2026/03/18 - 2026/03/22
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スネークさん
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2026年3月、念願だったパラオへ旅してきました。
今回の旅の目的は、ひとつは、太平洋戦争の激戦地として知られるペリリュー島を訪れ、英霊へ感謝し敬うこと。もうひとつは、パラオパシフィックリゾート(PPR)のオーシャンビューで海を眺めながらゆっくり過ごすこと。 出発前から期待していた以上に、心に残る旅になりました。
その3 ペリリュー島編です。戦跡ツアーについて綴ります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
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ペリリュー島戦跡ツアー(RITC)に参加しました。迎えのバスで港に着くと、ボートが準備されていました。ツアー料金+州税(25ドル/人)を支払い、乗り込みます。こうした観光税は国の収入として重要だそうです。
コロール島 自然・景勝地
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エンジンがかかり、ペリリュー島に向かって出発します。コロールから南へ40km、1時間ほどかかります。
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無人の島々を抜けていきます。楽園の島パラオと言われる由縁です。
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島の突き出た崖の下端は長い年月からか削られています。
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海面を滑るように進むと、朝の光が海に反射してキラキラと輝いています。
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ボートの水しぶきが容赦なく飛んできます。バスタオル持参が納得です。
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遠浅の海が広がっています。エメラルドグリーンで綺麗です。
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ロックアイランドを通り抜けて島に向かいます。
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日本から遠い南の島で太平洋戦争末期は激戦が繰り広げられました。
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ペリリュー島は南北9kmほどの小さい島です。フィリピンへいける飛行場を米軍は探していて標的になりました。1944年9月のことです。ここから硫黄島、沖縄戦と戦争終盤に突入します。
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上陸すると、まず感じたのは“音の少なさ”でした。
ペリリュー島 自然・景勝地
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建物はあるものの人の気配を感じません。
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バスに乗り換えました。車窓からはトーチカが見えます。日本軍1万VS米軍4万の熾烈な戦いがここでありました。日本軍はほぼ全滅、米軍も1万人以上の死傷者をだした激戦地です。
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島の北部「千人洞窟」 名前の通り千人は入れるくらい中でアリの巣のように広がっています。
千人洞窟 史跡・遺跡
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珊瑚でできた石灰岩ですので、掘り進めるのは非常に苦労したそうです。重機もなく吊る橋ですから。1944年4月から始めて9月の米軍上陸までに島を要塞化したそうです。
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準備中は軍に従属の、いわゆる土方の人がたくさん来て掘り進めたそうです。気候が似ているからとの考えで沖縄や台湾、朝鮮の人が多かったとか。現地パラオ人も手伝ったそうです。
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ガラス品は80年前でも当時のまま残っています。かがむ程の高さと暑さの中、外には火炎放射器をもった敵がいるという状況 壮絶です。
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塔婆がありました。ガイドさんの説明は淡々としていましたが、その言葉の一つひとつが重く響きました。いまだ回収されず眠っている英雄たちも残っているそうです。
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こうした洞窟を500以上掘って対米軍上陸に備えたそうです。米軍は3日で落とすと言って始まったそうですが、日本軍は持久戦法で戦い2か月半もちこたえました。
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「ペリリュー島第二次世界大戦記念博物館」にきました。米カメラマンの写真が多くあって当時の状況が分かります。今では当時の面影がほとんど無いことが分かります。
ペリリュー第二次世界大戦記念博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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重い気持ちになるので、ちょっとほっこりします。
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「戦没者慰霊碑(みたま)」です。線香をあげ手を合わせます。先人達にただ深い畏敬の念を感じます。
戦没者慰霊碑(みたま) 史跡・遺跡
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沖縄の人もたくさん亡くなったので塔がありました。軍には満州からきた関東軍が多く、中でも茨城の水戸の部隊は大変、屈強だったそうです。
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他にも戦車隊や砲兵隊など様々な慰霊碑がありました。兵士は10代後半から20代の若者です。何を思ったのでしょう。
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アメリカなど共同墓地にもなっていてどちらも静かに佇み、訪れる人を迎えてくれます。
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旧日本海軍の通信所。ここも海からの攻撃にさらされました。。米軍艦は800隻きたそうです。
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壁には無数の弾跡がありました。
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これは陸軍の戦闘機だそうです。陸軍は隼や疾風といった戦闘機です。ちなみに有名なゼロ戦は海軍のものです。
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車で数分の範囲で多くの戦跡が見れます。とても小さい島なので、ここに何万もの兵士がいたというのが信じられません。
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爆弾が展示されてありました。
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「日本軍飛行部隊の司令センター」です。ここは海軍が元々持っていたもので作りや装飾などもモダンで凝っています。ここから飛行場はすぐ先にあり、管制塔的役割で使えたそうです
日本軍総司令部跡 史跡・遺跡
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錆びついた鉄、崩れたコンクリート、洞暗闇、歴史の重さを感じる場所ですが、
島の自然が少しずつそれらを包み込み、時間の流れを感じさせます。 -
目立つ建物は空爆の標的になったそうです。今ではジャングルですが、米軍の空爆により島は丸裸になったそうです。
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これは吹き抜けではなく、爆弾で天井に空いた穴です。
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コンクリートで頑丈に作られているので今でも残っています。
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台風の時には島民が避難しにきているそうです。
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建物は米軍に占領されたそうです。
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二階は安全のため立ち入り禁止です。
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お風呂。深くて立って入れるそうです。大人数を効率よくまわすためだそうです。今でも自衛隊などこうした作りになっているそうです。
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洗面、流し台。共同生活が伺えます。
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トイレの跡です。ここは米軍上陸前から長期に滞在するために作られていたので居住用に設備がしっかりしています。
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司令センター脇に米軍が作った建物が残っています。
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鉄板を曲げて簡易的に屋根を作った建物です。米軍は上陸してからは、数多く作ったそうです。
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建物近くには防空壕が作られていて空襲があると逃げ込んだそうです。人数多いため空気をだす筒が山の斜面にいくつか出ていました。息苦しかったでしょう。
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「日本軍戦車」米軍と比べたら小さいです。
日本軍戦車 史跡・遺跡
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お昼休憩です
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お弁当で一息
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このペリリュー島作戦と並行してフィリピンにもマッカーサー率いる米軍が進行していました。結局、フィリピンの方が早々に奪取できたのでアメリカ国内ではペリリュー島で戦い続けたことを疑問視する声があったそうです。どうやら軍内でのメンツがあったようです。
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平和記念公園に来ました。「西太平洋戦没者の碑」です。
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ペリリュー島だけではなく西太平洋の諸島及び海域で戦没した人々をしのび、平和への思いをこめてこの碑が建立されたそうです。
ペリリュー平和記念公園 広場・公園
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北の方角 日本を示しています。雲にのって英霊たちが迷わず日本に帰れるよう願いがこめられています。
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真ん中に埋め込まれたオブジェは目を表しています。
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飲み水に困った兵隊を思って上部のシャコ貝は、雨水を受けてたまるよう設計されています。
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戦闘中は昭和天皇からしばしば激励の言葉(御嘉賞)が贈られたそうです。1回でも誉れなのに11回も受けたそうで”天皇の島”と呼ばれたそうです。
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アンガウル島が見えます。アンガウル島は10km離れたところにありますが、そこも激戦地になりました。日本軍1200VS米軍2万 1:20という圧倒的不利でしたが1か月近く戦いました。戦闘よりも飢餓や怪我、病気の方がきつかったようです。
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2015年に両陛下が慰霊に訪れました。それがきっかけにもなり、こうしてツアーが盛んになりました。
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こちらはゼロ戦です。制空権、制海権とも奪われていたので、出撃はできず保管したままで終わったようです。年月とともに草木で覆われています。
ペリリュー島の零式艦上戦闘機 (零戦) 史跡・遺跡
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飛行場です。このために激しい攻防戦になりました。今でも飛行場は米軍が駐屯して整備されています。最近は台湾有事を懸念して急ピッチで工事が進んでいるとのこと。平和の裏では、こうした画策がめぐらされていることにゾッとしました。
ペリリュー飛行場 史跡・遺跡
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飛行場と米軍が上陸したビーチの間に米陸軍慰霊モニュメントがあります。
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今では緑に覆われています。当時は数えきれない墓標が並んでいたそうです。米軍も数では日本軍以上に死傷者を出しています。
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米軍兵士には、命を賭すまでの思いがあったのだろうか?
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ここが米軍が上陸を開始した「オレンジビーチ」です。色で場所を示していたそうです。
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米軍は上陸前に十七万発も艦砲射撃をしてジャングルから施設から一掃したそうです。それで当初は安心して上陸したところ日本軍の迎撃にあって大混乱したそうです。
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1944年9月15日上陸の日だけで千人以上がこの狭い浜で死傷しました。想像を絶します。
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サイパンでは水際作戦で失敗したので日本側は時間かせぎのための迎撃でした。
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島のあちこちにこうしたトーチカがあって進むと射撃されるので米軍を悩ましたそうです。また日本軍は夜襲も繰り返したので米軍はノイローゼになる人が続出したそうです。
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「アムトラック」水陸両用車です。
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移動がメインなので装甲は薄いです。弾の貫通穴がありました。
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「日本軍大砲跡」防空壕内にあるので気づかれず空爆を逃れたようです。
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山の上から撃ち込めるので大変有利だったようです。また日本軍の射撃の腕も良かったようで100m先でも命中したそうです。
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「ペリリュー神社」
ペリリュー神社 寺院・教会
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急に日本なので唐突感ありました。
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米軍のモニュメントもあります。当初アメリカ第一海兵師団が攻撃にあたりましたが半数以上死傷して壊滅判定をうけて交代しました。こうしたことからアメリカではペリリュー島の戦いは広くは報じられていません。
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米軍のニミッツ司令長官の言葉が残っています。ニミッツ司令長官は空母の名前にもなっている人です。
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翻訳が裏にされています「諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ」尊敬に値する人です。
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パラオ守備隊の顕彰碑。
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最後は中川大佐自決の地です。
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「中川大佐」 この島の指揮官として立派に戦いました。「人は憎しみでもっては戦えない、愛のために戦うのである」と言葉が残っています。祖国や家族を守ろうとしたからこその言葉、ずしりときます。
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「村井少将」 立場的には中川大佐より上ですが、相談役をしていたそうです。最後はお二人、自決して組織的戦闘は終わりました。
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中川大佐自決の地。実際自決したのはもっと奥ですが立ち入るには厳しいため手前に慰霊碑があります。
中川大佐自決の地 文化・芸術・歴史
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Welcomeボードの明るさが心を和らげます。
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16:00 ボートで帰ります。平和の大切さを考える意義あるものになりました。ロックアイランドツアー、ガイドの方、有難う御座いました。
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日本軍で生き残ったのは1万人中34人だけです。水戸の出身にもかけて「三十四会」(みとしかい)という戦友会を作ったそうです。終戦後も2年半洞窟に身を潜めていたそうです。その生き残りの方が証言をしてくれたので今も内容が伝わっています。
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天国のような光景の中で起きたギャップに戸惑います。
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ペリリュー島は、ただの観光地ではなく歴史と自然が共存し、訪れる人に多くのことを語りかけてくる場所でした。
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