれました。島原の乱以降、通行を取り締まる必要が生じ、国境の黒崎/前原/原田宿の西搆口に設置されました。
関所番士6名が交代で任務に当たり、通行手形(写真)を改めました。
関番は往路の入国者に添手形を発行しました。復路で再入国する際に添手形に宿代官の代官に裏書してもらい、出国する宿の番所で添手形を返却しました。 -
西構口の左手前には、御茶屋がありました。藩主別邸を指す言葉で、幕府高官/参勤交代で大名が宿泊する際にも使用され、いわゆる本陣としても機能しました。
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原田と黒崎の代官所には、要人等を宿場から国境まで送り届ける郷足軽が3名ずつ配置されました。
写真は諸通執行定というマニュアルで、九州の諸大名/長崎奉行/日田郡代/長崎町年寄/漂着異国人が通行する際の扱い方が記されています。 -
長崎街道を横切る小川を遡ると、五郎山古墳に辿り着きます。
五郎山古墳 名所・史跡
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歴史博物館の分館があります。
筑紫野市役所五郎山古墳館 美術館・博物館
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6世紀後半の直径35mの円墳で、いわゆる装飾古墳です。
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石室は、玄室の奥壁を中心に死後の世界への信仰をあらわした壁画があります。
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ボタンを押すと石室の石が移動して、実物大の石室内を探検できます。開けゴマの世界です。緑/赤/黒で彩色されています。
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いわゆる複式横穴式石室というスタイルで、数世代分使用できる古墳時代後期の様式です。
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左右に描かれた船は、死者の魂を夜の冥界へ運びます。真ん中の鳥は、冥界へ死者を先導します。中央右に描かれた弓や矢筒は、魂を守護するものです。これらが人間や動物よりも大きく描かれていることは、壁画が魂の鎮魂を願って描かれたことを表しています。
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壁画に描かれたもの(6世紀前半)
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廃藩置県で原田宿は寂れますが、1929年に筑豊本線が伸張することで石炭輸送の恩恵を受けます。筑豊炭田の閉山と篠栗線の開通で、再び静かな街に戻っています。
引き続き、長崎街道を下ります↓
https://4travel.jp/travelogue/11942129
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